4.【出題編】捜査依頼①
5月の初めの国王崩御を受けて、英国の国民たちは階級の別なく喪に服し、ロンドンの街中も黒一色に染まった。
崩御から数週間後に国葬が行われるまでは、特に上流階級の人々は厳粛に喪に服した。
レディたちはヴェールをまとってドレスはもちろん手袋やアクセサリーまで黒に統一したし、紳士たちも黒いスーツやモーニングコート姿で偉大な国王の死を悼んだ。
とはいえ、当然ながら服喪は永遠のものではなく、いずれは皆、新しい時代へと進まなければならない。
崩御から一ヶ月経った頃には少しずつ世界に黒以外の色が戻ってきていた。
そして、7月に入った頃には控えめな社交が再開されつつあった。
レッドメイン大佐が主宰する退役軍人支援団体〈愛国者友愛会〉による軍人とその家族のためのチャリティイベントが7月中旬に予定通り開催されることになったという知らせがアメリアとその母ミセス・グレンロスの元に届いたのは、イベント開催日の数週間前のことだった。
彼女たちはもちろん出席することを決め、まだ残っている喪の雰囲気に馴染むグレーの訪問用ドレスを準備していた。
しかし、当日までに、アメリアにとって予想外の悪い出来事と良い出来事が一つずつ起こった。
悪い出来事の方は、イベントの2日前にミセス・グレンロスが熱を出して臥せってしまったことだ。
医師によるとただの風邪だろうと言うことだったが、熱が下った後も咳が長引いていてとても人前に出られる様子ではなかった。
アメリアは病床の母を屋敷に残すのは忍びないものの、彼女まで欠席するわけにもいかず、侍女のミス・アンソンを伴って一人で参加することを決めた。
レッドメイン大佐の周囲の人々をよく知っている母を伴えないのは少し不安だったが、大佐と大佐夫人とはアメリア自身も何度か会って話したことがあるのでなんとかなるだろうと考えていた。
一方、良い出来事の方は、ウェクスフォード侯爵家の長女レディ・グレイスからの手紙によって知らされた。
イベント開催の1週間ほど前に、アメリアがレディ・グレイスとの手紙のやりとりの中で、何気なくそのチャリティイベントに言及したところ、数日前に彼女から次のような返事が来たのだ。
"嬉しい偶然ですね。亡き母の妹の伯爵未亡人が大佐の<愛国者友愛会>を後援しているので、私たち兄妹もチャリティイベントに出席することになっています。長兄のロスマー卿は議会の仕事があるので欠席ですが、ヘンリー卿とアルバート卿、私は出席します。実は、ヘンリーがあなたに相談があると言っているので、その場でお話する機会があれば良いのですが――"
その手紙を読んだときアメリアは思わずにっこりとした。
他にこれといった知り合いのいない場で、ウェクスフォード侯爵家の兄妹に会えそうなのは思わぬ幸運だった。
ただ、ヘンリー卿からの相談が何のことかアメリアには全く心当たりがなかった。
アメリアは気になって手紙を何度も読み返してみたが、何のヒントも見つけられなかった。
***
<愛国者友愛会>のチャリティイベントは、ハムステッドにある伯爵家の屋敷の広い音楽室で開催された。
侍女のミス・アンソンと会場の後ろの方の席に座ったアメリアは、開会までそこから出席者たちを眺めていた。
出席者は全体で約200人ほどで、半分は現役の軍人か退役軍人のように見えた。
彼らは制服を着用し、国王の喪に服しているしるしである腕章を着用していた。
残りの半分が一般の上流中産階級から上流階級の真面目そうな紳士淑女で、前国王陛下の喪に際して皆同じような控えめな服装をしている。
特にいかにもチャリティに熱心そうな既婚のレディの姿が目立っていた。
開会の時間になると、まずは〈愛国者友愛会〉の最大の支援者であり、今日は会場まで提供している伯爵未亡人が挨拶に立った。
事前の手紙で彼女がレディ・グレイスの叔母だと聞いていたせいか、彼女の落ち着いて堂々としている話し方はどこかレディ・グレイスに似ている気がした。
伯爵未亡人の挨拶の後には、〈愛国者友愛会〉主宰のレッドメイン大佐の挨拶が続いた。
レッドメイン大佐は英国のために戦った軍人とその家族の献身について語り、彼らへの支援の重要性を強調した。
アメリアは事前に母と話して後日まとまった額の小切手を〈愛国者友愛会〉に送ることにしていたので、後で大佐にそのことを伝えなければと考えた。
一通り挨拶が終わると、いよいよ本日のメインイベントであるアマチュア演劇が開演した。
演目は「ヘンリ―6世」のダイジェストで、軍人や<愛国者友愛会>の関係者の子女の若者たちが出演していた。
