27.【解決編】ペニーの恩恵②
ミスター・レジナルドが二人に近づいてくるのを見たアメリアは、流し台に座ったまま身を固くした。
アルバート卿はアメリアに向かって頷くと、ゆっくりとした動作で彼の方に一歩近づいた。
「ミスター・シルヴァリー、もうここまでにしましょう」
彼は落ち着いた声で話しかけた。
立ち止まったミスター・レジナルド・シルヴァリーの手は震えている。
「あなたの罪が更に重くなるだけですよ」
そう言われたミスター・レジナルドはバットを持っていない方の手で、くすんだブロンドの髪をかきあげた。
そして、その手を上着の内ポケットに乱暴に突っ込んで、暗い色の小瓶を取り出した。
きっとジゴキシンが入っているのだとアメリアは思った。
「そんなのはどうでもいい。どちらから先に毒を飲むか決めろ」
クリケットプレイヤーらしい屈強な外見とは裏腹にその声は上擦っていた。
「なるほど……毒は二人分あるのですか?」
アルバート卿は静かな声で尋ねると、アメリアに視線を送った。
時間稼ぎをするから隙を突いて窓を通り抜けろということだ。
「おそらく二人分くらいなら……。お腹の子さえ死んでくれればそれで良かったのに、どうして兄が……」
ミスター・レジナルドは一瞬だけ俯いた。
その顔は焦りと後悔に歪んでいる。
「でも、兄だって悪かったんだ!私を助けてくれなかったから!」
悲痛な叫びが狭い洗い場にこだまする。
「金を貸してほしかったのに『子供が生まれるまで待ってくれ』……そればかりだった。もし生まれてくるのが女の子だったら信託財産を残してやりたいと言って……」
そう言ってミスター・レジナルドは額の汗を袖で拭ったが、すぐにバットを二人に向け直した。
「とにかく、毒を――」
彼の言葉は続かなかった。
アルバート卿がゆっくりとまた一歩進み出たからだった。
「それで、その後はどうするのです?」
「は?」
アルバート卿の言葉にミスター・レジナルドの視線が泳いだ。
「ここで……あなたの屋敷で新たに二人の死人が出るわけですが、どうするつもりなんです?」
アメリアは、アルバート卿はわかった上で言っているのだと感じた。
「それは……」
「まさか、あの家政婦の女性に手伝わせるのですか?」
「そんな――!」
ミスター・レジナルドは顔面蒼白だ。
既に兄を殺し、先ほどはアルバート卿の頭をバットで殴った彼だが、これ以上の殺人については具体的な計画も考えも持っていないのだ。
結局、彼は"行き当たりばったり"かつ"その場しのぎ"で行動しているだけ――。
「さあ、よく考えて――」
アルバート卿が言いかけたところで、上階からベドリントン・テリアが激しく吠える声が聞こえて来た。
そして、それに続いて複数人の足音が響く。
突然のことに全員が言葉を失い、ただ天井を見上げた。
すると、それから数秒でミスター・レジナルドの背後に黒い制服の警官が現れた。
警官が「こっちだ!」と叫ぶと、別の場所を捜索していたと思われる仲間の警官たちが4、5人駆け付けてきた。
ミスター・レジナルドはバットを振り回して抵抗するが、警官たちもこん棒で応戦する。
アメリアとアルバート卿は思わぬ展開に一瞬顔を見合わせた。
しかし、アルバート卿は、すぐに手を伸ばしてアメリアが流し台から下りるのを手伝うと、乱闘に巻き込まれないように彼女を庇いながら流し台の陰に身を寄せた。
ミスター・レジナルドは抵抗を続けていたが、いくら鍛えられたクリケットプレイヤーとは言え、複数人の訓練された警官に敵うはずもなく、間もなく制圧された。
最後に後方で指揮を執っていたと思われるヘイスティングス警部も洗い場に駆け込んできた。
警部はいつも通り鋭い目をしていたが、そこにはいくらか心配の色が浮かんでいた。
彼はミスター・レジナルドがしっかりと取り押さえられているのを確認してから、流し台の陰にいる二人を見つけて駆け寄ってきた。
「怪我は……あるようですね、お二方」
アルバート卿は警部に向かって少し笑うとゆっくりと立ち上がり、アメリアに手を貸しながら答えた。
「ええ。でも、生きている内に来てくれて助かりましたよ。警部」
アルバート卿の言葉に警部は渋い顔をした。
「しかし、状況を見ると『辛くも』というところですね。女男爵様のお母様が届けてくださった推理メモを解読したのと侯爵家の執事が私のオフィスに飛び込んできたのがほぼ同時でしたよ――」
そこで警部は言葉を切って振り返った。
警官たちに連れ出されようとしているミスター・レジナルドが叫んだからだ。
「弟を助けない兄には毒が相応しかった!私は悪くない!」
警部はミスター・レジナルドを見つめた。
その視線には哀れみが滲んでいる。
「……あなたは先代シルヴァリー伯爵が遺言を書き換えようとしていたことを本当にご存知なかったのですね」
「は?」
ミスター・レジナルドのアンバーの瞳が驚きに見開かれた。
やはり彼は兄が自分に財産を残す方法を模索していたことを知らなかったのだ。
「先代シルヴァリー伯爵はあなたにも財産を残そうとしていたのです」
「冗談でしょう?そんなの、あり得ない……」
ミスター・レジナルドは作った笑みを浮かべるが、当然、警部の表情は真剣だった。
「お望みなら本部で詳しく説明しますよ。伯爵家の事務弁護士の証言もありますから」
警部がそう言うと、ミスター・レジナルドは肩を落として先ほどまでの抵抗が嘘のように大人しくなった。
アメリアもアルバート卿も警官たちに連れられていく彼の意外なほど小さな背中を黙って見送ることしかできなかった。
「さて――」
ミスター・レジナルドが部屋を出ていくと、警部は二人を振り返った。
彼は二人の背後の割れた窓と流し台の上にある“砂袋”を交互に見ていた。
「これは、犯人ではなくあなた方が割ったのですね?」
「あの……殺人犯の家の窓とは言え不適切だったでしょうか?」
警部と一緒に窓を見上げながらアメリアは恐る恐る尋ねた。
法廷弁護士の娘であるアメリアはこうした"正当防衛"も度が過ぎると"過剰防衛"になってしまうことは知っていた。
ただ、父はアメリアにその概念は教えても、レディとして育てている娘に具体的な暴力の事例までは話さなかったので、彼女はどこまでが"正当"でどこからが"過剰"なのかの判断にあまり自信がなかった。
「いいえ、まさか!」
強張っていた警部の表情が緩んだ。
「この屋敷に駆け付けた後、令状のない我々はまずは様子を見ることしかできませんでした。しかし、この窓が割れる音で突入の口実を得たのです――つまり、不適切どころかこれ以上なく適切だったということですよ」
警部は、二人に向かってそう言うと、目の端で微かにウィンクをした。




