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星空 終のダイアリー  作者: 野口詠多
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四月 一六日 (水)


美しいもの、なーんだ――醜いもの


醜いもの、なーんだ――美しいもの



「トーマス・マンの『ヴェニスに死す』ってのは、ほんとによくできてるいい作品だよ。なにより病理学的に精巧だよね。科学とか、物理学的見地とかに正確に書かれた小説はいいものが多いよ。この小説は病気の様も、その症状も、世界をそのまま言い当てている。そりゃ筋だけを追えば少年を愛したおっさんのストーカー紀行にすぎないわけだが、ヴィスコンティ監督の映画で、マーラーのアダージェットの調べに揺れながら、本当の美とはなにかをつくづく考えてみると、いやはや我々は文明の波に酔いすぎているのではないかと思えてならない。かのジャン・ジャック・ルソーもアスファルトを引っぺがすようなことを主張していたようだが、精神科医のジャック・ラカンに言わせれば、その種の発言をこそ精神異常という。二人でいる時に、ずれている方が精神病なのだ。指をさされてこその、胸患い。ケガでも風邪でも花粉症でもない、自ら一人では気付きようもない病、それこそ美への執着だ。自然への執着だ。ファウストも、最終的にはメフィストーフェレスに魂を奪われる。そういう度し難い者は、芸術興国で死ぬか、アンガージュマンやルサンチマンといった内なる魔物にとり殺されるしかないのだ。美しさに魅せられた者は、妖艶なセイレーネの声にいざなわれた者は、すべからく死を賭すべし。できうるものなら、無為自然に生きていたいものだがね。老荘思想。まったり革命。……いやはや浮き世は無情なり。

「……なんでそんな悲しい読み方をするのよ。悲観的にとらえちゃだめよ。『ヴェニスに死す』は、あまりくよくよ考えなくてもいいっていう教訓と読めるじゃない。考えてしまって、結局よくわかりもしないことに溺れてしまう……考える前と後とで、現象レベルでの変化は無いのだし。赤点必至の試験前夜の丸暗記みたいなもんよ、人生なんて。ただその姿を、辛いと思うんじゃなくて、滑稽だと思わないと……辛いと思ってしまったら、本当に辛く感じられてしまうのよ? 夏は寒くて冬は暑いもんだと思えば、世の中少しは、過ごしやすくなるものよ……」

 などと気休めを口にしていた割には夢見がどこか意気消沈していたのは、取り上げた本が本だったためかね。愉しく生きろ……それはつまり、孤独であるよりも友達とゲーセン行って欲しくもない景品を当てて一喜したりファミレス通って出来合いのものに舌鼓を打ったりするのが最上ということなんだろうが、はてさてそれを愉しいと心から感じられるようになれるのには、相当に修養が必要だと思うがね。高杉晋作じゃないが、自嘲的に「おもしろきことも無き世をおもしろく」なんて句を詠むようになっては、むしろ俺は終わりだと思うわけだが、夢見は違うという。これもまた、文学の違い……あるいは単に、終と夢という、名前の違いかもしれんがな。

 それにつけてもまずは、友達がつくれぬことには愉しくも在れない。人の世ってのは、じつに淋しくできているもんだ。

「というわけで、いらっしゃい! 月見さん!」

「……ど、どうも……こんにちは……」

 部活を新設したのが四月十日のことだったから、六日目にしてついに初の訪問客が訪れたあんばいだ。なにがさて、部員が増えることは結句無かったが、客が訪れたことによって顧問の教師に虚偽ではない事実を報告することができる――そうすれば、宣伝用に使うポスターづくりのために、保健室だけではあきたらず、印刷室までも長時間占有できるかもしれない。これは我が部建設以来の大いなる進歩といえた。たった六日の歴史のなかでだが、俺の記憶喪失後の人生においても、最もセンセーショナルなできごとでもあるんだぜ。まぁそれでも中三の二学期から今にいたるまでの短い期間ではあるし、めりはりのない人生だもんだから、他に取り上げるべき経験を経ていないだけなんだがね。

 月見アズサは入るなりかしこまって、ガラス戸棚の中の消毒液をその成分表示までをつくづく眺めんばかりに眼玉をころころ物珍しげに泳がせていた。ひょっとして、保健室に入ったことがないんだろうか?

「はい……まだ入学してから日も浅いですし、ずっと図書室にいるから、ケガをするようなこともなかったですし……」

 そうなのか。ということは一年生の中では、相談部どころかそもそも保健室自体が割と敬遠されているのかもしれない……いや、蛇蝎のごとく嫌厭されているのは、一顧傾城の絶世の美少女こと夢見勝に四六時中くっついているこの俺ただ一人なのだろうが、しかし男として狭すぎるこの双肩に、校内にはびこる色欲の光線の重みを一身に背負わせるのはどうかと思うぜ。

 次の章あたりで、俺に夢見との仲を引き裂こうとするナンパ男の恋敵でも現れて、熾烈きわまる鞘当てをしているうちに校内男子の文字通り眼の敵が分散されることを期したい。いや、そもそも俺は夢見とは断じて恋仲ではありえないのだが、そういう展開はぜひに欲しいね。ラノベ的にも、だろ?

