28.【エピローグ】相応しい人
その後、間もなくミスター・レジナルド・シルヴァリーは本部に連行されていった。
それと同時に、アメリアには彼女を屋敷<メラヴェル・ハウス>に送り届けるための自動車が手配され、一時脳震盪を起こしていたアルバート卿には医師が呼ばれた。
屋敷の玄関を出る直前、アメリアは玄関ホールで医師と会話しているアルバート卿を振り返った。
椅子に座っている彼の膝にはミスター・レジナルドのベドリントン・テリアがじゃれついていて、彼はその犬の耳の後ろを撫でてやっていた。
彼はアメリアの視線に気が付くと微かな笑みを返してくれた。
それを見たアメリアの顔にも自然と笑みが浮かんだ。
二人にはそれで十分だった。
アメリアを乗せた自動車は彼女を10分ほどでメイフェアの<メラヴェル・ハウス>まで運んだ。
先に連絡が届いていたらしく、母ミセス・グレンロスと侍女ミス・アンソンが玄関の外に出て彼女を待っていた。
アメリアが自動車から降りると、ミセス・グレンロスはすぐに歩み寄り、娘をきつく抱きしめた。
そして、その母の肩越しに見えたミス・アンソンは目に涙を浮かべていた。
そのときようやくアメリアは肩の力を抜くことができた。
それからのアメリアはなされるがままだった。
まずは、既に用意されていた湯で入浴させられたので、埃っぽい洗い場の名残をすっかり落とすことができた。
そして、そのままミス・アンソンによりナイトガウンに着替えさせられ、寝室のベッドに上半身を起こして寝かされた。
引き続いてミス・アンソンは流れるような手際の良さで、アメリアの痛めた腕と頬の擦り傷の手当てをしてくれた。
しかし、その間にミセス・グレンロスは娘の無事に安堵する段階を通り過ぎ、娘の無鉄砲さを咎める段階に移行していたので、アメリアはベッドの上で母の終わりのないお小言を聞かなければならなかった。
「――だから、言ったのよ。“好奇心は猫をも殺す”って。しかも、侯爵のご子息を巻き込んで……」
何度目かに同じフレーズを聞いたとき、寝室のドアがノックされた。
執事のミスター・フィリップスが手紙を運んできたようだった。
執事から手紙を受け取ったミセス・グレンロスは差出人を確認して眉を上げた。
そして、少し目を細めながら中身に目を通した。
「どなたからのお手紙なの?お母様」
母の反応を不思議に思ったアメリアが問うとミセス・グレンロスは娘に手紙を渡しながら言う。
「ヘイスティングス警部からよ。私たちにとって非常に都合の良い寛大なご提案をしてくださっているわ」
そこで、アメリアも母と同じように眉を上げて、受け取った手紙を読み始めた。
ヘイスティングス警部からの提案は、ミスター・レジナルドは当然殺人についての裁きは受けるが、関係者一同のために今回の拉致監禁事件については起こらなかったことにしようというものだった。
その理由については――。
第一には、警察のためだと書かれていた。
今回の拉致監禁事件は、警察がシルヴァリー伯爵殺害事件について誤った容疑者を追い続け、真犯人を自由にさせてしまったことにより発生した。
しかも、よりによって被害者は貴族だった――それも二人。
警察の上層部はこの失態を世間に公表せずに済ませたいらしい。
第二には、レディ・メラヴェル――つまり、アメリアのためだ。
アメリアは今回の事件の被害者ではあるが、未婚のレディである彼女にとって、男性に拉致され、しかも、また別の男性と共に監禁されていたという事実が世間に知られると甚だ不名誉なことになりかねない。
彼女の名誉を守るためには、そもそも拉致監禁事件など起こらなかったことにするのが一番だ。
そして、他の関係者――アルバート卿や犯人であるミスター・レジナルド・シルヴァリー――にとっても、特段悪い話ではないだろうということだった。
読み終わったアメリアがミセス・グレンロスに視線を向けると、彼女はため息交じりにいった。
「まあ、これはほとんどあなた一人のためのご提案ね。この程度の警察の失態なんてありふれているし、アルバート卿や犯人への影響なんて微々たるものでしょうから……」
