四月 一五日 (火)
あなたの憂い、とばします。
黄泉の客へと売り飛ばします。
「梶井基次郎の『檸檬』といえば、今でもけっこうな愛読者が存在していて、俺なんかが好きだと公言したところで追従やなんかととられてしまい、二番煎じだの一万番煎じだのと当てこすられもしようが、まぁそれでも俺はこの小説がたいそう好きだね。主人公は病気がちで、それも本当に、どうしようもない病気を抱えこんでんだよな。かつて愛してやまなかったものが、自分の中に占める割合をどんどん希釈させていく……これほど辛い病もまたとあるまい。もし本当にレモンが紡錘形の手榴弾かなんかだったとしたら、いっそどんなにかすがすがしい思いになれるかしれないな。形のないものを、形而下の物質で木端微塵にできたら、病なんか忘れてすっきりできたろうに。俺が神様だったとしたなら間違いなく良心的に、レモンをミニニュークとすり替えていたこったろうね。まぁ、神ならざる身には人の抱える病を察することすらできねぇわけだが。クラスのやつの未だ誰も、教師すら、俺の記憶喪失の事情を把握していないんだからな。これは笑えてくる、笑える世界だ。病んでるやつは、誰にも救われないし、自分自身のメンタルでもどうにも克服できない。相談相手は、どこにもいない。
「それは違うわよ! たしかに『檸檬』は、ちょっと浮かばれない悲愴さがその果汁みたく滲みでてるけど……最後、美術棚に置かれたレモンは、彼にとっては本当に爆弾だったのよ! 病をさえ吹き飛ばしてしまうような、そういう明るい色をした爆弾だったの! そりゃ、彼の抱える病気はそんなことでは癒えない類のものだったけど……けど彼は、微笑んだ! それを忘れちゃダメよ! 彼は笑った、病気のことなんか忘れて笑ったのよ? むしろ以前みたいに、芸術という一つの世界に閉じ込められることなく、レモンで新たな世界へとつながる扉を破壊したんだなって、そう読み込まないと嘘じゃない! あの小説は、やりきれない憤懣の塊だみたいに言わないでよ……もっと広い世界への、橋渡しになるんじゃないの?」
と、相もかわらず甘っちょろいことを俺に吐かした夢見勝は、だが待ちに待った放課後の部活動時間をさっそく貧乏ゆすりと落ち着かない気分のなか過ごしていた。
「ヒ~マ~だ~! 暇だ閑だ遑だ隙だひーまーだー‼」
「どうどう、落ち着けよ。叫んだところで、話相手が向こうからやってくる道理もあるまい」
ところで遑は連想でわからんでもないが、隙ってどこのニッチ空間だ?
「つまらんっ!」
ふんす、と口をへの字なりに引き結び、闘牛のような鼻息をする。花粉にやられて鼻炎ぎみだった俺がそれをやってしまうと、とても画にできない事態になりそうだったから、息だけを噴きだせる鼻というものが正直羨ましかった。いや、まぁ、夢見のすらっと透き徹ったような白い鼻が、ではない。その美容大国韓国にでも行ってきて整形して誂えたかのような高く美々しい鼻は高校に上がるや友達一人つくれないでぽつねんとしているこいつには分不相応だと思えたが、そういえば夢見に付き合わされているせいで俺にも友達と呼べる人間が一人もいなかったことに遅まきながら気が付いて、さりとて鼻炎キャラが鼻息を荒くするわけにもいかないから、俺は下を向いて保健室の清潔に保たれたテーブルの上にそれでもちらほらと見受けられる黒いシミとか汚れみたいなものを拭き取るでもなくいたずらに数えていた。畳の目を数えるのに心境としては近い。目下、鼻の異常のために俯きがちだった気分にはちょうどいい羊数えとなったようで、俺はこの時くしゃみではなくアクビを一つ、大きくついてやったね。
そうすりゃ夢見というわかりやすい形や行動にすぐとばかり気を引かれるこの女は、たちまち俺のアンニュイを嗅ぎ取ったかして、
「あ、いまアクビしたでしょ! 真剣な部活動中に、うたた舟を漕ぎつつあったわね!」
「人の健やかである証じゃないか。アクビができる環境というのは、平和の園とおさおさ遜色ない……何を咎めることがある」
誰一人訪れようとしない相談部の部室でヒマだヒマだとじゃじゃ馬のごとく駄々をこね続けることが果たして真剣な部活動と呼べるかは眉唾だが、それを言っても詮無いことなので、俺は耳許でギャーギャー騒がれるせいで午睡もままならなかったから、しょうことなしに話し相手になってやった。
「ところで夢見。友達をつくるのになんでまた相談部なんだ? わざわざあんな建白書をしたためたり、手数を踏まずとも人数の多い運動部ないし文化部へ入れば、お前のことだ、たちまち一座の中心となれたろうに」
まぁ、容色は具えていても人見知りの激しい夢見のことだから、きっとスポーツ部のマネージャーになっていたとしても、ドラッカー式の方法論を採用して才覚を発揮してのけるだとか、そういう眼が飛び出るような貢献はできなかったろうが……まぁ、夢見ほどの女子生徒がベンチにいるというだけで、男子のモチベーションはぐぐっと上がるだろう。
しかしそうであったなら、と、俺は考えずにはいられないね……そうであったなら、俺の放課後の自由時間が制限されることもなかったろうし、そういったモチベーションを上げてもらいたい男子から一方的に顰蹙を買ってしまうような今の状況にも追い込まれていなかったろう。だから俺は皮肉交じりにそう訊いたんだが、何事も悪い芳香を嗅ぎ取ろうとしないこの小娘は、ふふふ聞きたいか、どうしてもその理由を聞きたいのかともったいぶるような腕組をして悠然とほくそ笑んでいたので、俺はたまらず自分自身の直前に発した言葉を世界から消したく思ったね。
「実はね、あたしがまどろっこしい申請の手続きをしてでも、この相談部を設けたのには、それはそれは深―い理由があるのよ。友達が欲しいっていうのは、あくまでおまけ、お菓子のオマケ!」
「……なんだよ、その深い理由って? もったいぶらずにさっさと言えよ」
「フフフ……わからない? あたしがなんで、いま星空くんが言ったように、どこにでもある普通の部活に入らず、わざわざ新しい部活をつくったのか、その理由がわからない? ふふふ……」
「うざいから、その不敵な笑みを今すぐ面前から消し去れ。この消しゴム、いやさ、大魔王イレイザーの放つ驚異の摩擦熱でもってキサマのニヤケ面を溶かしてやろうか。……まぁでも、なんとなくわからんでもない。あれだろ、ありきたりな部活だと部員が多くて、夢見が欲してるような心置きない友達ってのがつくれないから、じゃないか? どうだ、俺の推理。正鵠を射ているだろう?」
「ぶっぶー! 的外れもいいところよ! そもそも、同じ部活の部員と友達付き合いできるものなら、あたしとっくにその社交性を駆使してクラスの人気者となっているはずでしょ?」
「そうだな、忘れていたよ。夢見は基本、宝の持ち腐れ体質なんだよな」
「悲しいことにね!」
