楠木美穂という女
1月はあっという間に終わり、2月も中旬を迎えようとしていた。
1人の少女は静かに自室と言うにはあまりにお粗末な部屋で勉強に没頭していた。
楠木美穂は16歳、受験を控える至って真面目な女子中学生である。
(髪伸びたかな....)
ある程度時間が経つとそんなどうでもいい事に気づく。
いつもは丁寧にお下げ髪を結っているがこの時はだらしなく垂らし机に伏していた。
母は水商売で生活リズムがほぼ逆転し、同じ家に住んでいながらあまり顔をあわせる事は少ない。
しかし母と顔をあわせる時間は少ないが、決して不仲というわけではない。むしろ楠木美穂という女性が16歳までこうして普通の女性として生きているの母の努力と愛情あってこそである。
父は彼女が幼い時に死んだ。彼女は母親から事故死と聞かされている。
彼女は父親の事を写真でしか知らない。
「はぁ.....」
彼女は決して頭の良い方ではない。しかし家庭の経済事情を考えるになんとしても近場の公立に行かねばならない、そのような義務感にも似た感情から彼女は自身の手と頭をひたすら動かしていた。
(最近喫茶店にも行ってない.....)
彼女の心のどこかにあった余裕は受験を目前に控えた今、殆どないと言っていいだろう。
落ちたらどうしよう。
そんな不安が常に付きまとう。
母は口癖の様にお金は気にしなくていいからねと言ってくれるが、そう言われて気にしない者は居ないだろう。
(おじさん元気かな....)
彼女は自分の父でもおかしくない年齢の男に淡い恋心を抱いていた。
しかしその心に彼女自身はまだ薄々にしか気づいていない。
中学校の帰り道、何気なく、本当に何気なく立ち寄った喫茶店。
そこにはいつも少し強面のマスターがテレビを見ているだけだった。
でもその人の作るコーヒーとブリヌイはたまらなく美味しかった。
無愛想だけどいつも自分の喋り相手をしてくれる人。
優しい人
そんな彼女のイメージとは裏腹にその男の経歴は凄まじい物がある。
名は滝田秀俊。
若くして裏社会に武闘派、経済ヤクザの両面から名を馳せ、28歳にして組員100名を抱える政道会二代目菊永組の若頭を務めるまでなった男である。
そして30の時、彼は殺人罪で逮捕起訴される。
彼が殺した相手は楠木勲。楠木美穂の父親である。