第六話 「リファーナ・エス=サラディア」(2)
私は。人生の分岐点に立っている。選択を突き付けられている。
そう思いたくなるほどの好機が巡ってきた。
祭壇の火は、指で突かれるように揺れていた。まるで私の動揺と共鳴しているようだった。
嘘でしょう、嘘ではないですね。これまでの苦労は何だったのでしょうか。
近い。本当に近い。ほんの三メートルほど先に彼女は座っている。
お付きらしい女子生徒が背後に控えているが、表情一つ変えず感情の読み取れない顔で静かに立っている。主人の行動を妨げないよう、存在感を消しているようにも見えた。
都合が良すぎる偶然、いえ、魔法の効果に鼓動が早まる。
これを逃してしまうと、次はいつになるかわからない。
私は意を決し立ち上がった。この状況を作ってくれたであろう存在に内心で礼を捧げる。
主よ、感謝を捧げます。しかし、働きすぎではございませんか? これほど早く願いを聞き届けていただけるとは思いもしませんでした。
「アメリア王女殿下、ですね?」
「ん?」
振り返ったアメリア殿下は、昼食時に話しかけられた同級生のような、拍子抜けするほどの無防備さで応じた。
炎を纏う黄金のごとく燦然とした瞳は、計算も悪意もない、ただ好奇心に満ちていた。
丸々とした無邪気そうな顔に、私は一呼吸置いた。
「お祈りを妨げてしまい、申し訳ございません。リファーナ・エス=サラディアと申します。殿下にご挨拶を申し上げたく」
淀みのない、聞き心地の良い名乗りを意識する。これが二度目の人生での初めての対面だ。
「サラディアって、ええと、あ、南方の一つの!」
「よくご存知で。殿下の同級生として、留学させていただいております」
「じゃあ、ここの神様の国? あれ、でも革命したじゃなかった?」
「……はい。《火神が統べる国》から《火神と共に歩む国》へと変わりました」
「なるほどなるほど、神様も転職したんだね」
「………………そういう表現も……新鮮ではあります」
この方、全く悪気もなく言ってのけています。今の言葉を耳にしたら、南方の民は即座に農具を手に取って怒号を上げるかもしれませんのに。
戸惑いを押し殺して微笑む。初対面の印象は大事だ。混乱して無駄な突っ込みをするわけにはいかない。
「それじゃあ、ジャミールのことも知ってるんだ?」
「エフ=バフマーン家のご令息ですね。存じております。直接話したことはありませんが」
よりにもよって、その名を出すなんて。
彼の異性関係における評判は、一度目でも耳にしていた。二度目でも変わららないようで、愛に生きる男などと称した不倫理を貫いている。
そして青年の家は、私達とは対立する派閥のひとつ。
いずれは接触を図らなくてはならない人物であると重々承知している、しかし、人柄だけで言えばあまり関わりたくない。
「へえー、あ、じゃあ呼んでこよっか!」
「いえ、それはまたの機会に。本日はアメリア殿下にお目にかかりたく」
私が胸中で小さくない焦りを抱いていたのも、彼の存在が影響している。あろうことか、あの青年はアメリア殿下と接触していたのだから。
先日、陰から二人が親しげに話しているところを目撃した。
いつから関係を築いていたのか、彼が王女を自陣に引き込もうとしているのだとすれば、私は一歩どころではない遅れを取っている。
「あの火、綺麗だよね。なんか落ち着く」
悶々とする私を傍らに、殿下は祭壇の上部に位置する静謐な灯を指差した。
《焔の象徴》。パルディアの伝統において、試練と再生の両義を持つ神聖な火。耐火魔法が施されている礼拝堂では、火事の心配はない。
「ええ。あれは、すべての苦難を超えた先の再生を象徴しております」
「ふーん……火ってさ、爆発の前触れでもあるよね?」
「そう、でしょうか、言えなくもないとは思いますが」
「だってわたし、最近よく爆発に絡まれるんだよ」
物騒な世間話になりました。穢れなき火から連想することが爆発とは。
その口ぶりは妙に自然で、まるで深刻さがない。
この人の日常はどうなっているのでしょう。
「この前なんて、図書室で魔法書を開いた瞬間にボンッ! 制服の袖が焦げちゃってさ。今日のお祈りは『次は靴だけでも残して』ってお願いしてたの」
「…………切実なお祈りでございますね」
「でしょ? 神様は保険だからね!」
私は言葉に詰まりかけた。パルディア神学の教義では到底あり得ない解釈だが、何故だか不思議と嫌悪を覚えなかった。むしろ彼女は、ただ己の運命を冗談に変えて笑っているように見える。
