水面を挟む
もうすぐ三十ニ歳になる。誠実で真面目な綾平と結婚して三年が経つし、そろそろ子どもも欲しい。仕事はハードワークだけど、前の職場に比べたら大したことはない。
「ヤナさん、お腹すいてる?」
目の前で手書きのメニューに視線を落としている同僚の西崎は、ちらりと私の目を見る。土曜日の居酒屋は空気に張りがあり、なんだか明るい。西崎の澄んだ声も、少し弾んで聞こえた。
「んー、そうだな、食べたいものは多いな」
西崎の持つメニューを見ながら私が答えると、ですよね、これもこれも、あ、俺これも食べたい、とキラキラした目が一層輝きを増した。
可愛いな、と思う。
今年で二十七歳になる西崎と私は、歳は違えど入社時期は同じだ。抜けているけれど愛嬌はしっかり持っていて、顔も良い。女にだらしないらしいとの噂がある通り、昔はヤンチャしてました、と、飲み会で話せる程度の暴露話も持っている西崎には、結局人生上手く渡ってきたのだろうなと思わせる空気が纏わりついている。つい七時間前にあんなことがあったのにも関わらず、こうして西崎がいつもの穏やかなニコニコ顔で平和に座っていられるのは他でも無く、彼の人たらし力に私が完敗したからである。
「適当に頼みますね、ヤナさん食べたいのがあったら言ってね」
「ビール」
「それは知ってるよ」
「だし巻き」
「好きだねー」
流れ作業のような会話をしながら注文を済ませると、西崎は少しだけ真面目な顔をして、さて、と言った。
「今日まじで助かった。ヤナさんいなかったら俺終わってた。まじでありがとう」
いただきますの姿勢でギュッと目を瞑った西崎は、片目で私をちらと見て、ニヤリと口角を上げる。この生意気な可愛さに、私は勝てない。
「ホントに感謝して欲しい」
私はお絞りで手を拭きながらくくくと笑った。
**
スマホをサイレントモードにしがちな私は、基本的に返信が遅い。昨日綾平に、心配だから通知は音が鳴るようにしておいて、と何度目かの注意を受け、今日は朝から設定を変更していたのが良かったらしい。「翠、ニシくんから電話だよ」という綾平の声掛けで電話に出た先で、西崎が女と揉めていた。電話ならではの機械を通したリアルな生活音が、ガチャガチャした耳障りを引き連れて私の鼓膜を刺激する。バタバタした空気が、只事ではないと囁く。西崎の声は、明らかに焦っていた。
『ちょっとごめん、ヤナさん、助けて』
え、ちょっと、と戸惑う私を無視して電話口の西崎の声は甲高い女の声に変わる。
『だれ? 職場の人? カンケーないじゃん。さっきの女出せよ。誰だよさっきの』
私に、というより電話の向こうにいる西崎に噛み付くような女の声と、負けずと西崎が「だから職場の後輩だって」と声を張り上げるのがスマホをくっ付けている右側から聞こえる。右耳以外は全て綾平が焼きそばを作る様子をぼんやりと感じていた。肉と野菜が焼ける音が心地良く、お昼の匂いが立ち込める。電話の向こう側と目の前の光景の差がありすぎる。
『もしもし、西崎の同僚の柳原と申します。もしよろしければお話聞かせていただけますか』
私は小さく深呼吸をして、できるだけ落ち着いた声でゆっくり話す。荒ぶるお客様対応マニュアルを、こんなところでも使うなんて。
『さっき電話があったんです。若い女から。ルイトーバイクの鍵忘れてるよーって。これ女の家泊まってますよね? 浮気してますよねわたしの彼氏』
やりやがった。完全に泊まってますね。あなたの彼氏は浮気してます。あ、でも俺は浮気はしません。気持ちは彼女一筋なんです。浮気じゃなくて浮身です。って言ってました。
私の口はパクパクと空気を噛んで、記憶改竄を企て始める。
『すみません、昨日社員数人で飲み会があったんです。同僚の男性の家でした。彼は後輩の元社員と同棲をしているので、それで掛かってきたんだと思います。ちなみに同僚は今日朝早くから出張に出てると思います。確認されますか?』