「そうね、ラノベ的にはそういうのがあってもよさそうだけど、まずはハーレムの形成が肝心よ。工事でいったら、基礎の部分。ここの普請を間違えたら、後の展開がぐちゃぐちゃになるからね」

 すでに主要人物の設定がぐちゃぐちゃだと思うけどな。

 月見アズサは昨日の帰りに、毎週水曜日は図書室業務が他の者と交替で休みになるから、ここに遊びに寄ることができると俺たちに――というか夢見に告げた。身も心も踊らんばかりに驚いた夢見は、さっそくメールアドレスを交換して、夕日に向かって有頂天に叫んでいた。朝も早よから昨晩に百通以上も交わしたという月見とのメールの次第を俺に随時聞かせてきたが、月見が疎いから教え込んでやったという女の子のファッションだとか化粧品メーカーだとかスイーツのおいしい店だかの専門用語は俺のうずまき管には馬耳東風、正直ひたすら相槌を打ち続けていただけで、なにがなにやらいちいち覚えていない。しかしまぁ、昨晩の間でずいぶんなやりとりがあったらしく、百通も付き合わされたんじゃ月見もさぞ疲れたろう。俺と違って曲がりなりにも女子だから少しは夢見の話についていけてたろうものの、今をトキメクきゃぴきゃぴの女子高生♪ からは距離を置いて遠くに在りそうな月見のことだったから、けっこう話を合わせるの、苦痛だったんじゃないの?

「ううん、全然そんなことないです。これはお世辞とか、おべっかで言ってるんじゃなくて……夢見さんのおかげで、わたしなんだか、ちょっと女の子に近づいた気がします」

 うわーお、変身の伸びしろを匂わせる台詞だ。心なしか、月見の眼も輝いて見える。卒業までに、文化祭でのミスコンで堂々の一位を獲得してしまうような、とんでもない清楚系美少女キャラの誕生を予感させる一言だったね。まぁ、それにしてもスッピンで振り向かれる色白すべすべ肌の夢見にはかなわないだろうが。

「えへへ……でも確かに昨日はずっとあたしの趣味に突き合せちゃったよね。だから今日は、せっかく来てもくれたんだから、アズにゃんの興味あることに花を咲かせようじゃない! 高度な文学ネタとかさ!」

 ……おい待て、夢見。お前、月見のことアズにゃんって呼んでるのか……? それは、なにかとそのぅ、いろいろとまずいんじゃないか? 揚げたてな感じの名前でいらっしゃる方に、ちゃんと許可は取ったのか?

「なんでよ? 女の子が近づきになれば、名前を可愛らしく呼ぶのは理の当然じゃない。むしろこの場合、そのことをよく練りもせず名前をつけてしまった人の愚かさを呪いなさい」

 ……ん? それって、月見の両親のことを言ってるんだよな、もちろん?

「で、アズにゃん! 今日はお客さんとして貴女、来てるんだから。なにか相談したいこととかある? このあたしを頼ってじゃんじゃん相談しちゃってよね! なんたってフレンドなんだから! どんな問題も快刀乱麻を断つみたいにすっぱり解決してみせるわよ!」

 と、豪語するのであるが、はて? そもそもこいつは、人との会話が不得手という設定のはずなのに、どうしてカウンセラーをやれるものと錯誤しているのだろう。カウンセリング的な勉強をしたことはあるのか? その辺の古本屋でハウツー本を冷やかした程度の知識で部活を開設したと言った日にゃ、海をも割くと言われた俺の拳が出エジプト記をここに再現することになるぜ。

「……あの、実はわたし……こんな性格ですけど、悩みとかなくって……」

「え⁉ アズにゃん悩まないの⁉」

 人間としてチートだな。

「悩まないわけじゃないんですけど……深刻に抱えるほどの悩みというのも、これといってありませんし……日常の細かい悩みだったらいくつかありますけど、それだって人に相談するほどのことでもなくて……」

「えー、嘘だよー! アズにゃん、ぜったい悩んでるってー、病んでるって!」

 えー、嘘だろー。それが友達に対する言いぐさかよ。

 病んでるとか、本人の前で言うなよ。どんだけお前バカなんだよ……。

「……最近まで、抱えてた悩みはあったんですけど……」

「それだよ! もうそれを解決しちゃおうよ!」

「……でも、それももう解決済みなんです。おかげさまで」

 と、月見は満ち足りたような笑みの輝きを保健室に振りまいた。

「え、自己解決しましたってやつ?」

 違うだろ。夢見という友達ができたこと自体が、悩みを一つうち消したって寸法だろ。

「あ」

 俺が言うと、月見が顔を赧めて恥ずかしそうに俯くのはわかるし、シチュエーション的にもそれはほしかった画なのだが、しかし夢見よ、なぜお前は都市伝説やB級ホラー映画で名高いくねくねよろしく身体を奇態に蠢かせているのだ。気持ち悪いうえに、サージのツヤを一際放っているブレザーの上からでもわかる胸のグラマラスな躍動がいやらしくも眼にうるさいので、慎んでもらいたいやね。背中に回した手をつかむストレッチみたいにしていたから、よけい強調されて見えた。ゴクリと唾を呑んだ音がしたのは、俺の咽喉じゃなくて月見の方からだったのは……二人の関係がなにかいかがわしい方向へ進んでしまわないよう俺がセーブすべき合図なんだろう。もし仮に月見に悩みがあるんだとしたら、身長とか体形とか、それこそバストとか、俺らに打ち明けたってどうしようもない話だろうな。俺らにではなく、牛乳に相談だ。夢見は毎日、二リットルも飲んでるらしいぜ?

