13.【出題編】デヴァルー子爵夫人②
暫く事件について話した後、子爵夫人の提案で一同はデヴァルー子爵家の庭園を散歩することになった。
あいにく雨になりそうな曇り空だが、それがかえって暑さを和らげてくれていて都合が良かった。
アルバート卿がレディ同士のほうが密な話ができるだろうと気を遣ってミスター・グレイストーンの相手を引き受けてくれたので、アメリアは子爵夫人と一対一で話すことができた。
2人のレディは日傘を手に寄り添うように庭園を歩いていた。
「――では、レディ・メラヴェルには兄弟も姉妹もいらっしゃらないのね?」
「ええ、そうなんです。もし一人でもいたら私が単独で爵位を継ぐことにはなりませんでしたわ」
アメリアは日傘の蔭で少し笑って答えた。
爵位の継承条件によりけりだが、招集状によって創設されたメラヴェル男爵位の場合、アメリアに男性の兄弟がいれば彼らが優先されたはずだし、女性の姉妹がいれば爵位は共有される形になり単独で継承できず休止状態になったはずだ。
「確かにそうね。レディの身で男爵位をお継ぎになったなんてご苦労なさったでしょうね」
「ええ……」
アメリアは自分の足元を見た。
確かに昨年爵位を継承してから大変だった。
これまで知らなかった上流階級の社交――爵位に応じた呼び方、時と場合に合わせた服装、また、必須ではないもののできるだけ交友関係を広げるべく乗馬まで覚えた。
それから、領地経営も――未成年の今は主に母が代行しているが――あんなにやることが多いとは思わなかった。
「しかも、前々から予期していた継承ではなかったのでしたわね。それを思うと、あなたはテディと似ているわ」
「ミスター・グレイストーンと私が?」
アメリアは思わずそのヘーゼルの瞳を見開いた。
子爵夫人は頬に手を当てて頷く。
「あの子は本当は次男だったのですよ。でも、大学在学中に後継ぎだったお兄様が息子がいないまま急に亡くなってしまったものだから、急遽推定相続人になってしまったの。本当は数学者になりたかったのに……」
「そうでしたの……」
アメリア自身も法廷弁護士の娘として生まれ、そのように育っていくことを疑わなかったのに、遠縁のメラヴェル男爵家に不幸が続いたことから急遽男爵位を継承した身だ。
ミスター・グレイストーンは、跡取りとしての重責のみならず、兄という肉親を失った悲しみも背負ってしまったのだから完全に同じとは言えないが、アメリアにはいくらかは彼の気持ちがわかる気がした。
「とにかく推定相続人になったからには結婚しなければなりませんからね。大学に残るわけにもいかず、こうして日々社交に勤しんでいるのですわ」
子爵夫人は離れたところでアルバート卿と話しているミスター・グレイストーンを見つめた。
彼らは生垣を見ながら何事かを真剣に話している。
「私はあの子があの子の背負っている重荷を理解してくれるレディと結婚してくれることを願っていますの。私にできることはそのお嫁さん探しと財産を分けてあげることくらいね。私たち夫婦には子供がいませんから、爵位は夫の弟が継ぎますが、私の持参金はテディにあげても良いと夫のデヴァルー卿も言ってくれていますのよ」
「あら、ご実家の方はよろしいんですの?」
アメリアはできるだけ何気ない口調を装って聞いた。
立ち入り過ぎかもしれないが、子爵夫人と伯爵未亡人の背景が何か事件に関係している可能性もあると思ったのだ。
「ええ……お恥ずかしいことに准男爵家の実家はギャンブル漬けになった弟がすっかりだめにしてしまいました。両親も既に亡くなっていますから、私も妹も実家とは縁を切っていますの。それでも妹の方は私より気が優しいから……」
子爵夫人は日傘を一度回し、長いため息をついた。