私の口がペラペラと動いている間に、滝川さんに口裏合わせのラインを送った。滝川さんは西崎のことをよく知っているから何も知らなくてもそれとなく対応してくれるだろうけれど、先に情報を知っておくに越したことはない。西崎の彼女からの電話にすぐ出ることができなくても、後日あの時は打ち合わせ中でした、と言い訳もできるだろう。本当のことと嘘をちょうど良い比率で混ぜる。飲み会があったのは本当。西崎が参加していたというのは嘘。滝川さんが彼女と同棲していることは本当。滝川さんの彼女が元社員だというのは嘘。西崎の浮気相手のことは知らないけれど、本当に職場の後輩にしろそうじゃないにしろ、既に辞めたことにすれば会社にも迷惑は掛からないだろう。自分でも仕事はできる方だと思う。
『柳原さんはその飲み会にいましたか?』
少し落ち着いたのか、西崎の彼女の声はさっきより聞き取りやすくなっていた。
『いえ、私は行っていないんです。すみません』
『どうしてですか』
『夫の誕生日だったので』
『結婚してるんですか』
『はい』
『…分かりました。ルイトと話します。ありがとうございます』
西崎の彼女はすっかり礼儀正しくなり、失礼します、と言って電話は切れた。若い女の子からの信頼を得る為には、結婚していて落ち着いた年上の女性像を振り翳す必要がある。しばらく経ってから、お礼させてください、と西崎からのラインが入ったのだった。
**
ビールと料理が少しずつ運ばれて来る。冷えたガラス同士がカチ、と鳴る音を皮切りに、私たちの会合が始まる。
「いやまじ大変だったんすよ」
「大変そうだったね。結局なんだったの」
「ちょっと遊んだだけっすよ。浮気なんかするわけないじゃないっすか」
「そうなの」
ちょっと遊んだ、がどの程度何をしたのかよく分からないし、それで何故バイクの鍵を相手の家に忘れることになるのかもよく分からない。何一つ理解は出来ないけれど、それで良い。今一緒にいるこの空間が心地良ければ何も問題は無いのだ。ちょっとした事件は酒の肴。自分には関係の無い人の詳しい事情や言い訳は、言いたくなったら話すくらいでちょうど良いのだと知ったのは、私が西崎くらいの歳の頃だったか。当事者である西崎は、何言ってるの、当たり前でしょ、という顔をして、丁寧に唐揚げを噛みちぎってから口をハフハフとした。目がキュッと縮んで、美味しい匂いが西崎の整った鼻から抜けるのが分かる。
この人はいつでも美味しそうに食べるなあと感心して私はだし巻きを囓る。出汁がジュワッと口の中に広がって思わず目を閉じる。
「ヤナさんっていつもホント美味しそうに食べるよね。好きだわ」
「こっちのセリフ」
「え、ヤナさん俺のこと好きなの?」
「好きだよ」
「俺も好きだよ」
「ありがとね」
二十代前半まで人並みに遊び、金のトラブルも女のトラブルも一通り経験して男は怖いと知った。年相応に経験を踏んだ私の内側がこの先を予想出来ないはずが無かった。この男は沼だ。落ちても良いことはない。西崎と同い年、いや、もう少し若ければ確実に、自ら飛び込んでいったであろう底が見えない沼。今は沼の淵にしゃがんで様子を見ている。
「で、彼女は許してくれたの?」
二杯目のビールを注文し終わった西崎は、だし巻きを二切れ一気に口の中に入れ、もごもごと幸せそうな顔をしてから、まあね、と笑った。
「柳原さんがちゃんとしてる人だから信用するってさ。滝川さんに電話もしなかったし。ホント柳原さまさま。なんか今度ヤナさんに会って直接話したいとも言ってた」
信じられない、とでも言うようにオーバー気味に肩をすくめる仕草も西崎がやると一気に絵になるから不思議だ。
「よかったじゃん。会うのはあんまり気乗りしないけど」
二杯目のビールに口をつけて、季節の刺身に手を伸ばす。
「俺も会ってほしくないから大丈夫」
