四月 二三日 (水)
今宵お集まりいただきましたのは、ほかでもない。
今夜も今夜とて、ひねもすパーティーに興じましょう!
休む間もなく――絶え間なく――。
「執筆代行! みんなのアイドル夢っちどぅうぇっす! 今日は星空くんが具合を悪くしたから、部長であるこのあたしがじきじきに筆を執ります。さっそく今日の出来事ですが、アズにゃんとラブラブしました! 以上!
……まぁ、これだけってのも淋しいかもしれないけど、あたし一日の出来事とかよく憶えてなくて……ニワトリさんは三歩あるけば忘れるなんていうけど、あたしは今日のできごとを忘れてしまう……星空くんはすごいなぁ、よくもまぁ、その日の出来事をぽんぽんと憶い出して書けたもんだよ。メモもとってなければ録音もしてないってのに。その調子であたしとラブラブしていた頃の記憶も取り戻せってんだよ、まったく。
まぁ、こんなところで愚痴ってもしょうがないので、今日の流れを簡単に書くわ。放課後、図書室業務がお休みのアズにゃんが保健室に再登場! したはいいのだけど、正直今日は一日中ラブラブとはいかなかったから、ちょっと残念。何故かって? なんと客が来たんですよ。それも三名ですよ三名。
友達にノートや教科書を隠されて困ってるー、っていうけっこうシリアスなものもあれば、彼女とのデートプランを一緒に考えてくれだとか、そもそもあたしに付き合ってくれだとか訳のわからんことを吐かしてくるバカ野郎もいたけど、盛況っちゃあ盛況ね、うん。いい加減サブカルライフからリア充ライフに転向してきてるんじゃないの、これ?
今日は星空くんがお休みだったから、聞き手役にアズにゃんを付き合せちゃった。ごめんね、アズにゃん……。だけどアズにゃん、なかなか鋭い指摘をしてたなぁ……女の子は男の人が頭を捻って考えてくれたところならどこでだって満足できるんだよって、そんなかっちょいいセリフをよく言えたものだわぁ……彼、気が晴れたような顔つきになってありがとうございましたーなんて言って活き活きとしていたけど、正直あたしが彼女だったらそんなので満足できぬぞい、ネズミーランドや水族館に引き連れるばかりがデートではないということをその札入れのスカンピンなるをもって思い知らせてやるけどね、ふっふっふ……!
今日にかぎってなんで相談客が三人も来たのかといえば、やっぱりあたしが思うに昨日の令泉院先輩の一件が広まったからじゃないかな。たぶん彼女がいろんなところで相談部をセンセーショナルに喧伝してくれたんだろうね。だって今日来たの、みんな二年生だったもん。アズにゃんに鼓舞された先輩なんて、いかにもなリア充面だったからねぇ、たぶん明日あたりその人がまた相談部に好意的なコメントを流布させて、それを潮に人気にさらに火が付いて、相談部はいよいよ活況を呈すること請け合いね! そうなると、心配なのはやっぱり人員よ。水曜日はアズにゃんに臨時助っ人になってもらうことができるけど、それ以外の曜日は、まさかサっちゃんに毎日頼るわけにもいかないし……これは星空くんが言っていたように、部員募集のチラシづくりプロジェクト、始動するっきゃないわね。プロアマ不問・イケメンと美少女だけが入れる緩い基準のゆるゆる系の部活ですってな具合で。勘違いちゃんは回れ右! 入部希望者を篩にかけるのが却って大変ってくらいに殺到してくれるといいんだけどなぁ。
相談といえば、例によってあたしがちがちになっちゃって、あのアズにゃんにフォローしてもらっちゃうくらいテンパってたんだけど……どうもアズにゃんの受け答えを聞いていたり、それを耳にした相手の反応とか見ていたりすると、あることに気付いちゃった。あたしは相談といえば、令泉院先輩の時みたく何か明確な答えを一緒になって、親身になって考えてあげることなのかもって思ってかまえてたんだけど、なんだかアズにゃんに感謝していた男の子の安堵したような面持ちを見ていると、どうも違うなって思ったの。
それを星空くんに報告したら、たった今こんなメールが返ってきた。
『相談ってのはそもそも占いや興行師なんかと一緒で、気休めみたいなものなのさ。毒でも薬でもない、談だ。箸にも棒にもかからない、話者と聞き手の存在それ自体をいう。解決がどうのという難しいプロファイリングをそれは意味しない。カウンセラーという特別な位置にある人に、その人は話を聞いてもらいたいだけなんだ。自分の気持ちをわかってくれ……たったこれだけのことを伝えるために、悩める者は回りくどい物語を婉曲に語り始める。時に膨らませたりなんかしたりしてな。水増しだろうが最近はやりの盛りだろうが、厚みがあった方が――ディテールがあった方が――、信憑性は増すだろう? いや、話に信憑性を持たせるというよりも、相手を説得させるための材料の確保といったところかな。要は相談室に足を展ばすような奴は、誰かに自分の意を汲んでもらって、自分に同調してもらいたいだけなのさ。私は間違っていないから、あなただけは私を認めてよねと、そういうことが言いたさにやって来るのさ。
