第十三話 「イヴリン・ダルヴィーク」(2)
あまりに冷たい未来。黙って聞いているだけなのに、話が終わってからようやく呼吸を思い出せた。胸が、浅く早い息を求めて上下している。
目線を上げたときには、それなりの時が経っていた。
「………………中尉。失礼ながら、過労ではございませんか」
思わず口をついたけど、後悔はない。
時系列の矛盾、昨夜までの行動との整合性、時空を越える魔法の存在。指摘できる点は思いついただけでも十以上ある。
そのような魔法が、存在するとは到底思えない。現代の魔法技術では実現不可能な域だ。
彼は、上司は精神に異常をきたしている。そうとしか思えない。
洗脳や思考誘導の魔法か。一瞬考えたけど、それはあり得ない。精神に干渉するような分野はまだまだ発展途上であり、実用化には少なくともあと一世紀は必要とされている。
壮大な仕込みからの演技には見えない。このような冗談をつらつらと並べられる性格でもないのだから。
理由は分からないが、間違いなく、彼に何かが起きている――悪夢と現実を混同してしまうほどの出来事が。
「君がそう思うのも当然だ。普通はそう考える。だが、俺は本当に――」
彼の声は苦しげで、震えていた。そして力なく俯いた彼の額に浮かぶ汗と、瞳の奥に漂う動揺に、私は疑念と憐憫の混ざった複雑な目で見つめた。
「そのようなことがあったなら、私だって覚えているはずですが」
「君は記憶を引き継いでいない、とすれば」
……その理屈なら、何とでも言えてしまうでしょう。
仮に。もしも仮に、話が本当だとして。何故、ライネン・バルグだけが選ばれた。
私は、ここに来るまで彼のように取り乱した者は一人も見てこなかった。すれ違った者、視界に入った者、全員を隈なく観察したわけではないが、もしも中尉と同じ現象に見舞われた者がいれば、周囲から不審を抱かれる。そのような人物がいれば、多少なり騒ぎになり私の耳にも入っていたはずだ。つまり、動揺の現象に見舞われた人間はいない。
彼の話によれば、私には戦況を一変させるほどの力が秘められているという。これもまた信じがたい。そのような力があるなら、軍の所有する魔力測定機に引っかからないわけがない。中尉の言い分では、未来に起こる戦争によって開花するらしいので、これも現段階での証明は不可能だ。
そこでの『未来の私』は、人として扱われなかった。人工魔導核を埋め込まれ、全身に抑制具を付けられる。虚ろな瞳に、青白く変色した肌。人工魔法回路の焼け焦げ跡。想像しただけで気が滅入りそうになる。
「誰が、何の目的で、そのようなことを? 中尉がしたわけではないのでしょう?」
「ああ、俺じゃない。誰が、何のために、何故俺を選んだのか、全くもって不明だ」
一連の話を通して信じてくれ、とは随分と無茶を言っているが、その自覚はなさそうだ。
かえって、この反応こそが証左かもしれない。文字通り世界が一変するような現象を体験しているからこそ、前代未聞の事態を前にして、思考力や客観性を失っている。
そう考えれば、まだ納得できなくもない。
けど、流石に、これは。鵜呑みにはできない。
五百年、千年先の人類ならともかく、今の世にそのような魔法があるはずない。
羽のない虫が海を越えられないように、技術も原理も知らないもので時空を飛び越えてきたとは信憑性が乏しすぎる。錯乱したと見る方が正しい。
……とにかく。軍医か衛生兵でも呼んで来ましょう。いや、医療機関に連れて行ったほうがいいでしょうか。本日の予定をすべて中断し、自室で安静にさせた方いいですね。
不肖ではありますが私が看病しましょう、もちろん付きっきりで。それが補佐官として、いや、人として当然の対応ですから。
ひとまず、どうやって連れて行きましょうか。手足を縛りあげて無理やり? 不意に気絶させて担いで?
