夜の散歩
自分なりにうまく書けた、と思った小説。
けっこう気に入っていたのを覚えている。
自分の書きたいものを書けたような感覚があった。
俺は家を飛び出した。
腕時計を見る。午後八時。
まだ、いくらか夜は明るい。
「やれやれ……」
思わず、ためいきをついた。
さきほどの親との会話を思い出す。
自分の食い扶持も稼げないようなやつが、生意気なことを言うな!
とか、なんとか。
やれやれ。そんなこと言われたら、あんまりにも事実すぎて、こちらは言う言葉が無くなる。
俺が養ってもらっているのは、確かなのだから。
いつもなら、その台詞で俺だって引き下がるのだけれど、今夜はそうはいかなかった。
精神が不安定だった、っていうのもあると思う。最近、不安定なのだ。
俺は、今までの経験から学んで、言おうと用意していた反撃の台詞を取り出した。
今は確かに養ってもらっているが、俺はまだ自分で自分を養えないのだからしかたない。
それに、俺はあなたのことを愛しているし、あなたは俺のことを愛しているだろう。
それならば、対等ではないか。
あなたには俺が必要で、俺にはあなたが必要だ。
だったら、いいじゃないか。対等なんだから、言いたいこと言って、いいじゃない。
とか、なんとか。
そしたらあの人は、別に愛してない、とか言いやがった。
ちょっとまずいよなあ。その台詞は。
感情が昂ったから、あんな台詞を吐いちまったんだろうが、ちょっとまずいぜ。
傷ついた。
さらに、あの人は、出て行け、とかなんとか言って、しょうがないから、出て行ってやった。
上着を羽織って、財布も持って、とりあえず愛用のナイフも持って。
いつもなら、我慢するんだけど、心が安定していなかったから、外に出られたんだろう。
感情が不安定だったから、大それたことができるようになっていたんだと思う。
そういう風なことができる心になっていたのだ。すぐにまた変化すると思うけど。
で、俺は、夜になった外界にいるわけだ。
しかしこれからどうしよう。
別に行きたいところは無いが、家に戻るのも嫌だ。
まいったな。まるで、人生みたいだ。
とりあえず、歩いてみた。
アスファルトに俺の足音が響く。
アスファルト。
そうだ、俺が踏んでいるこの材質は、確かにアスファルトと言うんだ。
久しぶりに意識した単語だ。いつもはアスファルトなんて意識しないもんな。
ちょっと公園に行ってみようか。
そう、思った。そこで俺は思い出す。
そうだ、自転車だ。
あいつをすっかり忘れていたぜ。
俺の愛車。俺の相棒。
こいつさえあれば、けっこうな道のりだって何のそのだ。
取り出して、またがる。
さて、どこに行こうか。って、公園だったな。
しゃああああ………と小気味良い音を立てて、夜の街を俺と俺の自転車が駆ける。
「参ってしまうな~参ってしまうぞ~参ってしまうぜ~いえぇぇ~フゥー!」
馬鹿げた言葉を節をつけて歌ってみた。
あまりにも馬鹿げているように思えて、大声を出すのは恥ずかしかったので、小声で歌った。
だけど、ちょっと心が軽くなった。
ひとつ、学習。
口に出すと、心にちょっとは影響するらしい。
公園に着いた。
そういえば、暴走族の溜まり場になっているとかいないとか。
………まずいなあ。
痛いのは好きじゃない、ってか嫌い。
あんまり危ない人たちとは関わり合いになりたくない。
あくまでうわさの範囲で、その真偽を確かめたわけじゃないから、もしかしたらここには危ない人は来ないのかもしれないけれど、念には念を。