と言って、それなりにふくよかな胸を張って居丈高だったが、涙ぐむような虚勢なのは見え見えだった。なまじ自覚があるだけに、懊悩はひとしおだろう。人は何も知らない方が幸せでいられる生き物なのだ。自分自身について回る不幸な星にさえ無自覚でいられたなら、どんなにか幸福かしれない。
「で? お前さんがコミュ障なのは痛いほど、身に詰まされるほどわかったのだが、それだけではなぜ相談部が必要だったのか、その理由にはならんぞ?」
「せっかちね、いまから云うわよ……前にも星空くんが言ってたと思うけど、一つには、相談者の話を親密に聞いてあげて、あわよくばあたしが友達になってお悩み解決の処方としましょう、的な提案を持ちかけることができるのよね」
「あざといな、現代っ子の友達事情」
「上司と部下のそれと変わらないわよ」
「……まぁ、それにしたって相談客が一人も来なきゃ、どうしようもないわな」
と言って俺は、淋しい室内を見渡す。保健室にありきたりな光景で、身長測定のバーやら体重計やらが重々しく鎮座するそのすぐ横に、カーテンに四角く仕切られたスペースがある。不意に具合を悪くした生徒を寝かせるベッドがそこに二つも並べてあり、なんだかそんな部屋に男女が二人っきりでいるというのは、冷静に考えてやばいんじゃないの、これ。
夢見も俺の眼を追ってベッドの存在をようよう意識に留めたのだろう。今更ながらに顔を茹でられたトマトのように真っ赤にさせながら、「そ、そうよね!」とお茶濁しの相槌を打つ。
「で、でも、それだけじゃないのよ! 私が相談部を新設した理由――というか、新しい部活自体をつくった理由わね」
「? というと、他に何があるってんだ?」
「聞きたい?」
聞きたくもなかったが、話し相手に同調するようなことを言うのも一種のマナーだろうから、「ああ、後学のためにぜひ聞いておきたいものだね」などと心にもないことを言う。上司と部下の、おもねりの関係だ。
「ふふふ……実はねぇ……じゃーん! これ! なんだかわかる⁉」
と言って、陽気な笑みを八頭身の小顔いっぱいに張り付けながら、フェミニンなバッグから取り出したるは、セーラー服を着た少女のイラストがでかでかと描かれる、いとも軽薄そうな本であった。
「……なんだ夢見、お前はずいぶんな濫読派だと思ったら、ライトノベルまでカバーしてたのかよ、守備範囲広いな」
「まぁ、最近の女子高生は、腐女子だとかヲタクだとかじゃなくても、こういうのに免疫ある娘、けっこう多いのよ?」
「だから友達ができないんだ、というアンサーじゃないことを祈ろうな」
「……死にたい……霧深き街の片隅で消えて失くなってしまいたい……」
道を間違えた幼女のように、夢見のやつ、ジャックナイフどころか爆弾的ですらあった俺の言葉にしおしおと打ちのめされていたね。
「……で、そのライトノベルがどうしたってんだ。それが相談部とどう関わりがある?」
「その様子から察するに、どうも星空くんはこの小説を知らないみたいね……」
「いや、聞き及んではいるよ。谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』だろ」
「あら、知ってるんじゃない。なら、話が早いわね」
「早くない。説明責任をきちんと果たせよ、上司殿」
「つまりね、あたしはこの『ハルヒ』に出て来るSOS団っていうのが大好きで――」
……うわぁ、出たよ、こういう痛いやつ……。
どこの学校にも必ずいるよな、きっと。こういう、現実とフィクションを一緒くたにするおめでたいやつ。
「……それじゃ、なにか。夢見さんや、お前さんは、マンガだとかアニメだとかの影響を受けて、その内容に合わせて行動しようだとか、本の教訓を現実に再現して感動しようだとか、つまりそういうことがやりたさに部活を新設したのか?」
それこそドラッカーの『マネジメント』を駆使して野球部の強化に努めた話よろしく……。
夢見は俺の言葉の中から険を汲み取ることもせで、高らかに「そうよ!」と声を張っていたね。いやいや、我が部長ながら恥ずかしいよ。
「やっぱ高校生活は、非日常的に過ごさないと!」
「俺はもう十分すぎるほどに、記憶喪失という非日常的性格を持っているんだけどなぁ……」
ところでなんで記憶喪失って、そうそうみられるケースでもないのに意外とありふれた病気であるかのように世間では認識されてるんだろうな。やっぱあれか、物語の影響力か。しかしだとすると、世の中には夢見みたいな、影響を受けてしまうおかしなやつがわんさかいて、事あるごとに記憶喪失を持ち出してはそのワードを人口に膾炙させているということにもなってくるから、世の中というものは末恐ろしい。まぁ、単純にその手のテレビドラマが流行しただけなのかもしれないのだが。
「星空くんのノンシャランすぎる性格が、記憶喪失っていうおいしい設定を台無しにしちゃっているけどね。少しは失われた過去を思い出そうだとか、あがいてみせてほしいところだよ」
「お前は美少女というステータスを持て余しているんだけどな。男一人寄り付かないどころか、友達一人できやしない」
世界中の高校生を探し回っても、これだけの別嬪がこれだけ見向きもされないなんてケースはまず見られないだろう。稀有なケーススタディーだ。
「うぐ……と、とにかく! あたしは『涼宮ハルヒの憂鬱』にあやかって、相談部を作ったのでした!」
「……まぁ、行動力だけは褒めてやるよ。多くの高校生たちがそれに憧れ、しかし実現はかなわなかった怠惰な部活動という夢をお前はたった一人で形にしてみせたんだからな。まだ叩き台とはいえ、偉い偉い」
「星空くんは『ハルヒ』、読んだことはある?」
「読んだことはない。ただどこぞで、作者の谷川流は泉鏡花を愛読すると小耳に挟んだ。夢見、お前のやってることはまんま、『歌行燈』の筋書き通りだな」
膝栗毛で泣くことはできても、果たしてハルヒで泣くことはできるのか……この先の展開に、そういうしめっぽいお涙ちょうだいなアバンチュールが待ち受けているという示唆だろうか。
「うん、泉鏡花の『歌行燈』、いいよね。あたしはどっちかっていうと、『国貞えがく』みたいなのが好きなんだけど……」
「おいおい、『国貞えがく』だと? バカも休み休みいえ。あれは退治という感覚がはなはだ強すぎるね、『高野聖』の忍耐を抜きにして泉鏡花は語れない」
「む、『国貞えがく』が最高よ。退治とか、いったいなんのことよ。ほろりとくる、いいお話じゃない」
「あんなののどこがいいんだ? 世の中あんな風に、うまくやっつけられないよ。たまたま野郎の若妻が主人公に懸想したおかげで首尾よくいったんであってな、吸血の蛭が樹上から降ってき、色を失って逃げ回る『高野聖』の方がよっぽど的を射ている。それに、なんてったって『高野聖』には聞き手が用意されているのが素晴らしい。僧侶が話すというスタイルのうちに、読者は作為的な部分をどこかにかぎとれる技巧が――」
