第五話 「ジャミール・エフ=バフマーン」(2)
何でこんなことになった。
昼下がりの中庭。芝生の広場に置かれた二脚のベンチ。柔らかな陽の光。風にそよぐ枝葉。
誰かが意図したわけでもないのに、閑静で穏やかな雰囲気に包まれていた。
その一角で、俺は本を読みながら、独り心地良い空間を味わっていたはずだ。銀のロザリオを制服の上からさりげなく光らせていたはずだった。
「浮気の話、でしょうか?」
俺は一人の少女と向かい合っていた。少女と形容するには歳を外れているが、その立ち居振る舞いが女性と呼ぶには躊躇わせる。
アメリア・ド・ヴァルモン。まごうことなき大国の王女であり、この国で知らない者はいない。薄紅の髪に、宝石のような瞳。いつもは屈託のない笑みをばら撒いて誰かを困らせているが、今に限っては珍しく真面目な顔つきをしている。
「そう。人って、好きな人がいても、別の人に心が揺れるときってあるんじゃない? それって不誠実だとは思うけど……でもやっぱり自然な感情かなーって思ったの」
聞き返しておいてなんだが、俺たち初対面のはずだよな? どうしてこうも自然に話しかけてくるのだろうか。この少女にしてみれば、とにかく話ができれば見知らぬ人間にも同様に言葉を投げていくのか。
彼女の背後で静かに控えている女性は、お付きだろう。佇まいからして、とんでもない強者だ。たとえ天地がひっくり返り、砂漠が海水になろうとも、この人には勝てない気がする。
大仰な比喩だとは思うが、それほどまでに生物として違いすぎる。というか怖い。逃げたい。
これまで対峙したことのない圧迫感に背中の汗が僅かに垂れた。気分が悪くなったとか言って退出できないものかな。
「それで、どう思う? わたしの主張って否定されるべきだと思う?」
「ええと、ですね」
正直なところ、この人とはあまり関わりたくない。外見だけなら可憐な少女だが、性格や行動には常に予測不能の文字が付随するんだ。話術や社交性は通用しない。そういった類を得意とする貴族の令息令嬢たちが、彼女が近くを通れば揃いも揃って顔を背けるほどだ。
「そうですね。理屈で言えば、浮気とは『信頼の契約違反』……社会的には信頼を前提に人間関係を築きますので、当然白い目で見られるでしょう」
「それはまあ、わかってるんだけど。でもさ、心って契約書じゃないよね?」
「……まあ、そうですね」
この人とだけは、距離を取っておきたかった。心の奥底で嘆きながらも、俺は曖昧な笑みを保ち続けた。今からでも、他人の振りはできないか。
ここを通りがかる学生はいないか。誰でもいい、代わってくれ。王女殿下と会話する機会を譲ってやるから、来てくれ。
「でも、やっぱりさ、別の人に目が行くのって仕方ないことだと思うんだよね。昨日サンドイッチ食べたからって、今日も明日もサンドイッチ、ってわけじゃないじゃん?」
「んん、それは好きの方向性が違うのでは。恋事と食べ物を同列視していますね」
まさかこの歳になって食欲と混同しているのか。ただの、喩えだとは思うが。
母国で散々俺にとやかく言ってきた奴らは、この人に会ってみろ。俺の方がよっぽど健全だとわかるはずだ。恋人が七人いるぐらい、普通に思えてくるだろ。
「じゃあさ、『二人を同じくらい好き』だったらセーフかな?」
「倫理的にはアウトですね。感情の総量で補おうと、誰かが傷つく結果になりますから」
別に心当たりがあるわけじゃないが、何か俺に刺さってくるな。自分で言っておいてなんだが。自戒の念が胸に沁み込むようだ。
「でも、傷つくはずだったその人が、問題ないよって言ったら?」
「周囲が傷つきます。関係者全員……自分自身も、内的な痛みを抱えることになります」
俺は外傷を負いましたが、とは言えないな。
傷どころじゃない。穴、空いたからな。
「おぉ、説得力ある、経験者?」
「まあ、少しは……」
それまでじっと黙っていたお付きの女性から、視線が刺さる。侮蔑か軽蔑か、あまりの眼光に冷や汗が噴き出しそうだ。獰猛な獣を相手にするより迫力があるんだが、この人。
「ふーん……やっぱり『婚約者と昼にランチしてる』のって浮気かな?」
「違うかと」
な、何だ。思わず即答してしまった。浮気の『う』の字もないじゃないか。
常識、倫理、世間体、どこを切りとっても正常だ。
「でもさ、朝は一緒にお茶飲んだんだよ? こっちから誘ったわけじゃないのに。向こうがいつも通り迎えに来て、いつも通り『おはよう』って言ってきたの。それで、お昼も一緒に食べるんだろうなって思ってたら、昼にはあっちと!」
「拗ねておられるだけでは……んん、ん。それは感情的な混乱かと思われます、王女殿下」
つい本音が漏れてしまいそうになった、危ない。
それで、結局何を言いたいんだ、この王女は。そもそもこの会話、どういう立ち位置で俺がいるんだ?