「……あ、そういえばわたし、悩んでることあるの思い出しました……」

「え、やっぱり⁉ そうだよね! アズにゃんは悩んでこそのキャラなんだよ!」

 どこの世界のアズにゃんがお悩みキャラとして定着しているのかさっぱりだったが、その月見を最初は相談部の部員としてスカウトするつもりだったんだぞ、俺らは。悩める者が悩める者を救済しようにも手立てがないので仕方なしに友達になろうとか持ちかけてしまうこの部屋の惨状を見て、凡ての人間を救済しようとなされたイエスはどう思われるだろう。少なくとも、人のための人でありたいという熱き想いだけは汲み取ってくれるかもしれない。

 人ならざる、三位一体の神だからね。

 月見は言う。世を憚るときのように、というか明らかに俺に憚る時のように声のトーンを少し下げて。

「……実は最近、周期が不安定で……」

「ストーーーップ‼ だめだめだめだめ! そういうのはラノベに、あってはならないことなの! 女の子に周期はない! 周期ほど女子と無縁な語彙もない! ケミカルな話よね、アズにゃん⁉ きっとケミカルな話のことを言ったのよね⁉ 教室という空間を化学の周期表に譬えて、誰も自分に9.109×10( ―31)キログロムほどの電子すら分け与えてくれないからうまくイオン化することができない自分を、あ、わたしはこの世界で不安定な異分子なんだっていう風に言い表したかったのよね⁉ さすがの表現能力ねアズにゃん! よっ! 文学少女キャラ! 弾丸的な超高校級の文学少女! でもね、その問題はあたしが友達になったことでもう解決したでしょ! 電子だかレンジだか電話レンジだかオーキードーキーだか知らないけど、それどころか、もうあたしアズにゃんになら原子核でも陽子でも中性子でもクォーツでもなんでもかんでも猫も杓子もお賽銭箱に擲っちゃうわよ! だって友達なんだもん!」

 ……な、なんだ、夢見のやつ……急にどうしたのだ……?

 夢見は月見の肩をがたがたと揺すらんばかりにして、立て板に水の譬えよろしくそうまくしたてていたね。必死に、何かをとりつくろうように。

「はわわ……ご、ごめんなさい夢見さん、わたし、おりも――血の道の話なんて、星空くんもいるのに、はしたない……」

「謝ることないじゃない! 女の子は謝ることないの! 女の子は、無いの! いいわね!」

「は、はい……わたしは、ありません……!」

 なにが無いというのだ。さっぱりわからんぞ? 女の子に無いのはラノベだけなのか?

 ともあれ、夢見がなぜこうも必死に現実に対してラノベ的であれだとか、サブカル的であれだとかの要請に従おうとするのか、俺は本気でいぶかしむ。マンガの見すぎ……世間ずれした社会人ならば誰しもそう思うところだろうが、どうもそのような一言で切って捨てるには、夢見の暴走は止められない気がする。

 ……止める? 夢見の妄想に、掣肘を加えるというのか? ほかならぬこの俺が? なんと言って――?

 ――夢見よ、世の中は小説じゃない。現実とは『涼宮ハルヒ』なんかではない――メランコリーそのものが、それなのだ、と……? 身も蓋もなくそう言えと?

 ……まぁ、考えたって埒が明かないし、疲れるだけならただ時間をふいにするのよりタチが悪い。俺は本当に月見の肩をゆすって、暗示をかけるみたいにしている夢見を見て、ただ笑っていることにした。

 ちなみに保健室の真ん中に設けられたテーブルに三人が着席している位置どりは、夢見と俺が隣り合わせ、俺のはす向かいにスライド式の入り口を背にして月見が座っているという配置だ。今日はお日柄もよく、背中に感じる陽気は春を感じさせて気持ちいい。風もそれほど強くない。花粉予報によると、ピークはようやっと過ぎたらしい。ああ、久しぶりにドワーフみてぇにワイルドな髭に覆われた俺の口を衆目にさらすことができるのかと思うと、普段インドアな俺も、うきうき気分で外のタンポポたちとたわむれてみたくもなる……。

 俺がどこかにトリップしている間に、いつの間にか話題は月見のキャラについて突っ込んだものになっていた。

「なんか、流れでわたしの表現ってことになってましたけど……わたしなんかよりきっと、夢見さんの方が、文学少女キャラって感じじゃないですか……ボキャブラリープール的に……」

「そんなことないわよ! あたしホラ、黒髪でもパッツンでもないお団子女子だから! メガネまでついてるアズにゃんの方が、よっぽどその役割にふさわしいわよ!」

「でも……外見はともかくとして、内容の方でも、なんだかわたし、夢見さんたちに負けてしまっているような……そんな、言い知れぬ予感がしてならないのです」

「負ける? なにが負けるっていうのよ?」

 ……人間の質とか、女としての品格とかか? たしかにバストのサイズってのは、なかなかどうして、こう、形とか大きさとか見た目とか以外の要素が関わってくる感じは、しないでもない。

「お黙り。デカシリーの無い男子め!」

 ……デカシリーってなんだ? でっかいケツのことを指して言ってんのか。その言い回しに、軽く超時空的にデカルチャーだよ。正しくはデリカシーだよな。

月見はおどおどとしながら言う。

「……わたし、図書室で本を読むようになってから、いつの間にか文学少女って周りから呼ばれるようになっていたのですが……」

「ふんふん、アズにゃんはどっからどう見ても、文学少女以外の何者にも見えないよ。友達のあたしが言うんだから間違いないよ。友達の眼はごまかせないものだし、人の真相を見抜くの! アズにゃんは根っからの、生まれついての生え抜きの生来の文学少女気質よね!」