……文学ネタが濃すぎる。ネタバレのこともあるから、ここらで閑話休題しよう。ええと、ライトノベルの筋書きにのっとって、部活を新設したんだって話だったな。
「……ところで星空くん、今日のミーティングに入る前に、あたし思うことを一つここに言っておきたいのよ」
「ミーティングに入るもなにも、終始だべってるだけの部活なんだけどな……なんだよ」
「SOS団にはね――あ、『ハルヒ』の話なんだけど――ハルヒと語り部を除いて、計三名の団員がいるわけじゃない?」
「いや、じゃない? とか訊かれても、俺は読んでないからそもそも内容がわからないわけじゃない?」
「そう。まぁとにかく、二人の他にメンツが三人いるってわけよ。アンダスタン?」
「イエス、アイ・アンダスタン」
「……ヘッドハンティングするわよ!」
「……パードン?」
咄嗟に叫ばれた言葉の意味がわからず……いや、前後の文脈で考えてみればわからないことでもない。要するに夢見のやつ、俺と二人きりでこの部屋にい続けるのがいたたまれないのだろう、それで相談部開設の謂れを明かしたついでに、二人きりの気まずさをまぎらわすためにヘッドハンティング……新たな部員を加えようという試みだ。俺と二人でいたくないことを気取られたくない夢見の使う方便は、当然ラノベに出て来る某団との人数的な帳尻合わせということにする腹だろう。
正直、俺は夢見のことをもしかして真正のバカなんじゃなかろうかと、心底からいぶかしんだものだね。
「ふっふっふ……! 入学早々に誰もが憧れる日常的ゆるゆる系怠惰ムードな部活をまんまと新設できたうえに、人数まで揃ったとあれば、これはもう部活モノのサブカル的展開一直線よ!」
「……なぁおい、夢見ぃ……部員を増やすのは俺とて大いに歓迎するところなんだがよ……お前と二人で毎日だべるだけってのもつまらないし、それについてはまったく異論はないよ。しかしだな、なにか相談ごとをしにきた客とあわよくば友達になろうだなんて涙ぐましいことを考えてるようなお前に、いったいどんな人脈があるってんだ? 聞かせてみろ。もう四月も半ばを過ぎてるし、新入生一同だっていつまでも仮入部ではいないぞ? そりゃ、兼部をみとめないほど厳格な部活に所属している生徒でもなきゃ、スカウトも容易だろうがよ」
「ちっちっち。その点ぬかりはないわ! 大船に乗ったつもりでいなさい」
気分のうえでは、見切り発車に乗ったつもりだ……あるいはそう、沈みゆくカルネアデスの板にだ。ひどいオフショアの風もあったもんだが、しかしまぁ、部長閣下の命令とあらば逆らえないのが平社員の哀しいサガだね。俺は不得手でもなんでも、どうあっても波を超えねばならないらしかった。
で、その自信がどこから湧いて来るのかを問い質す前に、訊いておくべき優先事項があった。
「なぁ、夢見。仮にその、三人か? お前の卓越なネゴシエートで部員をスカウトできたとしてだな、そいつと俺らは、友達になるってことだよな」
「その人が同じ学年なら、まぁそうなるわね」
口ぶりから察するに、どうも先輩の誰かすら籠絡するつもりでいるらしい。たくましい行動力だこって。その一パーセントでもクラスの奴に積極的にはたらきかけていれば、今頃はサブカルライフならぬリア充ライフを謳歌していたこったろうに。本当に夢見は色々と惜しいところをすれすれで通りすぎてしまっている。もう少し、誰かがレールを逸らしてやるべきだった。軌道修正の梶棒を握っているであろう誰かが。
俺は言う。さも重々しい調子で。
「思うんだが、最初から部員を勧誘するくらいだったら、わざわざ部活を作ったりしないで、校内を歩き回って、手当たり次第に、私と友達になりませんかって持ちかけた方がなんぼかよかったんじゃないのか」
「……え?」
「だってお前、遠回りしてないか? 相談部を新設して、さて部員が必要、その人をスカウトしよう……これだったら、ハナから放課後に保健室でだべってるんじゃなくて、友達を探し歩いてた方がよかったじゃねぇか」
「そ、それは……だって、友達になりましょう、って、変な文句じゃない? あたしアブノーマルな人間には見られたくないし、友達に飢えてる人のようにも思われたくないの」
遭難者のようにかつえているんだけどな、実際。
「それだったら、相談部に入ってくださいって言った方が、先様だって肯きやすそうじゃない。違う?」
「まぁ、意見合いは一緒でも、たしかにそっちの方がよさそうだな……けどまぁ、いずれにしろお前さんがクラスで友達をつくれずにいる事実に変わりはない。そんな交渉術で、部員調達は大丈夫か?」
「だい――」
大丈夫だ、問題ないとエルシャダイ風に返したかったのだろうが、胸に抱え持つライトノベルが連続的に顫えているのを見ると、なんとも哀れさを誘った。
「――一番いいのを、頼みます……」
「……オーケー、それじゃあ例によって、ホワイトボードを使おう」
俺らは昨日に引き続いて、相談部の宣伝方法についてを話し合った。ビラなどを配り、隅っこの方に「新規部員募集中!」みたいなことを小っこく書けば、宣伝もスカウトも両方かねていてさながら名案のように思われたが、どだい実行不可能なことでもあった。相談部はまだ大量の印刷物を刷るためのもろもろの許可をクリアしていない。
まずはとにかく、実績としてなにか仕事の成果を教師どもに示さねばならなかった……パラドックスとか、堂々巡りみたいな話だったが、とにかく先に部員の確保を優先して考えることにした。
「宣伝方法とかも、無い知恵を二人でいつまでも絞っているよりかは、とりあえず一人増やして三人にして、文殊のそれに拮抗させた方が効率的でしょ?」
「無い知恵と思うなら文殊自身を俺たちは連れ込まなきゃならんわけだがな」
「ふふ……なんかさ、いよいよラノベみたいだよね!」
「……ハルヒか?」
「はがない」
と、略されて呼ばれたタイトルがわからず、首を傾げていると、
「平坂読さんの『僕は友達が少ない』ってラノベ。知らない?」
「だからラノベは知らない……が、そのタイトルは聞いたことがあるな。しかし、どうしてそれが『はがない』と略されるんだ? まるで意味がわからないぞ」
「平仮名の部分だけをつなげて読んでるんだよ」
「ああ、なるほど。得心いった。音だけ聞いてもわからんわけだ」
しかしまぁ、日本人の四文字に省略したくなるクセ、俺は本気で改善させた方がいいと思うよ。なんとなくだが、この先採用面接とかであなたを四文字で表現してみせてくださいなんていうとんでもないのを要求されそうだからな。それが当たり前となった日にゃ、人生まで四文字になりかねない。味のない人生はごめんだね。レモンのように、強烈な酸味を放って生きていたい。
「あたしたち、まんま『はがない』のシチュのただなかにあるんだ」
「……そのうえ『ハルヒ』を目指すんだろ?」
……ところで大丈夫なのか、それって。レーベルを股にかけすぎてないか?
