20.【解決編】綱渡り①
木曜日、アメリアは午前10時に侍女のミス・アンソンに起こされた。
結局、昨夜のベリック男爵夫人のチャリティ・ダンスパーティーには、“おまけ”のダンス含めて最後まで参加したため、ベッドに入ったのは午前2時か3時のことだった。
いつまでも寝ていたいところだが、午後には慈善団体の昼食会が予定されていたし、何よりその前にしっかりと考えたいことがあったので、ミス・アンソンには遅くとも午前10時には起こすように頼んでいた。
やっとの思いでベッドから抜け出したアメリアは、ミス・アンソンが運んで来てくれていたお湯で顔を洗うと、ドレッサーの前に座って事件についてゆっくりと考えを巡らせることにした。
背後ではミス・アンソンがアメリアのやや暗い栗色の髪に、銀の柄のヘアブラシを丁寧に通してくれている。
アメリアが思案を始めたところで、執事のミスター・フィリップスが手紙を届けにやってきたので、ミス・アンソンが身支度中の主人に代わって応対した。
「お嬢様、ウェクスフォード侯爵家からのお手紙です」
「ありがとう、アンソン」
アメリアはすぐにその手紙を受け取り、早速読み始めた。
差出人はレディ・グレイスだが、昨日のダンスパーティーでアルバート卿が約束してくれた手紙だった。
幸いアメリアの母ミセス・グレンロスは既に予定通り自身が理事を務める病院での講演会に出発したそうなので、母の“検閲”を恐れる必要はなかった。
手紙には、アメリアの母の目を意識して書かれている他愛のない内容に紛れて、問題のお茶会でシルヴァリー伯爵未亡人が2杯目のレモネードに手を付けたかについての確認結果が書かれていた。
"それから、あなたの先日の疑問ですが、ヘンリーは彼女には2回目にはそうする暇はなかったはずだと言っていました――"
アメリアは心の中で深く頷いた。
つまり、ヘンリー卿の記憶でも伯爵未亡人には2杯目のレモネードを飲む暇がなかったということだ。
これで矛盾があることがはっきりとした。
あとはこれをどう解釈するかだ。
アメリアはミス・アンソンがピンで髪を留める作業に入る前のタイミングを見計らって言った。
「アンソン、書くものをとってくれないかしら?」
「かしこまりました、お嬢様」
ミス・アンソンはいつも通りの無駄のない動きでライティング・デスクから紙とペン、インク、吸取器を持ってきてくれた。
アメリアは頭を傾けないように注意しつつペンをインクに浸しながら早速考え始めた。
未だに彼女の心に引っかかっているのは主に2点だった。
一つは、シルヴァリー伯爵が倒れたときには既に空になっていたという伯爵未亡人のレモネードのグラス。
レディ・グレイスからの手紙で明らかになった通り、彼女はまだ手を付けていなかったはずなのにおかしい。
もう一つは、昨日のアルバート卿の言葉。
――はっきりとした答えが相応しいと思ったのです。
――それが苦い毒のような答えだとしても。
もちろん、彼の言葉は直接的にはアメリアがミスター・グレイストーンの交際の申し込みをはっきりと断るべきだということを意味するものだ。
しかし、アメリアはこの言葉が何故か気になっている。
「ねぇ、アンソン。毒が相応しい人なんているのかしら?」
アメリアは鏡越しに何げなくミス・アンソンに尋ねてみた。
ミス・アンソンはアメリアの髪が優雅な低いまとめ髪になるように慎重に作業をしている。
「毒が相応しい人なんていないのではありませんか?お嬢様」
忠実なミス・アンソンは主人の問いに答えるが、作業中なので当然どこか上の空だ。
「ええ、私もあなたの言う通りだとは思うのよ?ただ、"犯人にとっては"という意味で――」
そのときアメリアは鏡に映る自分のヘーゼルの瞳にはっきりと閃きが走ったのを見た。
――先代シルヴァリー卿は犯人にとって毒が相応しい人だった?本当に?