俺だって怖いのは嫌だ。これでも人並みに臆病だ。
だから、用心して、早めに退散することに決めた。
街灯が公園を照らしている。
俺はちょっとスポットライトに当たっている俳優の気分になった。
ちょっと、機嫌がよくなった。
――――さて。いつまでもじっとしているわけにはいかない。
怖い人たちが来る前に、さっさと移動しよう。
夜の街は、なんだか神秘的な感じがする。
いつもと違う、不思議な感じ。
そして、今、俺は自転車だ。
ちょっと速い。だから、まるで誰も俺を止められないかのような錯覚を受ける。
俺が自分から止まらないかぎり、誰も俺を止められないぜ!みたいな感覚。
そういう、錯覚。
俺は止まった。
一応、自分の意志だが、目の前の信号が赤だったからだ。
だから、こういう場合は、赤信号が俺を止めたということになると思う。
ほら、やっぱり錯覚だった。
俺を止めることのできるものなんて、きっとこの世界に吐いて捨てるほどいるに違いない。
ちょっと、気が滅入るような、安心するような、そんな感じがした。
赤から青になったので、進む。
あんまり人はいない。やっぱり、夜だしな。
本屋が見えた。
一応、自転車にかごはついている。本を買っても入れられる。
ちょっと、入ってみるか。
ひさしぶりだ。
最近、本屋にはめっきり来ていなかった。
ちょっとした懐かしさと、昔感じたわくわくが、俺の心に押し寄せた。
ここは、たくさんの世界の溜まり場だ。たくさんの世界があちこちに顔を覗かせている。
その気になれば扉を開けて、世界の中に飛び込める。
ちらり、と、本の宣伝のチラシが目に入った。
本屋だから、話題の本とかの宣伝が貼ってあるのは当然なんだけれど。
それは、俺を、白けさせた。
広告は、美辞麗句のカーニヴァルだ。
だけれど、やたらと宣伝しているそのさまは、少し見苦しい。
そもそも、本という世界は、そんな言葉ごときで表せられるほど、単純でないと思う。
いや、本だけじゃなくて、人とか、そういう『世界』すべてにいえることだと思っているんだけど。
だから、購買意欲が、ガクンと下がる。
本来の意図とは違った効果を、俺にもたらす。
まあ、俺が広告を見たときには、よく思うことなんだけどね。
俺の購買意欲が低下しても、より多くの人間の購買意欲が上がれば、それはそれでいいんだろう。
と、一応それっぽい理論を組み立ててみたが、自分がなんでこの広告を見て不快なのか、完全に言葉で表せたわけじゃない。
だいたい、こんな感じの理由なんだけど、実際は、もうちょっと複雑だ。
まとまった言葉で表せない感じ。
もどかしいな。
しばらく、本屋の中をうろついていると、気分が悪くなってきた。
あまりにもここは、世界が多すぎる。あまりにもたくさんの世界が口を開けている。
正直、あんまり今は、『世界』のことを、知りたくない。
人の意見も、人の理論も、正直な話、今は、聞きたくない。
だから、俺は、本屋を出た。
自転車にまたがって、夜の街を走る。
ふと、さっきの言葉が思い浮かんできて、色々考えてしまった。
『自分の食い扶持も稼げないものが生意気なことを言うな!』といった例の台詞。
今、夜の街に出てみて、気づいた。
俺が出て行ったところで、あの人死なないじゃん。
逆だったらどうだろう?
俺はあの人に養ってもらっている。そこであの人が出て行ったら?
ちょっと、そうなったら俺、まずくない?
