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22.【解決編】ミス・アンソンの冒険①

 アメリアが拉致されてから数分後――。

 

 メラヴェル男爵家の自動車の後部座席で主人の帰りを待っているミス・アンソンは微かに顔を顰めてため息をついた。

 彼女の主人であるメラヴェル女男爵が自動車を降りていった直後から、運転席に座っているショーファー(お抱え運転手)のノートンが次の休暇にヴァラエティ・シアターに出かけないかと彼女をしつこく誘っていたからだ。


 「――男装して歌う歌手がいてね。それが結構上手いんだ。エマとサムも来るって言ってるからさ」

 

 ミス・アンソンは一応礼儀として彼の話に頷きながら耳を傾け、「実家の母の様子を見に行かないといけなくて」だとか「最近の音楽には興味がなくて」だとかと誘いをかわしていた。

 陽気でお屋敷の使用人の序列に疎いノートンはともかく、ハウスメイドのエマとフットマンのサムが休日まで上級使用人の自分と出かけなければならないとしたらさぞ気詰まりだろう。

 もっとも、自分自身がもっと社交的な性格ならまた違ったのかもしれないが――と考えが自分の性格にまで及んだところでミス・アンソンは気がついた。


 ――それにしても、お嬢様は遅すぎる。


 ノートンの話が途切れたタイミングで、ミス・アンソンは主人が訪問しているはずの屋敷に顔を向けた。

 屋敷を見たミス・アンソンの心臓は大きく跳ねた。

 つい数分前まで屋敷の玄関前で彼女の主人と屋敷の家政婦と思われる女性が話していたというのに、今は玄関のドアは整然と閉じられて人影一つ見えなかった。


 ――お嬢様は訪問カードを渡すだけだとおっしゃっていたのに……。


 ミス・アンソンは話を再開したノートンを無視して自動車から降りると、屋敷の玄関に走って行ってベルを鳴らした。

 本来であれば使用人が正面玄関から訪ねることはないのだが、今日はなんだか嫌な予感がするのだ。

 ほどなくして家政婦と思われる女性が応対に出てきた。


「こんにちは。……あら、あなたは?」

「レディ・メラヴェルの侍女です。女男爵様はもうお帰りになりましたか?」

「ええ、もうとっくにお帰りになったけれど……」


 その言葉を聞くやいなやミス・アンソンは「ありがとう」と言って来た道を戻り始めた。

 彼女の背中に屋敷の家政婦が「あの、女男爵様のお母様は?」と尋ねていた気がしたが、ミス・アンソンはそれどころではなかった。


 彼女は屋敷の門の外まで戻ると、近くで商売をしていた花売りの娘に1ペニーを握らせて尋ねた。


「さっきあなたから花をお求めになったブルーグレーのドレスをお召しのレディがこの門から出てきたのを見たかしら?」

「見てないよ。パナマハットの旦那様が入っていったきりだよ」


 少女はそう答えて、1ペニー分のブーケを差し出したが、ミス・アンソンは断って自動車に駆け戻った。


「ノートン!〈メラヴェル・ハウス〉に戻って!今すぐ!」

「ええ?!でも、お嬢様は?」

「いいから!」


 彼女の勢いに押されたノートンはすぐにエンジンをかけ始めた。

 ミス・アンソンは自分の手が震えているのに気がついた。

 当初、今日の彼女の主人の予定は慈善団体の昼食会に参加することのみだった。

 それなのに、主人自ら今日の午前中になって急にこの屋敷への訪問を決めたのだ。

 

 ――この前、侯爵家のご次男様に相談された殺人事件の捜査のために決まっているわ。

 ――今朝だって、ドレッサーで何か書いていらした。

 ――どうして、そのときにもっと詳しく伺っておかなかったのかしら!