逡巡していると、彼と視線が合った。
常は揺るぎ無い意志を宿している青い瞳が、色を失っていた。
自らの戸惑いすら御しきれていない不安と、自身の言動に対する不信に苛まれていた。
――信じて、もらえるだろうか。
そんな声が、聞こえてくるようだった。
「わかりました……とりあえず、信じてみます」
「…………本当、か」
「完全には、信じ切れませんけど。でも、中尉が冗談を言う人じゃないことは、知っていますから」
はぁ、まぁ、仕方ない。こんな顔されたら。半信半疑だけど様子を見よう。容体が悪化するようなら問答無用で医者に連れて行けばいいんだから。
時間が経てば彼も正気を取り戻してくれるはず。鉄や鋼を心臓に加工したような人だ、今は寝起きで混乱しているだけ。もしかしたら、立ち直ってから自分の振る舞いを省みて動揺するかもしれない。『誰にも言わないでくれ』と羞恥に悶えて頼んでくるのかも。
それでも構わない。むしろそれがいい。
そんなことを考えていた私は、目を見開いた。
青年の瞳から、雫が流れ落ちたのだ。
目尻から頬を伝い、顎元まで曲線を描くもの。それは誰しもが一度は体験したことのある感情の顕れ。
え、泣いて……ええ!!? この人が、この人が。
「え、え、あ、え。ちゅう、中尉?」
「すまない、すまない……ありがとう」
え、ど、どうしよ。とりあえず、ハンカチ渡しておこう。
初めて、初めて見た。中尉が、こんな。生誕とともに感情を失ったとまで周囲から言われていた人が、弱々しく嗚咽まで漏らして。
驚嘆し、混乱し、これ以上何をすればいいのかわからなくなった私は、黙って座る事にした。
居心地の良いような悪いような、何とも言えないひとときが過ぎていった。
「落ち着きましたか?」
「ああ。すまない、みっともないところを見せた」
「そんなことは。ビックリはしましたが」
よかった。落ち着いたらしい。
情けないなんて卑下しなくてもいいと思うが、こればかりは当人の気持ち次第だ。
中尉は自身の情緒が不安定だと自覚したそうですね、決まりが悪そうに目線を逸らし始めました。ちょっと可愛い。
それにしても、一体何が。彼ほどの人間が平静ではいられないほど追い詰められていたとなれば、よっぽどの大事だ。上司を良く知る者として、部下として掛けておくべき言葉がある。
「それほどまでに、抱えていたものが大きかったのでしょう」
心境は窺い知れないまでも、今の彼に必要なのは共感だ。たとえ気休め程度だとしても、やらないよりはいい。それだけで、時に人は助けられる場合があるから。
かつて、彼が私にしてくれたように。
嘘偽りなくビックリした。ここ数年で最も目を見張った事件だったかも。
まさか、まさかだった。鉄仮面と囁かれていた彼にも、悪夢にうなされ誰かに救いを求めることがあるとは。
上役に詰められようと淡々と返し、味方であるはずの十数名に囲まれようと平然と生還するような彼を、私は畏敬と憧憬を持って見ていた。時折、その肌の下は無機質な鉄鋼にて覆われているとさえ思っていたけど、案外仮面の下には柔らかな人肌が隠れているだけなのかも。
さて、完全に落ち着いたのならば、こちらの要望も聞いてもらえるでしょう。
本日は安静にしてもらいます。休息です。補佐官としては厳しく言いつけてもいいかもしれないです。精神の摩耗は馬鹿にできないですから。何なら数日は静養に努めさせてもいいかと。
その間の世話は私が担当しましょう。補佐官とは日常の補佐までしてこそですから。
話については、半信半疑……二対八、いや一対九ぐらいにしか受け止めていないですけど、どれもこれも彼が回復してから改めて話題に挙げるとしましょうか。
そう思っていた。だが、続く彼の言葉はあまりに予想外だった。
「補佐官。俺と、国外に出るつもりはないか。君はまだ、軍にその価値を気づかれていない。国外へ出よう……君を守りたい」
あえ、ええ?
「あえ、ええ? 国外? 急すぎます……! あ、あの、だから、近いですってば……!」
熱い杭で打ち抜かれたかのように、心臓が大きく跳ね上がった。
またまた距離を詰められ、顔が上気する。頭が追いつかない。
守りたいって、守りたいって言われた?
いや、その前に聞き逃してはならない部分があった。
上官は規律違反をしようとしているのか。
脱走。軍規の中で最も重い禁忌の一つ。誰かに聞かれただけでアウトだ。誰かが聞き耳を立てていたら終わりだ。密告され、形ばかりの軍法会議を経て極刑が待っている。銃殺か、地位を剥奪されて僻地での強制労働か。
止めた方がいい。彼はまだ現実と夢想の狭間に精神を蝕まれている。
止めた方が、いいのに。
「イヴリン。ついてきてくれるか? いや、ついてこい。俺は、君を連れて行かなければならない」
止めないといけないのに。
今、この制服の下で脈打っているものは、倫理でも責務でもない。抗えない感情だった。
禁忌を犯す恐怖よりも、彼の強い口調に鼓動が早くなっている。
軍人としての誇りより、彼の隣にいる希望の方が遥かに温かい。
あれ、もしかして私が夢を見ている? 本当に現実? 目が覚める直前じゃないよね? いや、そんなことは無いと思うが。今だって痛いぐらいに心臓が飛び上がっているんですから、なんなら踊りを始めそうなくらい。これは現実だ。夢じゃない、夢じゃないんだよね? どっちだろ。
冷静に、冷静になれ。口調が滅茶苦茶になってきているますよって。ああ、まだおかしい。
「は、はあ……あの……命令ですか?」
「そうだ」
そんな、そんな精悍な瞳で見ないでください、頷いてしまいそうですから。
変な音を立てそうなほど首を上下に振ってしまいそうです。一秒で二十回ぐらい。
それに、また近寄って、というか詰め寄ってきていますよ。こんなところ、誰かに見られたらどう説明するんですか。
私がしますか? 私がしましょうか? 恋仲だとか婚約者だとか後戻りできないぐらいのこと言ってしまいますよ、今の状況だと!
と、とにかく。流されるわけにはいかない。毅然とした態度で窘めるように。上司の暴走は部下が制止しなければ。それが補佐の役割であり役目なのだから。
「…………それ、なら。仕方ない、です、ね」
俯くと、声が尻すぼみになっていく。
無理だった。無理でした。無理ですよ。
見つめられるようにされたら、誰だって断れませんって。
こんなの、兵士として失格だ。規律より自己を優先するなんて、処断されても文句は言えない。軽蔑する気持ちはあった。だが否定はできなかった。
覚悟を決めたような強い眼差しで、窓越しの空を彼は見上げていた。
その背中は、うずくまるようにして顔を赤くしている私を見ていない。
書類の束を胸で抱えるようにして、必死に祈っていた。
お願いだから、振り返らないで。これを見られたら、どう言い訳したらいいかわからない。
混乱と狂喜乱舞の狭間で、胸中が揺らされる。
熱で煮立つ頬を隠すように、ただただ、時の流れに救いを求めていた。