俺が出て行ったところで、あの人は生きていけるけど、その逆だったら俺は死んじまう。
あの人は、俺の生命線を握っているわけだ。
おお、これは改めて実感すると、なかなかに面白い発見だ。
どうりであんなに偉そうだと思ったのだ。生命線を握られているんだ、どうりでそういうわけだ。
社長と会社員だったら、社長としては、会社員が全員消えたら社長は死ぬだろう。
こういう場合、会社員は社長の生命線をにぎっている。昔で言うなら、王様と農民ってとこだ。
王様の方が偉そうだが、実のところ、その王様の生命線を握っているのは、年貢を納めている農民なのだ。
だけど、大人と子供は?大人の方が偉そうで、その実、子供の生命線を握っているのは大人なのだ。
うわあ………なんていうのか、これはかなり、まずい展開だ。
俺がこのまま夜の街をふらついていたって、別段、あの人は死にはしない。
まあ、俺が死んだりしたら、警察沙汰にはなるだろうけど。
でも、でもなあ。俺は死にたくないわけだ。すると、必然的にあの人のもとに戻らなくてはいけない。
ちょっと、逃げ場が無い、ってやつですか?
俺はあの人を(基本的には)好きで、あの人も俺のことを(基本的には)好きだから、対等だと思っていたけれど。
いや、実際は対等なのかもしれないが、理論的に見ると、全然対等じゃない。
俺はあの人がいなかったら死んでしまう。肉体的に、死んでしまう。
「………参ったなあ。お手上げってやつですか」
ひとり、夜につぶやく。
だけど、やっぱり俺は帰りたくなかった。
ポケットの中のナイフをもてあそぶ。
別に死にたくは無い。だけど、別に死んだっていいかな、と思えた。
でも、きっとナイフで死ぬと痛いに違いない。
ピストルだったら一瞬だろうけど。
だから、死ぬのはやめにした。
とりあえず、走ろう。――――どこに行くのか、あてなんてないけど。
けっこう走った。
孤独な走りだった。ライトを点けて、車輪の音を響かせて、俺は走った。
誰も俺に声をかけない。俺は誰かに声をかけたい気がするのだけれど、みんなよそよそしくて、声をかける勇気が俺には出せなかった。
そのとき、前方から、誰か来た。
ちらり、と顔を見て驚いた。俺の知っている人だった。
「よう」
とりあえず、声をかけた。
「こんばんわ」
夜としてはふさわしい、なかなかに洒落た挨拶だった。
「なんでこんな時間に?」
「塾だよ、塾。そっちこそ、なんで?」
塾、か。俺も、行かされている。
「塾か………大変だな。で、俺のほうは、夜の散歩、ってところ」
「ふうん……変なの」
変なの、か。なかなか、悪くないほめ言葉。
「まあ、変だけど、素敵だね」
「ありがと」
じゃあな、じゃあね、と声をかけあって、俺たちは別れた。
心がはずむ。
会おうと思いもしなかった人に出会ったからだ。
いや、もちろん、会おうと思いもしなかった人に会って、気分が悪くなるときもあるけど、それはその人がそのときは気分を悪くさせる人だった、ってだけの話だ。
さっき会った人は、俺の気分を良くしてくれた。
心をはずませてくれた。
ありがとう。
心の中でつぶやいて、俺は家に帰ることにした。
「………さて」
しばらくすると、はずんでいた心は、しぼんでしまった。
しぼんだ、っていうより、効果が消えた、というか。
時間が経ってしまったからだろう。家の前まで来て、自転車も置いたにも関わらず、家に入りたくなくなっている自分がいる。
「ま、いいか」
何がいいんだかよくわからないが、とりあえずしばらくぶらつくことにする。
そうだ。トイレをしよう。お手洗いに行こう。
公園まで行く。どうやら、危ない人はいないようだ。
用を済ませて、外に出た。ハンカチを忘れてしまったので、洗った手が水に濡れている。
まあ、いいか。大したことじゃない。
ふと、上を見上げた。月がきれいだった。
自転車が無くなったので、ゆったりとして世界が動いてゆく。
まあ、こういうのも悪くない。
色々と空想をめぐらせる。色々なことを考える。
たとえば、後ろから誰かがやってきて、刺されたら死ぬな、とか。
今、前から自転車がやってきて、通り過ぎていったけど、『すれ違いざま斬られるかもしれない』とか。
かわいい女の子が夜道で倒れていて、その子を助けて、かっこいい英雄になれたらいいだろうな、とか。
ポケットにあるナイフをさわりながら、自分が強くなったように感じられたり。
このナイフ一本で世界を変えられたら。とも思ったり。
このナイフで、誰かきれいな女の人を斬る想像をしてみたり。まあ、これは想像だから楽しいんだろう。きっと実際は俺のひどく望まないことに違いない。
勝手に頭の中でお話を作って楽しんでみたり、昔聴いた曲を頭の中で流してみたり、今日見た夢を色々考察してみたり、作り変えてみたり、その夢の続きを想像してみたり。
なかなかに楽しい、夜の散歩。
だけど、ふと我に返ると、悲しいくらいの夜が、俺を待っていた。
遠くに車の音がする。
誰も俺を助けてくれない気がした。
この世の中に救いが無い気がした。
だけど、それはただの勘違いや気のせいで、どこかに解決策が転がっているのかもしれない。
理論上は、そうだろう?