日本人研究の草分けとして名高いルース・フルトン・ベネディクトの『菊と刀』という有名な論文に、こういうケースが載っている……ある男性は子供達が小さいうちに妻を亡くし、男手一つで子供を自活できるまで育てあげた。しかし彼らが成人すると、男は年若く身の上不憫な女を娶ろうとした。これには子供たちはたいそう反発したんだ。その女はぜったいに遺産目当てに違いない、とか言ってな。それで男はある人物に相談の手紙を書くわけだが、その内容は要約すれば、私はこれまで子供たちのためを想って後妻を娶ることはせず一人で頑張ってきたのだから、もう手のかかる子供はいないのだし新たに妻をむかえてもいいじゃないか、そういう筆勢だったんだな。つまり、自分の正当性を、自分のしたいことをほのめかすのさ。それを受けるのが相談だ。そうしてカウンセラーは、それに背中を押すこと以外にできることはない。面と向かって否定しようものなら、ここでは遺産目当て説を標榜する子供たちと――世間的なるものと――言っていることは同じになってしまうからな。相談に来るようなやつは、自分のやろうとしている腹は相談する前から決まっているわけなんだから、それじゃ喧嘩になっちまう……相談を聞く側にできることはせいぜい、本当に談を聞いてやることだけなのさ。そして何も言わずに、同調する。お前さんのやろうとしていることは正しいよと――欲のままに生きようとすることに背中を押してやる。これが相談だ。変に奇妙な解決をしようとすれば、却って失敗して、しくじって、関係をこじらせてしまうことの方が多い。だから何も考えるな、とにかく相手に、媚び売っておもねってへつらって阿諛追従してにぎにぎ揉み手してゴマ擂って太鼓もって迎合して幇間ぶって相手に流されて……それでお悩み解決の処方としましょう、だ。そうすれば、世間では人気者になれる。ピエロの人気者だがな。
けどな、それはお前もわかっているとおり真の意味の解決ではない。もちろん難しく考えることはないんだが、なにも考えずにただ実務的に悩みを聞き流しているようじゃ、今度はこっちがマンネリで飽きちまうよな。会話飽きた、だ。だから、そうならないためにも、たまには相談部を跳躍した奇妙な冒険に乗り出そう――デンジャラスで、ベンチャーな橋を叩いて渡ろう。一緒に渡れば怖くない、トゥゲザーしようぜ。吊り橋効果だ。相手に踏み込み、相手の欲を否定し、そうして真の意味で、相手の悩みを払拭できるような……夢見がそういう人間であったら俺はいいなと思う今日この頃だよ。
P.S. 日誌の冒頭の文学ネタだけは書いといたから、本文はお前が書くとして、あとで貼っつけておけよな。』
――その下に、星空ダイアリーでお馴染みの冒頭文が続く……。
『橋本紡の『半分の月がのぼる空』なんて、ずいぶんと俺を泣かせてくれるじゃないの。いや、泣いたね、ほんと。泣きに涕いたさ。感涙にむせぶ? 違うね、暴力折檻に対する歔欷だ。橋本氏はほんと容赦ないぜ。俺みたいなやつを完膚無きまでに叩きのめすのさ。けちょんけちょんに、ばっきばきに、ぎったんぎったんに、げしげしと、ばしばしと、ぽかぽかと、あらゆる部位を打擲されたよ。それこそプロレス技だ。あれか、プロレスの技にザッハートルテってのもあるのか? もし仮にあったとしたら、この種の痛みをいうんだろうな……死んじまうよ、そんなに殴られたら。なにをそんなに殴ることがある? なぜ俺をそんなに殴る? じかに問い詰めてみたいね、俺の生き場をめちゃめちゃにする、橋本氏の拳骨がなにゆえにかくも天譴のごとき硬さを誇ろうというのか。』
……まったく、星空くんってば相変わらずなんだから。いったいどういうひねくれた読み方をすれば『半月』が暴力小説になるというのよ? 美しいお話じゃないの……スマートに小説が読めなくなってしまったのは、いったいなんでなのかしらねぇ……なにか嫌なことがあったんだとしたら、あたしに相談してくれればいいのに。あたしって、そんなに役立たず? あたしは溜め息しいしい、メールの中の彼が日誌の彼と同様に「俺」という一人称を使っていることに着目する。
……もしかして、この「俺」が、星空くんの読書を悪い方へ悪い方へと引き入れているんだろうか? あたしは昨日、普段はラノベを読まないという星空くんに『半月』を読んでみないかと奨めてみた。あいかわらず、お風邪は召されていても読書力だけは旺盛なようで、たった一両日で全巻読破してしまったみたい。なんてタフガイよ、まったく。風邪を引いて学校を欠席しているんだから、それらしく振舞ったらどうなのよ。