アメリアは母の言う通りだと思った。
ヘイスティングス警部は、第一には「警察のため」と言う体で提案してくれているが、最終的に警察は一応拉致監禁事件の被害者を無事救出し犯人を逮捕できたのだから、そこまで深刻な"失態"とは言えないように思える。
また、アルバート卿は、この拉致監禁事件が公になった場合、未婚のレディと監禁されたことについて社交界で何らかの評判を得るかもしれないが、この手のことは概して紳士側には大した影響はない――それこそ数週間で忘れられるだろう。
そして、ミスター・レジナルドにとっては、犯した罪が二三減るのはメリットかもしれない――とはいえ、そもそも殺人という大きすぎる罪を犯しているのでほとんど誤差の範囲だ。
論理的には、ひどい暴行と傷害の被害に遭ったアルバート卿がどうしてもミスター・レジナルドをそのかどで訴えたがることはあるかもしれないが、実際にはまずあり得ないだろうとアメリアは思っていた。
「警部には私から『同意する』とお返事を書きます」
ミセス・グレンロスはきっぱりと言った。
アメリアには色々と思うこともあったが、現実的に考えてそれしかないだろうと思い、ただ頷くに留めた。
「それにしても、やっぱり、あなたはあの方と……」
ミセス・グレンロスはそう言いかけたが、最終的には首を振っただけで、それ以上は何も言わなかった。
「今日はもう休みなさい」
最後にミセス・グレンロスはアメリアの額にキスをして寝室を出て行った。
ミセス・グレンロスが出て行くと、アメリアは傍らに控えていたミス・アンソンに向き直り、彼女の手を取った。
「アンソン、ありがとう。あなたが彼に知らせてくれたのね」
「お嬢様……私、出過ぎたことをいたしましたのに……」
思いがけない言葉に戸惑うミス・アンソンに、アメリアはゆっくりと首を振って言った。
「最初はね、正直、彼には来てほしくなかったと思ったの。でも、やっぱり来てくれて良かったのよ。今は心からそう思っているわ」
ミス・アンソンはアメリアが帰って来てから初めて微笑んだ。
そして、二人は固く手を握り合った。
***
それから数カ月後、1910年10月――。
その年の社交シーズン終了後、アメリアと彼女の母ミセス・グレンロスは、驚くべきことに前年に続いてウェクスフォード侯爵家のカントリーハウスに客人として招待されていた。
その知らせを受けたとき、ミセス・グレンロスは夏に発生しなかったことになった拉致監禁事件で自分の娘が侯爵家のご子息を巻き込んで怪我をさせたにもかかわらず、なんて寛大なご判断かと驚きの表情を浮かべていた。
アメリアも同様だった。今後の付き合いを断られてもおかしくないのに全く意外な処遇だった。
その後、シルヴァリー伯爵殺害事件については、伯爵の実弟のレジナルド・シルヴァリーが逮捕・訴追されたことが公式に発表され、社交界では相当程度のスキャンダルとなった。
ただ、幸いにもシルヴァリー伯爵未亡人と当代のシルヴァリー伯爵は、殺人犯の身内として好奇の目に曝されるのではなく、あくまで被害者として同情を集めるだけで済んでいた。
社交シーズンが終わった後の発表だったので、今頃、母子は領地で静かに過ごしているだろう。
そして、ヘイスティングス警部から聞いたところによると、ミスター・レジナルドの家政婦ミセス・スウィーニーは、アメリアの見立て通り、彼に騙されて毒薬を煎じさせられていたに過ぎないことがその後の捜査で証明され、彼女自身が罪に問われることはないとのことだった。
シルヴァリー伯爵未亡人は、意図せず先代シルヴァリー伯爵殺害に加担してしまった忠実な家政婦に、寛大にも住居と年金を支給することを決めたとも聞く。
それから――。
「折角だから今日は丘の方に行きましょうよ。レディ・メラヴェル」
ウェクスフォード侯爵家のカントリーハウス<ウェクスフォード・ホール>に到着した翌日の朝、無意識に事件のことに思いを馳せていたレディ・メラヴェルことアメリア・グレンロスは、侯爵家の令嬢レディ・グレイスの弾んだ声により現実に引き戻された。
朝食を終えた彼女たちは乗馬服に着替えて、遠乗りに出かけようとしていた。
