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『──リサ』
柔らかな低音。温かな空間。艶やかな夢。
真っ白な世界から、目が覚める。ベッドから身を起こしたアリサは、額を押さえつつ深い溜め息を吐いた。
(また、あの夢……欲求不満……?)
のろのろと身支度をして、重い足取りで自室を出る。
ドアを開ければ、誰も居ない食堂。少し前から1階で酒場を始めた母は、早朝から仕入れのために出掛けていることが多かった。
(不満なら、山程あるけど……)
食堂で一人、固いパンを齧る。
何気なく部屋を見渡せば、給仕しながら微笑む少年の幻が見えた気がした。
(だって……あなたが、いないんだから……!)
視界が滲み、ぼやけていく。味気ないパンのしょっぱさは、大好きなミートパイの美味しさとは程遠かった。
あの神殿での出来事から3年。未だにアリサは、愛する従者を忘れることができないままだ。
◆
『黙っていて、申し訳ありません』
ルーが謎の影に飲まれ、消えてしまった後。
床に蹲って泣き崩れるアリサに対し、女王は静かな声で謝罪してきた。
『浄化の儀には、邪神に捧げる贄が必要なのです。200年毎に四大名家から一人ずつ──今回は、バミリオン家の番でした』
『ぅ、ああっ……ひぐっ、うぅ……っ!』
『まさか、従者の方が身代りとなり儀式が完了するとは……』
痛ましげな目を向けてくる周囲の面々も、贄については事前に知っていたようだ。
『アリサ……』
『っ!』
手を差し伸べてきたデレクを睨み付けたアリサは、彼を押し退けて一人逃げるように神殿を飛び出した。
そうして涙ながらに帰路を駆け抜け、自宅に辿り着く。家に飛び込むなり、母に縋り付いてまた大泣きした。
『あたしが生贄だったのに……何で、ルーがっ……!?』
『アリサちゃん……』
『自分だけ生き残るなんて嫌よ! あたしも死ぬ!』
『……。ルー君の死を、無駄にするの?』
感情を押し殺したような固い声に顔を上げれば、エリカも涙ぐんでいた。
『私も勿論、ルー君に生きててほしかった。でも──』
自分より小柄な母に抱き竦められ、アリサもまた大粒の涙を零す。
『大事な一人娘を、アリサちゃんを救けてくれて、本当に……っ!』
そのまま親子で抱き合い、互いに瞼が腫れるほど泣き明かした。
翌朝、エリカがブラックな笑顔で不穏なことを言い出した時には、流石に戦慄したものだが。
『誰か革命でも起こして、女王をぶっ殺してくれないかしら』
『いやいや叛逆ダメ絶対! それでパパや伯父さん達も殺されたんでしょ!?』
『せめて慰謝料くらい、きっちり貰わないと』
(ルーと同じこと言ってるー!?)
そうして無駄に肝の据わった母は、なんと王宮に直談判して多額の慰謝料をもぎ取った。その資金で酒場を始めたのだが、今や城下町でも指折りの美人と名高い女主人として有名になり、店もそこそこ繁盛させている。
『王国騎士団なんて辞めて、店の看板娘になればいいのに。あんな腹黒女王に仕える立場なんて、虫唾が走るでしょう?』
その急な酒場経営が、消沈する娘に逃げ道を用意するためだと知ったのは、随分後のことだったが。
『確かに顔も見たくない、けど……』
父の剣を受け継ぎ、武勲を立てて出世したいとルーに語った夢。当時ほどの情熱は無いものの、結局アリサは今も騎士を続けていた。尤も未だ出世の兆しはなく、上司や同僚達の気遣わしげな視線を煩わしく思いながら、淡々と雑務や鍛錬をこなしているだけだったが。
(あたし……何のために、生きてるんだろ)
最近は騎士団の同僚や上司から度々デートに誘われたり求婚されたりするものの、全く気乗りしないため軒並み断り続けている。
ただ与えられた仕事をこなし、帰宅するなり部屋に閉じ篭る日々。今日も制服姿のまま自室のベッドへ身を投げ出すと、サイドテーブルの小箱に入れた碧い魔石を取り出し、部屋の灯りに透かして眺め続けていた。
(いつか、忘れられるのかな……)