星空くんは、初めて出会った頃から読書少年だった。本の虫って感じで、どこへ行っても気晴らしに本を読んでいるくらい。中学の頃は、放課後は帰宅部だった彼は、河原の土手に仰臥して片手枕、文庫本を空に突き出すようにして、風変わりな読書スタイルを維持していた。
あたしは一年生の頃は、うわ、変な人だなぁと思って、同じクラスでも声をかけるようなことはしなかったのだけれど……でも、二年生にもなると、多感な時期でして、イケメンにはほいほい釣られてしまうのですよ、ええ。とはいえ、あたし自身はその頃、彼をそんな風に見つめていたことは一度もなかった。周りのイケメン達と比較してみても、痩せっぽちで男らしくもない、なよなよした感じの白皙の少年。それが、あたしが彼に対して抱いた第一印象だ。そんな、読書ばかりしていてクラスの出し物に積極的になることもなく、成績はよくても協調性の面でいっつも教師に小言をいわれているような彼とあたしが近づきになったのは、焦慮からだった。彼氏彼女の関係という、羨ましいステータスをあたしも有したい、欲しいという、月並みな焦りからだった。
クラスの女子はイケメンの彼氏と一緒に撮ったプリクラなんかをちょくちょく見せてくる。それがなんだっていうのよ、のろけ乙! って、あたしも最初はそう思っていたんだけど……こんがり肌を灼いた背の高い美男子や、ハーフだという色白のイケメンなんかをものにした女の子の嬉々とした表情を見ていると、蔑みはそのうちジェラシーになり、羨望は焦りにとってかわった。あたしにもお付き合いできる男性がほしかった……。
いまにして思えば、中二でも恋がしたい! なーんて、なに身の丈に合わないこと欲してたんだかと、それほど昔でもない過去の自分にあたしはアホかとつっこみを入れたくもなってくるんだけど、本当に男の子を渇望していたんだからしょうがない。
とにかくあたしもプリクラだとか撮ってみんなに自慢できるような、そういう彼氏がたまらなく欲しかった。ほんと、天から降ってきでもしないかなぁと、年がら年中そう考えていた。
自分から積極的に動くことは、恥ずかしかった。クラスにも一人そういう娘がいたんだけれど、彼女はイケメン欲しさに陰で何度も彼にタックルし、ついに何回めかの押しが功を奏して、細まっちょ系の精悍な顔つきのイケメンをものにして幸せそうだった。
でも、その彼は、彼女が自分に何度も何度もアタックしてきたことを男友達にしょっちゅう自慢していた。彼女も誇らかに、彼女の所属する女子グループにノロケ組としての地位を確立していたから、まぁ話は盛るわ盛るわで……彼女にしてみれば、予想外だったのよねぇ、なんで彼氏がさも手柄であるかのように彼女の方から積極的にアピールしてきたことを言い触らすのか、その無神経さが気に食わなかったのね。お前らほんとにカップルなのかよと疑いたくなってくるくらい日常茶飯事でケンカしていたわ。
そういう娘は勝ち組女子の間でも笑われちゃうのよね。え、あんた自分から告ったの? あたしは告られたんだけど、ってな具合に。そうなると彼女、余計に彼氏のことが嫌いになっちゃって、でも何故だか別れられないのよね。だって自分から何度も何度も当たって砕けて、ようやく手に入れた彼氏なんだもん。手放したら、もっとかっこ悪いじゃん。なんのために付き合ったんだってことだよね。たぶん今でも付き合ってるんじゃないかな? そんなに好きでもない彼氏なのにね。
あたしはそんな風にはなりたくなかったし、でもそのころは今みたいな美少女として花開いてなかったから交際を申し込んでくる勇気ある男子は稀だったし、なによりあたしは男子とはまともに口を利いたためしがなかった。これでは向こうからやって来る道理もないなと思って、求めよさらば与えられんと生徒手帳の一ページに書かれた金言に励まされる形で、校内のイケメンを探ってみたけどその頃にはみんな買い手がついていて、売れ残りは正直カンベンってレベル……。でも勝ち組女子は、売れ残り系男子について、男性諸君にとって聞くだに恐ろしい讒言の数々を喋りあう際に、星空くんのことだけは妙に高く評価していた。なんでも、いま自分が付き合ってる彼氏がいなければ、星空くんをものにしていたかもしれないそうな……口をそろえてそう言っていたから星空くんは永遠のサブ、みんなの二番手のポジションだったのかもしれない。
しかしイケメンには違いない……あたしは彼の顔を見ていてもぴんと来なかったのだけれど、女の子たちがみんなそう言うからには確かにイケメンなんだろうと、そう思って彼にアタックしてみた。すっごく緊張したけど、勇を鼓したのよ?