「ええ。昨年の私の実力では難しかったけれど、今年は大丈夫だと思うわ。レディ・グレイス」
アメリアはこの滞在のために新調した紫がかった暗い赤色の乗馬服のスカートを撫でてにっこりと笑った。
その反応に乗馬好きのレディ・グレイスも満足気な笑みを返した。
二階を歩いていた二人が玄関ホールへと下りる大階段に差し掛かりそうになったとき、下を見下ろしたレディ・グレイスがわずかに眉を上げた。
「あら?私、何かを忘れた気がするわ。玄関ホールで待っていてくださいね――失礼」
そう言って彼女はアメリアの返事を待たずに自室の方に戻って行った。
アメリアはレディ・グレイスの様子に首を傾げながら大階段を下った。
彼女が玄関ホールに着くと、そこにいたのは、一頭のベドリントン・テリアと――アルバート卿だった。
「おはようございます。レディ・メラヴェル」
ベドリントン・テリアと共に午前の散歩から戻ったばかりらしいアルバート卿はフラットキャップを取りながら挨拶した。
彼の額にはクリケットバットにより負わされた傷の跡が見えたが、幸いにもかなり薄くなっていた。
彼の足元で元気よく跳ねている可愛らしい犬は、つい最近までレジナルド・シルヴァリーに飼われていた雌のベドリントン・テリアだった。
事件後主人を失った彼女をアルバート卿が引き取っていた。
「おはようございます。アルバート卿」
アメリアとアルバート卿は、昨日の午後、アメリアが母と共に<ウェクスフォード・ホール>に到着した後、他の家族やゲストと共にディナーに同席したが、その場では直接的には言葉を交わしていなかった。
というよりも、7月の末に事件が解決した後、二人ともすぐにロンドンを離れてそれぞれの家の領地で過ごしていたので、救出されてから今この瞬間まで彼らには全く会話をする機会がなかった。
当然、監禁のさなかに交わしたキスのことも、彼らの間では口にされてはいない。
そして、おそらく、今後もそれを言葉にすることはないのだろうとアメリアは思っていた。
そのことをなかったことにしたいからではない。寧ろ――。
「今年もこの<ウェクスフォード・ホール>に呼んでいただけるとは思っていませんでしたわ。大事なご子息を“例の件”に巻き込んで怪我まで負わせてしまったのに」
アメリアはそう言いながら、アルバート卿が彼の茶色のヘリンボーン柄のズボンにまとわりつくベドリントン・テリアを制御しようとしているのを見て微笑んだ。
彼はその犬を難なく足元に伏せさせながら何気ない口調で言う。
「お忘れですか?そもそも私の兄のヘンリーがあなたに“例のちょっとした依頼”をしたことが全ての発端だったのです。負い目があるのはあなたではなく当家の方なのですよ」
アルバート卿は口元にいつも通りの皮肉な笑みを浮かべた。
アメリアは〈ウェクスフォード・ホール〉に来る前、"例のちょっとした依頼"の依頼者であるヘンリー卿から丁寧なお礼状を受け取っていた。
もちろん、二人が被害に遭った拉致監禁事件がなかったことになったのに伴い、彼からの事件の捜査依頼もなかったことになったため、具体的に何についてのお礼なのかは書かれていなかった。
ただ、その手紙には詩人マーロウの幸せな恋の詩の一節が引用されていたので、アメリアは彼とシルヴァリー伯爵未亡人との恋が上手くいっているということなのだろうと解釈していた。
そんなことを考えながら、アメリアはアルバート卿の足元に行儀よく伏せているベドリントン・テリアに視線を移した。
「この子はあなたに引き取られて幸運でしたわ。結局、心臓病というのも嘘だったのでしょう?」
「ええ、彼女は健康そのものですよ。記録によるとまだ7歳ですからね。犬としては若いわけではありませんが、年寄りでもありません」
ベドリントン・テリアは2人が自分のことを話しているのがわかったのか少し耳を動かした。
「名前は付け直されましたの?」
「もちろんです。殺人犯が付けた名前は彼女に相応しくありませんからね。そうだろう?ペネロープ?」
"ペネロープ"と呼ばれたベドリントン・テリアは伏せながらも目を輝かせ、嬉しそうに尻尾を振った。
