ひとりぼっちがとまらない
ひとりはさびしいし、それでも幸せになりたいよな、と過去の自分に言ってあげたい。
二十年経っても、同じ問いを前に僕は立ち尽くしているよ。
ごめんね、まだ決着をつけられていない。
「いいかげんに認めたらどうなんだ?」
「なにをだよ」
「君がひとりだってことをさ!」
そう、たとえば朝の教室なんかが、僕にとって苦々しいときがある。
がらりと戸を開けて僕が教室に入っていくとしよう、すばらしい朝の光が窓からさんさんとふりそそいでいる、ああ、きっと今日はいい日だ、そう思わせるような光だ。
さあ、そして、そこで僕は席につく。すっかりしたくも終わる、さあ、何をする!?
「………」
さあ、何をする!?
―――――――――――。
さあ、何をしようか。
ああ、もうこの時点で僕の心はかたむきはじめた、まっすぐに下のほうへ。
でも大丈夫、これくらいではなんということはない。目的を見失ってしまって、自分が何かすこし間違えてしまったような感じがしているだけだ。そう、たとえていうならば会社のために身をささげてきた企業戦士のおじさんが、会社が倒産してしまい、公園でぼんやりとたたずんでいるようなものなのだ。
だが大丈夫、そのおじさんは立派な企業戦士なのだ、全然平気だ、まったく問題はない、きっとそのおじさんは今までの仕事でつちかってきたノウハウや技術を活かして、次の職場へと進むだろう、そしてきっとそのおじさんは幸せになるだろう、僕にはわかる、わかっている、いや、正直に言おう、僕はそう願っている! そのとおり、願っているだけなのだ!
だが、大丈夫だ、冷静になればいい、落ち着け、落ち着くんだ、僕。
状況を冷静に分析するのだ、先生も言っている、いざというときには冷静になったものが生き残るのだ。
しかし、これはいざというときなのか?
いや、まあ、とにかく、冷静であるということは、適切な判断がくだせるということを意味する。
適切な判断。これこそ僕が今もっとも必要としているものではないのか。ああ、そのとおりだ、こいつは僕が今もっとも必要としているものだ。
さて、このどうしようもない孤独感をどうしてやろうか?
そのとき、僕の耳に女の子が楽しそうにおしゃべりをする声が聞こえてきた。
にこやかな談笑。笑い声。同意の声。あいづち。実に楽しそうな人たちだ。まるでこの世の悩みとは無縁なようなその様子に、いいなあって僕は思った。実際に彼女たちがこの世の悩みとは無縁なのかどうかは知らない。おそらく違うだろう。だけど、僕はいいなあって思った。
続いて男の子の声も聞こえてきた。女の子の声とくらべると落ち着いた声音だが、こう静かにものごとを楽しんでいるような声だ。会話は実になめらかに流れていき、会話している全員が満足しているように思えた。これは錯覚か? 実は彼らは満足していないのか? そうかもしれない。だが、僕にはそう見える。
そして僕にそう見えるということは、僕の気持ちを滅入らすのには十分だということだ。
なんか、みんなと僕との間に壁を感じてしまうな。こう、疎外感っていうんですか? つまり、なんだか、仲間はずれにあっているような意識だ。だが、実際はそんなことないはずだ、ちゃんと僕が話しかけたらみんなも答えてくれるはずだ。
だから、こう、ぴょこぴょこと僕が会話の輪の中に入っていって、「ねえ、なんの話をしているんだい? 僕も混ぜてくれよ」なんてことを言えばいいのだろうか。恥ずかしいな。抵抗があるな。
それに、彼らの会話の内容を聞くに、僕が入れるような話題ではなかった。そう、彼らの扱っている話題そのものがすでに僕の領域の外のものだった。話を振られてもしゃべることのできる話題ではなかったのだ。
じゃあ、相手がこっちにあわせるというのはどうだろう、なにか適当な話題をつけて、とつじょ、みなさんの会話に乱入するのだ。「やあ、みんな、さわやかな朝だね、すばらしい光だ、光といえば、光というのは波と粒子の二つの性質を持つらしいね、これは物理学だね、そういえば佐藤くん、物理の試験の点数は何点くらいだったのだい? ちなみに僕は赤点を取ってしまったよ、あっはっはっはっは!」
あっはっはっはっは!