「あの子ったら昔実家に迷い込んできた怪我をした猫を納屋でこっそり飼っていたこともあるくらいですのよ。自分のパンを少しとっておいてあげていたのね。私たちの母は猫がいるとくしゃみが止まらなくなるので飼うことができなかったのですが、それでも何とかしてやりたい気持ちがあったのでしょう。でも、結局は一人ではどうにもできず、猫は死んでしまいました……。猫はかわいそうですが、納屋に匿わなければ妹が傷つくことはなかったのにと私は思ってしまいますの……」
そこまで話して子爵夫人は急に口を噤んで誤魔化すように笑った。
「お聞き苦しい話をごめんなさいね。情けないわ。同じ弟でもミスター・レジナルド・シルヴァリーは堅実にお暮らしなのに……」
それを聞いたアメリアはふと気になったことを質問した。
「ミスター・シルヴァリーはご次男なのにご職業に就いていらっしゃらないのですね」
ウェクスフォード侯爵家のような大貴族ならいざ知らず、長男と違って大した財産を与えられない貴族の次男以下は、法律家や医師、軍人、聖職者などの専門職に就いて自活するのが一般的だ。
アメリアの曽祖父はメラヴェル男爵家の四男だったので、軍人としてキャリアを積んで活躍したと聞いている。
「ええ。先々代のシルヴァリー卿は投資で大成功なさった割に自分では財産をお使いにならなかったので、長男以外の姉弟にも相当な持参金と財産を持たせてやれたようですわ。さすがにウェクスフォード侯爵家の次三男方――ヘンリー卿やアルバート卿――のようにはいきませんけどね。慎ましく暮らしていればミスター・レジナルド・シルヴァリーもたとえ持参金のない奥様とご結婚されたとしたってご職業になど就かなくて済むはずよ。まあ、さすがに子々孫々とはいかず、彼の代までの話にはなるでしょうけど」
そこまで話すと子爵夫人は遠くを見つめた。
どうやら事件当日のことに思いを馳せているようだった。
「それにしても、ミスター・シルヴァリーもお可哀想だわ。シルヴァリー卿がお倒れになったとき、彼の手が震えていらっしゃったのを覚えているの。お二人は仲の良いご兄弟だったのですよ……」
そこで、ちょうど2人は薔薇の花壇の前で立ち止まっていたアルバート卿とミスター・グレイストーンと合流した。
アメリアはミスター・グレイストーンが「ああ、それなら良かった」とアルバート卿に言ったのを聞いたが、2人が何の話をしていたのかはわからなかった。
日傘越しに見上げるとアルバート卿の青みがかった灰色の瞳がアメリアを見つめていた。
アメリアは子爵夫人から必要な話は聞けたかと問われているのだと解釈し、彼に向かって頷いてみせたが、それだけではない気がした。
しかし、アルバート卿は何か言うこともなく、ただアメリアに頷き返して子爵夫人にそろそろ辞去する旨を切り出しただけだった。
***
彼らが室内に引き揚げてすぐに雨が降り始めた。
そこで、アメリアと主人に合流したミス・アンソン、アルバート卿はそれぞれの馬車や自動車を玄関前に付けてもらうことにし、暫し玄関ホールに待機していた。
同時に辞去することにしたミスター・グレイストーンは自分で自動車を運転して来ていたらしく、彼は2人を見送ってから帰ると言って同様に留まっていた。
見送りのため待機していた子爵家の執事が表の様子を見に行った隙にミスター・グレイストーンは2人に向かって声を潜めて切り出した。
「実は先ほどレディ・デヴァルーの手前言えなかったのですが……」
アメリアとアルバート卿は、やや彼に近寄って耳を傾ける。
「先ほどレディ・デヴァルーがおっしゃった通り、お茶会が始まって暫くすると彼女と私は窓際に移動したのですが、そのときレディ・シルヴァリーの訪問者が庭を通って玄関に向かっていくのを見たのです」
聞いていた2人は眉を寄せて顔を見合わせる。
先ほどレディ・デヴァルーはそのことに全く触れていなかった。
単に記憶になかっただけだろうか?