「"ユリシーズ"の妻の名からお取りになったのね。亡くなったシルヴァリー卿は最後に『ユリシーズのように強く生きたい』とおっしゃっていたそうですから、ぴったりだわ」
「ええ、まさに彼女は"ユリシーズ"の貞淑な妻“ペネロープ”の名に相応しい賢く忠実な犬ですよ」
そう評されたペネロープは、ごろんと転がってアメリアにお腹を見せた。
アメリアは彼女の側にしゃがんでお腹を優しく撫でてやる。
アルバート卿はその様子を見ながら、いつになく優しい口調で言った。
「――それから、この"ペネロープ"という名は、我々の命を救ったペニー銅貨に敬意を表する意味もあります」
「あら、では、あなたはこの子を"ペニー"と呼ぶのですね」
アメリアがアルバート卿を見上げると、彼の青みがかった灰色の瞳が彼女を穏やかに見つめていた。
「ええ。ただし、心の中だけで」
不意に、アメリアの心の中にしまわれていたあのときのキスの記憶が蘇った。
埃っぽい洗い場の湿った空気の中で、彼の唇の熱だけが生きていることの実感だった――。
アメリアはそっと彼から視線を外して、ペネロープが寝転んでいる大理石の床の模様を見つめた。
「ところで、グレイスから聞きました。あなたはミスター・グレイストーンとは結局――」
「ええ。あなたのご助言の通り、彼には『はっきりとした答え』を伝えましたわ」
アルバート卿の問いにアメリアは敢えて朗らかな調子で答えた。
それを聞いたアルバート卿の灰色の瞳の奥にわずかに揺れが映った。
そして、彼は少し躊躇ってから声を低めて言った。
「私は――今思うと全く余計なお世話ですが――あなたが彼との交際に乗り気ではないことに気が付いて明確に断ることを勧めました。ただ、一方で、公平に考えれば彼こそあなたの結婚相手に相応しかったのかもしれないとも思っています」
アメリアは視線を落としたまま、ミスター・グレイストーンにこのまま自分を訪ね続けたとしても望むものを与えられないと伝えたときのことを思い返していた。
彼はその温かいブラウンの瞳に落胆の一端すら浮かべることはなく、ただ微笑んで「あなたはそう言うと思っていました」とだけ言って紳士らしく身を引いて帰って行った。
それは、決して彼の想いが浅かったからではないと、アメリアはわかっていた。
「あなたのおっしゃる通りです。彼は結婚相手として申し分のない紳士でした」
アメリアは立ち上がって、アルバート卿の灰色の瞳を真っすぐに見つめた。
彼女のヘーゼルの瞳は少しも揺らいではいなかった。
「――でも、一緒に生きていくにはもっと相応しい方がいる気がしたのです」
彼女の言葉にアルバート卿は何か言いかけたが、結局は、ただ頷くだけに留めた。
しかし、その瞳は真っすぐにアメリアを見つめ返していた。
そして、彼は仕切り直すように何でもない口調で言った。
「あなたと一緒に生きていくのに相応しい人は一体誰なのでしょう?レディ・メラヴェル」
「わかりません。まだ出会っていないのかもしれませんわ。もしくは、お互いにまだ――」
アメリアが言いかけたとき、レディ・グレイスが大階段を下りて二人の方にやってくるのが見えた。
「レディ・メラヴェル、お待たせしてごめんなさいね。アルバート、レディ・メラヴェルとはお話しになれたかしら?」
レディ・グレイスは兄に向かって意味ありげな視線を向けた。
アルバート卿も一瞬妹に視線を向けたが、社交上必要なことを言うだけに留めた。
「では、二人とも気をつけて」
「ええ、ありがとう、アルバート卿」
アメリアがレディ・グレイスと連れ立って玄関を出ると、既に馬丁が彼女たちの馬を連れてきてくれていた。
一方のアルバート卿はペネロープと共に大階段を上がって自室に戻っていく。
“もしくは、お互いにまだ気づかないふりをしていたいだけなのかも――”
言わなかった言葉、聞かなかった言葉。
それがいつまでも二人の心の中に響いていた。
第2部最後までお読みいただきありがとうございました。
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