思い出すのは、真っ白な夢に出てくる謎の青年。いつも逆光で顔や姿はよく見えないが、偶に聞こえる囁き声や呼称、アリサより長身と思われるすらりと引き締まった体躯、何より長い髪を束ねたようなシルエットは、いずれもルーの特徴とは当てはまらず、明らかな別人だ。
一度、性行為の部分は伏せて夢の話を母に相談した時には、彼が運命の相手ではないかと夢見がちなことを言われたが、未だルーの存在を引きずっているアリサにとっては正直複雑だった。
(“リサ”かぁ……)
そんな愛称、誰にも言われたことがない。ルーに至っては名前を呼んでくれたことすら数える程で、殆ど“アンタ”呼びだった。ちなみにその呼称は彼と出会って間もない頃、治安の悪い場所で安易に名乗るなと咎められたのが切っ掛けだ。
『騎士とはいえ若い女性が、ガラ悪いヤツらに名前知られて良いコトなんか1つも無いだろ』
(本当、しっかりしてたわ……多分3〜4歳は年下なのに)
ルーは自身の年齢を知らなかったが、自分の見立てで概ね間違っていないと思う。アリサは今年で20歳だが、もし彼が生きていたら16〜7歳──彼と出会った頃の自分と同じ年頃だろうか。
(ルー……)
無意識のうちに、アリサは魔石へと唇を寄せていた。当然、碧い石は何の反応も返さない。
何だか無性に切なくなって、サイドテーブルに手を伸ばすと小箱の中に魔石をそっと仕舞っておく。
(……お酒でも飲もっと)
暗い思考を振り払うように身を起こすと、アリサは部屋を出た。
◆
(すっかりお酒も強くなったなぁ……)
キッチンで安酒を煽るアリサ。既に酒場は閉店しており、母も寝静まっているようだ。
ふと、傍らのテーブルに置かれた新聞の一面が目に飛び込んできた。先日婚約したという第一王女とレイブラック家嫡男のデレクが、華やかな結婚パレードを行ったという記事だ。
(あのうんちく貴族が逆玉の輿なんてね……)
アリサは適当に新聞を畳み、視界に入らないよう隅の棚へと放る。
騎士として警備の仕事に駆り出された自分も、その様子は目にしていた。二人の幸せそうな笑顔を見て、つい自分とルーの晴れ姿を重ねて想像してしまい、仕事中だが密かに涙ぐんでしまったことを思い出す。
(いい加減吹っ切りなさいよ、あたし……)
結局いくら飲んでも全く酔えず、暗い気持ちで自室に引き返した。そうしてドアを開けたところで、アリサは思わず立ち竦む。
(……え?)
まず目に飛び込んできたのは、窓の向こうで煌々と輝く満月。
そして見慣れたベッドの前で、月光に照らされて座り込む誰かの人影だった。
「あ……」
俯き気味に座っていた人物が、ゆっくりと頭をもたげる。淡い色合いの長い前髪が揺れ、その顔が露わになった。
(夢……?)
自分と視線が交わるなり、柔らかく目を細めたのは、プラチナブロンドの髪をした美しい青年。記憶よりも大人びているが、彼は紛れもなく最愛の従者ルーだと直感した。
「ご無沙汰しております、アリサお嬢サマ」
真っ白な衣を身に纏ったルーは、立ち上がって優雅に一礼する。
淡い色の髪は腰辺りまで伸び、成長したことでより洗練された秀麗な甘いマスク。背も僅かに抜かれ、月明かりを浴びて微笑む様は神々しく見えるほどの麗しさで、アリサはただただ放心していた。
「……天使様? あたし飲み過ぎて昇天した?」
テンパった挙句、間抜けな発言をしてしまう。そんなアリサを見て、ルーは苦笑しながら言い直した。
「久しぶり。俺だよ……アンタの従者、ルーだ」
「っ、ルー!? 本当に……!?」
「あぁ。それと、酒は程々にな」
穏やかな微笑を湛えるルーの碧かった瞳は深い紫紺に変化しており、また声も3年前より幾分低くなっているものの、耳に馴染むその口調は聞き間違えようがない。
ようやく彼が戻ってきたという事実を認識するなり、涙が一気に溢れ出した。
「っ、遅すぎるわよ……っ!」
「待たせてゴメンな。あの水晶──結界を突き破るのに手間取ってさ」
(ゴリ押しの物理突破!?)