駄目だ、全然駄目だ、思いっきり駄目だ。明らかに不自然だ、気まずい雰囲気が僕の周りをとりまくのは明らかに思える。いや、そうでもないのか? しかし、下手に相手の会話に加わって、相手の会話の流れを断ち切るというのは、いやなものだ。僕は相手を大事にする。相手のいやなことはしないつもりだ。
だいたい、自分がいやな人間であるというのは、実にいやなものだ。不愉快である。
自分がいやな人間であると思ってしまったら、きっとそこには自己否定が生まれる。そしてそれはつらいのだ。いやなやつの存在というのはただでさえ不愉快なのに、それが自分であるときたらもう、それはとびきりにつらいのだ。
ああ、だから、いやなやつにならないために、会話に参加するときはタイミングをはからなくてはならない。そうだ、そしてきっと今はその時期ではないのだ。だから僕は口を閉じる。
だけど、すると僕はひとりぼっちである。さみしい。しかし、だからといってどうなるというのだ。
話せばこのさみしさは消えるのか? そうかもしれない。しかし、どうなのだ。本質的なさみしさというのは消えないんじゃあないのか。僕らは実はずっとさみしくて、それを忘れるために話すのではないのか?
いや、ちがう、きっとちがう。僕らはさみしいと感じずに生きていくことができるはずなのだ。
だって僕はそういう風に生きていたように思うのだ。そんな覚えがあるのだ。
それとも、それは気のせいだっていうのか?
そのとき、一人の人物がこちらにやってきた。ああ、となりの席の子だ。
「おはよう」
にっこりと、精一杯のさわやかさを笑顔に浮かべて挨拶する。
「おはよう」
少し笑ってその子も挨拶を返してくれた。
コミュニケーション成立だ! 万歳!
少しだけ、さみしさがうすくなる。
よし、この調子でこのとなりの子としゃべってみよう、そう思った矢先だった。
「ねえ、あのさー」
うわあ、となりの子は、となりのとなりの子としゃべりはじめてしまった。残念。
そうなのだ、となりの子は、となりのとなりの子と仲良しなのだ。だから話すときに、僕よりもそっちを優先するのだ。すでにそっちのほうが親しいから、僕のほうなんてほうっておくのだ。
だが、そうだとするならば―――すでに自分にとってある程度親しい人が決まっているのならば―――そんな親しい人を決めておかなかった僕はどうなるのだ? つまり、いつも話す「グループ」のようなものを作らなかったなら、作らなかった人はどうなるのだ?
答えは簡単だ、僕のようになるのだ。きっとさみしくなっちゃうのだ。しかし、僕はグループは作りたくなかった。まあ、それも昔の話だ。いまや僕はすっかりさみしくなっちまって、グループどころかファミリーを作りたくなっているようなありさまなのだ。
しかしまあ、もはや僕に声をかけてくれる人もいるまい。いるまいが、もしかしたらいるかもしれない。
だから何もしないでおこう。そう、人は何かをしている人に対しては、それを邪魔しないように、しっかりした目的がないかぎり話しかけてこないものだから。
だから、僕は、頭の中で、けさ覚えてきた英単語を思い出していく。思い出せなかったら、すばやく目を手元の英単語帳に走らせる。しかしあくまで動作は暇人をよそおわなくてはならない。真剣に英単語を覚えているようなそぶりは決して見せてはならない。なぜならそんなことをしてしまったら、人が話し掛けてくるチャンスを逃してしまうだろうからだ。だから僕はゆったりとしたかまえで、ほおづえをつきながら、いかにも暇人といった風で、なおかつ英単語帳を広げながらしかもいつもはそれを見ないで、見るときはちらりとほんの3秒くらい見るにとどめるのだ。
しかしこの僕の涙ぐましい努力にもかかわらず、今朝はだれにも話しかけてはもらえなかった。残念。
つまり、僕はさみしいのだろうと、理解する。
とぼとぼと家へと帰りながら理解する。さっきまでは友達と話していた。
実に楽しい時間だった。しかしそれは終わりを告げた。そして僕は悲しくなった。
さっきまでがあんまりにも楽しかったから、落差が激しくて、僕は心の痛みにうめいた。
そう、もちあげられたあとで地面にたたきつけられたようなものなのだ。高くもちあげられればもちあげられるほど、たたきつけられたときの衝撃は大きい。
まるで花火大会。終わったあとの悲しみは大きい。あの独特のむなしさが今の僕の心にもただよっていた。
しかし、だったらどうすりゃいいんだ?
みんなと一緒にいたらそれはそれは楽しいんだけれど、別れたあとが苦しい。
そしてみんなと一緒にいないならいないで、そいつはかなりさびしい。
いずれにしても、きびしい。
つまり、永遠にみんなと一緒に、つながっている感じがあればいいのだろうか?
孤独感もなく、みんな一緒だよというような感じが僕をつつんでくれれば大丈夫なのだろうか?
そうかもしれない。あたたかい感じが僕をつつんでくれるなら、僕はとてもとても幸せに生きていけるのかもしれない。まあ、あくまでも仮説だが。
しかし、残念なことに、永遠にみんなと一緒に、なんてのは無理な相談ではないだろうか?
ずうっと、温かい感じにつつまれて、安心して生きていけるのだろうか? ずうっと幸せなままで?
