15.【出題編】安全な道②
それから数日、アメリアは母と話したことについては、努めて考えないようにしていた。
代わりに彼女が没頭していたのは当然事件の推理だった。
そして、その推理を前に進めるためには、いくつか確定させなければならない事項があった。
そのためには、できればウェクスフォード侯爵家を訪ねたい、というのがアメリアの考えだった。
――機会があるとすれば、月曜日の午後しかないわね。
その日は、母に許可された外出――孤児のための慈善活動に関する会合が予定されていた。
たまたま会合の会場とウェクスフォード侯爵家のタウンハウスは、目と鼻の先にあるので、アメリアは会合が終わり次第ウェクスフォード侯爵家にレディ・グレイスを訪ねると心に決めた。
もちろん、この計画が易々と運ばないことは明らかだった。
愛情深くも抜け目のないアメリアの母は、ショーファーのノートンが娘よりも自分に忠実なことを頼りにしていると見えて、当面のアメリアの外出時の移動手段を自動車に限定していた。
アメリアはこの“寄り道”をノートンが承諾してくれるか自信がなかった。
しかし、幸いにも、アメリアには忠実で有能な侍女ミス・アンソンがいた。
ミス・アンソンはアメリアが何の指示もしない内に、ノートンをアメリアの味方とは言わないまでも中立の立場――つまり、その場その場でアメリアと母、どちらの指示にも従う――にまで引き込んでいた。
彼女自身は多くを語らなかったが、アメリアに同情的な家政婦長のミセス・フィリップスが教えてくれたところによると、数日前、彼女はノートンがいる場で「女男爵様の結婚が近い」ことをさり気なく匂わせたという。
ミス・アンソンらしい効果的な手法だ。
もちろん、アメリアに今のところ結婚の予定はないのだが、女主人に最も近い侍女がそう言うのなら他の使用人は信じてしまうだろう。
そして、それを信じたノートンは、ミス・アンソンの狙い通り、アメリアが結婚して名実ともにこの家の女主人となり、使用人の人員整理に着手することを恐れ始めたらしい。
先週、結果的にアメリアを裏切って彼女の母に付く形になってしまった彼にとっては深刻な事態だ。
アメリアは正直ノートンを気の毒に思ったが、背に腹は代えられなかった。
しかして、月曜日の午後の予定が終わると、アメリアは無事にウェクスフォード侯爵家の屋敷に到着した。
応接間に通されたアメリアを出迎えたレディ・グレイスは少し目を見開いた。
いつもは優雅さを重んじるアメリアが目に見えて慌てていたからだ。
「レディ・メラヴェル、そんなに急いでどうしたっていうの?」
「慌ただしくてごめんなさいね。レディ・グレイス。さっきあなたの執事にお伝えした通りほんの10分しかないのよ」
有難いことにレディ・グレイスはアメリアの意を汲んで、そのとき既にフットマンにヘンリー卿とアルバート卿を呼びに行かせてくれていた。
程なくして駆け付けた2人の兄は、アメリアに時間がないことを知って相当急いでくれたらしかった。
絵を描いていたらしいヘンリー卿は手に青い絵の具をつけたまま、読書中だったらしいアルバート卿は本――E.M.フォースターの小説――を持ったままという状態だった。
彼らは挨拶もそこそこに、アメリアとレディ・グレイスの正面を選んで座った。
ヘンリー卿はテーブルを挟んだすぐ向かいのソファ、アルバート卿はその後方の窓際の椅子だ。
「無作法でごめんなさい。でも、時間がないので手短にお話しますわ」
全員が席に落ち着いたのを確認したアメリアは、早速先週の母とのやりとりを含めて自分の今の状況を説明した。
もちろん、アルバート卿について具体的に議論した部分は省略した。
「――そういうわけなので、私が捜査できるのはここまでのようです。もう少しお時間をいただければ、できる限りの推理をまとめて手紙でお伝えすることはできると思いますが……」
ミセス・グレンロスはアメリアが受け取る手紙の検閲にも取り掛かっていたが、こちらから送る方であればミス・アンソンが上手くやってくれるはずだと思っていた。