結果、玉砕した。そして何故か握らされる『グレート・ギャツビー』……。フランシス・スコット・ケイ・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』。ほとんどの人が、人生で初めて読んだ小説とは何かと訊かれても、記憶のローム層にすっかり堆積してしまっていてわからないと答えるのだろうけど、あたしの場合は間違いなく、この『ギャツビー』が初読書だった。国語の時間はイコールで睡眠だったしね。
星空くんってば、あたしの告白に黙ってうなずき、なぜかおもむろに『ギャツビー』を取り出した。この頃のあたしは純粋属性の夢見がちキャラだったから、ひょっとしてこの本の中に返事でも書かれているのかなぁと、なにくそと思って難しい言葉がふんだんに使われた翻訳にチャレンジしてみた。あっけなく沈んだよ。
「星空くぅん……この漢字、まだ習ってないから読めないよぉ~」
小学校の漢字学習では専用のドリルを使っていて、授業時間にみんなで一緒に一個一個漢字を覚えていくスタイルだった。けれども中学は違って、なんと教科書に載ってる漢字は自分で全部学習しないといけないらしい。純粋純朴だったあたしは、それでもいつか先生が漢字をレクチャーしてくれるのだろうといつまでも期待していたのだ。中二の夏休み前、定期考査のど真ん中だったけど、あたしは試験前夜の詰め込みなんてしたことなかったから『ギャツビー』に噛り付き、それが怪物級に難解な文章だったから、溶け込む夕焼けが妙に優しい夏草の上にいつものように寝そべる彼にとうとう泣きついた。ちなみに彼からこの本を渡されたのは一学期の頭で、それからずっと毎日、あたしはこの本に秘められた彼からのメッセージを読み取ろうとして奮闘していたのだ。半分も読み進めていなかったし、そもそも文章がちんぷんかんぷんだったからストーリーは呑み込めていなかったのだけれど。
彼はちょっと驚いた顔をしてあたしを受け入れると、隣にお尻を着けたあたしを不思議そうな眼で見た後で、
「……わからないところ、僕が読んであげようか?」
「……あの、差し出がましいようですが、全部お願いしていいですか」
あたしたちはそれから毎日、河原の土手に並んで寝そべり、仲のいいカップルのように一冊の本を、お互いの顔を近づけて読んでいた。もちろん読むのは彼で、あたしは聞き役。
星空くんの声は、水晶玉を覗いた時みたいに、すごく綺麗な不純物のない澄み切った音をしていた。変声期前の少年みたいに高い声で、女性のセリフとかも哀歓に抑揚をつけていきいきと朗読していた。その彼の呼気が、ちょくちょくあたしの髪にかかったりするのが新鮮で、情感よく歌い上げる彼の朗読の口調は、潮騒を録した貝殻を耳に当てた時みたいな、不思議な響きをしていた。
「――ギャツビーは、かわいそうな人ね……」
「……どうしてそんな風に思うんだい……?」
「だって、ずっとずっとデイジーのことを一途に想っていたのに、デイジーのためにお金持ちになったのに、デイジーったら、その気持ちに応えてあげなくて……いいえ、違うわ。もてあそんだんだわ、デイジーったら!」
「……夢見さんは、デイジーが嫌い?」
「大っ嫌いよ。星空くんは――?」
横を向いた拍子に、垣間見えた彼の表情にさっと流れるようだった夕日の残照を、あたしは忘れていない。愁いを見せたのも束の間、落暉に溶けゆく木の葉が風にめくれあがり、長い睫毛をぎりぎりかすめて流れていた。夏模様に色づく紅葉は須臾の光に眩く映え、安穏の水をなみなみ湛えた河の遥かは、水平線の彼方を莅むようで……。
あたしは作り物めいた彼の唇から吹き付けられる息吹を、甘露の放つ蠱惑のように感じていた。星空くんは、この光輝を見ていなかった。直視――あたしの眼を真っ直ぐに、見つめていた……瞳の奥にある、ダイヤモンドよりも硬くて、ゼラチンみたいにふにゃふにゃなものを覗こうとするように……。
「――僕は好きだよ――デイジーのことが」
「どうして? あんな、人の気持ちなんてわからないような女なんか――」
「そこがいいんじゃないか……だからこそ、彼も彼女を、愛したんだと思うよ……」
「……でも……彼は……」
「光になんか眼を向けてちゃダメだよ――そこにある意味を、求めてはいけない――」
「意味……?」
「きみがいて、僕がいる……こういうのをセカイ系っていうんだろうけど、要はそれだけさ。世界は、それだけなんだ。そこにあるものを愛そうよ――デイジーは可愛い、なにも知らない、可愛い可愛いお嬢さん……だから誰も彼もが、そんな美しい彼女に、惹かれてしまうんだ――」
――落ちかかる陽は、寝そべるあたしたちの顔を斜めに熱く射す――。
