9.踊る大捜査線
ヒルデガルドが王宮に来て、5巡(30日)が経った。緑の月が終わり、雨の月を迎える。
雨の月は高温多湿、とにかく鬱陶しい日々が多い。
だが、雨は天の恵み。そのことを良く知るヒルデガルドは、雨が大好きだ。雨の中、苗を手入れする作業も、雑草をとる作業も、全く苦にならない。
特に、雨の音が好きだ。あれは、天上の奏でる音楽だ。安らかの中に激しさが内包する、究極のハーモニーだ。
昨晩は、その素晴らしい演奏を堪能した。そして今朝は、昨晩の雨が木々を潤し、草花が朝露に輝いている。
ーー今日は、快晴!
ヒルデガルドは朝食の良い香りを吸い込んで、大きく伸びをした。
「お嬢様~今日は査定日ですね~」
「そうね。もう5巡したのね。お父様とお兄様は元気かしら…?」
「今のところお元気ですよ」
ヤンが紅茶を給仕しながら、応答する。メルゼブルクを出てからもう5巡。新たな月を迎えてしまった。
世話役の期限は、あと2ヶ月。それまでに、何としても状況を好転させたい。
「ヤンは、国の救援無しをどう見てる?」
「僕は、宰相が怪しいと思いますよ」
「なぜ?」
「救援が無くなったのは、1年前。現宰相の着任も同じ時期です。それに、宰相の身辺には容易に近づけません。ーー秘密を隠しているような警戒さです」
「なるほど…」
現在の宰相は、東の辺境伯の強い支援を受けて、その座に着いたと噂されている。
現宰相ーーオスカー・フォン・クレーエ侯爵。ウムラウフ侯爵家同様、長い歴史をもつ大貴族である。
「東と繋がってるなら、怪しいわね」
ヒルデガルドが唸る。東の辺境伯領は、西の辺境伯領ーーつまりメルゼブルクーーを小馬鹿にして、嫌悪している。東は3国と国境を接し、一旦諍いが起こると、『戦争』と呼ぶほど大きく激しい戦となる。だから、東の辺境伯領は国の要なのだ。扱いが西よりも重い。
ーー東の辺境伯は西の辺境伯を憎んでいる。
という噂は、あながち嘘でもないのかも知れない。時々、嫌がらせを受けているのだから。
ヒルデガルドの「怪しい」発言に、ヤンは首を傾げて言った。
「たとえ怪しいとしても、大っぴらに調査はできませんよ。泣く子も黙る宰相閣下ですから」
「……そうね。調査は慎重に進めましょう」
「それより、今日の査定からお嬢様が漏れちゃえば、メルゼブルクに強制送還ですけどね~」
ケタケタ笑いながら、エルマが食べ終わった食器を片付ける。それを聞いたヒルデガルドの顔色が青くなった。
ーーいけね。第1王子への売り込みを忘れてた!
たびたび第3妃の別邸で会っていたけれど、世間話しかしてなかった。ここで調査を諦めたくはないが、査定に漏れたら帰還せざるを得ない。
はあ…とヒルデガルドが重いため息をつく。
「…5巡の間、お嬢様は一体何をしていたんですか?」
「ユーディト様と楽しくおしゃべり」
「ダメじゃないですか!」
「楽しかったから、良し!」
「良し!じゃねぇ!」
おお、ヤンが怒った。
「査定に漏れたら、ユーディト様の侍女にしてもらえるよう、お願いしてみるね」
「無理です」
「むしろ、ユーディト様の侍女になりたいな…」
うっとりと、恋する乙女のようにヒルデガルドが言う。
こいつはあかん、とエルマとヤンは思った。目的を見失いかけている…。
「でも、今回の査定は、きっと大丈夫だと思いますよ~」
「ありがとう、エルマ。じゃ、行ってくるわ!」
「行ってらっしゃいませ」
意気揚々とヒルデガルドは部屋を出る。『ユーディト様の侍女』という魅力的なポジションに、ヒルデガルドの機嫌は上昇したのだった。
5巡ぶりに、謁見の間に入る。相変わらず広くて冷え冷えした部屋だ。高い天井に、執務官の声が響きわたる。
「今から読み上げる方は、定期査定を通った方です。呼ばれなかった方は、速やかに退去をお願い致します」
最初に呼ばれたのは、ウムラウフ侯爵令嬢だった。執務官は冷淡に、粛々と名前を読み上げる。
そのうちに、ヒルデガルドの名前も呼ばれた。今回の査定で名を呼ばれたのは、10人。半数が帰郷することになる。
落胆する者、打ちひしがれる者、愕然とする者…名を呼ばれなかったご令嬢方は、それでも楚々と部屋を出て行った。
残った令嬢は、執務官から再度の説明を受ける。次の査定はまた5巡後、葉の月。全員参加のお茶会は、2巡に1度。王子への面会は午後のみ、とさして変わらないルールを聞いて、解散となった。
自由になったヒルデガルドは、待ってました!とばかりに、第3妃の元へ向かうのだった。
そしてそんなヒルデガルドを眺め、重い重いため息をついた第1王子を、ヒルデガルドは見ていなかった。
◇
第3妃の別邸の畑を眺めながら、ユーディトは己の手駒に話しかける。
「調べはつきましたの?」
「狼です」
「そう…。確か、お嬢様が今回の世話役候補にいるのではなくて?」
「はい。先ほど査定も通った模様」
「鴉は?」
「一枚噛んでます」
ありがとう、引き続きお願い、とユーディトが短く告げると、手駒は彼女の影に入るように消えた。
ーー狼が動いた…。
あちらは、ここ数年平和だった。わざわざ危険を犯してまで、こんな暴挙に出るとは思えない。
だが、確かにこの1年、全く露見しなかった。ヒルデガルドが王宮に来なければ、露見にはさらに時間がかかっただろう。
ーー目的が分からない。
犯罪というのは、目的が不明である方がわかりにくいものだ、とユーディトは気付いた。
まあいい。昔からこう言うではないか。
「最終的に最大の利益を得た者が犯人である」と。
ユーディトはのんびり待つことに決めた。
「さて、可愛いお姫様が、査定報告からこちらへ向かって来る頃ですわ」
畑で実を付けた野菜を見つめながら、ユーディトは独り言つ。この野菜がとても瑞々しく豊潤なのは、土壌が良いからだ、とユーディトは思う。
そう、それはまるでヒルデガルドのように…。
事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだッ!
10代は知らないかな?