まぁ、読書推進的なあおりで押し通せば、なんとかなるかもしれんが、へたなこと喋って追及はまぬがれん状況に陥るのだけはごめんなのだが。
俺の語り手の視線を超えた心配をよそに、どこ吹く大陸風と言わんばかりに夢見は「そ!」と胸をそらす。こんもり膨らむ二座の小山にどうしても目がいってしまうのは、いやはや男としての未熟さだね。『高野聖』をもう少し読み込んでおくべきか……。すべからく人は、高潔であるべし。
「この谷川氏のテキストによると、団長が本部を文芸部室と定めた際に、オプションとして、宇宙人っ娘までついてくるのよ!」
「おいおい、宇宙人がでてくるのかよ。俺はてっきりあの小説は、カール・グスタフ・ユング心理学的用法におけるアニマとアニムスの結合および唯我的な意識の抑圧を如実に描きだしているんだとばかり思っていたのだが」
夢見のやつ、唐突に耳が悪くなったみたいに口を開けてぽかんとしていたね。
「……読んだこと、あるの?」
「原文は読んでいない。ディシプリンと呼ばれる、さる大学院生の論文をな」
「最近はラノベも学術扱いなんだねぇー」
「そりゃ、一応この世の中に形として存在しているものだからな。学術たりえないのは――いつだってアカデミックな考察から外れるのは、形のともなわない不確かな何かだよ。んで、ラノベならぬ現実において、夢見よ、お前さんは宇宙人娘の配役を誰にするんだ?」
「そりゃあ、もちろん、普段から図書室に入り浸っているような垢抜けない感じの黒髪前髪ぱっつん清楚系な眼鏡っ娘でしょ! ドがつくほどの無口だったらなおよし。我が校には残念ながら、文芸部は存在していないから、図書委員のカワイ子ちゃんで代用しましょうよ」
ドがつく無口だった場合、相談の用にも宣伝方法の話し合いの便にも立たないのではないかと思えたが、まぁ魂胆はあくまで友達を作ることなのであるから、べつに無口キャラを相談部に引き入れてもなんら支障はない。いや、支障はあるのか。コミュ障同士、惹かれあう電波があるだろうしな。支え合い、障り合う怪電波が。
「しかしだな、夢見。現実の図書委員にカワイ子ちゃんがいるとは思えない」
「なに言ってるのよ。容姿はとやかく言わないわ。文学少女、無口キャラでさえあれば、谷川氏的にはオッケーなのよ」
「いや、俺が言いたいのは淋しさのあまりなりふり構わなくなっちまったお前の自暴自棄な趣向ではなくてだな」
「というと?」
俺は言い渋るように間を溜めたが、これ以上夢見がなにかを踏み外してしまわないように、むしろ救ってやるつもりでこう告げた。
「現実の高校に、当たり前のように文学少女がいると思ってくれるなよ」
「……なん、だと……⁉」
と、その可能性をまったく予想だにしていなかったものだろう。空いた穴から鎖が覗けるような胸にずぶりとドデカイ鋭利なものが突き刺さったみたいに、夢見のやつ、ぐふっと吐血せんばかりの息をもらしていたね。
「……た、確かに……そういう、文学少女がいないという可能性も、なきにしもあらずね」
「そういう可能性の方が高いだろ。仮に文学系の図書委員がいたとして、知ってるか? 日本での男児と女児の出生率の違い。家庭科の教科書の一ページ目を開いてみろよ。神は図書室に文学男子を置きたがるのさ」
「そんなアンチセオリーな神がいてたまるかー‼」
その神様、名をば現実っていうらしいぜ。
「天を認めん! あたしは爾後、天の存在を認めない!」
「んで、いなかったら、どうすんだ? 垢抜けない感じの眼鏡女子」
「くぅ……! 脳内再生で茅原さんボイス余裕~! とか思ってたのに、いくら妄想を逞しくしても男子じゃ無理よ! でも星空くんが語り部なんだからさ、普通なら、ハーレム路線で行くわけじゃない?」
わけじゃない? なんて、わけがない。
「普通を持ち出すんであれば夢見よ、俺は図書室には垢抜けない感じの黒縁眼鏡男子がいるという展開に一万ペットだ」
「じゃああたしは、爽やかイケメンにするわ! 同額ペット!」
「……おいおい、眼鏡っ娘はどうした?」
「もう今どきメガネっ娘なんて需要ないだろうし。それだったら確率論的に男子の方が高いんでしょ? 全校生徒数も男子大なりイコール女子なんだろうから、この際星空くんとの濃厚なBL的ラブロマンスに花を添えてみようかなー、って」
みようかなー、って、じゃなくて。なんでお前があたかも神の視点から見下ろしているかのようなことを言っているんだ。
認めないんじゃなかったのか、天。
「おいおい、BLってたしかアレだろ、イケメン同士じゃないと成立しないみたいな風潮とか、あるんじゃなかったか?」
「さぁ、あたしは畑違いだからなんとも言えないけど……でも星空くんって、イケメンでしょ? 語り部なんだし」
「なんだよその、語り部はイケメンでなければならない法則。俺みたいなやさグレた冴えない顔立ちした三白眼のチビ助がBL的要請に映えるわけがないだろう」
「またまた謙遜しちゃって。三白眼だなんていって、竹宮ゆゆこさんの『とらドラ!』を意識してるんだろうけど、現実のあなたは儚げな憂いを漂わせたような甘い顔をしているじゃない星空くん」
「そんな俺を俺は知らん。というかラノベをいちいち引き合いにだすな、元ネタ知らんから。俺の顔はもっとこう、海賊的なワイルドさに満ちている」
「嘘おっしゃい、語り部のくせに」
「だからなんでお前の中で語り部はイケメンだという絶対法則が当たり前のように通用してんだよ……」
「西尾維新さんの『化物語』がアニメ化されるって聞いて、語り手のビジュアルを初めて見た時の衝撃をあたしは忘れない」
「あれはホントにそうだよな! 俺もつくづくそう思うよ!」
あんなのって、あんまりだろ。俺は世の中の非道理さに堪忍袋も弾け飛び、例の彼のアホ毛をよほど引っこ抜いてやろうと思ったくらいだね。
怒髪メソポーズを衝いたね。
「あれ、維新の作品は読んでるんだ?」
「維新、だとぉ……っ! 無礼者めが‼ キサマみたいなこまっしゃくれたミーハー読者風情が、かの西尾維新大先生を呼び捨てにするな! かの御仁こそが、いつに天才の名をほしいままとするのであり! かの方こそが生ける形象としての、神なのである! その名にひれ伏せぃ!」
「いや、持ち上げ方ハンパない⁉ どんな崇拝のしかたよソレ⁉ いったいあの人の作品に何を発見したのよ⁉」
……まぁ、後になに一つ活かしきれようもないくだらぬやりとりはさておき。
俺たちは取る物もとりあえず、部員第一号を確保すべく、図書室へ向かった。どうせ保健室を空けていても誰も来ないのはわかりきっていたことだし、留守番は俺たちのスクールバッグにまかせてそこを辞したのだ。相変わらず廊下は怖く、一階にある保健室から、別棟の、それも四階にある図書室までたどり着くのに、俺は夢見のスレンダーなその背中に抱き着かんばかりにしていたね。渡り廊下は地獄を真下にのぞむ渉河といえた。思えば夢見と四六時中かくまでに連れだって行動したればこそ理不尽にも男子生徒から攻撃的な視線を受けているのであり、だとすれば俺は早々にこいつとの縁を切って、フリーな男子ですよー皆さんとご一緒で対リア充用爆弾積載型の一ストックですよー、とプリントされた文化祭御用達のTシャツでもよほど注文して着て歩いてやろうかと思ったが、夢見という防弾チョッキ、もとい不可視のバリアーを常に展開していた方が万事安心と気づいたので、やっぱり俺はこいつの傍から、保身的な理由で離れようとしない。尤もそうなると、夢見が風邪を引いて学校を欠席した時が俺の命日となろう。
