第1話 結界の向こうへ
── 785年6月2日
薄暗い蔵の中、目の前には祖父が遺していった一本の片手剣が飾られている。
壁にかけられた剣は埃を被り鈍く光っている。
ユズルは昔から、気がつくとここにいた。
「あー、ユズルったらまたここに居た!」
開かられたドアから光が差し、ユズルの背中を暖かく照らす。
「ま、待ってよリアちゃん」
「マコトは遅すぎ!ほらユズル、立って」
常に元気いっぱいのリアに遅れて気弱なマコトが追いつく。
二人はユズルと同い年の、いわゆる幼なじみであった。
何にでも興味を持ち、やると言ったら聞かない性格の女の子リアとビビりで運動が苦手なマコト。
そしてこれといった特徴がないユズル。
強いて言うならばのんびり屋である。
この三人が集まって初めて一日が始まる。
「んー……またねおじいちゃん」
リアに腕を捕まれ、引きずられながら蔵をあとにする。
ユズルのおじいちゃんはユズルが生まれる数年前に亡くなった。なのでユズルはおじいちゃんの顔を知らない。
しかし、不思議とどこかで見たことがあるような感覚に陥ることがある。
それを知るのはまだ先のお話である。
「おぉ……今日も来たのかい」
蔵を出た三人はこの村【アルバ村】最年長のおばあちゃん、村長の家へとやってきた。
「また外の話を聞かせて!」
外の話とは、結界の外のことである。
ユズル達は生まれてからずっと結界の中で育ってきた。
「飽きないねぇ。まぁいいさ、私の話し相手になってくれるのも、今じゃあお前たちだけさ」
優しく微笑み、村長は語り出す。
「あれは私が20の時、」
何度も聞いたその話は、聞く度に面白さが増す。
いつか外の世界で暮らしたい。
そう思っている人の方が多いだろう。
しかし実現出来ていない以上、できない問題がある。
問題はいつか必ず解ける日が来る。
だから今はまだ、村長の昔話を聞き、想像を膨らませることしか出来ないのだ。
リア達は外の話が好きだった。
リア、マコトそしてユズルは生まれた時からずっと一緒だった。
というのも魔獣のせいで結界の外に出ることが出来ないからだ。
村全体が家族みたいな存在なのだ。しかし二人は違う。
それ以上に親しく、それ以上に愛していた。
きっとこの先の村の安全や伝統は、自分たちが守り抜いていくのだろう。
「……ねぇ、少しだけ外出てみない?」
「えっ?」
村長の話を聞き終わり屋外に出た二人にリアが言い出す。
「危ないよ!」
マコトが声を荒らげて抗議する。
内心、ユズルも反対だった。
「大丈夫だよ!私たちが生まれてから1度も魔獣の話は出てないし、少しなら」
「えー、でも……」
「リア、マコトのそういうところ嫌い」
「い、行くよ!」
「ユズルも行くでしょ?」
雲の動きをぼーっと目で追っていたユズルは、その問いかけに意識を現実へと戻す。
「……戻ろうって言ったらすぐに帰るって約束できるならいいよ」
「うん!分かった!」
満面の笑みを浮かべ、リアが二人の腕を取る。
リアに腕を引かれ5才の幼い子供が3人、結界の外へ解き放たれた。
まだ何も知らない純粋で、無知な少年たちだった。
同時刻、村長宅──。
「っ!?」
「村長?どうしたんですか?」
何かを感じ取ったかのように体を震わせる村長を見て、側近の者が不思議そうに尋ねる。
「……何者かが結界を超えたかもしれん──っ」
「わぁ!見てみて!あんな花見たことない!」
目の前に広がるお花畑を前にリアが叫ぶ。
結界を覆う森を抜けた先には、一面お花畑が広がっていた。
最初は嫌々着いてきたはずの二人も、この光景を前にして目の色を変える。
あぁ、なんて美しい景色なのだろうか。
「……もうそろそろ帰ろうよぉ」
先に声を上げたのはマコトの方だった。
むしろビビりなマコトがここまで着いてきたことに、ユズルは少し驚いていた。
「もう少しだけ……あっ!あっちの方に洞窟があるー!」
リアが指さす方向には、洞窟の入口があった。
……かなりの大きさだ。
「絶対行かない方がいいよ!やめとこ!」
「少しだけ!中覗くだけ!」
そう言ってリアが走り出す。
リアに続いてユズルも走り出すと、嫌々言いながらマコトも後を追ってきた。
近くで見ると改めて大きく見える。
と、その時だった。
「……雨だ」
肩に何かが触れ、振り向くと小雨が降り始めていた。
「まずい、リア!マコト!結界内に戻るぞ!」
「う、うん!」
結界外での雨は死を意味する。
というのも、魔獣は天候が悪くなると地上に姿を現すことが多いらしい。そう、大人の人達が言っていたのを耳にしたことがある。
仮にこの近くに魔獣の住処があるとしたら……
