さつきがたり
さつきがたり
「天国に行ったら、耳が聞こえるようになっているといいな」 ベートーヴェン
綾瀬透は、夜汽車の中で、ゆっくりとゆられていた。
くらやみが、彼の横の窓を、べったりとぬりつぶしていた。気持ち悪いと彼は思った。
とうとう、三十五才をすぎてしまったな。
透は考える。結婚もしていない。子供もいない。さらに、会社はもうすぐやめねばならない。
どうも透の勤める会社は業績がかんばしくなく、リストラクチャリングをおこなっていたのだ。
平均より少し下ぐらいの成績で、結婚もしていなくて、子供もいない透は、格好のリストラ対象だった。
透はこの列車に乗る前に見た青空のことを思い出していた。
公園のベンチにすわって、青い空を見ていた。とてもきれいだった。そして、風もとてもすがすがしかった。五月の風というのは、透のお気に入りなのだ。空気のにおいも、光の加減も、色のあざやかさも、なにもかもが、とてもすばらしい景色だった。まるで、どこかすてきな場所にいけるような気が、透にはした。
ずっと昔から、そういう風景を見ると、まるでどこかすてきな場所にいけるかのように、透には思えるのだった。しかし、どうすればそこにたどりつけるのか、さっぱり、いきかたがわからないのだ。
列車に乗る前、自販機でジュースを買った。はちみつを使ったさわやかで甘い飲み物だった。とてもおいしいレモネードのような。
コーヒーも一緒に売っていた。だが、透は買わなかった。苦いのは好きではなかった。
はちみつの飲み物は、とてもおいしかった。
人生も、コーヒーのように苦いのではなく、このようにさわやかで甘いものならばよかったな。
思わず、そう思ってしまう。別に、苦いというほど苦くはないのかもしれない。しかし、どこかボタンをかけちがえたような気がする。こんなはずではなかったと思う。
しかし、やれることは全部やってきたつもりだ。ただ、ことごとく結果は駄目だったが。
それとも、自分の心を変える努力をしなくてはいけなかったのだろうか。しかし、大事な部分を変えることを、透はしたくなかった。
横滑りする暗闇を見て、どうしようもないさみしさがこみあげてきた。
昔からそうなのだ。どうも、旅というのは苦手だ。家族くらいに親しい人と一緒じゃないと、さみしさがこみあげてくる。まるで、世界でひとりぼっち、おきざりにされたような感じ。
他の乗客の様子を見る。
新聞を読んでいるもの、寝ているもの、ゲームをしているもの、さまざまだ。
だが、だれひとりとして透に声をかけるものはいない。親しげな会話をかわすこともない。
さみしさをうめてくれるような人は、この列車には乗っていない。
ぞくぞくと、悪寒がたちのぼってきた。こういう気持ちになると、きまって悪寒がたちのぼってくるのだ。体がだんだん冷えてくるような感覚がそれにつづく。呼吸も、大きくなる。
体中からゆっくりと力が抜けてくるようだ。
だれか、あたためてほしい。
そんなことを思った。そんなこと、今までもずっと思っていた。そして一度もかなえられなかった。
透は、目を閉じた。ねむろう。きっと、目が覚めたら気分もよくなっている。
透は駅についた。まるで、夢からさめたかのような感覚。なつかしい景色が彼をむかえてくれた。
てきぱきと構内を歩く。そのとき、視界のはじに、男の子が見えた。
その子は、壁によしかかっていた。そして、しきりに腕で目をこすっていた。こすっては、顔をあげ、しきりにたくさんの人の中を見ていた。まるで、その中に求める人がいるかのように。
涙が出ているのに、大声で泣かないのか。
なにか、その男の子には、透の胸をうつものがあった。
ゆっくりとその男の子に近づく。
「人探しかい? お母さん?」
びくっ、と男の子は透を見た。透はにっこりと笑った。あの、笑顔で。
「あやしいもんじゃないよ。人を探しているなら、駅員さんを呼んであげようか?」
呼んであげようか、とは、また見下した言い方かもしれないなと思った。呼ぼうか、がより適切か。
「お母さんを、探してるの」
かすれた声でいった。涙をこらえている声だった。泣く前に出るあの独特のかすれた声だった。
しかし、彼は、泣かない。
「そっか。じゃあ、ここで待っててくれよ。いま、呼んでくるから。知らないおじさんについてっちゃだめだぞ」
「おじさんが、知らないおじさんだよ」
するどいつっこみだった。
「まったくだ」
にやり、と思わず透は笑った。こんな風に笑ったのは、ずいぶんとひさしぶりな気がした。
人ごみをかきわけ、駅員さんを見つける。そして事情を話して、男の子のところへ連れてきた。
男の子は、まだ腕で目をこすりこすり、人ごみをじっと見ていた。必死に見ていた。
「駅員さんを、連れてきたよ」
「あ、知らないおじさん」
透を見て、さきほどの男の子は言った。笑いさえした。いい笑顔だった。
もう、この時点では「知らないおじさん」は、実際のところすでに知られているおじさんを意味するという、かなり知的な事実が、透にはすこしおかしかった。
「ようし、じゃあ、放送かけてやるからなー、きっとすぐにお母さん見つかるぞー」
中年くらいの駅員さんは、男の子をだっこした。
「それでは、僕はこれで。ぼうや、これから誰かとはぐれることがあったら、駅員さんなんかに助けを求めて、放送をいれてもらうんだよ」
「うん。わかった」
男の子はこっくりとうなずいた。
透は歩きはじめる。後ろから声がやってきた。
「ありがとう」
男の子が笑って、手を振っていた。
透も笑い返した。同じように、手を振り返した。じゃあね。
「どういたしまして」
そうして、透は歩き出した。
しばらくすると、放送が構内に響き始めた。
「迷子のご案内です―――の男の子が―――ただいま、――にてお母さんをお待ちです―――――」
男の子のお母さんが見つかるといいな。きっと見つかるさ。
五月の風が構内にも吹いてきていた。あのかおり、ひかり、いろあい。今なら、今度こそ、素敵などこかにいけそうな気がした。また駄目かもしれない。しかし、それでも。
さっきの男の子が、心の中にうかんできた。今にも泣き出しそうなのに、泣かないで、腕でしきりに泣かないように目をこすりながら、必死でたくさんの人々の中からお母さんを探し出そうとしていた男の子。
透は、自分とかさねた。今にもくじけそうなのに、必死で何かを探している自分に。
空がとても青かった。そして、世界のどこでも、太陽があれば、空は青いのだ。
僕は、深呼吸する。行くときに買ったあの飲み物をまた買った。はちみつの甘さとれもんのさわやかさが、とてもおいしい。空を見ると、とても青い。
言葉にできない思いがあふれてきた。のどまで出かかって何かの形をとろうとしているそれを、あのとてもおいしい飲み物でのどの奥へと押し戻し、体中に満たす。飲み終わった缶をごみばこに捨てた。
何気なく、顔を上げた。女の人と、男の子が、手をつないで歩いていた。とても幸せそうだった。
あの、男の子だった。目があう。にっこりと笑ってきたから、僕も笑い返した。
見つかってよかった。僕も、見つかるといいな。