――これが、あたしと星空くんの馴れ初め。この一年後に、彼は記憶を失うことになるんだけど……その一年間で、あたしは彼からいろいろと本の読み方を教わっていた。この頃の彼の読書のしかたは、とてもきれいで、純粋で……あたしはそんな彼が、たまらなく好きになってしまった。土手際の夏の草いきれの匂いとともに、彼の妙なる朗読の声を、その韻律に酔いしれたのを記憶に留める……。
――これがあたしの、初恋で」
「――あー……なに書いてんだか、あたし……ないわー……。あたし、ないわー……星空大魔王の眼の届く範囲でなに乙女チックなこと書こうとしてんだか……なしなし。削除削除。
……でも、こうして日誌を読み返してみれば、一週間のうちに本当、いろいろなことがあったんだなぁ……相談なんてろくにしてこなかった前半戦だったけど、本を読んでいるだけでも色んな人と出会た。思えば星空くんとの出会いも本がきっかけだったしねぇ……。
……最初は、星空くんと二人きりの空間がつくれればそれでいいや、なーんて考えて、そんな見え透いた魂胆を隠すために、友達をつくるためだの、谷川メソッドだのを持ち出してきちゃってねぇ。まぁ、結果としてアズにゃんやサっちゃんっていう友達ができたのは嬉しいんだけど……あーあ、思い出してみれば、なんで中二の頃はあんなに行動力あったんだろ、あたし……あの頃の厚顔無恥の一パーセントでも今のあたしにあれば、相談部開設なんていうまどろっこしいことせずに、ストレートに想いを告げられてたのに……星空くんが記憶喪失者であるのをいいことに、実はあたしと星空くんはもう後戻りできないほど深い間柄だから、病が二人を分かつなんてことがあっちゃいけないのよー、的な殺し文句で迫ったりとかね。ほんと、そういうことすんなりと言えてたら、アズにゃんとの古典的三角関係フラグも立たなかったよ……あの娘、口には出さないけど星空くんのこと絶対好いてるよ、間違いない。乙女の勘と冴えたるサブカル眼があたしに耳打ちしてるもん……これは日曜日になにかあったパターンだね。急に降られた雨に参ってずぶ濡れになったシチュで接近とか、あったに違いない。じゃなきゃ、昨日の昼休みにわざわざ星空くんを呼びつけたりなんかしないよ。アズにゃんは友にして恋敵という展開に五千万ペット!
ところで星空くん、ほんとうに記憶喪失なの? なんか、日誌を読み返してみると、ところどころでボロを出しているような発言ととれるところがちらほらあるのは、ネタなのかしらね……? それともバラ撒くだけバラ撒いといて回収し忘れた伏線? まぁ、いいわ。記憶喪失が嘘かまことかなんて、おいおいわかることでしょう。それよりなによ、一昨日の記事! なに保健室でサっちゃんの股ぐら覗こうとしているわけ⁉ 信じらんない⁉ さいってー! っていうかサっちゃん、そんなに脚キレイなの……? 体育時間も長ジャージだから見たことなかったけど、うむむ、このあたしよりランクが上の美脚とは、許せませんなぁ……まだ四月だけど、プール開きが心底待ち遠しいわね。そのすらっとした美脚、とっくり拝見させてもらおうじゃない、サっちゃん……それとも、
……ジャージを穿いたまま潜っちゃう系の、新しい女子なのかもね、あの娘――」
八月の南の夜空には、群れてサソリ座を成す一連の星々が、灰色の雲間より明るく点々と覗けている。スレート色をした粘土のような雲海が足取りも重たく空に靉靆していると、皎々と照りつける弓張り月の影は、ぬばたまの夏夜には似つかわしいものではないように思えたが、おっかなびっくり光に触れようとするその雲の恥ずかしげな風情は、蝉の松風のように鳴く星月夜に秋のしじまを彷彿とさせた。
浅川のせせらぎは煌めく水面に北緯三○度の南天をくっきり映し出していた。緩慢な流れに土手際の草も水に濡れそぼつことを忘れていた様子と見え、夜もすがら渇にあえいでいる貧者よろしく夜空のシリウスを一点仰いでいるのが窺われる……シリウスといえば、河の氾濫を予兆したことで名高い。浅川はその名に反し、どうして底は深く、川幅も一棟のビルを横たえたほどに延長していたから、もし増水したとなれば、なまなかの堤防では押しとどめようもなく、いともたやすく決壊しかねないだろう。名も姿も平静たるをもって常と通用しているものこそ、いざ本領を発揮した時の凄絶さは筆紙のよく尽くしうるところではない。ために浅川は、土手の勾配の手前にある土を、景観を損ねないぎりぎりの高さで微かに盛り上げ、長大な溝をその背後に生みだしていた。昼に覗けばなんのことはない濠の穴も、町明かりに打ち負けた満天の下では、なにか深淵な奈落を思わせるような不吉がそこわたりにわだかまっているようにも、二人には見えたことだろう。