想像の斜め上をいく発言に、一瞬涙が引っ込みかける。どう見てもパワーファイターには見えない彼が、神殿の奥に鎮座していた巨大な水晶を力づくで破壊するなんて、全く想像できない。
だが何はともあれ、アリサの心はルーと再会できた驚きと歓喜に満ち溢れていた。
「ただ、すぐ戻らないと……」
だからまさか、即座に再び絶望へと突き落とされることになるなんて、思ってもみなかったのだ。
「!? 何で!?」
「俺はもう“向こう側”の人間だから」
彼の儚げな微笑を見て、最悪の状況が脳裏をよぎる。
あえて言葉にしたくはないが他の選択肢も見つからず、アリサは恐る恐る尋ねる。
「……死んだって、こと?」
「いや、生きてる。けど……」
ふ、と吐息を漏らしたルーの身体がふらりと傾く。よろめいた彼に手を伸ばして支えることに成功したアリサだが、その身体は常人ではあり得ない高熱を孕んでいた。
「うっわ、熱っ! まさか病気……!?」
「いや……」
ぎょっとしながらも一先ず彼を自分のベッドに座らせる。ルーはゆっくりと深呼吸して息を整えると、事情を説明してくれた。
「俺は、邪神の“器”になる証──神呪を刻まれてる。だから、結界外に長くは居られないんだ」
やや紅潮した顔のルーが、汗ばんだ額を掻き上げる。
彼は額に傷痕があり、また美貌に向けられる好奇の視線を避けるため、あえて前髪を伸ばしていたのは知っていた。その晒された額には、左眉の上に走る傷痕を囲むように不思議な紋様が浮かんでいる。淡く光を放つそれはどこか神聖で、魔力の無いアリサですら人智を超えた力が宿っていることを直感した。
「邪神の器……じゃあ、いずれ……?」
続く言葉は口にしなかったものの、ルーには正確に伝わったらしい。一つ頷くと、真っ直ぐこちらを見上げてきた。
「だから、今のうちに……アンタの“大事な話”、聞かなきゃって」
「え?」
「儀式の直前に言ってたろ。約束、果たしに来た」
苦しげに呼吸を乱しながらも、紫紺の瞳が真摯にアリサを映していて、また感極まってしまいそうになる。
『帰ったら、大事な話があるの。聞いてくれる?』
(あぁ、もう。そういう所よ……!)
口にした本人ですら忘れていた、3年前の約束を律儀に守るため──そのためだけに、彼は無茶をしてまで自分の元へと戻ってきてくれたのだ。
あまりの健気さで胸がいっぱいになっていたアリサだが、同時にふと気付く。
(でも、それって……)
「話を聞いた、その後は?」
「…………」
その一言を聞くなり、途端に視線を落とすルー。
黙っていても答えなど明らかで、アリサは顔を歪めた。
「っじゃあ、言わない。言いたくない……!」
「…………」
すると今度は困ったように見上げられる。
捨てられた仔犬のような視線に耐え切れず、アリサはぷいとそっぽを向いた。だが肩で息をする彼の姿が視界の端に映り、焦りが募る。
(でも、このままじゃ結局ルーは……!)
ルーの隣に腰掛け、汗ばみ火照っていても尚美しい顔を覗き込む。
「……何とかここに留まる方法、無いの?」
「……」
するとさり気なく──だが明らかに目を逸らされて、アリサは確信した。
(相変わらず、嘘や誤魔化しは苦手なのね)
「あるんでしょ?」
「……まぁ、一応」
「今すぐ教えなさい。主の命令よ」
途端、貝のように口を閉ざすルー。逃がさないように両肩を掴んで詰め寄れば、彼は渋々口を開いた。
「多分、保って数年だけど。“使い魔契約”的な……」
「あ……それって、使役魔術のこと!?」
「え、知ってんの?」
軽く目を見張るルーに、アリサはあえてさらりと返す。
「あれから魔術のこと、そこそこ勉強したのよ。何とかあなたを取り戻せないかって」
つい見栄を張ってしまったが、儀式直後は狂ったように魔術書を片っ端から読み漁っていたのだ。
元々勉学どころか読書すら無縁の脳筋騎士だったため、その豹変ぶりに「気が触れたのでは」「天変地異の前触れだ」等と騎士団内では失礼すぎる噂が流れていたらしい。
「そっか……ホント、ゴメン」
「いいのよ。だけど──」
