四月 二二日 (火)
心して聞け。心捨ておけ。
「ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の中で、誰が図抜けてかわいそうな人物であるのかを夢見と詮議することになった。明日、月見に本を渡すにあたって、その人物を中心にかの名作を繙いてもらうよう打診するためだ。遊び心なくして、本など読めない。レミゼなんて長いから、なおさらだろ?
「やっぱり、なにはさておいてもエポニーヌの悲恋がとびきり胸を締め付けるわよね!」
「……でたよ。女はいっつもそれだ。二言目にはエポニーヌエポニーヌ……」
「なによその言い方⁉ エポっちを愚弄するつもりなら、ムーンタルトに代わってあたしが容赦しないわよ‼」
「誰だよエポっちって……愚弄するつもりは寸毫ほどもないから、そのセーラー服が似合いそうなキメ台詞は勘弁してくれ……」
今日という一日は、いつもになく外の生徒の声が騒がしい。保健室の窓からさし覗ける桜の花は、枯れたような細っそりしたその枝ぶりを清澄な空をバックに映えさせていて、散りつくしている様子がありありと窺える。裸になった木はよくよく見ると、ひどく痩せ細った老人のシワに満ちた肌を思わせた。その木漏れ日移ろう下の歩道を、エネルギッシュな若者が走り込みをして通過している。春香る河に沿って連なる桜並木の風景は、桜を取り巻くドウダンツツジやアザレアの大輪の風にささやく小さな声、走る彼らの眼にそれらは一律ならざる変化を与えもしようが、どっかと根を張った百年桜は生きる場所を誤ったかのように、樹幹から褪めたエールを高校生達に送っている……やっかみでも訓示でもない、なにか痛切な愬えを。
昨日やってきた転校生は、いろんな部活に誘われるがままに八面六腑の活躍をしてみせたらしい。飛び入りで参加した調理部では、シェフ顔負けの腕前で、どこにでもある普通の食材をカタカナだらけの高級料理へと変貌せしめたそうな。その足で寄った茶道部では、金髪だというのに和服美人よりも楚々としたお点前を見せて観客ら(主に男)をどっと湧かせ、弓道や剣道、テニスなんかでも、それぞれの部を代表する猛者をけちょんけちょんに打ち負かしたらしい。なんだそのラノベのキャラクターぶりはと突っ込みたくなったが、これが現実だというのだからもって生まれた我が身の稟質の貧乏をせいぜいかこつだけさね。
さて、貧乏といえば『レミゼ』だ。我が校ではいま金持ちが話題の中心をさらっていたが、我が部では貧乏で持ち切りだった。本当の貧乏とはなにか……そんなものをつらつら考えてしまうと、表の桜みたいに花を散らせなければならなくなるから、俺たちはレミゼを深く読んで美しさを知れば知るほどに、美しい生き方からは遠ざかってしまうのだ。このジレンマ、肌をぶすりと突き刺すね。貧乏でいたくない。金持ちでありたい。
「エポニーヌの葛藤は本当に救われないわよねぇ……大好きだったマリウスは、大嫌いなコゼットのことを愛していて……そんな乙女心の機微にも気づかないで、彼はエポニーヌにコゼットと自分との仲を取り持つことをお願いする……その夜、最低最悪の父親・テナルディエが陰謀を発動して、コゼットの父を殺そうと計画し、エポニーヌに協力を持ちかける……ここで葛藤よね。いくらクズ親といっても実の父、テナルディエに加担してコゼットの保護者を殺してしまえば、当然コゼットとマリウスの仲は引き裂かれるだろうし、そうとなれば自分はずっとマリウスと一緒にいられる……でもそれは、マリウスにとってはとても悲しいこと……だからエポニーヌは、自分の気持ちとマリウスの気持ちを秤にかけて、お互いにとっての幸せとは、同慶の至りとはなんなのかを考えた……結果として彼女が選んだのは、マリウスとコゼットが密会している間に、テナルディエを引き留めることだった。もちろんそんなことをしたって、マリウスが自分を振り向いてくれないなんてこと、彼女にもわかりきっていたわ。合理的に考えて、自分がマリウスと一緒にいた方が、幸せでいられるっていうのはエポニーヌにだってわかっていた……けど、そうしなかったのは、マリウスにとっての幸いが、自分にとっても幸福となることを知っていたからなのよ。マリウスの嬉しそうな顔を見ているだけで、エポニーヌは幸せだったの……浮かばれない悲恋だけれど、でもエポニーヌの取った行動は美しいわ」
マリウス、ねぇ……俺は鼻持ちならない美辞麗句を聞かされたみたいな気分になって、ひどくイラついたね。
「なるほどエポニーヌの、葛藤を乗り越えるその力強くも逞しい姿は美しいね。たしかに美しいよ。でも彼女は最期に報われた。その後の革命のどさくさで、マリユスを凶弾から庇い、彼の腕の中で息絶えた……これは善行が報われたってことにならないか?」
「それがなんだというのよ? エポニーヌは身を挺してまで、自分の欲を殺していたのよ? あのどうしようもなく貪婪な父親からは離れて、真剣にマリウスにとっての幸福を考え行動していたわ。最期くらい、報われたっていいじゃない?」
「報われない人物もいる。たとえばマブーフ老人だ。彼は植物に魅せられた男だ。植物図鑑さえあれば、他のどんなことも望んではこなかった。これほどストイックな男も他にはいないだろうよ。しかし世界は、植物の美を欲してなどいなかった。時代が望むのは本草学ではなく、革命と金だ。人々の胸に燦然ときらめく光輝はシュトラスブルガーではなくナポレオンだ。金にもならん植物を愛そうとする老人は、どうしようもなくズレてしまっていた……人とズレているやつは畢竟死ななけりゃならん。十人十色、みんな違ってみんないいなんてのは絵空事で、詭弁で、時代がもとめる色に旗幟を染めていないと人は生きられない。ましてや老いぼれなんてなぁ。彼は最期になんと言った? 革命万歳! これほど革命とは無縁な爺さんも世の中にはまたといなかったろうぜ」
