14.【出題編】安全な道①
デヴァルー子爵夫人とミスター・グレイストーンとの面会から帰宅したアメリアを待っていたのは、母ミセス・グレンロスからのお小言だった。
「ノートンから聞きましたよ。私が臥せっている間に誰だかよくわからない方と交流していたそうね」
ミセス・グレンロスは居間のソファに座り、向かいに立っているアメリアに鋭い視線を向けた。
アメリアは座ることもできたが、敢えて立ったまま応じた。
「お母様、私が会っていたのはレディ・シルヴァリーという立派な伯爵未亡人よ」
アメリアは慎重を期してまずは伯爵未亡人への言及に留めておいた。
ミスター・レジナルド・シルヴァリーの屋敷に訪問したとき、アメリアは自分の自動車ではなく伯爵未亡人の車に同乗して行ったので、ノートンはミスター・レジナルドのことまでは知らないはずだ。
伯爵未亡人との面会はまだしも、母の知らない若い独身男性と面会していたことを知られるのは非常に良くない。
「これまでの社交ではお付き合いがなかった方じゃない。彼女も今日のレディ・デヴァルーと同じくレディ・グレイスからのご紹介なのかしら?」
ミセス・グレンロスは鋭い調子で言う。
とはいえ、アメリアの読み通り、やはり母はシルヴァリー伯爵未亡人のことしか知らないようだ。
「おっしゃる通りどちらもレディ・グレイスからの紹介よ。レディ・シルヴァリーとレディ・デヴァルーは姉妹なの」
アメリアは落ち着き払って答えた。これは嘘ではない。
どちらのレディもレディ・グレイスとの交際をきっかけに彼女の兄であるヘンリー卿を通じて紹介されたのだから。
「でも、その割にノートンは、レディ・シルヴァリーとの面会にレディ・グレイスの姿はなかったと言っていたの」
ミセス・グレンロスは目を細めてアメリアを見ると、容赦なく追及する。
「あなた、また犯罪について調べているんじゃないでしょうね?」
「まさか!伯爵家や子爵家がどんな犯罪に関係していると?」
アメリアは母の鋭さに内心ひやりとしながらも、さも可笑しそうに笑って見せた。
しかし、高貴な家柄だからといって必ずしも犯罪と無関係ではないことは、法廷弁護士の妻と娘だった彼女たちはよくわかっていた。
「“好奇心は猫をも殺す”――未婚のレディなら尚更よ。とにかく余計なことに首を突っ込むのはやめなさい。前回の侯爵家の盗難事件のことは大目に見ましたけどやっぱり――」
「ええ、わかっているわ。お母様」
アメリアは物わかりの良い笑顔を作った。
こうなると、今回の事件の捜査のためにこれ以上の外出をすることは難しくなるだろう。
一応ここまでで事件のあったお茶会の出席者からは一通り話を聞けている。
それなのに、あともう一歩何かが足りない。
それがわかれば……もしくは、何か閃きさえすれば――。
「まあ、犯罪のことはいいわ。どうせ素人には大したことはできやしないし……。私が本当に気にしているのはもっと別のことなのよ」
アメリアは母の言葉に少し眉を上げた。
母は長い息を吐いてから切り出した。
「……ノートンは伯爵未亡人との面会のとき、レディ・グレイスの姿はなかったけれど、彼女のお兄様の姿はあったっていうのよ」
「その場に既婚のレディがいらっしゃったのだから問題ないでしょう?レディ・グレイスのご体調が悪くてお兄様が代理で来てくださったのよ。紹介者が必要だったから」
アメリアは慎重にあり得そうなことを答えた。
「それが嘘であれ本当であれ、どのお兄様だったのかは聞かなくてもわかるわ。だから、犯罪捜査を疑ったわけですしね」
「あの……お母様?どういう意味かしら?」
アメリアは母の話がどこに向かっているのか全く掴めなかった。
困惑している彼女にミセス・グレンロスは少し表情を和らげて言う。
「私はなにもあなたを苦しめたいわけじゃないのよ」
それはアメリアにもわかっていた。
ミセス・グレンロスはいつだって母として正しいことをしている。
アメリアが6歳のときに知りうる限りの最高の家庭教師を探し出して彼女に付けたこと、教育熱心過ぎる父が娘に過剰な知識を与えるのを止めようとしたこと、頼れる父が亡くなった後でも娘を外国にある寄宿制の仕上げ学校に入れたこと――全て娘のためだ。
「ただ、安全な道を行ってほしいだけなの」
ミセス・グレンロスはため息混じりに「ねえ、アメリア。思い出してちょうだい」と言うと、真剣な表情でアメリアを見つめた。
「あなたが爵位を継いだとき、元々婚約していた准男爵家の跡取りはどうしたかしら?」
「彼は……婚約を破棄したわ。きっと未来の妻が彼より“上”になるのが不快だったのね」
アメリアは彼女が自分より格上の女男爵になったことを理由に婚約を破棄した元婚約者のことを思い浮かべ、ため息を漏らした。
ミセス・グレンロスは深く頷き、確信的な口調で言う。
「正直、彼は大馬鹿者よ。それは間違いない」
