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二段ベッド

これを書いていたころは、HTMLがまだ現役であり、メモ帳からHTMLファイルに「ファイルの名前を変更」して、変換していた。

このファイルの名前は、[salvage]である。





 それはなかなかに涼しい夜だった。まだ九月のはじめだってのに、こんなに涼しいなんて、今年の冬はどうなるんだろうと思った。窓は開けちゃいなかったが、廊下に面したドアが開いていて、それだけでもかなり涼しかった。

 僕は昼間、けっこう寝たから、まだあまり眠くはなかった。最近、よく眠ってしまうのだ。眠ってしまう、というよりは、起きているのがつらい、というほうが適切な表現だと思うが。しばらく勉強なんかをしていると、だんだん勉強をするのがつらくなってきて、勉強をやめる。やめるのだが、別にしたいこともないので、ちょっとぼんやりする。ぼんやりするのもなんだか面白くない。寝転がりたくなる。別に他にしたいことなどない。横になると、いい気持ち。色々考えながら眠りに落ちる。運がよければ面白い夢が見られる。

 こんなところだろうか? 僕はこんな生活を、最近送っているのだ。夏休み中、こんな感じだ。はっきり言って、自分ではかなり「終わってる」生活だと思う。勉強、やんなくちゃなあとは思うし、だからちょっとだけあせったりもする。こんな生活、どちらかといえばやめたほうがいいんだろうなあとは思うんだ。

しかし、実際のところ、勉強やんなくちゃなあなんて気持ちがなければ、それほど悪くない生活だとは、思っているのだ。それほど悪くない、確かに。しかし、やっぱりそれでも、なにかがちょっとだけ欠けている気はした。そんなもの、気にしなければどうってことないレベルの、実にささやかなものなんだけど。

ただ、気になるといえば、気になるレベルなのだ。微妙なとこなのだ。

 とりあえず、こんな感じが最近の生活なのだった。

ところで、今日は、兄さんが大学から帰ってきていて、僕の部屋にいる。

いつもは一方が空の二段ベッドも、今夜は昔みたいに、二つとも詰まることになるだろう。

 そして兄さんは、僕のPCでアダルトサイトの無料配信動画を見ていた。

ここに未成年がいることなんておかまいなしだ。とはいえ、音はイヤホンから流れて兄さんの耳へと入っていくので、そこまで気になるってもんでもない。自分のやっていることに集中していれば、全然どうってことない領域。そして、むしろ僕が気になっているのは、動画ではなく、兄さんだった。

「ねえ、兄さん」

「なにかな」

 落ち着いた声で答え、動画のウィンドウを閉じ、アダルトサイトのウィンドウを最小化、そしてイヤホンを外した兄がこっちをむいた。

「兄さんがアダルトサイトを見ているってこと自体がけっこう意外なんだけどさ。それ以前に、全然興奮していないんじゃない? 見てても体に特に変化はないみたいだし、それに何もする気配ないし」

「体に変化はない、なんて、いったいどこ見ているんだい」

「ないしょ」

 うっすらと、兄さんは笑った。

「まあ、確かに興奮はしていない。というより、できてないって言ったほうがいいかな」

「なんでよ」

「なんでだろうなあ。なんでだか知らないけど、見ていても全然興奮しないんだ。ふうん、やってるね、ぐらいの感想しかわかなくってさあ。まるで授業を聞いているみたいな感じなんだよ。なんか、ただ目の前を風景が流れるように動画が流れるんだ。ただ、見ていて面白いといえば面白いよ。こんな気持ちになったのは人生で初めてだよ。アダルトビデオを興奮をはぎとって見ると、こういう風に見えるのかという新発見があったね」

「それってもしかして、不健康なんじゃない?」

「かもね。精液もここ数週間、出してないし。出す気にとくになれないんだけどさ」

「ってことは数週間前からその状態なわけ?」

「うん。あ、ちなみに精液は体の外に出さなくても、体内で分解されるから大丈夫」

「よく知ってるね」

「本で読んだから」

 兄さんは、けっこうな読書家なのだった。なおかつ読む範囲も幅広い。

「にしても、兄さんの心の健康が心配なんだけど」

「たぶん、大丈夫じゃないかな。そこまでやばそうな感じはしない。つらくはないんだ。むしろ落ち着いている。淡々としている気持ちかな。今のところ、体に不調も出てない」

「それなら、いいけど」

 兄さんは、履歴から成人向けのサイトのアクセス記録を削除し、サーチエンジンの検索ワードの履歴も、成人用のものは削除した。そしてPCをシャットダウンした。

「まあ、安心してくれよ。たぶん、そんなにやばいことになっているわけじゃない。人生には色々あるからさ、たぶんその相互作用かなんかでこんなことになってるんじゃないかね。まあ、よくわからないけど。でも、別に不自由もしてないし、体の不調も感じていないから、大丈夫だと思う。むしろ、すがすがしいよ」