彼らがそこに寝そべるのは特別のことではない。蝉や夏虫の声は郊外の熱帯夜に灼かれる恨み言のように聞かれ、蚊のぶんぶんと飛び交う煩わしい羽音にもいちいち汗の噴きでる思いがする夜であった。時折り汗の伝う頬を滑るように擦過する風が、冷房に慣れた現代人的はだえに新鮮な息吹と知覚させられて、寒くもないのに震えてしまう身体を、夢見は面白がるように感じながら、三々五々に夜空を瞬く星を観察していた。拡大鏡のようなものは身辺にはない、肉眼で見ることのできる、それはわずかな輝きだ。そうして、肉眼ではもはやとらえきることが難しくなった遠くの輝きにまで想いを馳せた。遠くのようで――それは実際、近くにあるようなものだった。
「……見て、星空くん……月が半分こだよ」
「……月は、物語ではよく完全なるものを表すためにしばしば使われることがあるんだ」
「完全?」
「完璧の故事さ。金甌無欠。そうでなくとも、藤原道長の詠んだものがあるでしょ? この世をばって」
「んー、歴史は不得手でして……」
「じゃあ、得手はなんだいと訊くのは禁句かな?」
「……お月様の話でしょ?」
「そうだね。横顔の美しい姮娥の話だったね」
「コウガ?」
「月を女性に譬えた言葉だよ。完全なるもの、それが月さ。いまはそれが半分だから、中途半端ってことかな――」
少年は、月影を受けてほの白んだ面を、半ば以上を雲に覆われた月へと向けて、茫然としていた……満月を見て変身するという狼のように、彼の顔は動物的にひどく顫えているように、少女には見えた。
「――中途半端じゃないよ……今は、あたしがいるじゃない。完璧美少女が。欠片合わせで、真円だよ」
「……夢見さんは、美少女なの?」
「……美少女に見えない?」
彼の手が、その繊細すぎる指が、風よりもしなやかに動いた。彼女の髪はいずこ、と探しもとめて、しばし中有をさまよったのだ。月の洗練された光に洗われ、濡れ羽色をしていた彼女の髪を。彼の手が触れると、世の中には妙な触覚もあったもので、なにか得も言われぬ特異な感覚が彼女の胸をぴくりと動かした。さらさらと、髪の一本一本を手の平で味わうかのように、大事そうに愛おしげに、少年はうっとりとその髪を愛でる。――その時虫の声が一瞬鳴りやみ、彼女の意識は刹那の間悠久の閑寂に遊んでいた。胸の早鐘を打つような静かな音が、彼女の身を激しく揺すぶり、意識を現実に引き戻した。
「……美少女は、髪を結わえてくれないと」
「……ポニテとか、両サイドに触覚系の女の娘ってこと?」
「……月といったら、お団子だよ」
「……さいですか……善処するわ」
顔の火照りをごまかすように、彼女は身をよじって、少し彼の方へ距離を寄せた。細い肩と肩が、ともに触れ合えるほど近くに。お互いの底の方に宿る熱が、息吹に酔えるその距離が――彼女には雲からはみ出る月の暈を望むのよりも、神秘的な、尊いものに思えた。
「ねぇ星空くん、サソリ座ってどれ? どこにもサソリ、いないじゃない。昨日やってた映画でサソリの王様ってのがあって、あたしサソリの形をこの眼で見てきたんだから。毒を持ってるのよね。お空のサソリは、よっぽど猛毒なんだろうね」
「あはは。うん、サソリ座といったって、そのまんまサソリの姿をしているわけではないよ。映画みたいな娯楽もなくって、暇で暇でしょうがなかった先人が、空の星でサソリを描いたのさ。位置は……たぶんあの辺かな。それと、サソリは大きい方が毒は弱いらしいから、安心して」
「なんだ。サソリが空にいるわけじゃないのね」
「夢見さん。中三にもなって空の星座がどんなものか本気で誤解していたのかい? てっきり僕は子供レベルの冗談を言っているのかと思っていたのだけれど」
「な……あ、あたしだって! サンタさんの正体が誰かくらい、見当をつけている立派な大人なんだから! 子供扱いしないでよね!」
「……ちなみにサンタさんの正体は?」
「以前、あたしがお隣さんの敷地に根を張った柿の木のうち塀を越えてきた分だけをとって食べたらすごい剣幕で怒鳴り込んできた、がめついお爺さんの正体がサンタさんなのは知ってる!」
「……それは法律相談とかクイズとかで頻繁に持ち出される有名なケースだよね。ていうか、現実でお隣さんの柿を食べちゃう娘がいたとは驚きだよ……」
「プレゼントを配り歩くのが仕事のクセに、パーシモンの一個や二個くらいでカンカンになっちゃうなんて、三太お爺さんには失礼しちゃうわ!」
「知らないよ、その三太さんは……」
「きっと二重人格なんだわ。でもなきゃ、よっぽど鬱憤でも溜まってたんでしょうね。あ、星空くん見て見て……あれが、サソリさんの頭かな?」
「……だろうね」
「……どこを向いているんだろうね……あたし、教科書で『注文の多い料理店』読んだ後に、『銀河鉄道の夜』も読んだのよ……サソリさん、ちょっとかわいそうよね……」
「イーハトーブか……うん、サソリが見ているのは、シリウスだよ。あっちの方で輝いてるね。シリウスはオリオンの猟犬で、夏の暑さの正体ではないかと昔は言われていたんだ」
「どうしてサソリは、オリオンを殺してしまったの?」
月が雲に隠れた。対岸の高台からまたたく光は空に不可視の膜を張ったようで、息苦しさに虫の声も少し低く、弱くなった。