「どうもレディ・デヴァルーは敢えてこのことを黙っている気がしたのです。まさかシルヴァリー卿の死に直接関係しているとは思えませんが……何か引っかかって……」
ミスター・グレイストーンの口調には躊躇いが滲んでいる。
彼も親しい名付け親のレディ・デヴァルーを疑っているわけではないのだろう。
ただ、胸にしまっておけないほどに違和感があったということだ。
「それはどんな人物でした?」
アルバート卿が手袋をした手を顎に当てながら、鋭く尋ねた。
「遠目でしたが、赤毛の若い男でしたね。ダリアの赤と彼の赤毛を見ていて私は不動点についての証明のアイデアを思いついたのですから――」
アメリアとアルバート卿は思わず顔を見合わせた。
シルヴァリー伯爵未亡人はそのときの訪問者が誰だったかは「覚えていない」と言っていた。
それがまさか"赤毛の男"だったなんて。
ヘイスティングス警部が言っていた数年前からシルヴァリー伯爵未亡人を定期的に訪ねて来ていたという"赤毛の男"と同一人物だろうか。
ミスター・グレイストーンは一度言葉を切って額に手を当てて考え込んでいた。
アメリアは続きを待ったが、彼は暫く沈黙を続けていた。
まさか彼が数学の証明問題の方を考え始めてしまったのかと心配し始めた頃、彼はようやく我に返って話を再開した。
「今思い返してみると、レディ・デヴァルーはその男を見た後、レディ・シルヴァリーに何か目で合図をしているようでした……あれは一体なんだったのか……」
その言葉を聞いて、アメリアのヘーゼルの瞳に閃きが走った。
赤いダリアの庭を行く赤毛の男、視線を交わす姉妹、子爵家の応接間の隅の肖像画――。
アメリアは心の中で深く頷いた。
彼女の瞳を見ていたアルバート卿が訝しげな顔をしている。
「わかりましたわ。その方はきっと――」
アメリアが言いかけた――そのとき。
「メラヴェル男爵家の馬車が参りました」
外の様子を見に行っていた執事が戻って来てしまった。
アメリアは声を落としてアルバート卿とミスター・グレイストーンに「この話はまたいずれ」と伝え、辞去の挨拶をした。
2人の紳士はまるでわからないという顔をしながらも頷いてくれた。
そして、アメリアがミス・アンソンを伴って玄関を出ようとしたそのとき、ミスター・グレイストーンが彼女を呼び止めた。
「レディ・メラヴェル」
アメリアはまだ何か言い忘れたことでもあるのかしらと振り返って少し首を傾げた。
すると、意外にも彼は――。
「今度、あなたをお訪ねしてもよろしいですか?」
穏やかな笑顔でそう尋ねた。
社交界の常識に照らして解釈すれば、明らかに"求婚者"としての訪問の打診だった。
アメリアは一度瞬きしてから予め決めていたような言葉を返した。
「ええ、是非いらしてくださいな、ミスター・グレイストーン。母とお待ちしていますわ」
「毎週火曜日の午後を在宅日にしていますから」と付け足してアメリアは礼儀正しく微笑んだ。
自分の家と同等の家の推定相続人から訪問の申し出を受けた未婚のレディとして、この上なく正しい返答だった。
しかし、次の瞬間、アメリアは小さく息を呑んだ。
ミスター・グレイストーンの後ろに立っていたアルバート卿の青みがかった灰色の瞳に一瞬の揺らぎ――どこか迷子のような揺らぎ――が走ったのを見てしまったからだ。
ただ、その次の瞬間には、彼の瞳はいつも通りの平静さを取り戻していた。
アメリアは自分が何かを間違えた気がした。
今すぐ何かを訂正すべきだという思いに駆られた。
しかし、結局はどうすることもできず、何も気づかなかったふりをして、馬車に乗り込むしかなかった。