そして、持っていたペンを急いで紙に走らせる。
夢中になったアメリアが頭を下げてしまったので、ミス・アンソンの作業は一部やり直しになった。
ミス・アンソンはそのことについて不平は言わなかったが、「お嬢様、インクをこぼさないようにしてくださいませ」とだけ注意を促した。
だが、彼女の言葉はアメリアの耳には届いていなかった。
必要なことを全て書き終えると、アメリアはすぐに紙に吸取器を押し当てて余分なインクを吸い取った。
そして、今度はミス・アンソンを邪魔しないよう頭の角度に注意しながら、紙に書いたことの検討を始めた。
そこには、1杯目の水差し、2杯目の水差し、水のグラス、1杯目のレモネード、2杯目のレモネードがそれぞれどのタイミングで運ばれてきたか、どのタイミングで誰が触ったのかが書かれていた。
――病のせいで喉が渇いていたシルヴァリー卿。
――空になった1杯目の水差し。
――レディ・シルヴァリーの2杯目のレモネード。
――そして、シルヴァリー卿の最期の言葉。
アメリアは遂にある推理に至った。
これが求めていた真実だとすれば、急がなければならない。
もたもたしていて、無実の人が逮捕されたりしたら取り返しのつかないことになる。
とはいえ、証拠もないのに真犯人を告発すれば――。
――ヘイスティングス警部は容疑を固めるためには証人か物証が必要だと言っていたけれど……。
そこで、ふとアメリアは気づいた。
今日は木曜日だ。幸いにも。
「もうよろしゅうございますわ。お嬢様」
ミス・アンソンが髪型の完成を告げたのを合図に、アメリアは立ち上がって今度は昨日選んでおいたブルーグレーの訪問用ドレスに着替えた。
最後にアメリアが再びドレッサーに座ると、ミス・アンソンが慣れた手つきで髪の上に帽子をピンで留めてくれた。
そこでアメリアは再度ペンをインクに浸け、紙の端に住所を書くと、余分なインクを吸い取ってからその部分を千切ってミス・アンソンに渡した。
「アンソン、昼食会の後、この住所に寄ってくれるようノートンに伝えておいてちょうだい」
「かしこまりました」
住所を見たミス・アンソンは少し首を傾げた。
確かにその住所にミス・アンソンは行ったことがないはずだ。
ミス・アンソンが自動車の手配のために部屋を出ていってしまうと、アメリアは箪笥の2段目の引き出しの奥から一枚の紳士用のハンカチを取り出した。
上等な白いリネンに白い糸で刺繍されている“A”の文字を右手でなぞる。
指先に刺繍糸の感触を感じると、このハンカチを使って捜査した前回の事件のことと、このハンカチの贈り主のことが頭に浮かんだ。
そして、彼女は少し迷った末、そのハンカチを折りたたんで、上着の左の袖の奥にしまった。
既に上着のポケットにはレースで装飾された別のハンカチを入れてあるのだが、今の彼女にはこのハンカチがどうしても必要だった。
***
アメリアがメラヴェル女男爵として支援者に名を連ねている孤児救済に関する慈善団体の昼食会は、同じく支援者に名を連ねているとある准男爵夫人の主催で午後1時から始まった。
その会は、アメリアのような慈善活動の後援者のレディと実務家の女性たち――孤児院の院長や孤児を受け入れている学校の教師、病院のナース――の交流を目的としていた。
アメリアは隣に座った女子校の校長から孤児の健康状態と発達についての興味深い見解を得て、ぜひ後で記録しておかなければと思ったが、昼食会が終盤に近付くとどうしても次の予定のことを考えてしまった。
当然、彼女はその場ではそれをおくびにも出さず、最後の紅茶が出てきても早く帰りたい素振りなど微塵も見せなかった。
そして、昼食会が終わると、アメリアは他のレディたちに先んじて主催者に辞去の挨拶をし、使用人用の軽食のもてなしを受けていたショーファーのノートンと侍女のミス・アンソンと合流した。
アメリアを自動車に乗せるとノートンはすぐに予め伝えられていた住所――メアリルボーンのある屋敷――に向かって自動車を走らせた。
ノートンもミス・アンソンもそれが誰の屋敷なのかは知らない。
アメリアはブルーグレーの訪問用ドレスのスカートのしわを伸ばしながら、屋敷に着いたら自分が言うべき台詞を頭の中で繰り返していた。
上手くやらなければ、未婚のレディとして許容される範囲を逸脱しかねない――まるで綱渡りだ。
ふと、アメリアは今日身に着けている流行りの型のスカートは綱渡りを演じるにはやけに窮屈だと思い、わずかに笑みを浮かべた。
メアリルボーンの屋敷に到着すると、アメリアはノートンにその屋敷の前の通りの目立つ位置に車を駐車させ、ミス・アンソンには車内で待つように指示して日傘だけを持って自動車を降りた。
もう7月も終わりなので、暑い日が増えているが、今日は特別暑かった。
アメリアはもう少し短い袖のドレスで来るべきだったかもしれないと少し後悔しながら、日傘を開いた。
屋敷の門の中に入ろうとしたとき、アメリアは通りの角で10歳くらいの花売りの娘が小さなブーケを売っているのに気が付いた。
彼女の足は自然とその花売りの娘の方に向かった。
普段から子供が商売をしている場合はなるべく買ってやることにしているが、今日ばかりはそんな慈善の精神だけが理由ではなかった。
綱渡りを始める前に少し心の準備が必要だった。
――無事渡り切れるかしら……。
アメリアは不安を落ち着けるために敢えて微笑みを浮かべた。
「こんにちは、1ついただける?」
「1ペニーでございますよ。奥様」
アメリアはポケットに硬貨があるか探ってみた。
財布が入っている装飾用の小さなバッグはミス・アンソンに預けて来てしまったので、なければ自動車に取りに戻らねばならない。
すると、幸運にもポケットにシリング銀貨が一枚だけ入っていた。
「シリングしかなくてごめんなさいね」
アメリアはブーケと引き換えにシリング銀貨を渡した。
おつり含めてすべてその娘にあげてしまおうかと思ったが、彼女は律儀にも11ペンスのおつりを返してきたので、アメリアは彼女を尊重し、1ペニー余計に握らせるだけに留めておいた。
そして、残りの10ペンスをポケットに押し込むと、アメリアは一つ息を吐いて屋敷の玄関へと向かった。
メアリルボーンのレンガ造りのタウンハウス――それは当然、シルヴァリー伯爵の弟ミスター・レジナルド・シルヴァリーの屋敷だった。