「ちなみに王女殿下、その方とはどういうご関係で?」
「友達! ただの友達! まあ、親友と言ってもいいかもね!」
要するに、親友が自分より婚約者を優先した、それが気に食わないというわけだ。
そこからどうして浮気や倫理の話に転がっていくんだ。
先んじて結論づければ、可愛らしい嫉妬が話の発端ってことか。『裏表のない厄災』とまで評される少女にも、人間らしい感情ってあったんだな。
それを等身大と呼ぶには、あまりに規模が違う気もするが。等身大が大陸サイズだ。
そこまで考えて、俺は内心で自嘲気味に笑う。
倫理だの信頼だのと語っていながら、過去の俺がその全てを粉々にした張本人だったな。
会話のひとつひとつが、かつての失敗を掘り起こしてくるよ。
不義理を重ねながら、現状維持を望んだ。だから、あんな結果になった。
より気を引き締めないとな。二度目の人生くらい、穏やかに生を全うしたい。
それにしても、王女殿下の友人は相当な胆力の持ち主らしい。王族より婚約者を優先するってのは、なかなかできることじゃない。俺はするけどな。してみせるけどな。
まあ、その友人が誰なのかは容易に想像がつくが。
「ここにいたのね、アメリア」
会話に割って入ってきたのは、まさに話題の人物だった。
「あっ、浮気者!!」
「何が浮気よ! 婚約者と昼食をとっていただけでしょう!」
見目麗しい方もまた、第一王女とは異なる意味で注目を集める。
銀髪を上品にまとめ、胸元には羽ペンをモチーフにしたブローチ。透き通るような肌白さに翠瞳が補完し合う容姿も華やかで、少女に劣らない存在感を纏っている。
望んでいなかったんだがな。この二人が揃うのは。
「こちらの方は?」
「ジャミール・エフ=バフマーンと申します。ガーウェンディッシュ様ですね。お噂はかねがね伺っております」
相手は王国有数の大貴族の令嬢、粗相は許されない。
王女に不意打ちを食らったときは挨拶の機会すら逃していたが、今回はきっちりと返せた。
「敬称は不要です。私たちは同級生ですから」
「わかりました」
言葉とは裏腹に俺の内心は落ち着かない。
ガーウェンディッシュ嬢は王女殿下と親しい。この事実だけで距離を置くには十分な理由となる。問題児と模範的令嬢。一見すれば相容れないだろう二人が何で行動を共にすることが多いんだ? 王女殿下が令嬢の弱みを握り従者のように従えている、とかではなさそうだ。そんなことしなくとも振り回しているのだから。
「へえ、君珍しい名前だね。それじゃあ、ジャミって呼んでいい?」
「…………構いません、お好きなように」
うげ、名前を覚えられてしまった。仕方ないとはいえ、挨拶するにはどうしても名乗らないといけないよなぁ。
それに愛称までつけられた。まずいな。
「私も『様』とかいらないから! 呼び捨てでいーよ!」
「機会が訪れれば、そのうちにでも」
本当に何言っているんだ、この王女殿下は。そんなことをすれば友人と見なされるじゃないか。俺のことは気にしないでくれ。気に掛けないでくれ。お願いだから、頼む。
なるべく自然に見えるように笑みを作った俺に王女殿下は立ち上がり、軽く手を振るようにして中央本館に向かっていった。
令嬢とお世話係もその後を追って、まるで春風のように去っていく。
――もう二度と会いませんように。
彼女らの背中を見送りながら、俺はそっと祈った。
心の底では無意味だとわかっている。しかし、願わずにはいられない。
まともに会話したのは今日が初めてだが、これまでも何度か騒動に巻き込まれた。講義中や昼食時、演習中など。昨日は何だったか、学部棟を歩いていたら窓から飛び出してきたな。その後俺を見ることもなく、怒らせた友人から魔法で逃げるようにしていた。
止まることを知らない少女の武勇伝は、挙げればキリがない。
入学前に風聞を通してある程度聞いていたが、想像など優に越えていた。実態を把握できていれば、俺は何が何でも地元に残っていただろう。それか他の教育機関を志したはずだ。
親父の野郎、留学費用がかからないからと俺を放り投げやがって。
無論、ほぼ無償に近い学費だけが理由ではない。人脈づくりの意図も含めて送り出してくれたんだ。コネクションに関して言えば、俺は好機に恵まれているのだが。
何せ中央大国の王女殿下だ。肩書のみを見れば上等すぎる。
親父や事情を知らない他の奴からしたら羨ましがられるだろうが、俺としてはたまったもんじゃない。あまり近づきたくなかったのに認識されてしまった。俺のことなど知らないままでいてほしかった。
そこらの同級生、顔も思い出せない影の薄い奴だと思っていてくれないだろうか。
もはや、この先の生活で平穏の二文字はなかなか拝めなくなりそうだ。
専攻は彼女らと異なるが、同じ大学に通っている。しかも、名前から愛称まで。
転校か退学したい。できるわけもないけどな。家族はもとより恋人たちに愛想を尽かされる。
逃げ道など、どこにもなく。俺の望ましくもない大学生活は幕を開けたらしい。
閉じていてほしかったが。
*
学生寮の広くも狭くもない部屋。窓から差し込む月明かりの中、俺はペンを走らせていた。
机には、封をした手紙がいくつも並んでいる。いずれも恋人たちのためにしたためたものだ。
来週、再来週の分まで描き切ってしまおう。
手間なんて惜しくない。二度目の人生、俺なりの誠意を一文に乗せていく。
目覚めてから三年。背中からナイフは生えていない。生々しい傷跡は以前より増えたが。
全員から返信はもらえている。達筆なものから、拙くも努力の垣間見えるものまで。時には信頼の証として物を同封して送ってくる子もいる。
千差万別なそれら全てが、愛おしい。
もう、会いに行きたい。最初の帰国まで、あと数ヶ月もある。
手土産でも持参すれば毎月一回に変えてもらえないか。年に数回しか帰れない期間があと数年もなんて、耐えられるかどうか。親父の目を盗んで、こっそり会いに行ってみようか。
魔導列車も安くはないが、それでもやろうと思えばできる。なんなら貨物列車に乗り込んででも会いに行くつもりだ。
そのことを手紙に込めて聞いてみよう。
月光に鈍く光った銀のロザリオを握りしめ、俺は窓の外を見上げた。
今、恋人たちも同じ空を見上げているだろうか。