外はすっかり夕日色に照り映え、窓からは山がちな地平の奥の方で紡錘形に湾曲した西日が生きとし生けるものの影をすらりと伸ばしている光景が覗けた。俺の影もすらりと伸び、俺の前を行く女の短いスカートから伸びる白肌の長い脚もすらりと伸びていた。白と黒のアンサンブルが、俺の中で太極図的なメロディーを奏でていた。その歌詞は決してリリックなものではなくエピックで、情欲に彩られている。実に野性的でアーシーな演奏だ。と、そうして見ていると夢見のやつ、脚をちょっと組み替えて、変に内股で歩くようになった。なるほどさっきより幾分なまめかしく見えてくるようになったが、しかし夢見よ、パリコレするんならするで事前に一言あってもよさそうなものだ。お前の発言や行動はどうせ全部滑っているのだから、そんな黙ったままの状態でエロティック歩行を続けられていたんじゃ、ますます俺は周囲から向けられる敵愾心に心細くなって、しまいにはお前に抱き着いてしまうようになるぞ。
「ところでさ、これからあたしたちは図書室に向かうわけだけど、そこにいるであろう図書委員の生徒と茶飲み話だけして帰るっていうのもアレじゃない? なんか形ばかり、本でも借りておこうよ」
やけに声の響く階段の踊り場で、夢見はそう言ってきた。
「本ねぇ……べつに俺は、いま読みたいものはこれといってないのだが、なにか借りたいものはあるのか?」
「イギリスのブッカー賞を受賞した小説の翻訳。あるかなーって」
「新刊か。よほど人気なものなら置いてあるだろうな。高校の図書室のラインナップなんて、アマゾン先生のそれと比べれば雲泥の差だろうから期待は禁物だが」
バキュームカーとブラックホールの吸水性の違いを比べるようなもので、引き合いに出すこと自体がおこがましいくらいだからな。
「あるかなー、ジュリアン・バーンズ」
「そもそもいるといいな。図書委員」
幸いと言ってよいのか、予期してかかった奇襲もなく、俺たちは後に活かせぬくだらぬことをぽつぽつとだべりながら、四階の図書室前までたどり着いた。
夕日色に照り輝く木製の扉を開けて、あまり生徒の寄り付かない本の密集する世界へと足を踏み入れる。図書室へ来るのは、これが初めてのことだ。
「ここが、図書室……なんてキレイなところなのかしら! 見て、星空くん! 嵌め殺しの窓からオレンジ色の陽射しが斜めに射し込んできているわ! ……ああ、消された照明が、包み込むように温かな静寂であたし達を照らしてくれている。唯一の明かり先である、窓辺から射し込む夕凪の光をさえぎる星空くんの冴えた横顔はまるで西洋絵画の一人物……なんて幻想的で、神秘的で、光輝なる眩さかしら! 黄金の砂でも撒き散らしたかのように床という床が金色の飛沫を跳ね上げ、それが眼に痛いくらい激しいわ! カウンターも、テーブルも、本棚も! 鼻腔を伝わって胸の中のもやもやをいっそ溶かしてしまいそうなほどに、かぐわしい木材的な芳香……ああ、こんなに温かいところが、世界には存在していたのね……!」
「……胸のもやもやを溶かしてくれるんだったら、なにも相談部なんて必要ないんだけどな」
と、図書室へ入るやいなや、さっそくに訳のわからん世界へトリップしだした夢見は、俺がやろうとした図書室の描写をリリカルに説明してくれたので、ここではさくっと位置配列を記述しておくにとどめよう。
他の教室とは趣が異なる扉を押し開けると、左手に貸出受付カウンターがあって、右手には本棚と四人掛けの閲覧席がズラリと並んでいる。それほど広くはなく、蔵書もまちまちだ。バキュームカーというより、干乾びた台所用スポンジといった方が近い感じか。インクという名の水分を吸引するレベルはな。とりあえず本をかき集め、図書室としての体裁をいちおう整えていますよ、と言わんばかりの部屋がまえだった。照明はすべてターンオフ状態、もう少し陽が沈んでから、暮れなずむ頃に点灯するのだろうか。俺は辺りにはひと気がなく、誰一人として入室者のいない部屋というものになぜかしら既視感と同情のようなものを覚えたが、くるりと振り返り、カウンターの奥の方にこれはたった一人でそこのパイプ椅子に黙然と座り、膝の上に分厚いハードカバー本を開きながら、不思議そうな眼で珍客たる俺らをしげしげと見遣る女子生徒がそこにいるのに気が付いて……。
「……眼鏡か」
「しかも黒髪ぱっつん、ノーメイク!」
「メイクはさっぱりわからんが、倩粧が凝らされているような様子は確かに見受けられないな。女子にしては、眉の線も太そうだし」
「スカート丈が、細っこい膝の皿がぎりぎり見えるくらいのあたりで止まってるの、女子の眼から見てけっこうあざといのよ」
「あんないかにもおとなしそうな娘がか?」
「だって我が校のスカートをあの身長で、あの長さで穿きこなすのには、そうとう計算され尽くされてなきゃおかしいのよ」
「虫も殺せぬような顔してるけど、そっか。やっぱり女は打算計算か」
「たぶん、今はまだ主張が控えめだけど、成長してそれなりに高校生活にも慣れてきた暁くらいには、あ、これは短くしたんじゃなくって自然と太ももが覗けてきたんですよ、って具合に調節されてるのよ!」
「あざとい世界だな……」
「あざとい文学少女……いいキャラじゃない、私本読んでますよ~皆さんと吸ってる空気違いますよ~クレバーですよ~シェイクスピアですよ~って……現実的にはお付き合いはごめんな性格だけれども、ラノベ的には申し分ないキャラね!」
「おい、現実の基準が何かに呑み込まれてるぞ夢見。それにお前みたいな女こそお付き合いはごめん蒙るよ。しかしまぁ、その食いつきようから推すに、お前はもちろん彼女を部員として――」
「――誘う。しかし、さすがといったところね星空くん。あなたの主人公力はこのあたしをして、カワイ子ちゃんの眼鏡っ娘との縁をしっかりと取り持ってくれたわ。お礼に相談部は、向後あなたのハーレムの場として使ってさしつかえないわ」
「その台詞は彼女と晴れて友達になれてから言ってほしいもんだが……まずはあれだろ、部員として誘ってからだ。カウンターの向こうにいるってことはまず間違いなく図書委員だろうし、真っ白で磨かれたみたいに清潔な上履きのシンボルカラーは俺らと一緒、つまり同学年。図書委員との掛け持ちになるが、相談部の部員になってみませんかと、まずはそう切り出してみろ」
「あたしが行くの⁉」
「仮にも部長だろ。しかも男が出ていくと、変な警戒を与えるかするだろう? 大丈夫だ、なんかあったらすぐに駆けつけてやる」
「わ、わかったわよ……!」
決意も露わに、緊張した面持ちを引っ提げながら、夢見はスタイリッシュなプロポーションをがくがくと慄わせつつカウンターへぎこちなく歩み寄っていくのであった……。
「……は、はろーっ!」
上ずった頓狂な声が、室内を場違いな方向へと跳ねとび回る。俺はくつくつと、咽喉の奥を鳴らして陰湿に哂う。
「……はい?」
