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窓から差し込む朝日。小鳥の囀り。
(……朝)
温かな布団。そして、隣で眠る彼の温もり。
(あぁ……ルーが、戻ってきて。キスして、そのままベッドで──)
すやすやと眠る天使のような美貌を見下ろしながら、内心アリサは全力でツッコんだ。
(なんにもしないんかーいっ!)
◆
昨夜、彼を押し倒すようにベッドインした後。彼はどこか申し訳無さそうに微笑むと、アリサの頬に手を添えてきた。
『……少し、痛むかも。ゴメンな』
(っわあぁルーがすっかり男前になってるぅ!?)
そうして口付けてきた彼に心臓を鷲掴みされ──かけたアリサだったが。
(痛……っ、え?)
カリッと唇の端を齧られ、鈍い痛みを覚える。
僅かに滲んだ血を掠めるように舐め取ると、ルーは精魂尽き果てた様子でシーツへと身を投げ出してしまった。
『とりあえず、コレで平気……だと、思う』
『……は?』
『ゴメン、限界……ちょっと、寝るな』
言うや否やルーは目を閉じてしまい、程なく静かな寝息が聞こえてくる。
(いや……うん、そうよね。無理してたんだし、仕方ないのは分かる、けど……)
一先ずアリサは彼の隣に寝転がったが、眠気など全く訪れる筈もなく。
色々やる気満々だったにもかかわらずお預け状態で放置され、全力でツッコみたいのに必死で堪えた自分を誰か褒めてほしい。
(色々紛らわしいのよぉ!!)
結局、朝になってもぐっすり眠っている彼を起こすのは忍びなく、また昨夜の高熱は治まったもののきちんと休ませた方がいいと判断したアリサは、ルーのことを母エリカに任せて普段通り騎士団へ向かった。母には彼が戻ってきたとだけ伝え、詳細については帰宅後に説明することにしたのだが……。
「あら、アリサちゃん。早かったわね」
「お帰りなさいませ、ご主人サマ」
騎士団の仕事を早めに片付け大急ぎで帰れば、なんとルーはエリカの酒場“ブルーム亭”で給仕をしていて、アリサは内心頭を抱えた。
(いや何で手伝ってるの!? 仮にも邪神の器が酒場店員!?)
「ルーちゃん、こっちもエール2つ頼むぜ!」
「かしこまりました」
とはいえ、流石は元スーパー従者。波打つ白金の髪を一つに束ね、穏やかな微笑みを湛えながらてきぱきと仕事をこなす彼は、すっかり酒場の一員として受け入れられているようだ。
「綺麗どころが増えるのはいいねー! 男にしとくにゃ勿体ない美人だぜ!」
(……は?)
ルーが店の奥に引っ込むなり、一部の男達が下卑た笑みを浮かべる。思わず不快感を露にしたアリサだったが、そこは“下町最強ママ”と巷で名高い母が黙っていなかった。
「あら? 城下町一の美人を前にして、若い子に目移り?」
「いやっまさか、エリカさんが1番っす!」
「親子揃って絶世の美女っすよねぇ!」
「美しい女店主に美味い酒──本当に最高の店だなぁ!」
「うふふ、分かればいいのよ。さ、どんどん飲んで?」
(恐るべき最強スマイル……)
基本的に穏やかな笑みを湛えているエリカだが、彼女の強さ(物理)を知っているアリサ的には“最恐”の母である。親子仲は良いものの、これまで母に反抗しても勝てた試しがないため、ルーを酒場で働かせることについても拒否できるかは微妙なところだ。
(あんまり人目に晒したくないんだけどなぁ……)
その心は独占欲半分、立場上の心配が半分。少なくとも閉店するまでは母ともルーとも落ち着いて話せそうにないため、アリサは久々に仕事を手伝うことにした。
「おぉ、娘ちゃん久々だなぁ!」
「あんたも良い歳だろ? どうだい、うちの倅と──」
「お断りしまーす」
即答で縁談を断れば、周りの客は慣れた様子で笑い声を上げる。ほろ酔い男達の会話に愛想笑いで適当な相槌を打っていたアリサだったが、ふと隣のテーブルを片付けているルーの背中が目に入り、つい口が滑を滑らせた。
「……まぁ、あたしには彼がいるんで」
すると突然、店内が水を打ったように静まり返る。こちらを振り返ったルーは軽く目を見開き、稀有な紫紺の瞳が照明を反射する様に見惚れていたのも束の間、周囲は騒然となった。
