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26.【解決編】ペニーの恩恵①

 唇が離れたとき、二人はお互いからゆっくりと視線を逸らした。

 アメリアは自分の頬が赤くなっている気がして、彼がいる側の頬を手袋をしている手で覆った。

 アルバート卿もさり気なく彼女とは反対の方向に顔を向けている。

 先ほどの衝動と熱情はどこへやら、二人とも自分も相手も本来の冷静な女男爵と理知的な侯爵家の三男に戻りつつあることを感じていた。

 

 暫しの沈黙の後に、一つ咳ばらいをして切り出したのはアルバート卿だった。


「さて……我々は生き延びることに合意したということですね?そうであれば、とにかくここを脱出しましょう」


 アメリアは反射的に首を傾げた。

 今二人が閉じ込められている洗い場の入り口は、ドアの向こうに何か大きくて重いものが置かれていて機能しないし、当然裏口もない。

 他に脱出口になりそうなのは流し台の上の窓だが、この洗い場は今は使われていないらしく、窓ガラスを破るのに使えそうな鍋やフライパンは見当たらなかった。

 ただ、アメリアはアルバート卿に何か考えがあるのを察していた。

 

「あら、どうやって?」


 そう尋ねたアメリアのヘーゼルの瞳は、先ほどの気まずさが嘘のように好奇心の輝きを取り戻していた。

 視線の端でその輝きを見たアルバート卿は微かに笑って言う。


「あなたは今日の私は理性的でも合理的でもないとおっしゃいましたが、実は完全にはそうとも言い切れないのですよ」

 

 ようやく脳震盪の影響がいくらか落ち着いたと見える彼はそこで言葉を切ると、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、彼に合わせて座っていたアメリアが立ち上がるのにも手を貸してくれた。


「一つは、当家の執事に、私から1時間以内に音沙汰がなければ、私がこの屋敷に向かったきり行方知れずになっていることをヘイスティングス警部に伝えるように言ってあります」


 アルバート卿は上着のポケットから金の懐中時計を取り出すと今の時刻を確認した。

 

「私が家を出てからもうすぐ2時間になります。おそらく、ヘイスティングス警部は既に執事からの報せを受けたでしょう。あなたの侍女からもらった手紙には、あなたのお母様もあなたがいなくなってすぐにヘイスティングス警部に面会しに行ったと書いてありました」


 彼は確信的な口調で話し続けながら、アメリアの方を見た。

 

「ある屋敷で行方知れずになった人がいたとしても、たった一人では警察は動かないかもしれません――特に伯爵の縁者の屋敷であれば尚更です。でも、二人ならきっと動いてくれると私は踏んでいます」


 アメリアは思わず笑顔を浮かべた。

 この英国が法治国家である以上、警察がいきなりこの屋敷に突入することは難しいかもしれない。

 しかし、例えば、ヘイスティングス警部やせめて巡査が立ち寄ってくれるのであれば、洗い場に囚われている自分たちの存在を伝えることが可能かもしれない。


「ただ、警察を待っていては遅い可能性がある――そこでもう一つです」


 アルバート卿はそう言って部屋の奥にある流し台の方に歩いて行った。

 そして、その上にある小さな窓を見上げた。


「……あなたは先日の〈愛国者友愛会〉のチャリティ・イベントで上演された演劇を覚えていらっしゃいますね?」

「ええ。『ヘンリー6世』でしたわね」


 アメリアはそのチャリティ・イベントの演劇のことをはっきりと覚えていた。

 それは彼女の亡き父の知己であるレッドメイン大佐が主宰する慈善団体〈愛国者友愛会〉のイベントだったからでもあるが、そこでウェクスフォード侯爵家の兄妹に会い、次男のヘンリー卿からこの事件の捜査を依頼されたからだった。