「もう! またそういう悲しい読み方をするぅ! マブーフ老人はたしかに、かわいそうな人だけど……レミゼの人物は、それだけじゃないでしょ? 色んな人達が、それぞれに懊悩を抱えているじゃない! マブーフ老人の、大切な本を売って粗末なパンに替えていく葛藤は、世界のうちの一つの事象でしかないわよ」
「エポニーヌの悲劇だってな。人は救われた話にばかり目を向けて、救いようのない暗い昏い話にはちっとも眼を向けようとしたがらない。あまりにフェアじゃない。俺はフェアな生き方が好きだね……その点、ジャン・ヴァルジャンなんてまさしく、フェアの代名詞だよな」
「そうね……たしかに、いろいろと見方はあるだろうけど、ジャン・バルジャンの美しさは、これは一言でも四文字でも集約できない深みがあるわよね」
「……ジャン・バルジャン、だとぉ……⁉ ききききさま、まさかそれはジャン・ヴァルジャンのことを指して言っているのか……⁉ そのアゼルバイジャンみたいな感じで、ジャン・ヴァルジャンをジャン・バルジャンと呼んでいるのか⁉」
「な、なにをそんなに憤ることがあるのよ⁉ アゼルバイジャンなんてどっから引っ張り出してきたのよ⁉ 関係ないじゃない! というかむしろ、アゼルバイジャンの人たちに失礼じゃないのよ! いいでしょ? あたしがどんな名前で表記してようが。しょせん翻訳なんだし、カタカナ語は個人の自由よ」
「いいや、よくないね! マリユスのことをマリウスだなどと呼んでいると思ったら、かのジャン・ヴァルジャンまでをも貶めて呼ぶとはな! 愚劣ここにきわまるね!」
「おとしめてなんかいないわよ! マリウスとジャン・バルジャンで覚えちゃったんだから、愛着が出て、捨てるに捨てらんない呼び方なのよ!」
マブーフ老人はその愛着を捨てなければならなかったからこそ、悲哀なんだけどな。
「まぁ、そこはいいとして。葛藤の話に戻ろう。ジャン・ヴァルジャンの生涯は葛藤の連続だったが、しかし第五部のタイトルをジャン・ヴァルジャンにするあたりユゴー先生はよくわかってらっしゃる。きっとファンの目線で物語を読める書き手だったんだろうな。あの第五部は、ジャン・ヴァルジャンであってこそふさわしい」
「そうね。第五部はジャン・バルジャン一択よね」
……く、夢見め……。
こやつ、譲る気は無いな……?
「ジャンさんの最初の葛藤といえば、パンを盗むか盗まないか、よね」
「そうだな、ジャンさんという呼び方が落としどころだな。べつにマドレーヌ氏でもよかったわけだが、世を忍ぶ仮の姿は人の本性ではありえんのだし、やっぱりここはジャンさんと呼ぼう。ジャンさんの葛藤の第一は、小さな子供たちに半ば脅される形で、パンを一個くすねるかくすねないのかというところから始まり、盗んだ結果彼は捕まってしまう。檻の中で、一家の唯一の稼ぎ手だった彼は考えた。その子供たちのために脱獄するかしないか。ジャンさんは脱獄し、またしても捕まり、とどのつまりは人生のうち一九年間もふいにしてしまった……厳しいだけの法律や制度ってやつが、一人の人間の尊厳をかくも痛めつけるんだよな」
「でもそのおかげで、彼はたくましい強健な肉体を得たんじゃない」
「そうだよな。ところで夢見。お前はジャンさんの力持ちキャラという設定、あれが何を示唆しているのかにはもちろん気付いているよな? なぜジャンさんは力持ちなのか」
「……どこまでも、力持ちなのよね」
夢見は胸にぶら下げた脂肪のかたまりをブレザーの上からきつくおさえていた。
「よろしい。ジャンさんは一九年間の刑期を終え、出獄の運びとあいなるわけだが、囚人の証である黄色い紙が彼をどこまでもどこまでも暗いどん底に叩きつける……」
「でもそのお蔭で、彼は出逢った」
「ミリエル閣下に、だな。ジャンさんは一晩の宿りとした彼の家から銀の食器を盗む。一宿一飯の恩義、なんて日本にしかない言葉だものなぁ。間もなくジャンさんはとっ捕まった。しかしそんなジャンさんに対し、ミリエル司教は優しい声音で、銀の燭台もきみにやったのだと告げ、それを手渡す」
「感化されるのよね。それ以来、彼は人が変わったように――」
「まだ変わらんよ、その後がある。ジャンさんはそれからしばらく魂が抜けたように呆然自失とするんだ。自分が何をされたのかがわからないんだよな。世界の法則では――少なくとも自分が一九年間味わってきた世界の法則では――ありえない仕打ちを彼は司教からこうむったんだ。鞭を加えられるんでなく、銀の燭台をたまわった。これがいったい、盗みをはたらいた彼に対してどんな罰になるというのか、あまりに経験のない、未知数なことだったから――無限だったから、考えても考えても、いっかなその答えは出てこないんだよな。
していると、一人の少年が嬉々として前を通りかかり、ジャンさんの許に銀貨を落とす。彼はその折り考え事をしていたもんだから、無意識だったが、これまでの人生が彼の肉体を衝き動かしてしまっていた。彼は靴底で硬貨を踏み隠すと、少年が返せとせがむ声も耳に入らない様子で呆け続ける。やがて少年は泣いて帰って行った……日が暮れた頃になって、彼はハっとすんのさ。自分がやるべきこと――自分がこれから何をなすべきかが、無限というものが、手に取るようにわかってしまったのさ」
「彼は黄色い紙を破り捨てて、名をマドレーヌと改めて人々のために工場を興し、市長にまでのぼりつめるのよね」
「そこへ現れたのがファンチーヌ……小狡いテナルディエなんかに娘のコゼットを預けてしまったばっかりに、あらゆる操を失ってしまったこの女をジャンさんはなんとかして救おうとした。金蔓を手放したがらない魂胆が見え見えなテナルディエにコゼットを返すよう再三にわたって要求するが……さてここで、大きな葛藤だね」
「そうよね……この葛藤のくだり、あたし本当に好きなのよ」