 ミス・アンソンは職業上身に着けた礼儀正しさゆえの無関心を悔やんだ。

 彼女は自動車に揺られながら無意識に膝の上で手を組んでいた。

 しかし、これはただの失踪ではなく、殺人事件の捜査途中での失踪だ。

 祈りだけでどうにかできるとは思えない。

 この主人の危機に頼れそうな人物として、ミス・アンソンの頭に思い浮かぶのは数人しかいなかった。


 〈メラヴェル・ハウス〉に着くと、ミス・アンソンは通例を無視して正面玄関で自動車を降りた。

 

 「おいおい、お嬢様や奥様のお供でなけりゃ俺たちは裏口からだろう?」


 勤務初日に正面玄関から屋敷に入って執事に酷く怒られたノートンが運転席から言ったが、ミス・アンソンは「緊急事態!」とだけ言い返して、玄関を入ってすぐの応接間に飛び込んだ。

 応接間では思った通り、数少ない頼れる人物の内の一人――彼女の主人の母であるミセス・グレンロス――が座ってお茶を飲んでいた。

 まだ訪問用のドレスと帽子を身に着けたままなので、彼女も今しがた外出から帰ったばかりのようだ。


 「アンソン?何事です?」


 ミセス・グレンロスはいつも冷静なミス・アンソンが慌てていることにやや驚いていた。


 「奥様!お嬢様が――」


 ミセス・グレンロスはそれだけですべてを察したように、ただ目を見開いた。

 そして、立ち上がるとまずはミス・アンソンの手をとって、彼女を椅子に座らせた。


 「落ち着いて。順を追って話してちょうだい」


 そこで初めてミス・アンソンは主人に対して、彼女の母には殺人事件の捜査の件は告げ口しないと誓ったことを思い出したが、ここに至ってはそれどころではなかった。


 ***


 「“好奇心は猫をも殺す”――私は言いましたよ」


 ミス・アンソンから話を聞いたミセス・グレンロスは、娘がまた犯罪の捜査――しかも殺人事件の捜査――をしていたと知り思わずそう言った。

 しかし、その後の彼女の行動は早かった。

 まずは、先日この屋敷を訪ねて来たヘイスティングス警部の名刺を見つけ、執事のミスター・フィリップスに今から彼女が警部を訪ねることを電話で連絡させた。

 そして、自室に戻るとハウスメイドのエマに帽子の角度を手早く直させた。

 その間にミス・アンソンが女男爵の自室から彼女が今朝書いたばかりの推理メモを持って来たが、ミセス・グレンロスは手渡されたメモを見て眉を寄せた。

 なにせそこには部外者から見れば、殺人事件との関連がまるで不明な単語――水差し、グラス、レモネード――が並んでいたためだ。

 しかし、ヘイスティングス警部に渡せば解読できるかもしれない。

 そう考えたミセス・グレンロスは、そのメモを丁寧に折りたたんでバッグの中にしまった。

 ミス・アンソンが書いてくれたアメリアが姿を消した屋敷の住所のメモも一緒だ。


 「アンソン、あなたも来ますか?」


 ミセス・グレンロスは玄関を出る直前にミス・アンソンに呼びかけたが、彼女は首を振った。


 「申し訳ございません、奥様。私には他にやるべきことがあると思うのです」


 ミス・アンソンの黒い瞳に何か確信があるのを見たミセス・グレンロスは、ただ頷いて、ノートンがドアを開けて待っている自動車に乗り込んでいった。

 

 ミセス・グレンロスを見送った後、ミス・アンソンは屋敷内に与えられている自室で簡単な手紙を書いた。

 そして、ベッドの下のトランクのポケットに隠してある貯金から念のためシリング銀貨を1枚持ち出した。

 これから目的の場所に行くためには辻馬車に乗ることになる。

 その場所には主人の供として、自家用車や自家用馬車で何度も行ったことがあるが、辻馬車では行ったことがないので、正確な運賃がわからなかった。

 

 彼女は出発前に使用人ホールにいた家政婦長のミセス・フィリップスに出かける旨を伝えようとした。

 しかし、ミセス・フィリップスは主人が行方知れずになったことについて、彼女の夫でもあり執事でもあるミスター・フィリップスと深刻な顔で話し込んでいて、ミス・アンソンの声は聞こえていないようだった。