「……どうしようもないんだろうね、そういうのは……宮沢賢治は、熱心にキリスト教の聖人をたたえる人でね、天沢退二郎という人の研究によれば、『銀河鉄道の夜』には聖人の暗喩がところどころにちりばめられているらしい。そのうちの一人に、聖クリストファーの姿が浮かび上がる。彼はイエスを持ち上げて激流を渡ったとされる、犬頭の聖人だ。ギリシア神話のシリウスも、オリオンを導く犬だ……なにか繋がりがあるかもしれないね、双方には」
「……話そらした?」
「誰かが誰かを殺すなんて、僕はそんな世界にいたくない……――へっくし!」
「……どうしたの、星空くん。風邪でも引いた?」
そう言って、少女――夢見は隣に寝転がる少年――星空の手にそっと自分のそれを重ねた……鼓動は温かく、熱は小刻みに揺れている。くしゃみの後の、あの鼻腔内の特有の臭いが草いきれに溶けて夜露とかすむ。彫刻の石像のように白い彼の手に、こんなに温かさが宿っているだなんて……彼女は覚えずハっとなった。
「星空くん、大丈夫……?」
「へーき。なんでもないよ、薄着で出てきちゃったから少し冷えただけさ……夏だっていうのに、今夜は一段と冷え込むね」
「日中はあんなに暑かったのに……これも温暖化の影響? 大丈夫かな、地球。どうして昼と夜で温度差があるんだろう」
「砂漠もそうだよね。昼と夜で温度差が違う」
「え、砂漠ってずっと暑いんじゃないの?」
「昼と夜とで温度差が激しいんだ。寒いってほどでもないけど、日が出ている時の気温が気温だから、夜になると落差が著しくて、肌に寒いと感じられてしまう……砂漠の人たちはどんなに暑くても、ヒートアイランドで苦しむ東京の若者とは違って、いきなり上半身裸になったりしないだろう?」
「ふぅん。ところで砂漠って、どうして砂だらけなの?」
「岩石の中に、微量の鉄分が入っているんだ。これが日中、暑い時には熱膨張して、岩石全体に罅を入れる……夜は収縮して、隙間から風に吹かれて抜け出るんだ。そういうのを何回か繰り返すうちに、鉱物は砂になるのさ。ほら、電車の線路があるだろう? あれって程間隔に隙間が設けられていて、夏の暑い日には線路が熱膨張しても歪まないように工夫されているんだ。その上を電車が走るとすぅっと音がするんだけど、冬場は反対にガタンゴトンと鳴るんだ」
「よくそんなの知ってるわねぇ」
「授業で言ってたろ?」
「う……先生の受け売りをひけらかさないでください!」
「あはは。じゃあ、どうして夏は暑くて、冬が寒いのか、その理由を知っているかい?」
「そんなの……夏は地球が太陽にいくらか近づいて、冬は遠ざかるからじゃない?」
「それだと、氷河期とか、ヒプシサーマルとかいった時期の要因になっちゃうんだ。ちょっとでも太陽から離れると、地球は凍てついてしまうんだ――」
星空はそこで、唐突に上体を起こし始めた。せっかく肩が触れ合って、お互いの熱を近くに感じていられたのに、無意識だろうが、彼が不意に立ち上がったのが意地悪のように思われて夢見は少々むっとした。彼女も上体を起こすと、正座になって彼の薀蓄を聞いているという、なんとも珍妙な光景が出来上がっていたが――彼の言葉がどんな類いのものであれ、それは夢見にとってまさしく啓蒙の光……世界の未知なる部分を解き明かしてくれる、優しい旋律で奏でられたセレナーデだった。
彼はそぞろに脚を踏み出した。土手べりへと向かう彼にいざり近寄ろうとするのであるが、昼間は陽光に好き放題熱せられていた腐葉土がぴちょりと膝に当たると氷のように感じられて、ちょっと戸惑った。彼はどんどん緩やかな勾配を下りていく。――こっちへ来て。もっと一緒に、肩をくっつけあっていようよ――そんな簡単な言葉すら、彼女の口は紡ぎあぐねたと見えて、進もうか、進むまいか、一度悩んでしまうとちっとも脚が動かなくなってしまった。
ちょっと離れた位置で停まり、やがて彼はこちらを振り向いた。
「――地軸の傾きって習ったろ? あれが季節の交替に影響しているんだ。たとえば地球が太陽にむかってお辞儀しているような時は、北半球は南半球に比べて日射量が多く――太陽に距離が幾分近いからね――、その時季は夏になるけど、引っ込められたお尻の方は、日射量が少ないから冬になるんだ……地球が公転をすすめて太陽の反対側に位置すると、今度はお尻を突き出した格好になる……その時は、のけ反った北半球は真冬の寒さにしんしんと降る雪色のコートを着込んでいて、南半球では夏真っ盛りなのさ。常夏の南国ってのは、こうしてみると日本人の勝手なイメージだよね。赤道帯はたしかに常夏だろうけど」
「北と南で、季節は逆転してるってこと?」
「そうさ」
「へぇ、なんだか不思議。まったく異なる二つのものが、一緒になってるのが世界だなんて。三太さんがサンタさんをやってるみたい」
「……そうさ。陰と陽、N極とS極……この世の中は、あい対立する二つのものからなりたっているんだ……」