「市長の正体がかつての囚人・ジャンさんではないかと睨んでいたジャベール刑事からの思わぬ報告……遠くの裁判所で、シャンマチウという、自分とは一切関わりのない他人が、自分と間違えられて裁かれるという話だ。ジャンさんはすぐに駆けつけて、彼の無実を証明しなければならない。しかし、それは市長である身分を捨てて、再び罪人に立ち返ることをも意味する。そうなっては、テナルディエからコゼットを取り返すというファンチーヌとの約束が果たせなくなる……素晴らしい葛藤さね。さりげなく自分の欲が見え隠れする。しかもその欲は、ファンチーヌとコゼットのためという大義名分まで得てしまっているんだものなぁ……他の誰かだったら間違いなく、シャンマチウに罪を着せてたね。あとでそれを追及された時にでも、だってあの時はああするしかなかった、親娘のために私は名乗り出るべきではないと覚った、なーんて言い逃れするにきまってるよな。ずるいよな、世の中。市長職を手放したくないって欲の方が強いクセに」
「もぅ! そんな人たちの発言にいちいちかかずらうことないじゃない! ジャンさんは美しい決断をした。むしろその欲があったおかげで、人間はその欲を否定できるのよ……つまり、欲の逆を人生にしてしまえば、そこにはまぎれもない天国があるのよ」
「あるいはそこにあるのは力強さか、本当の男の姿だよな。まぁ、それをやるのはそうとうに奇妙な冒険ではあるけどなぁ。自分が罪人であることを明かしに行くために――市長という身分をわざわざ手放すために――ファンチーヌを裏切るために――ジャンさんが裁判所へ向かうってのは。学生でいうなら、先生の採点ミスのおかげで及第点まで乗り上げた答案を、正直に報告しにいくようなものだぜ。人はその行為を、バカと呼ぶ」
「それでも彼は、美しい」
「美しさとバカは紙一重といったところだな。いや、ニアリイコールか。結果として、コゼットを帯同してこなかったジャンさんを見て、しかも刑事ジャベールと取っ組み合う彼の姿を目の当たりにして、ファンチーヌは気がふれたように死んでしまう……」
「それでもジャンさんの行動は、間違ってなんかいなかった」
「世間がどう言おうがな。世間的には、彼が市長のまま親娘を救っていた方が、それはパっと見わかりやすい救済なだけに、シャンマチウなんていう薄汚い爺さんを救いに行った行為よりもよほど賞賛していたろうよ。なぜ世間的にわかりやすい女子供ではなく、世間的には役立たずのジジイを救ったのか……夢見、これがわからんようじゃ、お前さんもジャンさんからは遠い世間っていう、正義の代名詞に堕しちまうぜ?」
「全員を救うなんてことは、土台無理な話。その中で、自分がしたいと思う欲を否定して生きること……これが、彼がシャンマチウさんを救った理由よね」
「理由、か……それこそ無限なるものだから、神の教えなる電波を受信してみなきゃわからんことなのだがね……その後ジャンさんは陰険なジャベールの追跡を躱しながら、まんまとテナルディエからコゼットを奪取することに成功する」
「コゼット、かわいそうよね……灰かぶりみたいにコキ使われて、自分はゴミみたいな布きれをお人形さんに見立てて埃にまみれたところで遊んでいるというのに、エポニーヌたちは綺麗なうえにお上品なお洋服で着飾ったり、ファンチーヌがコゼットのためにと身を削って稼いだお金で欲しいものをなんでもテナルディエに買ってもらったりして……まぁ、後年この二人は立場が逆転しちゃって、今度はエポニーヌがかわいそうになってくるんだけどね」
「ユゴー先生のすごいところだよな。キャラ設定をスポイルしない。で、コゼットをともなってジャベールの追跡をみごと回避したジャンさんは、かつて恩を売った相手の肝いりで、コゼットを修道院に入れることができた」
「ジャンさんの力が、真に強かったからよね。横転した馬車の下敷きになったその人を、危険も顧みず救ったのがジャンさん……助けたその彼に今度は救われる。徳はこうして、世の中に伝染していくものなのよね。あたし、ジャンさんがモンパルナスに与えた財布を、ガブローシュがこっそり盗んで、マブーフ老人に投げつけて、手許不如意だったはずのマブーフ老人がそれを警察に届けるくだりなんか大好きよ」
「悪貨は良貨を駆逐する。悪いものの方がはびこりやすいのが世の常なんだがな。
第三部で出て来るマリユスは、大きくなったコゼットを見初めるやたちまち恋に落ちる。追跡しようとすると、ジャンさんは親心からか、マリユスを寄せ付けない……エゴが出て来るんだよなぁ、ユゴー先生はほんとうにうまいよ。そうなればマリユスは、ジャンさんに対して好意は抱けなくなる。さてそこで、マリユスの葛藤のシーンに触れようか」
「マリウスきゅんの葛藤のシーンといえば、ジャベールから手渡された銃を撃つべきか否かというところよね」
「なぜお前が作者の若きみぎりの分身であるとされる青年マリユスをきゅん付けで呼んだのかはさておくとして、マリユスの父の話をしなければなるまい。彼の父はナポレオン麾下の将校で、それはそれは輝かしい勲功を上げていた人物だった。しかしナポレオンは、ワーテルローで敗北した。彼は戦場で気絶していたところを、死者の装飾品をあさるハゲタカめの乱暴な手つきによって身体を揺すられ、息を吹き返した――テナルディエだった。ある種の動物は生まれてから真っ先に見たものを親だと思う習性があると聞くが、マリユスの父も、ハゲタカでしかなかったテナルディエを命の恩人と取り違え、ばつの悪いことにその名を生涯記憶にとどめてしまっていた……これが息子であるマリユスの葛藤につながるんだよな。
マリユスは父をいたく尊敬していた。それと同時に、父を唾棄する祖父の言には常に反抗を覚えるようにもなっていたから、祖父の家を飛び出し、ぼろぼろの住処で日を送るんだよな……その隣の部屋で坐臥していたのが、誰あろうテナルディエだった。その頃マリユスは父の恩人であったテナルディエを方々で探し回っていたのだが、ある時期ひょんなことから、隣の汚らしい陰湿な一家がどうもテナルディエであるらしいということに気付く。最悪だよ、マリユスはお隣さんを軽蔑していたんだから。しかしそれが父の恩人だと気づくと、どうも憐れさが滲み出てくるのが人間のサガさね。さてそこで、マリユスはテナルディエがジャンさんをおびきだし、懲らしめようと画策していることに気付いてしまう。