「実はわたし、文学とか、あまり読まないんです……」

「ほわぐら⁉」

 と、夢見のやつ、なぜか世界三大珍味の一つの名を軽薄な感じに貶めて叫んでいたね。その四文字で、お前は何を伝えようとした。

「わたし、アイザック・アシモフや、『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』といったSFものや、はやりの伊坂幸太郎さんとか有川浩さんとかといった、エンタメものしか読まないんです……文学も、それなりに読むこともあるんですが、人並み以下かもって……」

「うらぎりっ⁉」

 うむ、それについては何が言いたいのかわかったぞ。よかったな、四文字で意思を伝達できて。

 しかしまぁ、たしかに月見ルックが文学チックに見られてしまうというのも、わからない話ではない。人は見た目が九割、なんて本も一時期はやったくらいだしな。見た目から、憶測というか――レッテルが貼られるのも、むべなるかなである。人々だって、見た目と実態が乖離しているとは、自分を鏡で見てみた時にわかっているはずなんだが、しかしどうしてか、風説を飛ばしたがる。それがそれとしてそこにある、その形の意味をつけたがる。先人が星を見上げて神話を語ったように――月見を見て、文学少女に仕立て上げる。いつの時代どこの世界も、人間のその性向だけは永久不変、曠日弥久なり。

 己のキャラは、己によって発掘されるのではなく……他人の布いた、いわば物語の中に初めて自覚される。あ、私ってこうなんだ、とな。自己のポートレートの不描出性。なに、難しい話じゃない。自画像はそもそも自分では描けないものなのだから、レオナルド・ダ・ヴィンチはすごいという話で……履歴書なんかにある自己PRなんてのも、自己、なんてのは名ばかりで、社会がもとめる自己というのは他者によって与えられた言うなればキャラであるんだから、それを人に聞いてから書けということだ。履歴書が自己PRの項で問いたいのは、きっとお前さんにはお前さんを知る人間がいてくれるのかい、ということなのだろう。たぶんだがな。アルバイトをするつもりのない俺には無用の心配だがね。

「じ、じゃあさ⁉ アズにゃんはそのええと、前髪ぱっつん眼鏡っ娘の垢抜けない系の……単なる読書女子ってことなの⁉」

 おいおい、単なるとか言うなよ。

 自分にとって自分は単なるじゃないだろ? いつでも自分だけは特別でありたい、そんな世界だってこの世にはあんのさ。

「はい……ご要望にお応えできなくて、すみません……」

 月見が謝ることないじゃないか。

「でも……夢見さんは、驚いてらっしゃいます……わかります、昨晩の間中それを黙ってた、裏切り者のわたしなんかと、もう友達でいたくなんてないですよね……夢見さんがほしかったのは、嘘なんか吐かない、どこまでも清楚な文学少女だったんですよね……」

「……それは、……」

 ……違うだろ。夢見が文学少女と友達になりたいと思ったのは、きっかけでしかない。何かを行動するとき、踏ん切りをつけるためのきっかけ……要は助走さ。

「……女装キャラ?」

 お前は黙らっしゃい。……月見よ、夢見はお前と友達になりたいと、心からそう思ったからお前のメルアドを訊きだしたんだよ。それは月見が文学少女だったからじゃない、月見が月見だったからだ、どうだ違うか、夢見?

「……男の娘……ラノベにエオニスム的趣向を取り入れるか……なるほど、お約束の鉄板ではあるわね……」

 ……おーい、夢見。こっちだこっち。還ってこい。それとBL路線は俺の口には合わんから。

 俺は健全なヘテロだよ。

「はっ⁉ 誰はここ⁉ どこはあたし⁉」

 それは俺のキャラだ。自分を見失うなよ。ちゃっかり主題を輻輳させるな。

「うん……あたしがアズにゃんのメアドをゲットしようと思ったのは、アズにゃんが理想の女の子だったからでもないし、文学少女だったからってわけでもないし、レズ的な意味でまぐわいたいと発情したからでもなければ、個人情報を収集していたのでもないよ……あたしはアズにゃんと、友達になりたかった。ただそれだけ」

 ……ただそれだけと言っておきながら、いろいろと雑念が混在してそうな風に聞こえてしまうのは、夢見が口ベタだからなんだろう。思っていることを、すぱすぱ言葉に出すのが口下手だ。

「夢見さん……」

「だからさ、アズにゃん。キャラとかそんなの、どうでもいいよ」

「……え?」

「気にしなくていいって、そんなの。あたしはアズにゃんがアズにゃんでいてくれるなら、この先どういう風にキャラ崩壊しようとも作画崩壊しようとも、貴女を愛してみせる――友達としてね」

 と、右目ウィンクで言ってのけたのだが……作画崩壊は、許容しちゃまずくないか?

 月見が月見でなくなる、なによりの事故だろ。

「夢見さん……ありがとう、わたしの友達になってくれて……」

「いえいえ、こちらこそありがとう、アズにゃん」

 ……なんだかいい話で、ほっこりしてるところ水を差すようで恐縮なんだが、谷川式とやらは自今どうするんだ?