「お母様に知られたとあっては仕方ないですよ。寧ろ面倒なことに巻き込んでしまって申し訳ありませんでした」
ヘンリー卿はあっさりと諦めたようで、次の手を考えるように絵の具のついた手を顎の下に当てている。
アメリアはヘンリー卿を見ながら切り出した。
「ただ、今日は推理をまとめるにあたって、どうしてもヘンリー卿に確認したいことがあって来たのです。失礼ですが、あなたとレディ・シルヴァリーには隠していたことがお有りですね?」
アメリアは単刀直入に指摘する。
それを聞いたレディ・グレイスは前から、アルバート卿は後ろから、咎めるような視線でヘンリー卿を見た。
しかし、ヘンリー卿はまるで平気そうに端正な笑みを作っていた。
「うーん……どちらのことを言っているのかな?レディ・メラヴェル」
「どちらもですよ。ヘンリー卿」
アメリアが穏やかに言うと、ヘンリー卿は降参するように両手を上げた。
彼の弟と妹は呆れたようにため息をついた。
アメリアは微笑みを崩さずに話を続ける。
「まず、一つ目ですが、あなたはお茶会の最中にレディ・シルヴァリーが訪問者に対応するために一時退席されていたことを隠していらっしゃいましたね?」
アメリアはアルバート卿が少し身を乗り出したのに気がついた。
この"訪問者"の件は、先週アメリアが彼とミスター・グレイストーンに話そうとして時間切れになってしまった論点だった。
「このことを隠そうとしていたのは、レディ・シルヴァリーとレディ・デヴァルーの姉妹も同じでした。ご姉妹は、訪問があったこと自体は認めながらも、その訪問者の身元を隠そうとしているようでした。それはつまりその点――『訪問者が誰であったか』――が彼女たちにとって問題だったということではないですか?そして、あなたも彼女たちの意を汲んで合わせようとしていたと私は考えています」
「……ああ、なるほど。あなたは警察が以前からレディ・シルヴァリーに"愛人"がいたと考えていることをご存じなのですね?それでその訪問者が"愛人"だとお疑いに?」
ヘンリー卿は敢えて朗らかに言うが、この誤魔化しが通用しないことはわかっているように見えた。
当然、アメリアも微笑んで首を振る。
「いいえ。お茶会の最中の訪問者と警察が掴んでいる以前からの訪問者はおそらく同一人物ですが、"愛人"などではありませんわ」
微笑みを崩さないアメリアに対して、ヘンリー卿は口元には微笑みを保ちながらも困ったように眉を寄せた。
「訪問者の外見については、その訪問者が伯爵家の庭を通過する様子を見ていたミスター・グレイストーンが証言してくれました。彼はこの件については利害があまりなさそうなので、証言を信頼することに問題はないでしょう。その訪問者は"赤毛の男性"だったそうです。それで私はすぐにその訪問者の正体がわかりました」
ヘンリー卿は少し眉を上げ、その灰色の瞳でアメリアを探るように見つめた。
しかし、アメリアはたじろぐこともなく、彼から視線を逸らさずに最後まで言い切った。
「それはレディ・シルヴァリーの実弟の准男爵ではないですか?」
アメリアの言葉を聞いたヘンリー卿は片手で顔を覆った。
もちろん、怒っているのでも、泣いているのでもなかった。
彼はただ声を上げて笑っていた。
「レディ・メラヴェル、あなたは私の想像以上に賢いお方だ。ええ、認めましょう。お茶会の途中でレディ・シルヴァリーは実の弟さんからの訪問受けました。なぜ分かったんです?"赤毛の男性"と聞いただけでそこまで推測できるとは思えない」
アメリアは軽く頷くと、できるだけ正確にゆっくりと話し始めた。
「まずは、レディ・シルヴァリーとレディ・デヴァルーの姉妹が揃って『訪問者が誰であったか』を隠そうとしていたことから、訪問者は彼女たちのご実家の関係者ではないかと思いました。レディ・シルヴァリーは没落したご実家を恥じていらっしゃるようでしたし、レディ・デヴァルーはより具体的にギャンブル癖により実家を没落させた弟さんへの嘆きを打ち明けてくださいましたから」
アメリアの話に耳を傾けるヘンリー卿の顔に浮かんでいるのは、先ほどまでの作った笑みではなく、本物の笑みのように見えた。