「ヘンリー6世」は全三部作のシェイクスピアの戯曲で、15世紀のイングランドを舞台に、英仏の百年戦争やその後イングランド国内で起こった薔薇戦争などが描かれている。
アメリアはきっと出席者の多数を占める軍の関係者の好みに合わせて戦いの場面が多い演目が選ばれたのではないかと思った。
実際、ダイジェスト版「ヘンリー6世」は戦闘や決闘のシーンを中心に構成されていて非常に刺激的な内容だった。
演技のレベルはアマチュア演劇らしいそれなりのものだったが、フランス軍を率いるジャンヌ・ダルクを演じている少女の演技の上手さだけは群を抜いていた。
アメリアは、彼女の後ろの列に座っていた2人のレディの噂話からその少女がある軍人貴族と舞台女優の間の庶子らしいと知って、演技力も遺伝するものなのかと密かに驚いた。
アメリアは慎ましい未婚のレディではあるものの、結婚していない男女にも子供ができることがあるのは知っていた――もっとも、どうしてできるのかまではまだ誰からも教わっていなかったけれど。
「ヘンリ―6世」第二部の中ほどまで終わったところで一度休憩がとられた。
その間にアメリアはひっきりなしに出席者に話しかけられているレッドメイン大佐を何とか捕まえ、無事に母の欠席のお詫びと後日小切手によりまとまった金額を寄付したい旨を伝えることができた。
大佐は前者については丁寧にお見舞いの言葉を述べ、後者については大いに喜んで感謝してくれた。
そして、最後に、アメリアが世間の雰囲気が落ち着いた頃にメラヴェル男爵家のカントリーハウスの正餐会に大佐夫妻を招待したい旨を伝えるとぜひ伺いたいと言ってもらえた。
アメリアはここまでの首尾の良さをお付きのミス・アンソンと喜び合った。
幕間の休憩時間が終わりに近づき、また客席に戻ろうとしたところで、アメリアは会場の隅でレディ・グレイスと彼女の2人の兄たちが話し込んでいるのを見つけた。
ウェクスフォード侯爵家の兄妹は皆、アッシュブロンドの髪と青みがかった灰色の瞳を持っているので、おそらく兄妹を知らない人であっても一見して彼ら3人が兄妹であることに気づくだろう。
ただ、髪については、全員ほぼ同じ色調のアッシュブロンドではあるものの、次男のヘンリ―卿と末子で唯一の娘であるレディ・グレイスは豪華な巻き毛だが、三男のアルバート卿と今日は欠席の長男のロスマー子爵の髪はほんのわずかにウェーブしているだけという違いはある。
今日はレディ・グレイスも兄たちも他の多くの出席者と同様に控えめな服装をしているが、侯爵家御用達の仕立屋の腕が良いのか、そのグレーのドレスと黒いラウンジスーツは一段と洗練されているように見えた。
アメリアとミス・アンソンは少し離れたところで、兄妹に声を掛けるタイミングを伺った。
彼らは何やら真剣に議論しているようで、その話の内容にアメリアはつい聞き入ってしまった。
「――アルバートは細かいことを気にし過ぎなのよ」
レディ・グレイスがため息交じりに苦言を呈するのに対して、兄であるアルバート卿が真剣な様子で反論している。
「細かくはないさ。原作で重要な点だ。あんな棒ではピーターが親方を殺すことは到底無理だろう」
「逆に誰かを殺すことができる武器を舞台上で扱うのが危険だからこその変更なんじゃないか?」
最後にヘンリー卿が何らかの新たな視点を提供したところで、レディ・グレイスがアメリアに気が付いて微笑みを向けてくれた。
それをきっかけにアメリアが彼らに近づいていくと、兄妹たちは口々にアメリアに挨拶し、アメリアも彼らに挨拶を返した。
「ウェクスフォード卿とロスマー卿ご夫妻もお変わりないですか?」
一通り挨拶をすると、アメリアは今日この場にはいない兄妹の父の侯爵と長兄の子爵の夫妻のことを尋ねた。
前国王が崩御してから社交を控えていたこともあり、ここ数ヶ月は、レディ・グレイスと何度か会ったきりで彼女以外の侯爵家の面々とは会う機会がなかった。
ロスマー子爵とアメリカ出身の子爵夫人は、昨年アメリアが解決した盗難事件で盗まれた婚約指輪のダイヤモンドを取り戻した上で今年の4月に無事結婚式を挙げていた。
さすがにまだ知り合って間もないアメリアが結婚式に招待されることはなかったが、前国王が崩御される前に開催された社交イベントで会ったときに結婚のお祝いは伝えていた。
「ええ、みんな元気よ。特にレディ・ロスマーはもうすっかり当家の女主人なの」
レディ・グレイスはいつも通り落ち着いているが、その灰色の瞳はどこか楽し気に輝いていた。
兄妹たちの母である侯爵夫人は数年前に亡くなっているので、今は嫁いだばかりのロスマー子爵夫人が侯爵家で一番地位の高い女性――つまり、女主人ということになる。