「……あ(゛ )⁉」

 と、およそ女の子らしくもない胴間声が、夢見の臍のあたりから聞こえてきた。作画的にはそう、某ヒットマンの太すぎる眉毛みたいに、顔の線が劇画調に濃ゆくなっていたね。

「そ、そっか……アズにゃんが文学少女じゃないってことは、茅原ボイス枠を別の人間に設定しないといけない……そうなると、本当の文学少女を見つけなきゃじゃない!」

 続ける気だったのか。てっきり、友達ができたんだから、当初の目標は果たされたものとばかり思っていたのだが……。

 小野ボイスと後藤ボイスも探すのかよ。

「……あのぅ、昨日もちょっと耳にしましたが……谷川式って、いったいなんのことですか?」

 ああ、月見は知らなくていいことだよ。ただ夢見の頭が人よりメルヘンがかってるってだけさ。

 と言いつつも、俺は業界の金字塔ともいえる某ラノベの筋をなぞろうとしている相談部の門外不出、厳秘に付された内幕をさらっと明かしてやったね。月見を仲間として、迎え入れたればこそだ。

「……なるほど、わかり――委細承知しました」

 と、なぜか言葉のチョイスを変えた月見は、心なしか、顔つきまで変えていたような……。

「これからは、わたしも勉強して、がんばって文学キャラに転向してみせます!」

「ええ⁉ いや、そんな無理してクラスチェンジしなくていいから! あたしはべつに、いまのままのアズにゃんで……」

「いいえ、夢見さん。わたしやっぱり、文学少女キャラになります。いいえ、わたしはなりたいんです! さしあたっては、いまの文学ルックをさらに追究して、三つ編みロングにしてみせます!」

「えぇ~⁉ まじすか、超高校級な感じっすか⁉」

 なりたい、ねぇ……まぁ、本心からそう思ってるなら、俺らが口出しできた筋でもないが――。

 でも俺は、友達を得たおかげで普通の女の子の姿になった月見を見てみたいと思うけどね。

「……普通の、わたし……?」

 そうだ。無理して文学少女になるんじゃなく、自分で読みたいと思って文学をやるような、そういう月見さ……それでいて放課後には、夢見と連れだって都内のブティックだとかで羽目はずして、噂のクレープ屋さんの人気スイーツ片手にウィンドウショッピングなんかして、当たり前の女子高生のように休日を明るくハッピーに過ごす、そういう月見が見てみたい。要は、誰かが望むことをやるんじゃなくて、自分がしたいことを積極的にやって楽しんでるような、そういう月見であってほしいと俺は思うけどね。友達が望むからとか、友達に合わせるために漱石読んでるのとか言うの、いろいろとちぐはぐだろ? それこそ漱石枕流さ。無理せず、月見にできること、月見がしたい範囲で夢見と距離を縮めればいい。月見はどうしたい?

「わたしは……女の子に、なりたいです……女子高生として、当たり前で、普通の女の子に……」

 ……昔のアイドルでいたな。普通の女の子になりたいって叫んだグループ。

「……もっと、夢見さんから、可愛いお洋服とか、綺麗なアクセサリーとか、そういうの教わりたい……」

「アズにゃん……」

「……でも、夢見さんの意向にも、友達として、副いたいし……ああ、わたしどうすれば……!」

 ……なにを悩むことがある。なにを考え込むことがある。

 普通でいいんだろ、だから。

 着飾りたいなら、着飾ればいい。夢見と一緒に街へ繰り出し、実地にもっともっと教わって、ヘアサロンとかエステとか行って、そうして変身すればいい。

「……じゃあ、文学少女は……?」

 読めばいいのさ。読みたいものを、読めばいい。

「え、でも、それって……?」

 文学少女が、垢抜けない風貌で黒髪で前髪ぱっつんで黒縁眼鏡でなければならないなんてしきたり――誰がつくった? そんなもん乗り越えて、独自のキャラを作れよ。横紙破り、大いにけっこう。セオリー通りに行かないことこそ、人生じゃねぇか――。なぁ、夢見?

「え、ああ、うん、そうね。あたしもそう思う。ていうか、あたしが真っ先に思いついて、言いたかったのよ、そのセリフ! あとで日誌に書く時、あたしのセリフに挿げ替えときなさいよね!」

 いやだね。

「千円!」

 いやだね。俺は倍積まれたって金では動かせん男だよ。

「く……五千円……」

 しょうがねぇな、樋口で手を打とう。

「カッコいい発言をする部長として売り出したいから、ちゃんとあたしの言を舞文曲筆するのよ、いいわね⁉ 貯めに貯めてたお小遣いなんだから!」

 読んでるか、夢見? 

「――そっか、わたし、じゃあ――夢見さん、わたし、そういう文学少女になっても、いいですか……? 可愛い文学少女になっても……?」

 おずおずと、見上げるような眼差しで問う月見を、しかし夢見はにべもなく――。

「いやだね」

「……え……?」

 肩を落とそうとする、月見。まぁ、流れ的にはそこで峻拒ってのがまさに横紙破り、横車を押したようで、面食らったのだろう。しかし俺には分かるぞ、夢見よ。意地の悪い笑顔を浮かべたお前の腹蔵が、手に取るようにわかる。いやだねの四文字が示す意味が、俺にはわかる。さっきから、月見が喋るたびに覚えていた違和感だ。

「……夢見さん、どうして……?」

「それ」

 怪訝そうに、悲嘆に暮れるウグイスのような声を口の先で顫わせている月見へ、ズイと卓に乗り上げたように夢見は一息に押し迫り、そうしてだしぬけに指を向けて言うに、

「あたしがアズにゃんって呼んでるのに、どうして貴女は、あたしの名前を呼んでくれないの?」

「……あ」

「呼んでくれないと、あたしは認めてあげないんだから!」

 ぷいとそっぽを向く夢見。やれやれ、これが昨日までは友達ゼロ人だったやつのとれる態度かね? それとも容姿で得をした人間に特有の、鼻持ちならない傲岸さかね。

 月見はぱっと顔を明るくし、花のように微笑んだが――しかし次の瞬間には、また表情の雲行きを怪しくする。そんな月見のかんばせを流れるあるかなきかの陰影になぞとんと気を払わず、「今後は敬語も無しだかんねっ」とお姉さんとの約束だよが語尾につきそうな語調で云うのであった。