「そして、デヴァルー子爵家の応接間で見たご姉妹のご両親と思われる肖像画が決め手になりました。そこに描かれていた姉妹のお母様は赤毛だったので、弟さんが赤毛であってもおかしくはないと考えたのです」
「なるほど、ラファエロの絵画のように正確な推理だ」
と言ってヘンリー卿は数回頷くと、真剣な表情で続けた。
「弟さんは以前から彼女に金の無心に来ていたのです。もちろん、彼女は1ペニーも与えずにいましたよ。金を渡したところで全てギャンブルに使われてしまいますから。彼女は優しい人ですから話だけは聞いてやっていたようですけどね。でも、彼女は誇り高い人でもあるので、弟に金をせびられているなんて世間には知られたくないと思っていらっしゃったのですよ」
アメリアは自分の推理が当たっていたことに満足を覚えて口元に微かな笑みを漏らした。
「レディ・シルヴァリーは応接間の客人に弟さんが帰っていく姿を見られぬよう面会後は彼を裏口から返したのですね?」
「ええ、おっしゃる通りです。私も後で彼女から聞きました」
ヘンリー卿はアメリアの推理の正確さに小さく唸って「そこまでわかってしまうとは」と呟いた。
一方のアメリアは先日抱いてしまった"疑惑”を心の中で密かに思い返していた。
――当代のシルヴァリー卿が赤毛なのも、彼のお祖母様と叔父様が赤毛なのだから特におかしくはなかったのね……つい決めつけてしまうところだったわ。
アルバート卿も同じことを考えていたと見え、微かな笑み浮かべながらアメリアを見ていた。
アメリアは密かに笑みを返しながら、何故か自室の箪笥の奥にしまってある彼から贈られたハンカチのことを思い浮かべた。
しかし、自分が何故それを思い浮かべたかを考える間もなく、もう一点の隠されていた事実の話に進まねばならなかった。
「もう一つお聞きしたかったのは、シルヴァリー卿以外にも彼の水差しに触れた人がいた件です。レディ・シルヴァリーは弟さんへの応対で席を外す前、水差しの水をシルヴァリー卿のグラスに注いでいますね?それでちょうど一杯目の水差しが空になったと他のゲストが証言しています」
アメリアはそう言ってからヘンリー卿の表情を伺った。
彼は少し眉を上げてため息をついた。
「他の方が覚えていましたか……。仕方ない。認めましょう」
ヘンリー卿はこの件についてはあっさりと諦めた。
しかし、こちらの方がショックだったのか座っていたソファの背もたれに深く沈み込んだ。
「彼女の名誉のために言っておきますが、水差しの件を隠そうと提案したのは私です。彼女は私に話を合わせただけなのです」
とヘンリー卿が言うと、兄にはいつも遠慮がないアルバート卿が容赦なく指摘する。
「訪問者の件は名誉に関わることだから理解できるが、水差しの件は何故隠していたんだ?すぐわかることじゃないか」
ヘンリー卿は笑いながら体を起こして、アルバート卿を振り返って言った。
「少しでも彼女をあらぬ疑いから遠ざけたかったのさ。……まあ、男ってのは愛する女性のことになると急にまともに考えられなくなるものだろう?」
アルバート卿はわずかに眉を上げただけで表情を変えなかったが、アメリアは隣のレディ・グレイスが彼を観察するように目を細めたのに気がついた。
アメリアは仕切り直した方が良い気がして咳払いをしてから続きを話し始めた。
「しかし、今認めていただいたお蔭で水に毒を入れられる期間が絞り込めます。水差しに入れたのなら、お茶会開始直後からレディ・シルヴァリーが席を立つまでのはずです――そこで水差しは空になっていますから。グラスに入れた場合は、更にそこからシルヴァリー卿がグラスの水を飲み干す時点までがあり得ますね。2杯目の水差しはシルヴァリー卿が倒れてから運ばれて来たようなので、これは毒とは無関係と見て良いでしょう」
そう話しながらもアメリアの頭の中では、顔が見えない犯人の手が様々なタイミングで水差しかグラスに毒を混入するイメージが浮かんでは消えていく。
しかし、まだゲストたちの証言と整合する答えが導き出せない。
――何が足りないのかしら?