生きていけるものなら、ぜひ僕はそういう生き方をしてみたい。永遠の幸せとは、なんと素敵だろうか。
しかし、実際のところは、僕は安心していない。不安である。不安な生活を送っている。
絶対に大丈夫なんてことはないという確信がある。だれが自分を不幸にするかもしれないということを僕は知っている。僕は安心してこの世界に身をまかせることなどできない。できはしない。
ああ、だけど―――この世界に身をまかせなくとも、安心することはできるんじゃないだろうか。
心の平安というやつは、きっと、手の届くところにあるんじゃないだろうか。
僕は、色々な考えが頭の中を走り回るのを感じて、ベッドに横になった。
色々な考えがぐるぐると回って、ちっともまとまらない。二律背反やら矛盾する感情やらアンビバレンスやらが堂々と存在している。
否定と肯定が同時に存在している。
まあ、いいか。 いや、そんなこと言ってはいけないのか。 いいのか。 いけないのか。
やれやれ。
こうじゃない気がするのだが。こんな風に考えることで僕は望むものが得られるのだろうか?
ひまつぶしとしてなら価値は十分にあるとは思うのだが、これは実際のところ有用なのか?
ここ数年、こんな考え事ばかりをしてきたように思うのだが、結果は出ていないぞ?
というか、有用かどうか考えることそれ自体がすでに、上記の考えと同じ穴のむじななのだろうか。
じゃあ、いったい、どうすりゃいいんだ。
自分で考えるしかないんだろうな、これも。ああ、もっと理性的に考えなくちゃならない。乱雑な思考をまとめなくてはならない。統一して、しっかりと考えるのだ。
まず、議題は何か。さみしさを止めようということだ。
方法は何か。簡単にいえば、人と話すことだ。なおかつ、その人とつながっている感じがないと駄目だ。
その人に対して、親しみをもてなくてはならない。そしてまたその話は面白くないといけない。
くわえて、その人が自分にも親しみをもてなくてはならない。そうすれば万事、問題ないはずだ。
さて、問題は? 山積みだ。
だいたい、こんなのは、自分の努力でどうにもならないのではないか? いや、もちろん努力をすればそれなりの成果が出るものではあるだろう、親しみをもたれるには、相手のことを思いやるとか、相手のいやなことをしないとか、そういう愛情と知恵が必要なわけで、それをしようという努力をしなくてはならない。
話を面白いようにするのも努力だ。努力して面白い話をしなくてはならない。
しかし、努力が実るとは限らない。それに、自分自身が相手に親しみを感じないかもしれない。
つまり、命中率は100パーセントではないというわけだ。にしたっても、こんな風にさみしいさみしいと気分が悪くなっているのがいつもならば、だんだんだんだん気分もおかしくなってくるようだ。
違う、この道は間違いだ。
いや、間違いじゃないかもしれない。
しかし、しかしだ、ああ、もうわけがわからなくなってきた。
こんなことを考えていても駄目だ、じゃあ何かするか? 誰かに会いに行くか?
おいおい、誰に会いにいくってんだよ、だれもいねえよ。
そうだ、外に出たとしても、きれいなお姉さんになんか会えっこないのだ、見ることはできるかもしれないが、会ってその人によって孤独がうまるほどの仲になるなんてこと、ありえないのだ。
外に出て、僕が出来ることといえば、外に出ることだけなのだ。目的のない外出が意味するものは、外出そのものでしかないということ、この悲劇を僕は知っているはずだ。
何をするでもなく外へ出ると、どこへも行くあてがなく街をさまようはめになる、そして結局のところ、心はからっぽのままで家に帰るのだ、本当は目的地が欲しかったのに。欲しいものが最初から存在していない外出、ただの悲劇だ。いや、もうここまでくると喜劇か? まあ、そんなに自分を笑うもんじゃないさ、そうだ、笑われるようなことなど何一つしていない。
ところで、たとえ誰かに出会えたとしても、その人が空の心を満たしてくれるか? いや、満たしてはくれないな。一時期は満たしてくれるかもしれない。だが、それは長続きしない。おい、だが待ってくれ、そんなことはすべてにあてはまるんじゃないか? あらゆるものは、一時的な満足しか味あわせてくれない、いや、というよりもすべてのものが一時的なのだ。
ということは、どういうことだ?
つまり、結論として、この問題はどうしようもないということでないのか?
すべては一時しのぎだ。永遠に満たされているなどという状態は、不可能ということではないのか。
ならば、僕はいったいどうすればいいんだ? いや、僕はいったいこうなったとき、何がしたいんだ?
一時的であろうとも、不愉快なことはいやなものだ。一時的であろうとも、愉快なことは楽しいものだ。
気分がさがったときは、あがる努力を。気分があがっているときには、さがらぬ努力を。
一事が万事という。一時が万事ということも、いえなくもないかもしれない。
僕らには、今しかないという意味において。僕らは、今がとても大事だという意味において。
なあ、でも、頼むから僕らを幸せにしてくれ。僕は幸せになりたい。