間章、あるいは観賞
喪くしたいほど愛おしく、
憎らしいから、手放さず。
夢見勝という、あまり奇抜なネーミングすぎて、中学時代の分け隔てのない女子からもついぞ下の名前で呼ばれることのなかったこの女は、その容姿もあいまってか、一種近寄りがたい香りをオーデコロンみたいにぷんぷんと周囲に振りまいてしまっている。尤も本人はそんなつもりは毛頭ないんだろうが。つんと澄ましたようなその顔色の裏では、さてどうやって人との距離感を縮めたらよかろうか、何を話の糸口としたものか、そういう打算的な考えが頭を占めていて授業もなおざりになっていたんだろうが、客観というやつは実に厄介なもので、本来自分の中には無いキャラクターをもその恐ろしい魔物は夢見の一側面として付与し、定着させてしまう。
なにが言いたいか。つまり、夢見には友達が一人もいないということだ。
夢見のその素っ気ない態度は、異性に強烈なオーラを与えてしまい、同性にはどうもそれが鼻持ちならないものと映るようで、いたく煙たがられた。たとえば教室の男子生徒なんかは夢見の隣にいることを夢見るのは、文字通りの夢見がちな高嶺の花だとしてすっかり諦めてしまっており、ナンパに話しかけるのも見た目ランクを一つ二つ、三つも四つも落としたような女子というあんばいで、よほど夢見に教室内に醸成されたその空気を打破する積極性が発揮されないことには、こいつは満足に同性の友達すらつくれないのだ。女子どもは元来がそういうのに鼻が敏感にできており、男子が夢見に対して一種特別な位置を与えているのを根の方で面白からず思っている女が、入学して間もないというのにもう陰で夢見を嗤ったりしていた。俺は聞きたくもないのにそういう人の悪口についてはすぐに聞こえてきてしまう人間の聴覚神経を恨めしく思うと同時に、だからといって夢見にいま夢見が置かれているクラス内の位置はほとんど俺とどっこい、すなわちカーストの最底辺に芋虫よろしくよちよちと這いずっているんだぞ、という風にはなかなか言いだしかねた。こいつは眼球をクリアにさせるカラーコンタクトでもつけてるんじゃないかというくらいの曇りのない澄んだ眼をしていて、その愛くるしい明眸で教室の中を見回しては友達となるべき人を物色しているにすぎないいたいけな女子高生なのだ。そんな乙女すぎるほどの乙女に、俺はてめぇの分限を弁えさせようだとか、そんな残酷な耳打ちはできようもなかったね。ただこいつがクラスの中で空気を読み誤って行動してしまい、友達一号のささやかな夢からもどんどん遠ざかって悄然とする姿も見るにしのびなかったから、俺は唯一のオナチューのよしみで、せいぜい友達が一人できるまでくらいはこいつの保護者でいてやろうと、そう心にきめたね。
そんな夢見勝と俺の付き合いは、しかしながら短いスパンで、中学三年生の二学期からはじまった延長でしかない。仲が深いと要らん詮索されるほどに、俺たちは共に時間を共有した間柄ではなかった。ただどうして、四月もいい加減半ばだというのに一人も友達をつくれていない交際ベタな夢見が、たったそれだけの期間しか付き合いのない俺にここまでなついてくるのかというとだな、
それは俺が、まぁ突飛なようでいて案外とありきたりな属性かもしれんが、中三の二学期以前の記憶をさっぱり失っていたからだ。
記憶喪失。
俺にとっては、中三の二学期からの付き合いであったとしても――夢見にとっての俺は、三年間机を並べた同級生らしかった。
二学期以前からも親交があったのだろう、夢見との一切を、俺の歴史の合切を、しかし俺はすっかり忘却していた。俗にいう、「ここは誰、私はどこ?」という状態に陥ったのだ。俺は星空終という人間すら、よく憶えていない。家族のことや、それこそ夢見が欲しているような友達のことも、なにもかも……。
人ならば誰しも手足のごとくして扱える記憶のタンクの出し入れを、しかし俺は容易にはできなかった……記憶を手足のようには、うまく動かせなかった。
這いずるように、這いつくばって、俺は前に進むしかないのだ。
夢見は美人だし、虚言を吐いてまで部活の申請を押し通してくる行動力旺盛な女だというのに、人付き合いには臆病で、それでいてなぜ、俺みたいなちんちくりんにも劣るふしだらな男には襟度を開いたように安心しきって接してくるのか……そのヒントが隠されていそうな記憶を持たない俺にはさっぱりだったが、さも当たり前のようにそう振る舞われたんでは知らないでいる俺の方が罪深いように自覚されてくるので、その点について問い質したことは一度もなかった。
というかそもそも俺の記憶について、俺は誰にも何も聞かずにいる。そう、俺は過去を捨てた身なのだ。誰もが憧れてやまない第二の人生というやつを、俺は送ってみたかった。鏡でしどけない姿を覗くかぎり、どうせ大した十五年間を送っていたわけでもないだろうから、やり直すにはもってこいだったし、スランプもなくむしろポジティブになり前より生き生きしている俺を見て家人も無理に想い出アルバムを引き出すことはしなかった。まぁ、たいした想い出もない、めりはりのない人生だったのだろう。
俺は過去を捨てた。人生を途中からやりなおした。どうだ羨ましい属性だろ? やらんからな。何億円何兆円と積まれたところで、誰にもくれてやるものか。