「そこで私は演劇の演出について指摘して、兄妹から『細かすぎる』との誹りを受けました」

「ええ、原作と異なる点を気にしていらっしゃいましたわね。確か決闘のシーンで、演劇では武器としてただの棒が使われていましたが、原作には『砂袋が付いた棒』と書かれていると。あなたは砂袋のないただの棒では、威力が足りないはずだとおっしゃって――」


 そこまで言ってアメリアははっと息を呑んだ。

 彼女のヘーゼルの瞳にますます明るい輝きが宿る。


「あなたは“砂袋”を作って窓ガラスを破ろうとおっしゃっているのですね?アルバート卿」

「その通りです。レディ・メラヴェル」


 アルバート卿は口元にいつもの皮肉な笑みを浮かべた。

 彼の灰色の瞳もどこか愉快そうだ。


「これでもう誰も私を『細かすぎる』なんて言わないでしょう?」


 ***


 そうと決まれば、二人はすぐに『砂袋』について検討を始めた。


「“砂袋”と言うからには、砂と袋が必要ですが、まず、“袋”については私の靴下で良いでしょう。……優雅とは言い難いが」


 アルバート卿は自分の足元を見つめて顔を顰めたが、結局は仕方がないという風にため息をついた。


「助かりますわ。では、“砂”になりそうなものがあるか持ち物を確認しましょう」


 アメリアの言葉にアルバート卿も頷き、2人は自分の全てのポケットを探り始めた。

 お互いにそれなりに所持品があることがわかったため、流し台の横のテーブルに物を広げてみると――。


 まず、アメリアの持ち物は、帽子が取れたときに一緒に取れてしまったヘアピン5本、ケースに入った予備の訪問カード4枚、父の形見の金張りの懐中時計、ジゴキシンの毒性について調べたことを書いたメモ、先ほど花売りの娘から買ったブーケ、ブーケを買ったときのお釣りのペニー銅貨が10枚。

 本来はこれに加えてハンカチを2枚持っていたが、一枚はミスター・レジナルドに捕まったときに風に飛ばされ、もう一枚――去年アルバート卿から贈られたハンカチ――は彼の怪我の止血に使ってしまった。


 次に、アルバート卿の持ち物は、リネンのハンカチが1枚、金無垢の懐中時計、記事執筆のネタを書き留めているメモ帳、アメリアと同じ花売りの娘から買ったブーケ、財布――中身は紙幣とシリング銀貨2枚、ブーケのお釣りのペニー銅貨10枚。


 テーブルの上に広げられたものを見てアメリアは一度瞬きをした。


「“砂”がありましたわね」

「ええ……我々は敬虔な花売りの少女に助けられたようです」


 二人は自然と視線を合わせて頷きあった。


 当代の英国の硬貨の中で最も重いペニー銅貨。

 それが合計20枚もある。

 これを靴下の中に詰めれば立派な“砂袋”になるだろう。

 

 ***


 それから数分後――。


「……あの、アルバート卿?もういいかしら?」


 アルバート卿が靴下を脱ぐ間、アメリアは壁を向いていた。

 礼儀として当然のことでもあるが、アルバート卿が殊更に強く主張したせいでもある。

 彼女の背後ではペニー銅貨同士がぶつかる音がしている。


「……もういいですよ」


 靴下に銅貨を詰め終えたアルバート卿が言った。

 アメリアが振り返ると彼は立派な“砂袋”を手にしていた。

 彼は、安全のためか、血がついて一度外したグレーの手袋を再度着用していた。

 そして、彼は慎重に流し台の上に上ると窓の外の地面に視線を向けた。

 