 僕を安心させるためだろうか、さらに説明を兄さんはしてくれた。

「じゃ、そろそろ寝ようぜ。上か下か、どっちがいい?」

「いつも好きなほうで寝てるから、兄さんが決めてよ」

「そうだな、じゃあ、やっぱり上かな」

「言うと思った」

 二段ベッドの上と下が選べるとき、下を選ぶ人はいるのだろうか? 僕は全人類の統計をとったわけじゃないから、よくわからないけど、僕ならまず間違いなく上を選ぶ。そして多分、みんなもそうなんだろうという推測を持っている。根拠なんてないんだけど、僕の心はこの推測を、ほとんど疑っていないのだった。

むしろ、確信している、と言ったほうがいいくらいなのだった。

「ねえ、兄さん」

 電気を消して、暗くなった部屋で、兄さんに声をかけてみる。「うん?」と、上から声がふってくる。ってことは、僕の声は地からわきあがってくるように感じられるのかな。

「つかれた?」

「ちょっとね。でも、そんなに大したことない」

「あのさ、兄さん。僕、最近よく寝るんだよ。それも、長時間ぶっつづけ、ってわけじゃなくってさ、こまぎれに寝るんだ」

「ほう?」

 兄さんの声が、興味深そうに響いた。

「なんかさ、起きてるのがつらいっていうかさ」

 そして僕は、ことの次第を話した。気力がなえてきて、最後に残された道が眠ることだけにしぼられていく、あの過程を。

「なんだか、毎日がつまんないんだよね。なにか欠けてるっていうかさ。おおげさにいえば、世界に希望がないみたいな?」

「わかるよ。………いや、その気持ち、わかるつもりだよ」

 ちょっとの間をおいて、兄さんから答えが返ってきた。

「なんかちょっと駄目な気分で、眠るしかないよなあ、みたいな気持ちは、わかると思うよ」

「うん。じゃあさ、兄さん。僕、どうしたらいいのかな? どうしたら、そういう生活から抜け出せる? いや、別に抜け出さなくてもいいんだ。つまりさ、どうしたらすべてうまくいく? どうしたらいい感じで毎日生活できるの? 教えてよ」

 兄さんは、こういう質問にはうってつけの人に思えた。兄さんは、明らかに俗物ではなかった。この言い方が普通の人を侮辱する言い方なら、こう言おう。兄さんは、変わっていた。たぶん、少数派なんだと思う。考えることが、ちょっと違っているのだ。悪い人じゃない。ただ、ちがうだけ。独特なのだ。

そして、僕が今言った、こんな感じの質問を自問し、自答するような人だと僕は兄さんのことを思っていた。兄さんは、かなり哲学者っぽい雰囲気の人間に、僕には見えていた。あるいは、聖人のように見ていたのかもしれない。

 兄さんが答えるまでに、かなり長い間があった。

「それはおそらくとてもとてもとても、難しい質問で、言葉で答えることすらかなわないような、そんな形式の質問のような気がする。思考停止にはまっちゃいそうで、知性が敗北しそうなきざしすら見える気がする。ただ、そうだね、うん、今を生きる、なんていうのはどうだろうか。ぼくの言う意味、わかるかい。今やっていることに集中するんだよ。先はあまり見ないようにするんだ。ただ足元くらいを見て、あまり何も考えないようにするんだ。今考えていること、感じていることに集中するんだ。それから気を楽に持つのも大事かもしれない。あまり自分を追い込まないこと。あまり自分を責めすぎないこと。心がなにかに押されるような感じがあったら、ちょっとはなれてみて、それで気力が回復したら再挑戦だ。それと、なるべく寝ない努力を払ってみて。横になりたくなっても、我慢して、そこらへんをうろうろするんだ。寝すぎると、頭脳が鈍って、ますます動くのがつらくなってくるかもしれないから」

 兄さんの言ったことを考える。うまくいくだろうか。言うのは易しい、やるのはむずかしいものなのだけど。やる気は出そうと思ってもでない。やつの方から勝手に出てくるのだ。だが、まったく出せないわけではない。自分がなにかを体験することによって、やる気なんてのは出てくるものなのだ。だから、きっと僕のなえている心だって、きっとまた躍りだすに違いない、うまくやれば。

「それで上手くいかなかったら、刺激を求めてみるのがいいかと思う。刺激がなさすぎると、心がつらくなってくるものだから」

「刺激って、どこにあるのさ」

「図書館、とか。映画館でもいいし。見知らぬところに行ってみるのもいいんじゃないか」

「そっか」

 僕は、刺激的な場所が思いつけなかった。どうも、どこにいってもあんまり面白くない気がした。

「結局のところ、自分を救うのは自分だってのが、ぼくの考えだから、結局のところは自分次第なのだとは思うけど、ぼくからの助言はこんなもんかな」

「ありがと」

 僕は兄さんに礼を言った。明日からの人生がうまくいくように、僕は祈った。

「おやすみ」

 兄さんが言った。

「おやすみなさい」

 そして僕は目を閉じた。


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