下劣な人間とはいえ、父の恩人であるテナルディエが、麗しのコゼットを自分から遠ざける憎っくきあのジャンさんを痛めつけようとしている……どちらの味方をしたものか、葛藤もひとしおだね」
「そこでマリウスたまがジャベールと一面識を得るのも、いま思えばエンタメ的伏線よねぇ」
「マリユスたまって……お前のキャラがどこへ向かおうがそんなものはお前の勝手なのだが、あんまり腐女子めいたことを言ってくれるなよ。さばききれないから。
さて革命の話に移るが、我らがジャンさんはひょんなことから、どうもマリユスが革命のバリケードの中で、その若々しい命をあたら燃やそうと覚悟しているらしいのを知ってしまった……葛藤だ。娘コゼットを我が身に独占するのか、身を挺してでも彼を助けて、もはや自分のすべてとなりつつある娘を彼に託すのか……当然、彼の答えはきまっている。欲の反対を生きてこその幸福だ、またの名を天国という」
「そうしてバリケードの内側で、学生たちの手によって殺されそうだったジャベールを、ジャンさんは救うのよね」
「これも葛藤だよな。ここでジャベールが死んでくれれば、後の人生で自分をしつこくも追いまわす者がいなくなるから好都合……恨みも骨髄に達していたしなぁ、思えばファンチーヌはジャベールに殺されたようなもんだ。怨恨晴らさでいられようか」
「でもジャンさんは、それが当然であるかのように彼を逃がした」
「まさに逆だよな。人は怒りや恨みすらも乗り越えてみせる。ジャベールはきっと、しばらく呆けて無限を思っていたろうよ……」
「次の葛藤は、マリウスとジャンさんの、コゼットの幸せを願った葛藤よね。テナルディエが滑稽な役回りを演じていたけど、彼のおかげで――」
「違うだろ、重要な葛藤を忘れているよ、夢見」
と、俺は嬉々として話を先にすすめたがるオタク魂フルスロットルな夢見をさえぎった。
「重要な葛藤って……その間にあるのは、下水道のくだりでしょ? あそこはジャンさんの力強さが下水道の闇と対比して浮き彫りになっていて、下水道とはパリの内側――人の目視にたえない部分――において、強靭な力を発揮した彼がマリウスたそを背負いながらわたっていくっていう、心の強さを表象――」
「――その後だよ。気絶したマリユスたそをぺろぺろ――じゃなくて、ジャンさんと一緒に家まで担ぎ込んだのは、どこの誰だよ?」
夢見は朗らかそうに、心に汚れをもたない女子みたいな顔をして、自信満々に答えたね。
「ジャベールよね。彼はジャンさんに救われたことによって、心を入れ変えた。だからジャンさんたちを――」
「違うだろ。読み飛ばすなよ、そこを。いや、違うか……眼をそむけるな、と言うべきか。ジャベールは、考えたのさ。恨みは買いこそすれど、恩を売った覚えはないその当人に命を助けられたジャベールは、考え込んじまったのさ――、
――どちらが正しいのかを、考えちまったのさ――。
他の誰かに意見を求めりゃ、そりゃ当然みんなジャベールの肩を持つにきまっている――なんたって刑事だもんな。んで、ジャンさんは世の多くの人達をあざむいていた犯罪人だ。世間の人たちに多数決で決めさせちまえば、市長どころか、ジャベールは大統領に推挽されちまうほど正しい人間だよ。
その正しさを背負っているはずの人間が、本当の正しさとはなにかを考えちまったのさ――法こそが秩序であり、法を守ることこそが正しいと思っていた人間が、ルールを守りすぎるほどに固く守ってきた人間が、ルールや掟以外に正しいものはあるのかと考え込んでしまった――見ちまったからなぁ、ジャンさんの横紙破りを、この眼で――正しさの基準が、揺らぐのさ。空は雷鳴、眼下に濁流を望める絶壁に立ち、ジャベールは正しさの最終判断を自らの魂にゆだねた……採決の結果、彼は自分自身の人生を否定した。世のため人のため、法のため国のために身をささげてきたはずの官憲ジャベールは、その生涯を自ら否定するのさ――罪人こそが正しいと、認めてしまうわけさ。真の美しさに気付いた者は、どうしても死ななければならない……」
「あーもう! どうして『レミゼ』でまでもそんな風に暗い読み方ばっかりするのかね!」
「レミゼだからこそ、だろう? 俺はそうだな、作中で最もかわいそうな人物としてジャベールの名をここに提出するよ。彼は主人公を追い詰める敵であり、某怪盗の三世における警部のようにしつこいライバルであり、それでいて救いようのないほどかわいそうな人物さ」
「……でもたしかに、ジャベールは救われないわよね。己の信念がジャンさんによって……というよりも、自分自身によって否定されちゃうんだもんね。根幹から気付かされてしまう。啓蒙というより、人生のある時期を過ぎてから気付くようになってはどうしようもないわよね。自分で気づいちゃったら、これまでの俺の生涯はなんだったんだってことになっちゃうわよねそりゃ」
「だろ? だから月見にはジャベールを中心にレミゼを読ませると効果的じゃないか? それなりに重要人物ではあるから出番も多いうえに、マリユスやコゼットなんかと違って、第一部から登場してるからな。感情移入もしやすいだろう。月見のやつがこのジャベールの死について、どういう読みをするのか俺は興味がある。要は試金石さ。ただの女の子路線を漫然と闊歩するのか、垢抜けた文学少女という未知なるキャラを開拓していくのかという、な」
「星空くん的に拙い読みをアズにゃんがした場合は、どうするの? 落第っすか?」
「そん時は下駄を履かせると思うけどね。そもそも落第のない試験さ。文学少女に向かないからといって、じゃあ明日から普通の女の子でいましょうなんてのは、月見をからかいすぎてるだろう? あいつは変わろうとしている、積極的にな。だったら月見が一生懸命やるにまかせて、お前はお前でそんな彼女の頑張りをサポートしていろよ。友達なんだろ、お前ら?」
夢見は音がするくらいにっこりと微笑んだ。
「うん」