何枚ものフィルターを濾過されて通ってきたような薄い声だったが、疑問の色をびっしり帯びているのだけはこちらにも伝わった。返ってきたその声の薄い抑揚に自分の声の弾け飛ぶようなバカでかさを痛感したのだろう、部長様は恥じ入るように少し怯んだが、ぐっと即座に顎を上げて――しかし話の接ぎ穂どころかとっかかりも掴めずにいるらしく、どうやら言葉が一つも咽喉もとに出てこないようだ。苦し紛れに「いや、その、なんていうか」と消え入りそうな声でごにょごにょやる。
「……は、はろーっ!」
なぜ滑った掴みネタをもう一度仕込もうと思ったのか、俺にはその行動事由はさっぱりだったが、しかし夢見の身体は硬く強張ってしまっていて、少女特有の柔らかさといったものが一切失せているようだ。どうしていいか、わからないのだろう。そうして厄介なことに、先方も寡黙な性質らしく、あるいは寡黙であることまでも演技しているのかなんなのか判然としないが少なくともここで一つ言える世界の真理は、
無口と人見知りが対峙すれば、なにかしらの相乗作用でも起こってくれて、およそフレンドリーシップな関係が構築されるかもしれない……なんてことはない、ということだ。
あくまで足し算でしかなかった。無口に、人見知りが加わった。
「は、はろーっ!」
「……」
「はろー……ハウアーユー?」
汗玉が涙に見えてしまったのは、過保護さのゆえかね。せっかくのキレイな顔が、今や流汗淋漓といった有様だ。やや、これでは本当に、副部長である俺の出番かな、と舞台袖で自分の出る幕を今か今かと待ち構える役者のように気負ったところで。
「……ないすとぅ、みーちゅー……?」
ノってきた。薄い声で、空気と擦過するだけで打ち負けてしまいそうな、蚊の羽音にも劣る音声だったが、たしかに文学少女がそう言っていたのがこちらにも聞こえてきた。しめた、これはチャンスだぞ。相手はこちらが思っていたほどに、物語的な意味での無口キャラではないということが知れて(いや、現実の女なのだから当たり前なのだが)安堵した……のも束の間。
「⁉ ほ、星空くぅぅぅぅん‼」
「な、なぜそこで俺を呼ぶ……そしてなぜ俺に寄る⁉」
「星空くん星空くん星空くん! ああああの人、外国人だったよ⁉」
「落ち着け。そしてよく見ろ、あれはインベーダーでもフォーリナーでもない、紛れもない眼鏡っ娘じゃないか」
「ででででも喋った⁉」
「喋るだろ。お前は喋らないやつと友達になるつもりだったのか? だったらその辺の木石とでも心を通わせていろ」
「あ、そっか!」
なにがそっかだ。と俺は先行きの暗澹たる不安を思って肩を落としこそしたものの、しかし胸の奥底では夢見のテンパり具合をわっはっはと哄笑の種としていた。
これが笑わでいられようか。いや、いられまい。かくまでに夢見のコミュニケーション能力が低かろうとは……いや、低いというゼロコンマいくつのレベルの話では、これはもはやないだろう。おそらく夢見の常人には具わらない別なる能力のレベルがあまりにも高すぎるから、それが他人との交渉をこうも隔てるのだ。それがなんというスキルなのか、凡人たる俺にはつゆ分からんがね。
夢見は俺に背なかを押されたことで、幾分気を取りなおしたのだろう。平静に深呼吸なぞを二、三回して、玉の汗をハンカチで拭い取る。
「よ、よし! あたしなんだか今度こそ行けそうな気がするよ星空くん! ちゃんと手の平に、ひたひたひたと三回書いて呑み込んだからね!」
「緊張を払拭するおまじないのことを云っているんなら、そのせいで汗がよけいに肌を滴り落ちそうだがな」
ひたひたするな。人々と話をしろ。
「よし、じゃあまずは、あたしの名前を名乗って、あっちにいるイケメンが星空くんですって紹介して、あたしたちは相談部の部員を募集しています、よければご一緒にご一献、いかがでしょうかって持ちかけて――」
「ご一献うながしちゃダメだろ」
というか予行演習を、図書室に入ってすぐの本棚の手前で、それもわりかし大きな声でしてくれるな。カウンターを挟んだ向こう側にちょこなんと座っている女生徒は、すわ何事ぞとばかり驚懼と胡乱のあい半ばする眼をこちらに向けておののいてしまっている。
「と、とにかく行ってくるね!」
「おう、行って来い。通り一遍の限定辞なんて忘れて、お前の言葉で、誘えばいいんだよ」
と、柄にもない励ましを口にしてしまったが……それを受けて夢見のやつ、顔がぱぁーっとほころんだように見えたのは……まぁ、なんというか、悪い気はしない。
「当たって砕けろだ。テンプレートな挨拶だとか、事前に用意した言葉になんか頼るな。お前の言葉で行けよ。お前の意思を伝えろよ、その時の感情で、ぶち当たれ。それが気に食わなく思われるような相手とは、そもそも友達にはなれないんだよ。けど失敗したその時は落ち込むんじゃなく、お前を受け入れてくれる人を、他に探しに行こう……俺も手伝ってやるから」
「……星空くん……」
ぐすん、と夢見のやつ、泣いたように洟をすすったね……おいおい、勘弁してくれよ。鼻炎キャラは俺の持ち味だっての。ま、必要とあればいつでもポケットティッシュの一枚くらい、用意できるからよ。
ほんとうの友達、つくってこいよ。
……まあそんな感じで、緊張もなにも吹っ切れたんだろう。人間として在りえないくらいの強張りも、顫えもなくなったかのようで、
「よーし! 眼鏡っ娘をくどくぞぉ!」
と大きな声で喝を入れるもんだから、俺も「その意気だ」とおっかぶせようとしたところへ、
「……あのぅ、一組の星空くんと、夢見さん、ですよね……? わたしを相談部に誘いに来たんですか……?」
「全部聞かれてたぁぁぁぁぁぁうがぁぁぁぁ⁉」
「落ち着け。むしろ話が早くて助かるだろ」
「助からねぇぇぇぇぇ! あたしの成長のきっかけとなるべきシーンだろ今のぉぉぉぉ⁉」
「ひっそりした図書室で、そんなバカでけぇ声だしていれば当然筒抜けだろ。そうだろ、えーっと……」
俺は眼鏡少女の名を呼ぼうとしたが、はて、どうして自己紹介もまだなのに先方はこちらの名前を知っているのか気になったが、まぁ夢見の予行演習が聞こえたかなんかしたんだろう。とりあえず、夢見のせいで当初の予定通りすんなりとはいかなかったが、俺は「君の名前は?」とさらっと訊いて、相談部はどうだいと韜み隠さずストレートに言ってしまおうと思った。
「あ、あの……わたし、月見アズサといいます。お二人のことは、かねがね聞いておりまして……」
「え、あたしたちのこと、知ってるの⁉」
夢見の驚き具合に、やや引いたのだろう。月見アズサというらしい少女は、人形みたいな小顔をこっくんと沈めるようにして頷いた。
「……なんでも、入学して早々に相談部なる部活を新設して、保健室で毎日のようにいちゃいちゃしている羨ましいリア充カップルがいるとのことで、専らの噂です」
「なんだと」
俺へ向けられる殺意の込められた夥しい視線の正体は、その噂だったのか……まったく、誤解もはなはだしい。根も葉もない噂を流してくれる。俺たちはリアルを充実させるどころか、むしろ沈湎しきった有様なのを保健室で負け犬のように吠えてかこっているだけだぞ。そんな様子がイチャラブと呼べるものなら、じゃあお前らがしているのは幸せでなくてなんなんだと、客観というものの恐ろしさをひしと噛みしめたね。