レディ・グレイスの口振りから彼女はすっかり侯爵家に馴染んでいることがうかがえる。
アメリアはアメリカのレディの逞しさに感心した。
そこで一度会話が途切れたので、アメリアは少し躊躇ってから気になったことを質問してみた。
「あの、先ほど演劇についてお話しされていたのが聞こえてしまったのですが、一体何を議論されていたのですか?」
「……大した話ではありませんよ、レディ・メラヴェル」
真っ先に答えたのはアルバート卿だった。
アメリアはわずかに眉を上げた。
先ほどまで彼が一番熱心に話していたように見えたのに、今は手元のカフリンクスの向きを気にしているようだった。
「いや、大したことですよ」
続いてそう言ったのはヘンリー卿だった。どことなくからかうような口調だ。
「アルバートは今上演されていた『ヘンリ―6世』の原作を細部まで読み込んでいましてね。さっきの徒弟のピーターと親方のホーナーの決闘シーンの演出がシェイクスピアの原作と少し違うのが気に食わないのですよ」
アメリアは先ほどの舞台を思い出した。
ヘンリー卿が言っているのは、薔薇戦争前夜のシーンのことで、武具師の親方のホーナーが謀反のかどで徒弟のピーターに告発され、決闘の末ピーターに殺されてしまうのだ。
ヘンリー卿の言葉を受けて、レディ・グレイスも少し笑いながら言った。
「アルバートは使われていた武器が正確じゃないって言うの。舞台上の彼らは棒で決闘していたけれど原作では――」
「『砂袋がついた棒』」
アルバート卿は先ほどまでの気が進まない様子と打って変わって明確な口調で言った。
彼の青みがかった灰色の瞳には明らかに不満が滲んでいる。
「砂袋がついているからこそ威力が出るんです。棒だけじゃピーターに親方は殺せないでしょう。親方は剣術を嗜んでいたらしいですし」
アメリアは先ほどとは別の意味で眉を上げた。彼女もシェイクスピアの「ヘンリ―6世」は第一部から第三部まで一通り読んだことがあったが、先ほどの舞台との演出の違いには全く気が付かなかった。
決闘のシーンの武器の描写の細部までよく記憶しているものだと驚き半分感心半分だった。
しかし、アメリアがその感嘆を表す前に、ヘンリー卿の一言でこの話題は切り上げられてしまった。
「まあ、アルバートの細かすぎる指摘は措いておきましょう」
続けて、ヘンリー卿は先ほどまでの冗談めかした笑みとは打って変わって、いつになく真剣な表情で尋ねた。
「――ところで、レディ・メラヴェル、本日はお母様とご一緒ではないのですか?」
アメリアは彼の急な変化に少し戸惑いながら答えた。
「ええ、母は酷い風邪をひいてしまいまして」
「なるほど……お気の毒ですが私にとってはかえって……いや、失礼」
そう言ってヘンリー卿は今度はアメリアの後ろに控えていた侍女のミス・アンソンに目線を向けた。
「そちらの侍女の方はあなたに忠実ですか?」
その言葉にミス・アンソンは心外そうにわずかに目を見開いた。
「ええ、そう信じています」
依然困惑しているアメリアがミス・アンソンの方に目配せすると、彼女ははっきりと頷いた。
アメリアの答えを聞くと、ヘンリー卿は軽く頷いて先ほどと同じ明るい表情に戻った。
しかし、今度は冗談を言っているわけではないことは明らかだった。
「それは良かった。実はあなたに折り入ってご相談があるのです」
ヘンリー卿が切り出すと、残りの兄妹には対照的な表情が浮かんだ。
レディ・グレイスの灰色の瞳は強い興味により見開かれ、一方で、アルバート卿の同じ色の瞳は一瞬心配そうに揺れた。
「ただ、レディには侍女の協力が不可欠ですから、今回はあなたに忠実な彼女にもご同席いただきたい」
ヘンリー卿は一瞬ミス・アンソンに微かな笑顔を向け、またアメリアに視線を戻した。
「ご存知の通り、私は不運にも去年あなたが当家のダイヤモンド盗難事件を見事に解決した場面を見損ねました」
アメリアは小さく頷いた。
確かに去年アメリアが侯爵家の事件を解決したとき、侯爵家の家族の中でヘンリー卿だけはその場にはいなかった。
後で聞いたところによると彼は自分の恋愛で忙しかったらしい。
「しかし、家族からあなたの素晴らしい才能のことは聞き及んでいます。特にアルバートがあなたを"探偵女男爵"と評しているのを聞きましてね。それでまずはご相談してみようと思ったのです」
アメリアにはヘンリー卿の話が全く見えなかった。
ただ、何か謎の気配があることは確かだった。
そして、謎の気配を察知したアメリアのヘーゼルの瞳に映ったのは、アルバート卿のような“心配”ではなくレディ・グレイスのような“興味”であることは明らかだった。