星空は、なにかを見つめて悲しい顔をしていた……なぜそんなに悲しそうな顔をするの? 問い詰めたくとも、彼女には言葉がなかった。
夢見を見ていたわけではない……それは夢見の一部ではなく、夢見ではないどこかであった……それを彼は、一直線の眼差しで見つめていた。
「……そうだ、二つあるんだ……二つで一つなんだ……」
「……星空くん……? どうしたの、具合でも悪いの? 顔がひどく青ざめてるけど……」
「……具合……? ああ、悪いよ……僕は具合が悪いんだ……心持ちが悪いんだ……おかしいんだ」
「星空くん……? どうしちゃったの、急に……なんだか怖いよ?」
「……」
腐葉土は夜露にぬかるんでいた。彼は脇目に河の緩慢な流れを見、遅々と下るその様に眼を細めていた……暗闇が、あらゆる重さやあらゆる観念をすら呑み込まんとする穴が、ぽっかりと、まるで彼を迎えいれるかのように空けられていた。彼の眼は、それをばかり見、それをばかり眺め――彼の耳朶は、一切の声を受け付けなかった。牽引する糸が彼と闇を結び付け、引き離そうとしない。か黒い闇ばかりが蛾のようにひらと彼の瞳の中に踊れる。
「……ギャツビーはかわいそうだ……」
「……え?」
「ほんとうに報われないよ……デイジーはひどい女だ……夢にまどろむくせに……実際に生きもする……! そんなのは、フェアじゃない……あまりにフェアじゃない……」
「ほ、星空くん……急にどうしちゃったのよ……?」
「読んだんだよ! 僕は全部、読んだんだよ! ちゃんとした本を読めって、みんなが言うから読んだんじゃないか⁉ あれもこれも読めよ読めよというから、僕は読んだんじゃないか‼ 誰とも付き合わず――ひたすら本ばかり読んで――でも、みんな読んでいないじゃないか⁉ 誰も読んでないじゃないか⁉ みんなみんな、読まないやつだけが生きてるじゃないか! デイジーばかりじゃないか! 嘘つきじゃないか! なんで僕だけここにいるんだよ! なんで僕ばかりが――光を見れないんだよ‼」
――暈がかりの月は厚い雲に隠されていた。河原は幾疋かの蝉噪に溢れ、夏草は揺れることさえ忘れてしまったように、シリウスの眩い光熱に、ただ焦がれている。
沈滞する闇が、河の手前で彼を誘うように蠢いていた。流れのまにま――本能と欲の赴くまま――に生きていよ、そう告げてもいるようで……。夏の不の面を凝縮していた腐葉土の黒い塊がにわかにぬかるみ、未踏の泥濘で厭世家を喰らわんと牙を剥ける。対岸の、高台の車道を走行する車の排気音は勝ち誇ったように夜闇を疾走していく……風は死んだ。後塵を拝したすべてに対し、彼は敬意をはらい……その他すべてに、彼は悪罵をたたいた。
彼の一歩は、深い闇に鎮座したポプラの棺椁への抗いがたい魅力と、そこにまたがる期待に飢えたように、貪欲な足取りで踏み出された。
「あ――ダメよ星空くん! そっちには濠が――そっちへ行ってしまってはだめよ!」
「すべては――なにかを読んでしまったことがいけなかったんだ! 大病だ……大病だ‼ なにも見えない……なにも聞こえない! あってはいけないものが……どこかにあるだなんて、思ってしまったことが間違いなんだ! この世界には、なにも無い! 神なんて――存在しない!」
「あるわよ! 星空くん、こっちよ! こっちに帰ってきて! ねぇってば! きらきらと、光るものがこっちにはあるの……! 一緒に見ていようよ、お願いだから――こっちへ戻ってきてよ‼」
「ここは――どこなんだ――? ――僕は――僕の居場所は――僕は……俺は、……誰なんだ……?」
「だめよ! 星空くん、それ以上そっちへ行っちゃだめ――落っこちちゃうよ⁉」
沈む。あらゆるものが、沈んでゆく――息もつかせぬ闇の底……夏の泥土の、なんと冷めたることか。虫の死骸が蠢く心地して、彼は自身もまた醜悪な身に堕してしまったのだと、どうしようもなく自覚する。
「星空くん――なにがあったの……? 嫌なことがあったんなら、あたしに相談してよ! ねぇ、星空くぅーー――」
深い深い井戸の底。不快で異形な虫ばかりが、うじゃうじゃとすだいてはけたたましい音色で鳴く……彼は闇の底で、這い上がることもままならず――自ら死地に赴くように、芋虫のように、土のひやりとする感覚だけを生の証と、底の底から実感するようになっていた……。
そうして――それこそが終わりなのだと、彼はまざまざと思い知るのだった……泥臭いにおいと、土の苦さだけをたよりに、そこばくの気力を振り絞って、生きるにあたわぬ彼はただ、底を這うのみなのだった。
「……きみは、誰なんだ……?」
「俺は――お前だ――」
「僕は……きみ……?」
「そうさ――俺はお前だ――」
――さやかなるシリウスの瞬ける空に、星々は、嘲弄の色を浮かべて万物を睥睨していた。笑う哂う、不幸を嗤う。悉皆、さらに哄わぬモノとてなに一つない――。