……いや、ひょっとしたら、主観の恐ろしさを思い知ったのかもしれない。自分が幸福に包まれているのだということを、案外人は気づかずに、際限のない欲望を抱いて生きているのではないか、と……高潔であらねばと、またしても思えてくるね。
「い、いちゃいちゃだなんて、そんな……」
夢見のやつは小さい声で何やらぶつぶつ呟いている。汗のせいで、地肌を活かしたナチュラルメイクも乱れたのだろう。チークが溶けて拡がるかして、頬にほんのり朱がさしている。
俺はどういうわけか腰をくねらせてもじもじしている夢見なんかでは話にならないと思い、それとなく月見に訊いてみた。
「その噂、すっかり校内に広まってたりするのかい?」
「え、ええ……没交渉で、いつも一人ぼっちでいるわたしなんかにも聞こえてくるほどですから、お二人は誰もが知る有名人だと思いますよ」
「なんと」
俺の理想、狷介孤高なロンリーウルフのいななきは、この時声帯を潰されたかのような心持ちだったね。有名人だと? ふざけるな。俺は誰にも知られないくらい日陰の方でひっそりとして暮らしていたかったのだ、愚かにも夢見なんかと関わってしまったせいで、どうにも俺の方にまでシワ寄せがきてしまった。これでは宿題やらノートやら忘れ物やら連絡事項やらで世話になりたい都合のいい友人もつくれそうにない。
できるものならもう一度記憶を失って、人生をリセットしたいもんだね。
「い、いま月見さん、あなたボッチって言った⁉ ねぇ言ったでしょ今ボッチって⁉ ダイダラボッチのボッチじゃなくて、ボッチなんだよねぇ⁉」
と、俺とは違うところに敏感にも食いついたらしい夢見は、側杖を喰らわされた格好に甘んじている俺が横合いから譴責の眼を向けているのも気づかぬ体で、さっきまでの緊張はどこへやら、月見アズサにじりじりと詰め寄った。すごい剣幕でまくしたて、唾を飛ばしながら。「貴女、友達いないのね⁉」と、客観的に考えれば辛辣きわまりない、意地悪とさえとれる質問を平然としてのけた。ブーメランって知ってるか? あれ、空気のない宇宙空間でも手許にかえってくるらしいんだぜ。
「ひぃ⁉ あ、あああの、はい、まぁ」
「……うおっしゃぁぁぁぁぁ‼ 一学期のクラス内カーストが着々と定まりつつあるなか! まだ友達が一人もいない女の子、やっと見つけたぜぇぇぇぇぇ‼ やっほぉぉぉぉい‼」
「……うう~……」
……おいおい、夢見よ。喜びはしゃぎたくなる気持ちもわからんではないが、まぁまずは落ち着け。そして自分を客観的に見たときに、その態度が月見アズサをいかに深く傷つけているか、考えてもみたまえよ。
まず夢見は、これまでにも何度も言ってきたように美人だ。ひと昔前はこういう女をアイドルも顔負けと表現していたそうだけれども、アイドルに簡単に会いにいけるようなご時世にはふさわしくないのかもしれない。いや、アイドルの器量が相対的に落ちたとかそういう恨みを買ってしまいかねないようなことを言いたいのではなく、とにかく夢見はモデルが雑誌から出てきたのでもなければ、女優が裸足で逃げ出すのでもなく、かといって立てば芍薬みたいな純和風なイメージでもない、新たな美人のステージにいるのだ。新しい表現がぜひともほしいね。なに? それを生みだすのが俺の仕事だと? おいおい、そんなに重い責任、俺に押し付けんなよ。
とにかく、夢見は見目うるわしき美人だった。美少女だった。そんなやつが、垢抜けない感じのそんなにキレイでもない髪をした、ヘアースタイルにはファッション性も欠片もなく、野暮ったい眼鏡をかけた自称ボッチ娘にあんなことを口にしてしまえば、それもあろうことか嬉々として叫んでしまえば、優越と映るどころかもはや嫌味でも、意地悪ですらなく、それはもうイジメの程度だ。
「うう……うううぅ~夢見さん、ヒドイですぅ……」
「え、なにが? え、ってかなんで、月見さん泣いちゃってるのよ? え、え」
……はてさて、俺はなんて言ったものかねぇ……俺と同じような状況に誰かが立たされれば、そりゃ「バカ」といって夢見を窘め、月見アズサを慰めるだろう。しかし俺は、それではなんの解決にもならんと思うのだよ。
月見アズサを傷つけたという事実をして、夢見までをも傷つけてしまいかねない……夢見がフラジャイルなできたてプリンだとかゼリーだとかよりもぐちゃぐちゃに壊れやすい原材料でできているってのは、夢見以上に俺がよく理解していた。嬉しさ余った自分の放言が月見を傷つけてしまっただなんて、そんなことをたちどころに気づかせてしまえば夢見のことだ、申し訳なさに(同じことを自分が言われたり、されたりすればイヤだとわかるいい娘だからな)気が鬱いでしまうことだろう。
病に陥る。だから俺は、泥を引っかぶるなら俺一人の方がいいと思った。知らないということほど、人を幸せにしてくれることはない。夢見には、月見を泣かせたのが自分だということを、覚らせてはまずいのだ。
憶い出したくもない記憶として、あとあと尾を引くからな……。
「……月見さん、ちょっとこっちへ」
「え、星空くん……」
と、夢見と距離を置くために月見をカウンターから引っ張り出し、図書室の隅へと引き連れる……月見はこのうえ自分がどんな辱めを受けるのか想像しているのだろう、しきりに手をぶるぶるとわななかせている。夢見もカウンターの手前から、心配そうなおろおろ顔をこちらへ向けていた。
俺は怯えるリスみたいな月見に小声で言ってやったね。
「月見さん、夢見さんが放った非礼をここに詫びるよ。ごめんね」
「……はぁ」
「けれど、誤解しないでほしいんだ。信じてもらえないかもしれないけど、夢見さん、ああ見えて、友達が一人もいないんだ」
「え……」
きょとんと、泣きはらした顔で首を傾げる仕種がちょっとチャーミングだったのは、内緒だ。
「冗談みたいに聞こえるかもしれないけど、僕と夢見さんとのことで冗談があるんだとしたら、僕たちが放課後いちゃいちゃしているという、その一点に尽きるね」
「……はぁ」
「実は夢見さん、君と友達になりたいと言っているんだ」
「……わたしと、ですか……あの、夢見さんが?」
おずおずと、俺を見上げる視線が嘘つき権現でも眺めるかのようだったのは、瀟洒すぎる夢見の姿態に説得力が欠けていたせいだろう。人間は本当のことであったとしても、まずは身なりを相応しいものに整えなくてはならない。なんともおかしな話だったが、月見に夢見のやつがノーフレンドだという事実を信じ込ませるためには、あのお団子状に結わえられた茶髪をざっくり切り落とし、明るい色合いのカーディガンを引っ剥がして学校指定の地味なブラウスにさせたりなんかして、最近はやりの『ワタモテ』風な喪女スタイルに造形を近づけさせねばなるまい。事実を語る説得力とは、悲しいかな嘘の外見によってこうして出来上がるのだ。
しかし夢見はいっとうの美人で、服の着こなしそれ自体がコケティッシュな女で、それでいて、友達がいないのだ。慣れない相手の前だと、極度にアガってしまうタチだ。それが不完全だとかおかしいとかいう話じゃなく、それらすべてが夢見という一個なんであって、そもそも夢見勝という不規則な女を形づくるのに、規則は要らない。
規格外であってこその、夢見の強烈な持ち味といえるし――、
――奇天烈な設定であってこその、ラノベのキャラだろう?