「儀式魔法っていうのが、南方だと有名なんだよね。本当に火が喋るの? それとも、歌うの? 私ああいうの結構好きかも。詩? 朗唱? 情熱って感じで!」
車輪のように回る口が、私の意図した外交的な挨拶など消し去って、突拍子もない話題にすり替わっている。これが、第一王女殿下か。留まらぬ災害とは、まさに。
「詩律魔法の儀式においては、火が応えることもございます。神の御心に添えば、ですが」
できるだけ丁寧に答えた。なるべく親しみやすく、けれど媚びぬように。慎重に、慎重に。
「いいじゃーん! 今度、見せて! 一緒にやろうよ!」
「ご一緒させていただければ、披露させていただきます」
強い関心を抱いてくる彼女に、私は頬を緩ませた。
僥倖、まさしく僥倖です。次の予定まで交わしてしまうなんて。
「リファーナ、リファーナだったよね? 覚えやすい名前!」
「光栄です、アメリア殿下」
「むう、」
途端に、彼女は唇を尖らせた。
え、何でしょう。何か粗相をしてしまったのでしょうか。
「敬称とかいらないよー、呼び捨てでいいのに。リファーナだって王族でしょ?」
ええ、距離の詰め方おかしくありませんか。流石に段階を飛ばしすぎてはいませんか。まだ知り合って数分しか経っていませんが。彼女と関係を構築するには、これほどの早さが求められるのでしょうか。判断がつきません。
それに、大国の王女を呼び捨てなどしていいはずがないでしょう。そもそも、王族だからといって皆が皆、対等ではないと思いますが。
「で、殿下にそのようなこと、」
「むむむぅ」
目元に皺をよせ、口をへの字に曲げて、彼女は更なる不機嫌を表現した。
その分かりやすすぎる反応に、私は焦ってしまう。彼女の後ろに控えている女子生徒も、私の次の言葉に視線を注いでいるようだった。
どうしましょう、どういたしましょう。どうすればいいのでしょう。
「そ、それでは…………アメリアさん、と」
恐る恐る告げると、ぱあっ、と殿下の顔が明るくなった。
「ふふ、ふふふ。いいね、いいよ。リファーナ、これからよろしくね!!」
新しい玩具を見つけた子供のように、女の両目が輝いていた。
これです。これなのです。
まさにこの奔放さこそが、私を惹きつけようとしている『力』の正体。王女殿下――アメリアさんは、感情で動く。喜び怒り哀しみ楽しむ。それらを基にして常識を飛び越え、枠組みを壊してしまう。
これを南方に向けさえすれば、必ず道は開ける。そのような確信が、胸中で強まった。
「私が出席する講義のいくつかには、実技もあります。ご都合の良い日時がありましたら、見学をされてみてはいかかでしょう?」
「行く行く! 絶対見に行く!」
「それでは、担当教員の方に私から事前に話しておきますね」
やりました。想定以上に、今回の接触は大成功です。
まさか、ここまで彼女が南方に関心があったなんて思いも寄りませんでした。
ここは、もう一歩踏み出してみるべきでしょうか。
「もしよろしければ、詩律魔法について、事前にお話する機会を頂戴できますでしょうか」
小さく唾を呑み込んで、一息で話す。私は丁重に頭を下げた。あくまで自然に、親愛を滲ませるように。
「いいよいいよ! 明日? 今日の午後にでもする?」
彼女はくるくると回って予定を確認し始めた。背後のお付きの侍女が、無表情でスケジュール帳を取り出している。
踊るようにするのが、彼女にとって興奮を表す術なのでしょうか。
「それじゃあ、明後日ね! パルディアの神様が爆発も止められるか、聞いてみるから!」
「……研究課題として前向きに検討いたします」
うひょーっ、と言ってアメリアさんは軽い足取りで去っていった。お付きの方が一礼だけ残して後を追った。
静けさが戻った礼拝堂で、私は一人でそっと息をついた。口元がひとりでに笑んでいた。
「……第一段階、成功……でしょうか」
二度目の死を回避する。そんな試練に臨む私に、ようやく運が回ってきたのかもしれない。
祭壇を見上げると、焔はゆらめき続けていた。その灯は試練を映す炎でもあり、私のささやかな希望をも照らしている。
私は小声でもう一度祈った。
「火よ――せめて、かの王女に巻き込まれて燃え尽きぬよう、お導きください」
赤い焔が小さく脈打った。
主が微笑んだのか、呆れたのか。
礼拝堂は元の雰囲気に戻った。まるで本来の目的を思い出したように。
私の、運命をねじ曲げる大いなる挑戦は始まったのだ。