「あ、あの鉄壁騎士娘に……!?」
「アリサ嬢に彼氏だとぉぉ!?」
「え、いや違──んぐっ」
「そうなんですー! だから、彼にもあたしにも色目使うのはやめてくださいねー?」
ルーの口を塞ぎつつ言葉を重ね、同時に母へとアイコンタクトを送る。娘の意図を正確に察したらしいエリカは、有無を言わさぬ笑顔で宣言した。
「うちの可愛い子達に手ぇ出したら、この私が許さないわよ?」
「「合点承知です、エリカさん!」」
◆
本日の営業が終了するや否や、アリサは店の床に正座させられた。
目の前で仁王立ちしているのは、娘の自分より小柄で顔も瓜二つなのに、自分では到底出せない威圧感を纏う最恐の母ことエリカである。
「……で、説明してくれるわね?」
「スミマセン、エリカサン。俺のせいで──」
「私はアリサちゃんに聞いてるのよ」
「……ハイ」
アリサに倣い自ら正座していたルーは、笑顔の母に一蹴されて項垂れる。しょんぼりした横顔が可愛くてつい頬が弛みかけたが、母の視線を感じ慌てて気を引き締めると、アリサは昨夜の出来事について包み隠さず打ち明けた。
「つまり、交際してるっていうのは嘘?」
「ごめんなさい……でも、そういうことにしといた方がいいかなって」
下心もあるため少々狡い気もしたが、一応ちゃんと考えた上での結論だ。
ルーを繋ぎ止めるための“契約”で性交が必須なら、関係として適切なのは愛人か恋人の二択である。前者はアリサ的に却下というのもあるが、外聞などを考えるとやはり恋人を装っておくのが無難だろう。
(無理強いはしたくないし、外堀埋めるって訳じゃないけど……)
「それで、ルー君の気持ちは?」
(って率直すぎぃ!)
無論、娘の想いなどエリカは以前からお見通しのはずだ。とはいえ母の圧力で口を割らせるのも複雑だが、正直アリサ自身も気にならないと言えば嘘になる。
「──アリサお嬢サマは、俺にとって一番大事な人です」
なので、彼が迷わず口を開いた時には驚いた。真っ直ぐにエリカを見上げ、ルーは続ける。
「地位も財産も無い身一つで、しかも神サマに片足突っ込んでる俺なんかが愛娘の恋人役なんて、エリカサンは嫌だと思う……将来の約束も、出来ないのに」
“契約”の力でも、保って数年だと言っていた。邪神の器として、彼は時が来たら神殿の結界内に戻らなければいけないのだ。理解はしていた筈なのに、改めて言葉にされると胸が痛む。
「でも俺は……たとえ期限付きでも、側に──」
「ストップ。この辺で勘弁してあげるわ」
唐突に制止されたルーは目を瞬かせていたが、どこか満足げに微笑んだ母は、アリサに向かってお茶目にウインクした。
「これ以上は野暮だもの、ね?」
「あ、はは……」
「私は二人を応援するわ。邪神からルー君を奪い返して、あの腹黒女王に一泡吹かせてやりましょ?」
「って飛躍しすぎぃぃ!」
思わずツッコむアリサの隣で、ルーも目を白黒させている。そんな娘と元従者に、“下町最強ママ”はまさに最高の笑顔で返したのだった。
◆
「昨日の今日で酒場の手伝いなんて……大体、神殿を抜け出したなんてバレたら大騒ぎでしょ!?」
以前彼に与えていた使用人部屋は、今や物置もとい開かずの間と化しているため、アリサは自室へと彼を連れ込んだ。そうして開口一番詰め寄れば、ルーは事もなげに答える。
「いや暇だし無一文だし、エリカサンにも頼まれたし……」
「だからそういう問題じゃ──!」
「神殿の結界も、ソフィア──邪神サマが協力してくれて、外から見ても変化ないよう偽装してあるし」
「──は?」
唐突に色々とぶっ飛んだ内容が聞こえてきて、アリサは耳を疑った。
「邪神が、協力? なんで!?」
「『面白い。せいぜい運命に抗い、足掻いてみせよ』って」
「生贄要求しといてノリ軽すぎない!?」
唖然としながらも、どこか頭の片隅では納得してしまう。
邪神の贄が結界を抜け出したのだから、普通に考えたら既に大問題となっていてもおかしくない。その場合、ルーの関係者である自分へ真っ先に報せが来るだろうし、まだ1日とはいえ悠長に見逃してもらえるような状況ではないのは明らかだ。