アメリアは母の言葉に、つい感情が溢れそうになった。
母の愛と決して塞がらない傷の痛みを同時に感じたせいだ。
彼女は元婚約者のことを愛していたわけではなかったが、結婚を申し込んでくれた男性として信頼していた。
それに正直、心のどこかで、結婚すれば何らかの感情が芽生えるかもしれないという期待もしていた。
それなのに、アメリア自身ではなく、その地位が変わったというだけでそれまでの全てをなかったことにされてしまった――驚くほどあっさりと。
「でも、殿方には矜持があることも現実として理解しなければならないわ。貴族の爵位をお持ちでない方にとって、“女男爵”は重すぎるのよ。やはりあなたの相手はあなたと同等以上の爵位をお持ちの方か、少なくとも推定相続人の方でないと」
ミセス・グレンロスはアメリアの両手を取って、彼女の両手で包みこんだ。
母の手の優しさと温かさにアメリアは戸惑ってしまう。
「私はもうあなたに殿方のせいで傷ついてほしくないの。かと言って、私とずっと一緒に暮らしていたらメラヴェル男爵家は断絶してしまうし、なにより若いあなたのためにもならないわ」
ミセス・グレンロスは「知っての通り私は旧い人間ですからね」と冗談めかして付け足して笑った。
アメリアも思わずつられて口元が笑ってしまった。
「あなたにはあなたの地位や財産、賢さに気後れせず、あなた自身を妻として愛して大事にしてくれる夫が必要なの。だから、安全で確実な道を探しましょう」
母の真っ直ぐな瞳に見つめられてアメリアは少したじろいだ。
確かに母の言っていることには一理ある。
でも――。
「でも、お母様。そもそも、アルバート卿とはそんな関係ではないのよ」
「あら。どうして"そんな関係"ではないのかしら?」
ミセス・グレンロスは静かに尋ねた。
その視線がアメリアのヘーゼルの瞳の奥を探っている。
「あの方はよくレディ・グレイスの付き添いで当家にいらっしゃるし、社交の場で同席すればあなたとよくお話しになる。それなのに、ここに至って"そんな関係"ではないのはどうしてなのかしら?」
不意に、アメリアの脳裏に先ほどデヴァルー子爵家で見た彼の瞳が浮かんだ。
彼の青みがかった灰色の瞳に映ったあの揺らぎ。
ほんの一瞬だったけど、あれはまるで――迷子のような揺らぎだった。
母は依然アメリアの目を真っ直ぐに見て続ける。
「あの方は財産もおありだし、お人柄だって悪くはない……変わってはいるけれど」
そう言ってミセス・グレンロスは一瞬肩を竦めたが、真剣な調子に戻って続けた。
「でも、ご自身では爵位をお持ちでない。私にはやはりそれが問題に思えるわ」
「彼はそんなこと――」
「『そんなこと気にしない』?では、あの方が求婚者としてあなたを訪ねて来てくれたことがあって?個人的にお手紙をくださったことがあって?」
どちらもノーだった。
アメリアが侯爵家の事件を解決したことへのお礼の訪問を一度、レディ・グレイスの付き添いとしての訪問を数回受けたことはある――しかし、それは“求婚者”としてではない。
また、母の目の届かぬところで、事件解決の記念として彼から贈られたハンカチにメモが添えられていたことはある。
それを手紙とみなすことはできるかもしれないが、あるとしてもそれだけだ。
――ミスター・グレイストーンは会ったその日に訪問の申し出をしてくれたのに。
アメリアは自分が2人の男性を比べていることに気がついた。
しかし、一人はやむを得ず事件の捜査で協力しているだけの紳士で、もう一人はきっかけは事件の捜査とはいえ自発的にアメリアとの交際を望んでくれている紳士――彼らを比較することは誤りだ。
アメリアは一度ゆっくりと瞬きをしてその思考を振り払った。
母はそんなアメリアを見て一度ため息をついてから言った。
「それにね。もし、彼が本当に爵位のことを気にしていなくて、ゆくゆくあなたに求婚なさるつもりがあったとしてもよ。私たちの出自を考えれば……侯爵家のご子息との身に余るご縁は遠慮すべきではなくて?最近では女優なんかと結婚される方もいらっしゃるけど……正直酷い結果になった話しか聞かないわ」
アメリアは自分のヘーゼルの瞳が大きく揺らぐのを感じた。
名門ウェクスフォード侯爵家の三男として生まれたときから貴族の彼と、先代メラヴェル男爵の遠縁ではあるものの生まれは法廷弁護士の娘に過ぎなかった自分はあまりにも違いすぎる。
「“そんな関係”でない内に、もう親しくするのは控えましょう。時間の無駄だし、他の求婚者を遠ざけてしまうわよ」
母の言葉は、理性的で正しかった。
アメリアは母に向かって頷こうとしたが、どうしても首が動かなかった。
代わりに彼女は「心配してくださってありがとう、お母様」とだけ言って、彼女の手を握っていた母の手を優しく解き、母に背を向けて自室に下がっていった。
母は娘のその背中をただ見つめていた。