けれども、やっぱり、絶望的なこの気分は、そんな理論じゃ払拭できない。
それにその理論だって、どこか大事なところが抜けているのかもしれないし。
と、考えると、永遠のいたちごっこが始まってしまう。
その理論がどこか抜けているという理論は、やっぱり何か抜けているのか。といった類の。
まったく。世の中、複雑すぎて、わからない。
だからまた、頭の中で色々考える。
こうやって考えていること、外に吐き出したら、気持ちいいかな、と、ふとひらめいた。
もう、本も読む気が無くて、人の意見も聞きたくなくて、つまり俺は、もう食べたくないんだろう。
お腹が空いていないのだ。
そのかわり、なにか出したい気持ちだ。吐き出したい。外へ、出したい。
それは、案外に、存外に、素敵な思いつき、素晴らしいひらめきのような気がした。
その素敵な思いつきを心の中で転がしていると、ふと、疲れた。
どうやら、疲れがたまっていたみたいだ。まあ、ずいぶん動いていたから。
頭も疲れてあんまりよく回らなくなってきている。疲労で頭が使えなくなるっていうのは悲しいと思った。
それにしても、人生に疲れた。
ひどく生きにくい。いやなことが目の前に山積みだ。
そんなことを、思ってしまった。疲れがたまって、人生への疲れに昇華された。
ナイフを取り出して、刃を出した。ぎらり、と鈍く光る。
さっさと死んでしまいたくなった。そして、あることに気が付いた。
俺が死んだところで、まったくどうでもいいくらい、なんともないんだってこと。
俺が死んだところで、人類には関係が無い。彼らとしちゃ、弱者が死んでくれて、強い種だけが残ってくれてありがとう、って具合だ。
社会にも同様にまったく関係が無い。俺抜きだって、社会は動いていく。
どこかの俺と同じくらいの年の人にだって関係が無い。その人の生活は、元から俺なしで成り立っていたのだから、今までどおりに何の変わりも無く回っていく。
そいつは、かなり、悲しく、さみしく、さびしい、ひどい、話だった。
ああ、でも。俺のまわりの誰かなら、悲しんでくれるかな?
俺の周りの、ほんの小さな世界なら、影響があるかな?
そうだったら、いいな、と思った。
しばらく行くと、信号にぶちあたった。
赤信号。ぼんやりとボタンを眺める。
暇なので、考え事でもしてみる。
俺は勉強をしている。それは、死ぬまで永遠に続く課題の一こまだ。
学生は勉強をするものだ。そして、勉強の成績がよければ、経済的に苦しくても奨学金がもらえたりする。
ちなみに、俺が今、親に死なれたら、まず奨学金などもらえない。
そんな成績ではない。じゃあ、成績を上げるかといわれたら、やる気が出ない。
そんなにがんばるだなんて、なんかいやだ。じゃあ、親が死んだらどうするの?