「月見の劇的ビフォーアフターにも引き続き期待してるからな。明日保健室で会った時に、どれくらい化けてるのか今から楽しみだ。可愛い文学少女ならぬ、可愛すぎる文学少女キャラの確立の瞬間は、しかとこの眼に焼き付けておきたいものだね」
「うん。既存の文学少女観から抜け出したキャラはたしかに欲しいかも。パーっと明るくてー、ユーモラスでー、それでいて眼を惹く美形女子なんてそうそういないっしょ!」
「案外と探してみたらどこかにいるのかもな。栗毛のお団子ヘアとかしてな」
「あはは。アズにゃんもお団子の世界にいざなっちゃおうか!」
「月見が団子か……まぁ、悪くはないかもな」
譬えて、仲秋の風物詩だ。
「さしあたって、これから読むべき本と使うべきメーカーのトゥドゥリストを作成して、放課後は目抜き通りをしらみつぶしに乙女デートよ!」
「あんまり金は使うなよ。もうお前とキスはしたくない」
「なっ……こここっちこそごめんだってば‼」
とかなんとか……俺たちは今日もくだらないことを好きなだけダベり、言葉を好きなだけ相手にぶつけあい、好きな反応を引き出したりなんかしたりしながら、今日という日をまんざらでもなさそうに過ごしていた……。
「……みんなが読んでくれるといいのにね、『レミゼ』」
「それは無理だろ。世界から戦争を失くすのと大同小異さ。誰もが『レミゼ』を読む世界なんて理想論だ。まぁ――」
仮にもし、そんな世界があったとしたら――。
そこでは戦争どころか、喧嘩や醜いだけの競走も、無いんだろうけどな……本当の意味での、平和が実現される。
縛られた保健室の緑のカーテンは、開け放たれた窓から忍び込む風に身を揺すっている。放課後の喧噪はあちこちから叫ばれ、風にのって保健室のリンネル全開な部屋を転がる。俺はひゅるりと吹く風に四肢も粟立つ思いがした。風邪でも引いたんだろうか。そんな俺にはおかまいなしで、この日もつつがなく、相談部の看板が夢見によって下ろされようとしていた。
――その時だった。季節の変わり目がもたらす最後の強風だろうか……室内に、春には似合わぬ寂しげな空気を投げ入れるように一陣の風が窓から舞い込んでき、俺たちが声に出しはしないまでも、それなりに驚かされた直後のこと――闖入者は、音もなく前触れもなく、唐突に現れた。
「――ごめんくださいまし。相談部の部室はこちらでよろしくて――?」
俺も夢見も、その時何が起こったのか理解できずに、しばらく固まったままだったね。
いや、起こった出来事だけを簡単に言ってしまえば――それは保健室に人が入って来た、それだけなのだが――。
「え、えぇ……ここは保健室ですが、その、どこかお具合でも……?」
夢見はがちがちに緊張しながら、しかしそれでも部長として自分が応対に充たらずばなるまいと奮ったんだろう。相手にもそのガチガチなガっちゃんぶりは伝わったようで、やんわりと柔和な笑みで夢見の反問に応えていた。
俺たちは、すっかり勘違いしていた。というのも、放課後の保健室を相談部のドミニオンと定めてからは、月見やサっちゃんといった、こちらからお誘いした客は来たれども、悩める生徒が我が部の門を叩いたことは一度としてなかったからである。
だから夢見は、不意の来客にうろたえ――それまで保健室に来る用向きといえば、日が暮れるまで俺とダベるというのが常態化していたもんだから、いつもとは違い、誰かが入って来るなんてイレギュラーにはどうレスポンスしていいかわからず、しどろもどろに、保健室の人間として応対してしまったわけだが――しかし先方は、はっきりと相談部の部室と言っていたのだから、これは疑いようもなく次の一言がいえる。
相談部に、真の意味で初めての客が舞い込んできた。
しかし俺たちが驚いたのは、驚きのあまり腰を浮かしかけたまま固まってしまい二の句が継げずにいたのには、もう一つ理由があった。というかそちらの方が大きい。
入室してきたのは――金髪縦ツイストのゴージャス系女子。いわゆるお嬢様だった。
うわさの転校生が相談部にやって来たのであった。
「……れ、令泉院先輩が、どどどどうしてここここちらに?」
「あら? 保健室では毎日のように三校の悩める子羊たちの魂を救済してやまない相談部がてんやわんやで鞅掌していますから、ぜひお立ち寄りくださいと、昨日声をかけてくださったのは貴女じゃありませんか?」
「いや、でも、あれは、そのぅ……」
……俺は相談部初めてのアポ無し電話予約無しの客がやって来た事実と、それが噂の金持ち転校生だったというどうしようもないミステリアスに正直面食らいながらも、とりあえず昨日俺がここでサっちゃんの股ぐらに秘められた神秘を探ろうと眼を細めている間にこいつが何をして、どんな手を打ち、どうやってコンタクトをはかったのか訊こうとして、無作法を承知で客を背にした状態で夢見の団子を乱暴に引っ掴み内緒話のマウントに持ち込もうとした。
「はぅあっ。らめらよ星空きゅぅぅん! そこはあらしのウィークポイント……あっふぅん」
「えぇ⁉ お前、この頭部の団子掴まれると衰弱する異星人だったのか⁉」
月のブルーツ波を浴びると大猿に変身するのだろうか。
「衰弱というか……酩酊というか……」
「そんなことより夢見、お前これはどういうことだ? なぜ噂のパーフェクトお嬢様が相談部なんかに来てんだよ? 昨日声をかけたって、なんの話だ? お前さっき、昨日は周りの取り巻きたちのせいで、転校生とは一言も喋れなかったって言ってたじゃねぇか?」
この昼休みのことである。珍しく二組の月見から一緒にお弁当を食べましょうというお誘いがあったのをこれ幸い、俺はクラスの男子どもが向けてくる視線という名のレーザービームを某光る感じのセイバーでかっこよくいなしながらかいくぐり、夢見と月見とサっちゃんが既に机を固めているその席に我勝ちに飛びついた。持つべきものは女友達である。