 月見は「わかりまし――わかったよ……でも、」と、おずおずと、俺を見遣りながら、訊ねにくそうに夢見に問うたね――この時俺は、にやけを通り越して爆発せんばかりに、机をばんばん叩いてうち壊さんばかりに破顔していたのさ。

 なぜかって? 面白い展開になるのが見え見えだったからだよ。

「……ところでわたしは、ガチちゃんと呼べばいいのかな……?」

 これである。

ガチちゃん。なんだそれは、ふざけてるのか、ガチな名前なのか? どっちだよ。豆腐系女子みたいに柔らかいのか、石みたいに硬いのか、どっちなんだよ。某アヤメちゃんもかくやの呼び名だよ。夢見、お前見た目はそんなに素晴らしいのに、なんで名前は残念なんだ? がっかりのガチちゃんか? 名前が姿に負けちゃってるよ。

「が、がっちゃんって呼んで……っ」

「……がっちゃん……?」

「……んちゃっ!」

 相棒の立ち位置にメガネっ娘をどうしても据えたかったのは、谷川式じゃなくて、鳥山式だったのか? 幼女型のはちゃめちゃロボットを意識してなのか?

 だったら残念ながら、ここにはドクターはいないぜ? しがない保健室の先生が隣の控え室に引きこもっているだけさ。そこにて研究はしていない。

 アズにゃんとガっちゃん……時代も作品もジャンルすらも飛び超えた、なんというコラボレーションだろうか。このコンビは、あれか、空を飛び回りながら楽器演奏とかするのだろうか? 雷が日常的に校舎を灼くもんだから、我が第三高等学校音楽室はその補修費だけで火の車だろう。市立といえど親方日の丸とはいかず、首の回らなくなったその悲鳴すらも、音色と変えて可愛らしくけらけらといっひっひっひと笑ってみせるのだろうか。

 みんな集まれ、第三高等学校村に。

 笑う哂う、不幸を嗤う、みんなでそれを、さらに哄う。

「……ガっちゃん!」

「アズにゃん!」

 すっかり意気投合してしまったようで、室内はもうほんわかムード。傍で笑っている俺の方で淋しくなってくるくらい、二人の世界は幸せそのものだった……長らく友達がいない者同士、その感慨もひとしおだろう。まぁ、月見の過去については、俺はなにも知らないのだけれど。

 文学ではない小説をよく読む女の子だというのはさっき聞いたが、女児として華やかなりし頃があったのかどうかなんて、さっぱりわからない。

「ところでアズにゃんは、いっつもどういう本を読んでいるの? 外向きはフツーの女の子にして、中身は文学少女にするといっても、いきなり『源氏物語』を読みましょう、は辛いしね。まずは肩慣らしに、軽いものから入って、耐性つけてからじゃないと」

「はい――うん、わたしもそれを言いだそうと思ってたの。ライトノベルとか、そういうのは読んでないけど、『ハリー・ポッター』とか、そういうファンタジーはよく読んでるよ……」

「平易な文体ってことかー、まずは文語慣れしてくれないと、文学少女キャラとはいえないわね」

 ちなみに、今はなにを読んでるんだ? その作家から世代を少しずつ遡って読んでいくのがベストじゃないか?

「それね! それもあたしが言いたかった! いや言った! いま言った! もう既に言った!」

 ごめんな、夢見。五千円、二人の将来のために(部費として)使おうな。

「いま読んでるのは、これですね……」

 と言って、持参した小さ目なスクールバッグの中から取り出したのは、一冊のハードカバー本……いや、正直俺は、ハードカバーってのが心底嫌いでね。よく雑誌のカドが豆腐のそれに次ぐくらいの凶器に譬えられたりするだろう? ぎゅうぎゅうに押し込められた電車の中、周りのやつらがそんなに読む時間がないものか、是が非にでも本を読もうとしてハードカバーを開くもんだから、揺れるたびに首やら頭やらに当たって痛いのなんのって。だから俺は、できることならハードカバーは見たくもないね。精神的に満員電車の痛みが蘇る。

「ふむふむ……東野圭吾さんの、『容疑者Xの献身』かぁ……」

「うん、映画を視て、面白かったから……ガっちゃんは読んだこと、ある?」

「あるよ。いいお話だよ。大号泣」

「うん、推理の展開とか、すごくハラハラさせられて、とても面白かった」

 ……そうかね。俺は推理の展開を面白いだなんて、ちっとも思わなかったがね。むしろミステリは心のエニグマを解くものでなければならないということを、ひしと感じさせられたよ。それに救いようがない。ああいうのを書かれちゃ、本当に生きてることがいやになっちゃうよ。

「……え」

「むぅ。また星空くんはすぐそういうこと言う~」

 いや、好きだよ? 純粋数学、完全なる美に憑かれた男の、破滅の物語……いいよな、タイトルが完成されてるよ。隣り合う色は一緒にならない、これこそ美しい……証明は自分で解くのであって、美しくない答えは拒否してかまわない……学生のうちはな。垢塵にまみれてしまえば、美しさもくそもない。隣り合っただけでも一緒になるのさ。袖触れ合うも、強引な他生の縁ってな。路傍で枯れたくなければ、畳のうえで死にたければ、みんなに野辺送りされたければ、せいぜい我々は美しさを捨てねばならない。