 いずれにしても、最早一刻の猶予もない。

 ミス・アンソンは早足で屋敷の裏口から出発すると、すぐに最寄りの大通りで流しの辻馬車を捕まえた。


 「セント・ジェームズのウェクスフォード侯爵家までお願い」


 彼女を乗せた辻馬車はメイフェアの通りを滑るように走って行った。


 ***


 ウェクスフォード侯爵家のタウンハウスに到着すると、ミス・アンソンは落ち着き払って裏の使用人用の玄関に回った。

 彼女の主人のメラヴェル女男爵は侯爵家の令嬢の友人なので、途上ですれ違った屋外の使用人たちはミス・アンソンを見ても誰一人驚かなかった。

 きっとレディ・メラヴェルがまた午後の訪問に来たと思ったのだろう。

 使用人用玄関をノックすると背の高いハウスメイドが応対に出た。

 ミス・アンソンが挨拶すると彼女は「あら」と言って首を傾げた。


「あなたメラヴェル女男爵様の侍女ね?女男爵様がいらっしゃってるとは聞いてないけど……何の御用かしら?」

「ウィリアムというフットマンに会いたいの」


 それを聞いたハウスメイドは少し目を細めた。

 しかし、結局は「彼ならちょうど休憩中だからどうぞ」と言って、ミス・アンソンを中に迎え入れてくれた。

 ミス・アンソンがハウスメイドに続いて侯爵家の使用人ホールへと進むと、ウィリアムは同僚と一緒に長いテーブルの端の方に座って、楽し気に話しながらお茶を飲んでいた。


「ウィリアム!あなた年上の侍女と付き合っていたの?」


 ハウスメイドがウィリアムにからかい半分に声を掛けたのを聞いて、ミス・アンソンは眉を寄せた。

 見ればウィリアムも眉を寄せている。


 「はあ?俺が付き合ってるのは――」


 言いかけたウィリアムはミス・アンソンの姿を認めて目を見開いた。

 そして、席を立って彼女の近くまで歩いてきてくれた。


「こんにちは。ミス・メラヴェル。どうされました?」


 ウィリアムは、作法にしたがってミス・アンソンのことを彼女の主人の名前で呼んだ。

 実のところ、彼は職務上彼女とよく顔を合わせる割に彼女の本名を知らなかった。

 ミス・アンソンはポケットから先ほど自室で書いた手紙を取り出してウィリアムに差し出した。


「これを今すぐアルバート卿に届けてくださらない?」

「はあ、メラヴェル女男爵様からですか?」

「いいえ、私からです」


 ウィリアムは手紙を受け取ったが、眉を顰めながら手紙の表と裏をよく観察している。

 他家の使用人が侯爵家のご子息様に手紙を書くなど前代未聞だ。

 しかし、ミス・アンソンは怯まず、ウィリアムだけに聞こえるよう声を落として言った。


「あなたは"気づいて"いますね」

「え?」

「そうでしょう?」

「……ええ、まあ。……あなたがおっしゃっているのがそういうことなら……たぶん」


 ミス・アンソンは、先日主人について侯爵家の屋敷を訪れた際に、思いがけずアルバート卿の不自然な反応を目の当たりにした。

 もちろん、メラヴェル女男爵に関係する不自然な反応だ。

 アルバート卿は女男爵がある紳士から求婚者としての訪問を受けていると聞いた途端――持っていた本を落とした。

 そのとき、ミス・アンソンも彼女の傍にいたウィリアムも"それ"を確信し、使用人同士思わず目配せしていた。


「女男爵様のことが書いてあります。アルバート卿は必ずお知りになりたいはずです」


 ウィリアムは頷くが、そのブラウンの瞳には戸惑いが浮かんでいる。


「それは確かなんですね?ご子息様が知りたいことが書かれていると?」

「ええ、確かです。今すぐにお願いしますよ」


 ミス・アンソンが確かな口調で言うと、ウィリアムは一度頷いて、階上へと続く階段の方に足早に向かっていった。

 アルバート卿はミス・アンソンが考えるこの件で頼れる数少ない人物の内の一人だった。

 そして、侍女としての自分にできることをやりつくしたミス・アンソンに残されているのは、もういよいよ祈ることだけだった。

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