三人寄ればかしましいなんていうが、本当に、あの月見までがこうも饒舌になるとは、恵比寿マジックならぬ女マジックだ。声を聞くだに、頭が痛くなった。吐き気もする。俺はせっかくお呼ばれあそばしたんだから、ウィットに富んだ軽妙洒脱なシャレでも一つ二つ披露つかまつろうとするのだが、いかんせん会話はあっちへ行ったりこっちへ飛んだりするので、何か一つ面白い諧謔を思いついたとしてもその頃には既にそれは廃れたブームとなっていた。多くの学者がいまの日本社会は女性化しつつあるだなんて言っているようだが、いみじくも箴言だ、もしも社会がこんなにもスピーディーに話題をころころ変えるようになっちまっては、人生に内容が――味がなくなるような気がしたね。薄味な人生はごめんだ。かしましい社会にすっぱさを添えるような奇妙な冒険でなくては、生き方としてそれは嘘だ。夢っちもアズにゃんもサっちゃんも、よくもまぁぽんぽんとマシンガンの弾みてぇな言の葉を鋳造できるもんだなと、俺は自らの兵站部の働きの鈍さを大喝すると同時に弁当の中身を悔しさとともに味わっていると、話題が唐突に転校生の話に切り替わったのである。
夢見は昨日、保健室へと向かう道すがら、たまたま大量の取り巻きにすだかれてお困りなご様子の先輩お嬢様転校生を見つけたものだから、どれここは一つ周りのバカ共をビシっと叱責し――ちょっとちょっとアンタら⁉ この人が困ってるじゃない! そんなに詰めかけるなら、たまには保健室の方にも詰めかけなさいよね⁉――、ひと気がなくなり、彼女から感謝されたところでさらりと勧誘――なに、礼には及びません。生来、困っている人を見るとどうしても助けたくなっちゃう体質なんです。あ、どうせなら、相談部、どっすか?――を持ちかけるはずだったのが、いざ人垣の前で足を停め、声を張り上げようとしてもなかなか声は出てこず……いや、おかしいな、あたしはちゃんと声を張り上げているつもりなのに……と、思って初めて気付かされたのが、自分の声の小ささという、非情な話。わいのわいのと転校生を囲繞する生徒らの声に完全に負けて、夢見の声は相殺どころか亡き者にされていたらしい。それでも声が嗄れるまで、相談部を必死にアピールしていたら……気づけば自分も、周りの部活勧誘の取り巻き連の一人に堕してしまっていたとのことだった。
俺も月見もサっちゃんも、夢見のバカさ加減がおかしくてげらげら笑い転げていたのだったが、しかし保健室にこうして絵に描いたお嬢様がいらしてるうえは、夢見の勧誘はどうやら成功していたようで、ならば昼休みのトークは笑いを誘うための虚言だったのかと、俺はそう勘ぐったね。
「はぅあっ⁉ ほ、星空きゅぅん、らめぇ……それ以上、そこに触られるとあたし、あたし……」
「どうなると言うんだ……? エクスプロージョンでもするというのか?」
「モードチェンジして世紀の大魔王・ザッハートルテになっちゃうわよ」
「もういいよそのネタ、飽きたよ」
「雪隠のムーンタルトとまで謳われたあたしの一撃を受けてみよ!」
「ほんとうにそれ、新時代の美人の形容になりえるのか? 掃き溜めに鶴とどう違うんだ?」
というか、灰かぶりのコゼットとかいう、うまい表現がちらっと出ていたな。
「……あのぅ……もし、」
と、俺らがなにか秘め事をしているのを悪口でも言われているようで気分を害したものだろうか、令泉院というらしい先輩はパンプスのつかつか鳴る音を磨かれたみたいなフローリングに響かせながら(なんとお召し物は上履きじゃない!)、卓の方へと近づいてきた。
「昨日のことでしたら、わたくしよく覚えております……そちらの可愛らしいお嬢さんが、必死に声を嗄らして相談部を案内しておりました姿はとても印象的でした」
「はぅあぁ……星空きゅぅん、あたし何かに目覚めちゃいそう……!」
なにに目覚めるというのだろう。ちょっと気になるから俺は夢見の頭部を抑えた手をそのままに、先輩お嬢様を振り向いて、じゃあ貴女は、他の生徒がギャーギャーと喚きながら賑やかに取り巻いている中、夢見のモスキート音よりもか細い声を集音していたというのですか、と問い質した。
「ええ、ちゃんとこの耳に聞こえておりましたわ」
聖徳太子か。
「本当は昨日のうちにお邪魔するつもりだったのですが、いろいろな方々に誘われるがままだったものですから、つい遅くなってしまって……あの、今日も相談は受け付けていらっしゃいますの? わたくし、相談したいことがあって参りましたの」
え? 相談って……貴女が俺たちに相談するってことですか⁉
俺の頓狂な声に、相手は笑って応えたね。
「おかしな方ですわ。ここは相談部で、貴女方がその部員でいらっしゃるのでしょう?」
ええ、まぁそうなんですが、そのぉ……先輩のような人が、わざわざうちに明かす悩みなんて……専属のカウンセラーとか雇っていそうな方でしたから、なんていうか……。
「ふふ。たしかに、専属のカウンセラーといいましょうか、当家の経営についてなら、相談できる人がいるにはいるのですが……」
「じゃあ万事、その人たちに解決してもらったらいいじゃないですか。あたし達に解決できる悩みなんて、たかが知れてますよ――?」
と、俺の拘束を逃れた夢見がふらつきながらも、尤もなことを口にしたが……それにしても夢見よ、ならばなぜお前はマンガ的金持ち娘に相談部をコマーシャルしたのだ。身分に合わない悩みを打ち明けられても、俺らでは持て余すばかりじゃないか。
話を聞いても、生活実態にヨダレを垂らすことしかできない。
「相談部の部員としてお誘い申し上げたてまつったのよ」
申し上げたてまつるなよ、二重謙譲じゃねぇかよ。金持ちに対してへりくだりすぎなんだよ。金持ちのせいで日本語のルールが崩れちゃってるじゃないか。拝金主義、おそるべし。
「あら、部員としてわたくしを誘っておりましたの? それは、申し訳ないのですが、わたくしあいにくどこの部にも所属するつもりはございませんので、どうか悪しからず――」
「え……?」
これは異なことをおおせになられる。聞くならく貴台は、ありとあらゆる部活をご照覧あそばさしては、どれもソツなくこなしておなりなさったご様子ではありんすか? 入部なさるおつもりも無いとなれば、なにゆえさようなご遊興をなさっておいででござんしょう?