と言われたら、どうしようもない。俺も死ぬ?ちょっといやだ。いや、別にいいような気もするが。
だけどなあ。死ぬのは意外とむずかしい。あっさりと人間死んでしまうくせに、なかなかどうして死ににくい。
人の命なんてあっけないものだとはよく言われるし、そうと思うけれども、それでもなぜだかそう簡単には死ねない。
まあ、わかりやすく言うと、死ににくく死にやすい。死にやすく死ににくい。
思っているほどしぶとくないが、思っているほどくたばらない。そんなところだ。
という感想なわけだが、もし俺が今、勉強しなかったらどうなるんだろう?
実は、これはけっこう考えてきたことなのだ。勉強を放棄したら、試験の点数はきっとひどいものになるだろう。
じゃあ、将来はどうなるんだろう?そう、それが心配だ。
勉強という現在の課題を投げ出したら、一体、俺はどうなるんだろう?俺の将来はどうなるんだろう?
大人の場合だったら簡単だ。仕事という現在の課題を投げ出したら職が消えて、ちょっとやばいことになるだろう。
だけど、子供はどうなんだろう。勉強を投げ出したって、きっと今は死なない。
………でも、未来においてはどうだろう?投げ出したツケ、ってやつが回ってくるんじゃないだろうか。
そして、俺が怖いのは、そのツケが回ってきたらどうなるのか、ってことだ。
やっぱり、死ぬ………しかない、のか?
ということは。導き出される結論は。
俺たちは死ぬまで現在の課題を続けて、歯車を回して、それを死ぬまで続けないといけないわけだ。
まるで俺たちの心臓みたいだ。休むことはすなわち死を意味する。
だが、心臓とちょっと違うのは、現在の課題をするのをちょっと止めたって、すぐに死ぬわけじゃないってことだ。
ある意味、もっといやかもしれない。じわりじわりと、死んでいく感じがして。
それがいやなら、動き続けるしかないのか……動けなくなるまで。
なんだかそいつは大変な気がした。生きていくって大変だ。
立ち止まったら殺される。だから動けよ、動けなくなるまで!
そういうことらしいぜ。
だけど、たまには眠りたいんだがな。
それにしても、なかなか青にならない信号だ。
そう思って、じっ……とあたりをよく見てみる。
あ。と思わず言いそうになった。「押ボタン式」の文字が俺の目に飛び込んできたからだ。
俺は恥ずかしくなってきびすを返した。
そこで、ふと思い出したことがあって、また引き返した。
俺がさっき立っていた場所の前には押しボタンがあった。
思い出したこと、というのは、確かに俺はこのボタンを見ていた、ということ。
そして、思うことは、俺はこのボタンを見ていたにも関わらず、この信号が押しボタン式だと気づかなかったということ。
見ているにも関わらず、その見ているものの示す意味が、わからない。
これは、なかなかに哲学的な結論だ。
さっき、押ボタン式だと気づかず立っていたから、少し恥ずかしかったが、勇気を出してボタンを押した。
ただ立っていただけですよ然として、このままきびすを返したら、恥ずかしくはないだろうけど。
でも、恥ずかしくって逃げるのは、なんだか癪に障ったから、勇気をだしてボタンを押した。
赤から青へ。
俺は足を踏み出して、横断歩道を横切った。
車を止めさせて悠々と横断歩道を横切っている気がした。
それにより、ちょっとした優越感と、ちょっとした罪悪感があった。
だけど、どうってことなかった。
そろそろ、帰ろうか、と思う。
心配させるのも、なんだしな。俺は、家の方へと歩を向けた。
帰ったって何が待っている、ってわけでもないけど。
人生、今出来る精一杯をやっていれば、まあ、大丈夫だろう。
やる気が出ないときは出ないときなりに、出るときは出るときなりにやっていれば、きっと。
―――きっと、生き延びることができるさ。