ヤナさん美人だからまた疑われて面倒臭くなるの目に見えてるもん、とさらりと口にする。西崎と一緒にいると当たり前みたいに褒めてくれる。まるで自分が最高にイイ女になった気分になれるのだ、嫌いになるはずがなかった。
「そりゃこの男好きになるわみんな。上手だもん」
ため息混じりにそう呟く私を見て西崎は、何言ってるのと笑った。白く並んだ歯が光る。
西崎の底は見えない。波も立たない。何が潜んでいるのか分からない水面は少し歪んで、映る私を綺麗に見せた。私は綺麗な私をもっと見たくて左手を伸ばす。水面が崩れて結婚指輪が濡れた。
「そろそろ出ますか」
お礼なんで、と西崎が支払いを済ませるのを外で待つ。蒸し暑い空気の塊の中に、さっきまでいた居酒屋のエアコンの冷気が少し混じってすぐに消えた。夏の夜ももう暗い。
「ありがとう。ご馳走様」
「こちらこそありがとうございます」
「いつでもお世話するよ」
「あーもう、すき」
「何言ってんの酔っ払い」
目敏い私は自分の鼓動が鳴るのを見逃さなかった。目を細めた西崎が暗闇に映える。よく見えない。
「ヤナさん、今度遊びに行こうね」
「いいよ、駅こっちだよ」
「連れてって」
キョンシーのように両手を前に伸ばした西崎の声はまるで子どもだ。
気配が迫る。水面は揺れている。サンダルを履く足先が濡れる。見えない奥から視線を感じる。
「ほら琉糸くんこっちおいで、歩くよ」
西崎の少し先を歩きながら吐いたため息混じりの私の声はアルコールのにおいがしたし、思っていたより優しかった。
「翠さんのたまに出る名前呼び、俺超すきなんだよね。もっと言って」
「やだよ、ほら行くよ」
私の声に応えるようにして、ぐんと近付いてくる西崎を避けきれない。水かさが増す。ぶつかる腕と腕。熱を帯びた体温は暗い夜に溶けた。私は無理やり顔をしかめる。引き摺り込まれる。
「近いって」
「ん?」
西崎は面白そうに笑った。私のしかめっ面を覗き込む澄んだ瞳には私が映っているように見える。瞳の中の私は、何を考えているのか。
私はおもむろにカバンからスマホを取り出すと、慣れた手付きで画面を操作し、「今から帰るよ」と綾平にメッセージを打ち込んだ。これは私の理性だ。右手の指先はまだ取り込まれていない。静かに一連の操作を間近で見ていた西崎は、まあいっか、と呟いて私の左頬に唇を押し当てた。柔らかいものに柔らかいものがぶつかる衝撃は軽くて深かったから、私は反応に少し時間が掛かった。
「どうした?」
私の目は3回瞬きを繰り返し、西崎を目一杯視界に入れる。
「いや、かわいいなと思って」
「だめだよ」
「なんで」
「ややこしくなるでしょ」
「愛情表現だよ、ヤナさん」
西崎は楽しそうに目を細めて口角を上げた。私はそんな西崎に呆れた視線を送りながら、今日の翠さん呼びは一回きりかもしれないな、なんて思っている。
腕と腕がぶつかり合いながら駅へと進む足取りはとてもゆっくりで、私たちはゆらゆらと揺れながら歩いた。私の足先も、左腕も、へばり付いて美しい深淵を覗いている。深淵の奥から西崎がこちらに手を伸ばしてくるのを待っている。淵から足を滑らせて落ちてくるのを、待っている。誰の体温も感じない私の右手だけは、早く愛する夫の元へ帰ろうとスマホを強く握って現実を見ている。
「ヤナさん、すきだよ」
低くて甘い声が降る。
「ありがとう、ニシくん」
私はとびきり優しい顔で笑った。水に濡れた足を綺麗なタオルで拭く。翠さん呼びは一回きりだった。今日はもう落ちない。私も彼も。沼は凪いだ。生ぬるい風が吹く。西崎の瞳は私を映して、私は西崎の髪を触る。
「ヤナさん、ズルいね」
西崎の口惜しそうな顔を見て、私は笑う。腕はまだぶつかり合っている。体温を少しだけ共有しながら、私たちの足は、確実に駅に向かっている。
↓
停。
名前を呼ぶって大事なことだと思うんですよね。
気持ちは呼び方にも表れますよね。