(少なくとも、女王様達の目は欺けてるってことね)
3年前に見た限り、あの神殿は頻繁に人の出入りがある様子ではなかった。何より邪神が共犯者ならば、たとえ高位の魔術士だろうと普通の人間が早々見破れるとは思えない。ルーの存在が女王や四大名家などに知られない限り、一先ずは現状維持でも良さそうだ。
「でも邪神って、大地を穢す悪い神様じゃなかったの?」
アリサはベッドに腰掛け、直立不動を保っていたルーを隣に座らせる。今は下ろしている長い髪がふわりと揺れ、伏し目がちな美貌につい目を奪われた。
(本当、綺麗な顔……邪神というより天使よね……)
「んー……その辺色々複雑なんだけど、言えないんだ。今はソフィアサマの眷属って立場だし」
じっと見つめるアリサをどう捉えたのか、どこか申し訳無さそうに呟く彼。
「眷属……それも、契約?」
「あぁ。あっちは主従契約だけど」
「!?」
すんなり肯定され、アリサは内心青褪める。以前からまだしも、既に契約の仕組みを知っている自分としては、決して安易に聞き流せる内容ではない。
「ま、まさかルー……対価に、身体を……!?」
「へ? いや、俺は魔力あるし……」
(そっか魔力を捧げれば済むんだった)
かつて彼を飲み込んだ黒い影に押さえ込まれて翻弄されるルーのあられもない姿をつい想像してしまう。
不思議そうな顔をしている彼の前でうっかり赤面しつつ、この際だからとアリサは思い切って尋ねた。
「……ちなみに、あたし達は?」
「?」
「その、どれくらいの頻度で、するの……?」
いざ言葉にしてみると、物凄く恥ずかしい。余計に熱く火照ってしまった頬を押さえて俯けば、ぽんと優しく頭を撫でられた。
「心配しなくていーよ。当分は平気だし」
「……え」
「それより、俺からも加護を──」
ダークレッドの髪をさらりと払い、ルーはそっとアリサの額に唇を落とす。ぽかんとしていた自分から顔を離すと、彼は満足げに頷いた。
「よし、できた」
(え……終わり?)
「っつっても、大した力は無いけど。俺が神呪で“不幸体質”な分、アンタに運気を与えられる程度か」
「…………」
「後は、前みたく物理的に護らせて。側に居られる限り、忠誠を誓うからさ」
優しく微笑む顔も誠実な言葉も非常に魅力的なのだが、ぶっちゃけ完全に肩透かしだ。だがルーはアリサの白けた顔を違う意味に解釈したらしく、困ったように眉を寄せる。
「……ゴメン、全く説得力無いよな。たとえ信用されなくても、行動で示すよう努力して──」
「っ……あぁ、もう! あなたの忠義も誠意も、よーく分かってるわよ!」
柔らかな金髪をわしわしと撫でてやれば、戸惑いの表情を向けられる。その反応を前向きに捉え、アリサは小さく息を吐くと両手を軽く掲げてみせた。
(接触嫌いだったルーが、怯えなくなってきただけでも進歩よね)
「今日はもう、終わりでいいわ」
「え……?」
「さっさと寝ましょ。……返事は?」
「は、ハイ」
しかし、ルーは慌てて立ち上がるなり部屋の隅で横になろうとしたため、アリサは思わず眉を吊り上げた。
「この流れで床とか正気!? さっさと来なさいっ!」
「っ申し訳ございません……」
従者モードで身を縮める彼。側から見ている分には大層可愛くて微笑ましいのだが、現状的にはあまりに前途多難すぎて、ただ溜め息しか出てこなかった。
(相手は年下、しかも外界は3年ぶり……に、しても)
「そういや……結局、3年前に約束した話って、何だったんだ?」
「……。ちょっと保留で」
(今このタイミングで言える訳無いでしょ! そもそも恋愛感情自体、ちゃんと分かってるのか微妙よね……)
半目になりかけたアリサだったが、隣でルーが明らかに隅っこの方で横になったのを見て、彼の袖を引く。
「もっとこっち寄って。落ちるわよ」
「いや、でも」
「つべこべ言わない! 昨日はぐーすか寝てたでしょ!?」
「了解です……」
(この契約関係、大丈夫かしら……?)
結局、狭いベッドで背中合わせという色気の欠片もない同衾となり、アリサは背後の気配にときめくどころか再度嘆息したのだった。