「日本語、破滅してるわよ。あたしは怖いわ、富豪という名の日本語クラッシャーが怖いわ」
いま思うと、なまじ敬語なんかがあるためにこの国の権力構造・上下関係は覆しようもないものとして根付いているのかもな。
「わたくし、全ての部活動を見て回ろうと思っておりましたの。皆さんからお誘いをいただいたのは嬉しかったのですが、本音をいえば、もう少し時間をかけて、ゆっくりと校内を探索したかったのですけど……」
「わかる‼ その気持ちわかりますよ先輩! あいつら本当に、まだ転校してきたばかりで勝手がわからずにいる先輩を寄ってたかってぞろぞろと害虫のようにむらがりたかりおってからにぃ……きぃぃ! いま思うだけで、どさくさに紛れてあたしの尻を触ったやつが許せない! 腸が煮えくり返るようだわ、こんな美少女のお尻をただで触るなんて!」
ケツ触られたのかよ。というか、傍から見ればお前もその害虫の一人なんだって認識を持てよな。
「ところで先輩は、どうして入部するつもりもないのに全部の部活を見て回ろうとしているんですか? それにそもそも、なんでまた三校になんか転校してきたんです?」
その前に、立ち話ってのもなんだろう? ささ、先輩。チープなスツールですが、どうぞこちらへおかけください。
「ふふ。それではお言葉に甘えまして――」
先輩は悠然とした足取りで卓の前に腰を下ろした。長いドリルヘアが白い卓にぴとっと乗っかる。俺たちはこの世の幽邃を見ているような気分で、恐れ入りたてまつったね。
「すごい髪ですよねぇ……そりゃ、お嬢様といえば金髪ツインドリルって相場がきまってますけど、実際に再現しようとなると、これ、毎朝のセット大変じゃないですか? あたしなんてこんなちんけなお団子に結わえるのも億劫で、お母さんに手伝ってもらってるくらいなのに」
「え? ああ、このウィッグのことですか。以前の学校でご要望があったものですから、つい馴染んでしまって」
と言って先輩は、かぽっと音が鳴るくらいあっさりとした手つきで、例のドリルを頭から外したね……ウィッグの下は、ほとんどボウズに近い黒髪のベリーベリーショートだった。
「とどろきっ!」
夢見のやつ、驚きを通り越して轟いちゃったね。眼も剥かんばかりにして先輩の宝塚女子的ヘアーに食い入っていた。
ほんとうのストイックとは、こうして役割に徹することをいうのかと俺は一つ金持ちの御嬢さんの生き方から学ばせられたね。
「わたくし、髪は自分一人で手入れできるくらいの長さがちょうどよくて……祖父などはそれでは女としての示しがつかないということで、よくウィッグを持ち出してきたのですが、そのうちの一つが前の学校であんまりにも評判がよかったもので、それ以来制服を着こむようにこれを頭に乗せてしまうようになってしまいましたの。騙す気はこれっぽっちもなかったのですが、驚かれたのでしたらここにお詫びいたしますわ。ひらに」
「もものきっ」
驚き桃の樹山椒の樹ってやつか?
「あの、ひょっとして先輩の抱える悩みって、カツラのことだったんですか? あんまりにもインパクトのあるヘアースタイルだから、いまさらみんなに偽物だと告げられずにいる苦悩、とか……?」
そうだったとしたら、そんな奇天烈すぎる悩み、俺らの手には負えんがね。友達になりましょうで解決できる種の相談でもないしな。一説によると、助平な人間は髪の伸びるのが早いなんて聞くから、先輩にはこの際スケヴェニンゲンになってもらうってのがいま思いつく最善の解決策さね。モノホンのドリルにしようじゃないの。
しかしどうも、先輩の悩みというのは髪のことではないらしい。彼女は主張の控えめな胸の前で手を組むと、否定する時に人がみせる笑みを顔に浮かべた。
「いいえ、ウィッグのことは隠しているわけではありませんから。昨日もテニスをしている際に、事前に取り外してみせたら皆を驚かせてしまったようで、心苦しいといえば心苦しいし、暑苦しいといえば暑苦しいのですけれど。夏場なんて特に蒸れて嫌になりますわ」
心苦しいうえに暑苦しいのならいっそ脱いでしまえばいいのに、とはなぜだか言いだしかねた。
真冬の女子高生の短すぎるスカートから覗く生足と行動原理は一緒なんだろう。ザッハートルテ的なるものが、要請をするのだから外すに外せない。
「ちなみにこのウィッグ、ただのウィッグではありませんので迂闊に触れないでくださいましね」
「どういうことですか?」
「いざという時に、不審者を撃退するための仕掛けが内蔵されておりますの」
お金持ちだし、日常に潜む危険性は俺たちより高いしな、なるほど必要なギミックだろう。あれか、スタンガン的なビリビリっとくるトラップが、ドリルの中に隠されているのか――。
「具体的には、螺旋するこの部分が猛烈なスパークを巻き起こしながらスピンします」
まんまドリルじゃないっすか、それ! ファッション性追及しすぎだろ!
「ちなみに威力はどれくらいなんですか?」
「厚さ三メートルのチタン製の板を難なく貫通すると聞き及んでおります」
工事現場で使え。
「ももくりっ」
厚さ三メートルって、もはや板じゃねぇよな? というかそれの用途は撃退じゃなく殺戮にあると思うのだが、壁と言わず板と呼称したのがなんだか武器を携行しているのを日本の法律の眼から隠すための方便みたいに聞こえてならないよ。あれか、開発者は事件があったら誘拐犯の身体もろとも、意味は違えど粉骨砕身で隠蔽しようとか考えてんのか。ところで夢見さんや、ももくりってなんだ? 桃の樹の連想から、桃栗三年柿八年だということは容易に想像できたが、それらの結実の期間とお前の驚きようとの間にどんな因果があるってんだ?