嫌な予感がし、先程覗いた洞窟を振り返る。
「……あ」
ユズルの目に"それ"が写った瞬間、魔獣の咆哮が響き渡った。
「ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ」
「きゃぁぁぁ」
「足を止めるな!全力で駆け抜けろ!」
先程いた洞窟から魔獣が一体向かってきていた。
完全にこちらを認知している様子だった。
成人男性三人分程の背丈の、巨大な魔獣だ。
手足は硬い鱗で覆われ膨らみ、長い尾を引きずる音はこの距離からも聞こえてくるほどだった。
40年間腹を減らし続けてきた魔獣だ、危険度は相当なものである。
幸い魔獣の数は一頭、それも他の魔獣と比べると動きが遅い部類に分類される暴龍だ。
しかし暴龍は動きが遅いかわりに、腕力や顎力など魔獣の中では一二を争うほど恐れられている存在だった。
恐怖で上手く呼吸ができない。
だけれど必死に、振り向かずに走り続ける。
「あっ……」
森へと入ったところでリアが木の根につまづき転ぶ。
「リア!」
「マコト?!」
横たわるリアの元にマコトが駆け寄る。
座り込む二人に、突如黒い影が覆いかかった。
先程まで聞こえていた足音が聞こえない。
魔獣が引き返したのだろうか。
ほっとしたリアは顔を上げ──。
「あ……」
「リア!マコト!」
ユズルは振り返り二人の名を呼ぶ。
二人を覆う影の正体は暴龍であった。
足音が聞こえなくなったのは暴龍が引き返したからでは無い。
捕食対象にたどり着いたからだったのだ。
「い、いや……」
「リア、僕を置いて逃げろ!」
「あ、あしに、足に力が入らない……」
暴龍の顔が歪む。そして、
「や、やめ、ぁっ、あぁあぁぁあああ」
「あ…あぁ…」
泣け叫ぶリアの前でマコトが宙へと浮かぶ。
骨が砕かれる音が響き渡り、それに反してマコトの声が消えてゆく。
辺りに血が散乱し、雨も混じりあって地面に溶けていった。
「パキッ………っ…」
喉を鳴らして暴龍がマコトを飲み込む。
マコトの鮮血が暴龍の顎に伝い、地面に滴り落ちる。
それもすぐに雨によって洗い流されてしまった。
「や、やだ……」
マコトを飲み込み終えた暴龍は、足元で震えているリアに視線を移す。
その表情は、まるで笑っているようだった。
「リ、リア……」
リアを助けなきゃ、そう思っても足が動かない。
やがて脳は自分のいいように変換し始める。
こんな子供が一人で助けに行っても両方死ぬだけだ。
そもそも外に出ると言い出したのはリアだ。
そう脳が訴えかける。
今走ればユズルは助かるかもしれない。
結界はもう目の前なんだ。
「……リア……ごめん!」
「ユズルぅ、ユズルぅぅぅぅ!」
「くっ……!」
暴龍は逃げようと這うリアの足を踏みつける。
耐え難い痛みが全身に伝い、リアが叫ぶ。
その声を聞かないようにしようとユズルは耳を両手で塞いだ。
「ああああああああああああああぁぁぁ」
リアの両足が踏み潰され、ちぎれる。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ」
痛みで動けなくなったリアをつまみ上げ、暴龍はリアの頭に鋭い歯を当てた。
「パキッ──」
ユズルの後ろで骨が砕かれる音が鳴り響く。
暴龍はリアの体を残さず噛み砕き飲み込んだ。
と、次の瞬間何かがユズルの脇腹を掠めた。
痛みはなく、血も出た様子はない。
だが傷口を確認している余裕などなく、ユズルは結界の境目を転がりながら突破する。
「ぁあ!……はぁはぁ、つい、た?結界内……たすかっ……たのか?」
ユズルは結界内へと生還し、自分の生を噛み締める。
と、同時に先程までの光景がフラッシュバックする。
「うっ」
気持ち悪い。目の前で二人が、大切な友達が食われた。
音を立てて咀嚼された。
血が吹き出し、当たりを赤く染め、その腕で、いとも簡単にマコトを握りつぶした。
初めて見る魔獣 暴龍の姿は、ユズルに大きな恐怖を植え付けた。
否、植え付けられたのは恐怖だけではなかった。
「なんだよ、これ……」
先程何かが掠めた左の脇腹の一部が、黒く侵食されていた。
痛みはなく、規模も狭い。
だが、未知の体験にユズルの体の震えは加速し続けていた。
その日のうちに村中でリアとマコトが亡くなったこと、ユズル達が結界を超えたこと、そして暴龍が洞窟内に住んでいることが報告された。
「もう絶対に外に出ては行けないよ」
「………うん」
母がユズルを抱きしめる。
もう母に、村のみんなに迷惑はかけたくない。
もう絶対に外に出まいと誓った。
……しかしユズルの胸には熱い闘志が芽生えていた。
あの日から実に17年の月日が流れた──。