だから俺は、夢見には絶対に聞こえない小さな声で、月見にお願いした――。
「うん、あの夢見さんが。さっきの挙動不審ぶり、きみも見たろ? あれをなんと思った?」
「女性の変質者かな、と……」
今度夢見のやつに、女怪盗イルマベップのコスチュームを着させようと思ったね。
「月見さん、どうか彼女の、最初の友達になってあげてくれないかな? もちろん無理にとは言わないよ。たしかにぱっと見て、きみと彼女とじゃ全然符号しない感じだけれども……それでも、僕はきみと夢見さんとなら、良好な人間関係が築けると思うんだ」
「良好な、人間関係、ですか……」
眼をパチクリさせて反復する。そんなに聞き慣れない言葉でもないだろうに。
「うん、友達。夢見さんは今のままの、友達のいない自分を変えようとしているんだ。人間として、ワンランク上に進もうとしている。クラス内カーストでクシャトリヤの位置に乗り上げようとかじゃなくて、純粋に、友達が欲しいだけなんだ。さっきのことは謝るから、どうか協力してほしい」
「……でも、わたし、本ばかり読んでるから……女の子の話題、とか、あんまり知らなくて……」
「そういうのを教え合うのを――お互いに足りないものを補い合うのを、友達っていうんじゃないかな――?」
交換する。否、交歓し合う関係。
それをこそ人は朋友と呼び、ともがらと呼び――共に腹から生まれたという意味で同胞とも呼び――バブルの跡を留めたような土管のある空き地での生ライブを至福とする某ガキ大将は、それを心の友と呼び倣わす……。
「……そういう友達は、欲しくないの?」
彼女は首を振る。華奢な身体からは想像もつかないほど、ぶんぶんと強く頭を振っていた。
「……わたし、なれるかな……夢見さんと、友達に……?」
「……それは、この後の会話の運び次第かな」
と言って、俺は待ちくたびれたようにカウンター前でつくねんとしていた夢見の方へ月見の小学生みたいに小さな身体を押し出すようにして近づいた。
「なによなによ、なんなのよ。あたしを除け者にして……まるであたしが意図せず月見さんを傷つけるようなことをうっかり口走っちゃったから、星空くんが慌ててフォローしてたみたいじゃない?」
変なところで勘の鋭い女である。もう少し、いろんなところにその勘のよさを発揮して、空気の中を巧みに泳いでほしいところだったが……まぁ、贅沢もいうまい。これも夢見だ。人のそのままの状態を愛そうではないか。
「そうじゃねぇよ。ただ、俺のある行動が地雷を踏んじまってね。それで泣かしちまったから、あっちで平謝りに謝っていただけさ。お前にカッコ悪いところを見られたくないという年頃の男の子が俺の中にもいたからな」
「ふぅん、まぁいいけど……月見さん、もう大丈夫?」
「は、はい。お気遣い、痛み入ります」
「星空くんに変なとこ、触られなかった?」
「え、えっと……ちょっと、胸をくすぐられるようなことを……」
……おいおい、月見。その文脈で文学少女キャラを活かしてくるなよ……。いや、表現としてはうまいよ? 実にうまい、うん。俺はなかなかそういう冗句好きなんだけれどさ、ただ、夢見には届かないって。はっきりと、きっぱりと、どこも触られませんでしたって言ってくれないと……。
「……ほ、ほぅ……?」
夢見の身体に、見る見るうちに悪意の塊みたいなものが入っていき、清澄こそふさわしい図書室を瘴気で充満させ、にわかに魑魅魍魎のすだく場所と変ぜしめていたね。
「違うぞ夢見。今のは彼女なりのお茶目だ。誓って言うが、俺はそんな不純なことはしていない」
「……まぁ、あたしも見ている前でそんなことできるはずもないしね」
室内にまた、茜色の柔らかい光が一条舞い込んできた。ほっと一息ついてから、俺は本題に入るべく夢見の背をまた押してやる。ったく、面倒のかかる女だ。
「それより夢見、彼女に言うこと、なにかあるだろ」
「あ」
そうであったと言わんばかりに、月見に向き直るや、夢見はまたぞろがちがちの緊張におそわれて、しゃちほこばってしまった……なぜそうなる。お前の中のどこがどういう化学反応を起こしたら、そのような緊張となって現れるんだ。逆はないのか? もっと弛緩させろよ。ほら、肩の力抜いて……。
「……夢見さんが言いたいことって、ひょっとして、わたしを相談部に誘うってことですか?」
そうこうしていると、なんと月見の方が察してきてくれた。いやありがたいね。こんなにも呑み込みの早い娘が保健室にいてくれると、俺もなにかと助けられることが多いだろう。
「……けど、どうして、わたしなんですか? わたしなんか、むしろ自分自身が誰かに悩みを打ち明けるべきポジションなのに」
「それはぁ、そのぅ……」
本当だ。言われてみれば、月見は相談の対応に充たる側の人間ではなく、むしろどっちかというと相談室に脚をしげくする立ち位置の人間だろう。すっかりそのことを失念していたが、しかしまさか本音を言うわけにはいかない。「貴女の声が脳内では茅原ボイスで再生されるからです」なんて、どんなに肝っ玉の据わったやつでも言い出せまい。すぐにバカだと思われる。
「いやね、月見さん。谷川式の勧誘法によると、まずは貴女みたいな読書系メガネ女子をね――」
あ、バカだったんだ。そっか、忘れてた。俺のこういううっかり性もたぶん、キャラとして定着するんだろうな、いずれは。ほら、軟弱男子にふさわしい記憶喪失型体質だし。
「……はぁ、よくわかりませんが……でも、わたしやっぱり、なんだか相談部は肌に合わない気がして……」
「……そ、そう……?」
「ええ……せっかくのお誘いを断るのも心苦しいんですけど、図書委員の仕事も投げ出すわけにもいかないので……」
「……そうよね。うん。無理にとは言わないわ。ただ、ちょっぴり残念ではあるんだけど――」
――ダメだったか……。夢見はしょんぼりと肩を落とし、今にも泣き出さんばかりにうち震えている……こらえて上を向いた仕種が、妙に婀娜っぽく映って画になる。おいおい、涙ってのは飛沫感染すんのかい。月見が泣いたと思ったら、今度はお前もか。俺はこの齢にもなって人前でめそめそしたくはなかったから、二人からちょっと距離を置こうとした。
――でもまぁ、踏み出したんだなぁとは思うよ。夢見にしてみれば、初めて会う人間と会話をするのは、風の強い日に敢行するサーフィンなんかよりも、ずっと難しいこったろう。俺は感染をおそれて、風景画みたいにワイドな窓の外を覗いた。太陽が今しも沈みゆくようで、紡錘形のそれが形も不確かに、滲むように辺りをじんわりと染め上げていた。誤って絵の上に水でも垂らしてしまったみたいな、どこか遣る瀬ないすっぱい風景だった。
「――あはは、そうだよね、いきなり部活の勧誘なんて、ちょっと無神経だったよね」
「ううん、そんなことないです……誰にも、何かを誘われたことがなかったから、わたし、すごく嬉しかったんです。でも、どうしても部活はできなくて……」
沈む。あらゆるものが沈んでいく。というか、暗いんだよこの部屋。いい加減暮れなずんでもきたから、俺はいよいよと思って、室内の点灯スイッチを壁という壁に眼を走らせて隈なく探し回ったね。月見もこの後本を読むときに、眼を悪くするといけないだろう? と思っての所作だったが、中断を余儀なくされた。なぜかって? それは月見が本当によく気の届いた女の子だったからで、俺のそわそわしている姿を見て、すぐにぴんときたのか、どうやらカウンターの脇の壁にあったらしいスイッチをぱちっと跳ね上げて、電気を点けた次第さ。
明るみになった月見の顔を見て――俺は不覚にもドキっとしたね。さっきまで泣いていたのが嘘みたいに、雲一つない日本晴れの顔をしていて――それに、なにより可愛かった。
容色でもないし、ファッションでもないし――、
俺はこの娘を、しごく純粋に可愛いと思ってしまったね……。
そんな彼女が、電気を点けてからすぐに、朗らかに言った。
「――でも、相談部には入れなくても、保健室に何度かお邪魔していいですか……? ……お友達として……」
俺たちは心に抱えていた爆弾を、スイッチの点灯とともにすべて誘爆させてしまったみたいな気分にさせられたね。」