アメリアはもう一度全ての可能性を検討する必要がありそうだと思った。
「今の議論を踏まえて少し考えさせてください」
アメリアはそう言って今週の予定を頭の中で振り返った。
「おそらく、来週初めにはご連絡できると思いますの。今週はもう水曜日のベリック男爵家のチャリティ・ダンスパーティーと木曜日の慈善活動にしか外出を許されていませんから……」
アメリアは後半の発言は余計だったかもしれないと後悔するが、少しは吐き出さないと窒息しそうだったのだ。
「あら?ベリック男爵家のチャリティ・ダンスパーティーには私たちも招待されたけど、寄付するだけで行かないことにしたわね?」
アメリアの話を聞いたレディ・グレイスはそう言って2人の兄を見た。
ヘンリー卿は軽く頷いただけだったが、アメリアはアルバート卿の灰色の瞳には何かが映った気がした。
ちょうどそのときドアがノックされ、控えていたフットマン――アメリアの記憶では確か以前アルバート卿にウィリアムと呼ばれていた若者だ――がドアを開けた。
そこにはミス・アンソンが立っていた。
「失礼します。お嬢様、出発のお時間です」
「ありがとう、アンソン」
通常はミス・アンソンが主人の訪問を妨げるようなことはないが、今日に限ってはきっかり10分で知らせに来るように頼んでおいたのだ。
急いで〈メラヴェル・ハウス〉に戻らなければ母に怪しまれてますます締め付けが強くなりかねない。
「皆さん、ありがとうございました」
アメリアは兄妹たちと辞去の挨拶をしながら立ち上がる。
次はいつ会えるかわからないので、レディ・グレイスとは特に念入りな握手を交わした。
「ああ、そういえば――」
アメリアが応接間のドアの方に体を向けたとき、後ろからヘンリー卿が声を掛けた。
「レディ・デヴァルーが喜んでいましたよ。ミスター・グレイストーンがあなたを気に入って、ぜひ交際を始めたいと思っているとか」
アメリアは微笑みだけ返すつもりでヘンリー卿を振り返ったが、ヘンリー卿の視線は彼の背後のアルバート卿に向けられていた。
そして、そのアルバート卿は床に落ちた本を拾っているところだった。
――きっと、私を見送るために立ち上がってくださったときに偶然落としてしまったのだわ。
アメリアはそう自分に言い聞かせながらも、決して彼の表情を見なかった。
しかし、見なかったはずなのに、彼女の頭の中には先週デヴァルー子爵家の屋敷で見たあの迷子のように揺らぐ瞳がはっきりと思い浮かんでいた。
今、彼の瞳は同じように揺らいでいるのか。
もしくは、全く揺らいでいないのかもしれない。
どちらであったとしても、あの青みがかった灰色の瞳を見てしまったら今度揺れるのはきっとアメリアの方だった。
アメリアはさり気なくミス・アンソンの方に視線を戻したが――そこで思わず瞬きをしてしまった。
ミス・アンソンがドアの側に控えている侯爵家のフットマンのウィリアムに視線を向けていたからだ。
そして、ウィリアムの方でもそれに応えながら微かに肩を竦めていた。
わずか一瞬のやりとりだったが、アメリアは見逃さなかった。
――今の2人のやりとりは一体……?
アメリアが戸惑っていると、誰かが後ろから彼女の腕をとった――レディ・グレイスだった。
「やっぱり玄関まで見送るわ」
彼女はアメリアの腕をとったまま廊下を玄関の方へと躊躇いなく進んでいく。
途中でアメリアは後ろに従っているミス・アンソンの表情を窺ったが、彼女はもうすっかり冷静な侍女の顔に戻っていた。
アメリアはこの謎についても考えた方が良い気がした。
しかし、事件について考えをまとめなければならない今、新たな謎を抱える余裕はなかった。