「……え、え、星空くん、それって、この本の話……?」

「ちがうでしょ! 何回言わせればわかるのよ! 彼の生き方は、美しい! でも、そこばかり切り取って汲み取るような読み方はしちゃいけないって、なんべん言わせるのよ!」

 山が出て来るよな? 映画でも登ってた、雪の山になぁ……美しさに牽引された男は必ず山に行き着く。なぜ山に登るのか? その後遭難したジョージ・マロリーは答えたとされる……そこに山があるから、と。山があるからいけないんだよな。元来があんなもの、単なる高いところにある土壌じゃねぇか。見方を変えればフラットにも見える。しかし人間が勝手に等高線を書きこんじまったせいで、頂にオリュンポスの神々みたいなけったいな理想がどっかと座り込むようになっちまった。その意味での一座。その威容を誇りかに見せつけてこその、点景として映える一座の富嶽だ。富嶽は三十六とか百とかの景にすぎず、触れちゃダメだ。それに惹かれちまった人間は、山巓へ達することにのみ従事してしまう。憑かれたように、呪われたように。山崎豊子の『白い巨塔』っての、あるだろう? あれなんかまさにそうじゃねぇか。登りつめようとすることの孤独、悲哀、末路……人は救われねぇ。

「えっと……それなら、ドラマの再放送で何度か……」

「だーかーらー! そんなひねくれた読み方をしないでよ! 美しい物語は、ただ人を悲しませるだけのものじゃないの! じんと来るの……! 胸に直接、じんと届くのよ! そうすれば涙が出て来る、理由なんてないけど、それはきっと、悲しい涙なんかじゃないわ。筆舌に尽くしがたいけど……雨のように、みんなを潤すことのできるような、そういう優しい涙を天から降らせるのよ!」

 なるほど、変化の雨ね。よくできたフィクションにはお約束だな。

「……え、えっと……お二人は、なんのお話をしてらっしゃるのですか? お外は、この通りからりと晴れてますけど……」

 月見は知らないのか、なら教えてやろう。創作ものにおいてな、雨が降ると男女の仲が渝わるんだ。そういうフラグ、作品内ガジェットさ。

「……はぁ?」

「まーたそういう野暮なこという……」

 雨じゃなくてもいい。水があると、水の湿潤な効果によって男女の距離が近づくようになってるんだよ。

「水、ですか?」

 ああ。たとえば俺の袖の下になぜかこうして忍ばせられている樋口一葉のものした『にごりえ』なんて意図的でな、今じゃ陳腐なテレビドラマでありきたりの手法だが、相手にグラスの瓶を傾けて、濡らした服を拭き取ろうとして相手に近づいたりするってのがあるだろう? 『にごりえ』にもそういうシーンがあるんだよ。水がかかって、それが推進剤となって男女の仲は深まるんだ。雨の場合は、一緒に雨宿りってのが暗黙のセオリーだよな。尤も現実にはそういうの無いから、期待しない方がいいぜ?

「へ、へぇ、知りませんでした……」

「アズにゃん! こんな美しさを削るような野暮な話に耳を傾けることなんてない! こんな風な物語の読み方は、あたしたちには要らない! というか無い!」

 無いだろうが。しかし雨ついでに、語っておきたいのがもう一つある。村上春樹の『ノルウェイの森』って知ってるか?

「あ、わたし読んだことあります! 村上春樹さんの『ノルウェイの森』、文章がすっごくキレイで、お話も、感動させられました!」

 『ノルウェイの森』にも雨が降るんだがよ……氏はこの雨を、あきらかに別の意味で使ってる。作中人物の一人に「雨よ降れ!」なんてナントカ時代の雨乞い女でもあるまいに、そんな台詞を吐かせてるんだ。これには思わず苦笑いだよ。この小説は恋愛小説ではない、人々の方での変化を期待した、反骨の小説だ。

「……は、はぁ……?」

「もう! だからなんでそういう無粋な読み方するかね! 面白い小説は、面白い! 美しい小説は美しい! それだけでいいじゃない! 作品内ガジェットとか、野暮な話はなしなしなし!」

 けれどな夢見よ。月見に本格的な文学少女キャラになってもらうんであれば、ある程度小説の技巧、作者一流のメチエについて教えといた方がいいぞ? 読む方の視点ではなく、書く方の視点という読み方があるんだということをな。たとえばホラ、一本松なんていうように、松の樹が小説に登場すると、孤独を表象しているとか、簡単なことをな。

「あ、え、へぇ……そうなんですか……」

「それもたしかに、言われてみればそうね……じゃああたしからも一つ。ポプラの樹ってあるじゃない? あれって作品では、死と再生を意味しているのよ。お墓とかの素材として使うこともあるみたいだから」

 だもんだから、俺は某働く感じの四コマ漫画を初めて眼にした時は、ヒロインの名前におったまげたもんだね。安っぽいジャンクフードじゃなく言い知れぬメメントモリのスメルを嗅ぎ取ったよ……まぁ、残念ながらカラスが鳴くこともなければ、おれ今度あいつと結婚するんだ的なこともなく、各話のクライマックスで主要人物が全滅するというような悲惨なカタストロフにもならんかったわけだが……。

「……は、はぁ……?」

「ところで星空くん、ポプラの樹といえばどういう作品を思い浮かべる?」

 急に振られてもなぁ……最近読んだ中じゃ、たしか村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』の最後らへんだかに、作中人物が車のシャーシーやら電柱やらと次々に衝突していく中で、なぜかポプラの樹幹ともぶつかるのが印象的だったかな。わざとらしいメッセージだね。

「……わたしそれ、読んでませんので、なんとも……」

「あたしはやっぱり、遠藤周作さんの『海と毒薬』よね! ポプラの樹が全編にわたって効果的に配置されてるわ!」

 おいおい夢見、なぜ故人にさんをつけたりなんかした。

「あんたみたいに、村上春樹さんを呼び捨てにする神経の方が人としてどうかしてるのよ。礼儀知らずなうえに、無粋もかさねてる。あんまりメタなこと言ってると、そのうち業界から干されるわよ!」

 学術論文はみんな呼び捨てにしてるぜ? あれは全部礼儀知らずなのかい?