別に生き延びることなんかに意味はないような気もするが。
だけど、死ぬことにだって同様に意味はないような気がする。
だったら、別にどっちだっていいし、死ぬ方が生きるのよりも、今は面倒だ。
今は生きているのだから、流れにまかせれば生きることになる。
死ぬっていうのはその流れに逆らうことだから、ある程度エネルギーが要るだろう。
俺にはそんなものは無い。あったら、そのときは死んだっていい。
ふと、昔、どこかで知ったフレーズが頭に浮かんだ。
『人生、生きる価値なんて無い。だが、戦う価値ならある』
………さて、戦う価値もあるのかどうか。
だけれど、きっと、この世界は戦場だ。いつまでたっても終わりそうに無い戦場だ。
きっと、俺が生きている間は戦場だろう。生き物がこの世界にいる限り、きっとここは戦場だ。
だからどうってわけじゃないけれど、笑ってやることにした。
ふと、我に返って、足を止めた。
俺しかいない横断歩道。
俺の前の信号機は赤。
記憶を振り返ってみると、青が点滅して赤になり、なのに俺は歩を進めたのだ。
うむ、どうやらさっきの押ボタン式信号機の二の舞のようだ。
見えているのに、その意味がわからない。
それに、考え事をしていたのもよくなかったか。
『さうだ、あんまり自分のことばかり考へてゐた、四辺は洞のやうに暗い』
若山牧水、とかいう詩人の詩が、ふと頭に浮かんできた。
だいたいこれくらいの思考や情報が約一秒間で飛ぶように頭に現れた。
まあ、人間、いざってときにはたくさんのことを同時に考えられたり、とらえきれないが感覚的に色々やっちまう、ってことはあるからな。
音がして、右を見ると、トラックがあった。
死んだな。
仕方がないので、笑ってやった。
トラックの運転手さんが、びっくりしたような顔をしていたので、その気持ちをやわらげる、という意味もこめた。
でも、大半は、自分のために、笑ってやったのだ。
さて。自転車を置いてきて良かったぜ。
歩きなら、加速するのに時間はかからない。
さあ、生き残るために走り出そう。
だって、俺はまだ死んでないんだから。
だから、俺はぐっと足に力をこめて前方に走り出した。
右からやってくる衝撃から逃れ出るために。
俺はまだ死にたくない。生き延びてやるさ。
だから、やっぱり、俺は、笑えてきた。
あとがき
どうも、らむねです。短編です。あんまり長いの書けません。
「夜の散歩」、いかがだったでしょうか。
昔、友人と作ろうとしたゲームの題名も「夜の散歩」でした。
………ちなみに、シナリオ担当のぼくの修行不足で、シナリオが書きあがらず計画倒れでした。
友よ、すまない。やる気は一応あったのだが。
それにしても、昔と比べるとそれなりにぼくは上達したような気がします。
なんといっても、書きあがるところが。
………駄目駄目ライターと呼んで下さい。
でも、まあ、雰囲気としては自分の頭の中にあるものをある程度、具現化できたのではないかと思います。
これを読んだ人が、「ん、まあ、いいんじゃな~い?」とでも思ってくれましたなら、作者としてはうれしい限りです。
ちなみに、作者の頭の中では、この主人公、死んでません。
主人公が横断歩道に出たタイミングが点滅から赤に変わったときですから、まだトラックはあまり加速しておりませぬ。
だけれどもぶつからないかといえば、「否」とは、はっきり言えない状況。
まあ、作者らむねは、作中で人を殺すのは趣味でも主義でもないので、死んでないったら死んでないんです。
彼は、生き残ります。
作者がこう書いた限り、これは事実です。
それではみなさま、ごきげんよう。
『ここは、救いの無い戦場だ。―――だから、あえて笑ってやろう』
2005年3月9日水曜日 らむね
2005年3月24日木曜日 少し加筆修正。
2005年7月1日金曜日 少し修正。