心底申し訳なさそう身を縮める彼の頭を撫でながら、アリサは思考を巡らせた。
3年前、神殿で長々と聞かされたデレクのうんちく話にも出てきた、魔物を使役するという非常に高度な魔術。
知識としてはそれなりに理解できたが、残念ながら魔力の無いアリサは勿論、並の魔術士ですら簡単に扱える代物ではない。
「魔術士でもないあたしが、どうやって……?」
「俺との場合は“守護神契約”って感じだ。厳密には別物だから、魔力が無くても──」
「何でもするから! やり方教えて!」
淡々と喋りながらもルーの体調は徐々に悪化しているようで、その身体は服越しでもかなり熱い。予断を許さない状況であるのは間違いないはずなのに、当の本人は何故か歯切れ悪く、複雑な顔で続ける。
「……守護神は願いに応え、加護を与える。その分、契約者は対価を捧げるんだ」
「対価……?」
「魔力以外だと、例えば──」
そうして小声で耳打ちされた言葉は、予想の斜め上をいく内容で。
「っ、な……!?」
赤面するアリサに対し、ルーは照れるどころか肩を竦め、苦い微笑みを浮かべている。
「碌でもない話だろ。やっぱ、止め──」
「オッケー、さくっと始めましょ!」
だが動揺したのは一瞬で、彼の言葉を食い気味に遮ったアリサは、最高にイイ笑顔で宣言した。
「……はぁ!?」
途端、今度はルーが目を剥いたが、アリサは構わずベッドに寝転がり、投げキッスをかましてやる。
「カモーン❤︎」
「ちょ、少しは迷えよっ!」
珍しく焦った顔をしているルーを見上げ、大人の余裕たっぷりに艶っぽく微笑む。
迷いなどあるはずがない。このまま年上女性主人という立場を最大限利用してゴリ押しすれば、彼を救けるという大義名分のもと、想い人と身体を重ねることができるのだから。
「何で? むしろ願ったり叶ったりよ」
「は……?」
(それに──あの夢)
艶やかな白い夢。顔の見えない青年の正体は、大人になったルーなのかもしれない。確証がある訳ではないが、自分的にはそういうことにしておきたかった。
「あたしの初めて、貰ってくれる?」
「っ……」
「それとも、嫌なの?」
「そういう問題じゃ……もっと、自分を大事に」
だが往生際悪く見当違いな心配をしてくる彼に、これまで色々我慢していた感情が爆発する。
「っあなたがそれを言う!?」
アリサはかっとなって起き上がり、勢いよくルーの胸倉を掴むと、涙ながらに怒鳴り付ける。
「主を庇って死んで満足!? 残される側の気持ち、少しは考えた!?」
「…………」
「あんな思い、もう二度とごめんだわ! 今度はあたしが助ける番よ!」
ルーは口を噤んだまま、凪いだ湖面のように静かな眼差しでこちらを見詰めていた。
勢いのままに感情をぶつけたアリサはぐいっと目元を拭い、再度彼を睨め付ける。
「……相変わらず、アンタはカッコイイな」
(あ……)
ふと、ルーの口許が弛んだ。
かつて何度か向けられた覚えのある、尊敬の念が込められた声と表情。懐かしさに浸りかけたアリサに対し、どこか切なげに目を伏せた彼は、漸く本音を吐露し始めた。
「ゴメン。ホントは俺も、アンタの隣に居たい」
「……!」
「馬鹿なコトしたって、後悔もしてる。その上こんなコトになって──」
その様は、まるで懺悔のようで。
「もう、いいから。これ以上謝るの禁止!」
そんな顔をさせたかった訳ではない。命を賭して救けてくれたルーを未だに想い続けていたのも、もう手放したくないからと強引に繋ぎ止めたいのも、全てアリサの一方的な感情なのだから。
火照った彼の頬を両手で優しく包み込む。かつて接触に怯えていた幼い従者は、今や主の手に触れられても逃げることなくじっとしていた。
「それに……合意の上、でしょ?」
耳許に唇を寄せて囁けば、ルーの顔が真っ赤に染まる。初心な反応に満足し、アリサは透き通った紫紺の奥で煌めく光を覗き込むと、甘く微笑んだ。
「おいで。ルー」
「……仰せの、ままに」
おずおずと彼の腕が背に回される。アリサは彼の首に抱き付いて唇を重ねると、そのまま真っ白なシーツの上へと傾れ込んだ。