「あんたのどこが学術よ! ひねくれた読み方して、文学をけなしてるだけじゃない! 全国の文学ファンに謝れ!」

 言論は自由さ。読み方も自由だ。これは俺の、妄想的な読み方さ。違うと思うんだったら、違うと思えばいい。とにかく俺はポリシーとして、生きていようが死んでいようが、権威があろうがなかろうが、著名人の名前は等しく呼び捨てでいきたいね。それこそが俺好みのフェアな人間ってやつさね。

「西尾」

 き、きさまぁぁぁぁぁぁ! 維新大先生のことを言っているのか……? 維新大先生のことを言っているのかぁぁぁぁぁああ⁉

「……あ、星空くん、西尾維新さんが好きなんだね! わたしも、ちょくちょくあの人の本、読んでるんだ。表現がすっごく軽妙で、ウィットに富んでいて、面白いよね」

「ほらみなさい! 自分だって呼び捨てにされたくない作家さんとかいるでしょ? なにが公平性よ、もっとみんなを敬称で呼べるようになれるのが、大人の証よ?」

 ぐぬぅ……ところで話は変わるが、夢見よ。村上氏ついでに、俺が最近気づいたことなんだが、小説のタイトルとその内容において、ある発見をしてしまってね。

「なによ? ネタバレでも野暮でもなければ言ってごらんなさい」

 小説のタイトルに、終わりという語句が入っていると、どうも作品では記憶の改竄、みたいなものがテーマとなっているようでね。

「あはは、なによそれ。それじゃ終わりなんて冠された小説、いっぱいあるけど、全部記憶喪失ものってことなの? 登場人物の心象を自分と重ねて読むスタイルをあたしは否定しないけど、あんたみたいに特殊すぎる属性の目線でそうやっていちいち読まれたんじゃかなわないわよ。終わりなんて文字が入ったタイトル、ごまんとあるわよ」

 いや、記憶の改竄ってのはなにも記憶喪失のことじゃない……俺は読書の時にまで徹底して役割をつくろうとか、そんなことはしていない……ただちょっと、気付いたんでな。村上春樹……氏の、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』って知ってるか?

「……わたしは、そのぅ……」

「あるよ、読んだこと」

 あれは改竄とはいかないまでも、記憶について踏み込んだ内容のようには読めないか?

「……そうかなぁ? 記憶が主題とは言い切れない気がするけどなぁ……あんたの穿ちすぎな読みじゃない? そうと思いたればこそ、そうに違いないと思い込んじゃってるだけじゃない?」

 たとえば西尾維新大先生の近作に、『終物語』なんてのがある。その上巻を読んだことはあるか?

「……あのぅ、……」

「あるよ。ああ、たしかに。言われてみれば、それは記憶の改竄、みたいなところあるわね」

「……うぅ……」

 だろ? 俺は、西尾先生は意図的だと思うね。日本以外で挙げるなら、お前さんが最近読んでたジュリアン・バーンズなんていう有名な作家の、『The Sense of an Ending』なんてあったろ? あれの邦題なんて、『終わりの感覚』じゃねぇか。翻訳者は終焉とか終末とかじゃなくて、意図的に終わりと訳したんだよ。

「あー……まぁ、たしかにそうかもしれないけど、偶然じゃないの? もしそうだったとしたら、こんなところで内幕を明かしちゃうと、本当に業界に干されちゃいそうじゃない。そういうのは、気付いても言わない方がいいの。知者は言わず、言うは愚者なり、ってね。でも、『終わりの感覚』といえば、あたしあれの最後、さっぱりわからなかったのよねぇ」

 最後? 最後ってあの、手記の計算式のことか?

「うん、そう。bはベイビーってことはわかったんだけど……」

 バカ。お前こそ無粋なんだよ。そんなものが、人間にわかってたまるか。わからないからこそ、人間は懊悩するんじゃないか。『終物語』読んだんだろ? 最後に渡された手紙に書かれていた内容を、お前は言い当てることができるのか?

「……っ……」

「……それとは違うんじゃない?」

 違わないね。それが文学だ。そして、小説のタイトルに終わりと付されていれば、それは記憶の改竄を――。

「――あ、あのぅ‼」

「うええっ⁉ ど、どうしたのアズにゃん、いきなり大きな声張り上げて……?」

「……わ、わたしのキャラ……姿負けしています……!」

「……あー、……ごめん、ついてこれてなかった?」

 ……というか、存在を忘れてた。

じわじわと、月見の眼から何かが潸然と下りそうな様子だった……いや、まぁ、なんかさ。

 あとで三点リーダーとかだけのセリフ、俺と夢見との間に適宜挿入しといてやるよ……。五千円儲けた商売にしては、これだけってのも小さい働きだけどな。」


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