「幸い着地には問題なさそうです。ガラスが割れたらまずあなたから外に出てください」


 アメリアは不安な気持ちを抑えて頷いた。

 窓ガラスを割るときにはどうしても音が立ってしまうだろう。

 それを聞きつけてミスター・レジナルドがこの洗い場に下りてきたら――。


 アメリアがそんなことを思案していると、アルバート卿が彼女に向かって頷いた。

 それを見た彼女も不安を振り払うように微笑みを返した。


「では、少し離れていてください」


 アメリアが数歩下がったのを確認してから、彼は20ペンス分のペニー銅貨が詰まった靴下を勢いよく窓ガラスにたたきつけた。

 ガシャンと大きな音がして窓ガラスに穴が開き、ガラスの破片が外に向かって飛び散った。

 ふと、アメリアは去年侯爵家で起きた盗難事件の捜査中に彼が床にハンマーを振り下ろしたときのことを思い出したが、今回は一回では済まなかった。

 彼は続けざまに容赦なく窓ガラスを叩いた。

 5,6回叩いて十分に穴が開いたところで、彼は銅貨の詰まった靴下を流し台の上に放り出すと、手袋をした手で残りのガラスをできる限り取り除いた。

 

 そして、彼は一度流し台から飛び降りて、ガラス片が付いてしまった手袋を片方外してアメリアが台の上に上がるのを手伝おうとした――が、そこで動きが止まった。

 

 彼はアメリアの足元と流し台の位置を見比べて、明らかに困惑し逡巡していた。 

 青みがかった灰色の瞳に焦りと迷いが滲んでいる。

 

 床から流し台の上まではせいぜい3フィートだ。大した高さではない。

 しかし、問題はその間だった――流し台の下には滑らかな石の台があるだけだった。

 つまり、途中に足を掛ける場所はなく、先ほどアルバート卿がそうしたように流し台に直接足を掛けて上がるか、腕を突っ張ってよじ登るしかない。

 しかし、今日アメリアが着用している流行り細身のスカートではどちらの動きも不可能だった。

 当然、レディがスカートを捲り上げることなど許されるはずがないし、未婚のレディである彼女を若い独身男性であるアルバート卿が持ち上げるのも憚られる。

 この状況で馬鹿馬鹿しいのはアメリアも――おそらくアルバート卿も――わかってはいるのだが。

 

 彼がここまで切り開いてくれた脱出の機会を無駄にするわけにはいかない。

 アメリアはぎゅっと目を閉じて思考に集中した。

 すると、何故かオフシーズン中に領地のカントリーハウスで過ごしたことが思い出された。

 そうだ。そこでアメリアは――。

 

「“サイドサドル”……」


 アメリアは目を開けてアルバート卿を見つめた。

 一方のアルバート卿はその言葉の意図がつかめず、ただ彼女のヘーゼルの瞳を見つめている。

 アメリアは再度口を開いた。

 

「"サイドサドル"のように……!乗馬するときのように補助をお願いします!」

「ええ!ええ、もちろん」


 アメリアの提案にアルバート卿の灰色の瞳が輝いた。


 “サイドサドル”というのは、レディが乗馬するときに使う横乗り用の鞍だ。

 当代の英国のレディが男性のように脚を開いて馬の背に跨がることはまずない。

 しかし、片側に脚を揃える“サイドサドル”用の動きを応用すれば、流し台の上に腰掛けることはできる。

 襲爵以来、領地で乗馬を練習し、ロンドンでも乗馬を嗜んだアメリアは、何度もその動きをしている。

 幸いにもレディの乗馬の補助の方法を知っていたアルバート卿は、すぐに手袋をした方の手を(あぶみ)代わりに差し出してくれた。

 アメリアはその手に足を掛け、彼の肩を借りながら身体を持ち上げ、何とか流し台の上に座った。


 ――あとは、立ち上がって窓枠を越えるだけ……。


 しかし、そのとき、洗い場の入り口からほとんど悲鳴のような声が聞こえた。


「――どうして、私のやることはいつも上手くいかないんだ」


 アメリアが顔を上げると、アルバート卿の肩越しに青ざめたレジナルド・シルヴァリーが立っているのが見えた。

 そして、彼の手にはやはりクリケットバットが握られていた。

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