「三メートルにひっかけてみました」
ひっかかってねぇから。
「ふふ。お二人は仲がおよろしいのですね」
そのドリルは威力がおよろしいようで。ところで、そんなさらさらの髪をドリルに変えてしまうなんて、よほどの技術が必要なのと、下世話なところ、レコがかかってるんじゃないですか?
「うん。人差し指と親指で輪っかをつくり、手首を仰向けることによって示唆されたるは、ズバリ!」
金だよ。せっかく伏せたのに、いちいち言わせんな。
「お金はさほど費やしてはおりません。たしか……せいぜい五千万ほどで」
ごせ……まん……?
「目指せ年収五千万!」
高望みしすぎだよ……夢見……。ていうか、五千万のブツをおいそれと保健室のチープな卓に置いてくれるな。
「五千万ドル弱でしたかね」
「ももひざっ」
うん、たしかに驚愕の数値ではあったが、しかし夢見よ、ももひざとは、かの吉行淳之介の言わずと知れた伝説の迷言「股膝三年尻八年」のことを言っているのか? その論理でいくと俺、お前の股は触り放題だぞ?
「あら、お二人は三年も前から親交がありますの?」
腐れ縁ってやつですよ。五年後には煮えくり返ろうがなにしようが、意地でもデカシリーを触ってみせます。
「ふふ。ずいぶんとお熱い間柄ですのね」
「……およよ……?」
どうした、夢見。バカみたいな顔して。
「……ん、いや、なんてーか……」
「三年といえば……わたくし、三年生に上がる頃には、前にいた私立の高校に戻ることになっておりますの。ですから、三校に在籍していられるのは、二年生の一年間きりなのです。部活に入部しないのは、そのためですわ」
え……それって、じゃあなんでそもそも転校してきたんですか?
「ええ、実は今日、ここへ脚を運んだのは、そのことと深く関わってくるのですが……」
先輩はそこで、沈んだように声を潜めた。誰かに聞かれちゃまずい用件を俺たちにだけ言いふらす道理もなかろうから、単純に周りを憚ってなのだろうが、しかしそれにしたって徹底された振る舞いだ。金持ちたるものの高貴なる気風を感じたね。
「あまり大っぴらには言えないのですが、最近、祖父が亡くなったのです……令泉院グループを今の地位にいたるまで支えてきた、偉大な方だったのですが……」
「えぇ、暗殺ですか⁉」
と、なぜか一瞬間前まで呆けたようにしていた夢見は、しかし先輩の声にエンタメ的展開の匂いでも嗅ぎつけたのだろうか、犬が吠えたような声をだして俺や先輩をももくりさせた。
「いいえ、そんな筈がないではありませんか。もしそうだとしたら、大ごとです」
「でも、そんな凄い大金持ちのお祖父さんが亡くなったのなら、それこそ大ごとじゃないんですか? 経営とか、その人の手腕でどうにかなっていた面もあるんじゃないんですか?」
夢見の鋭い指摘に舌を巻かれたのだろう。先輩は感嘆したような表情をすると、「ええ、たしかに祖父の死が経営に与える影響というのも多少はありますが……」と、言葉を選ぶように訥々と語った。一介の小市民とはいえ、内情が漏れるのはまずいのだろう。インサイダーとかあるしな。
「……祖父は亡くなる何カ月も前から引退宣言をしておりましたし、引き継ぎの準備もぬかりなく行っておりましたので、損害というほどの支障はございません。それよりも、問題があるのはその後の祖父の言動でして……」
「というと?」
「……祖父は亡くなる前に、老いの嗜みといえば読書にかぎる、これからは人との交際は極力断ち、書斎に屛息してひたすら本を読む、とおっしゃって、誰も傍には寄せ付けないようになったのですが……それはこれまでの祖父には見られない行動でした。祖父は人付き合いが殊の外うまく、令泉院との縁にありつけたのも、かかってその交際力にあったといえます」
「お祖父さんは、もともと令泉院姓じゃなかったんですか?」
「ええ、祖父は生粋の実業家肌の人で、高校を出るや、一身から事業を興し、素封をなしたのです。伯母や父にはなに不自由ない暮らしをさせて、わたくしの兄と姉も俗にいうエリートコースを現在順調に歩んでおります。それというのもすべて、祖父の威光あればこそなのです。祖父は老いたりといえど矍鑠としていて、積極的に顔を広めておりましたので、伯母や父、兄や姉もそれはそれはたいへんお世話になったものでした」
「その交際上手なお祖父さんが、引退後は家に引っこんでしまった、と――?」
「はい。家の者は、もう高齢だから疲れただけだろうと推断していたのですが……」
「実際、そうなんじゃないですか? おいくつなのかは存じませんけど、若い頃から精力的に動き回っていたら、そりゃ疲れちゃいますよ。せめて老後は誰の顔も見ずに過ごしていたいと思う人の気持ち、あたしにもわかります」
「ええ、ですからわたくしも、初めはそうだろうと思っておりました……しかし日が経つにつれて、祖父の顔は見る見るうちに痩せこけていくではありませんか。あんまり本を読みすぎるのも、老いの身には堪えるものなのでしょう……祖父は小さい時分から、夜釣りを趣味としておりましたから、視力もすこぶる良好で、本を読むのにレンズを覗きこむようなことはしておりませんでしたから、なおさら疲れるものかと、わたくしはそんな風に考えておりました……。わたくしは祖父の身を案じて、もうそれ以上本を読み耽るのに無理をなさってはなりませんと、再三にわたって釘を刺したことがあります。祖父はげっそりと、面やつれした一瞥をわたくしにくれるだけで、何も言わずに書斎へ下がって行きました……なんとも言えない、悲愴な背中でしたわ。
祖父の身体は日に日に弱って行きました。絶食をしているわけでもなく、隠れて不惜身命に荒行をしているわけでもなく、ただ机に向かって眼を細めているだけだったのです。わたくしはその様子をつぶさに見ておりますと、なんだか眼光が鋭くなってくる祖父が、というよりも、その祖父を惹きつけてやまない本の方が怖ろしく感じられたものでした。
会社の関係者や昔からの知友が尋ねてきても、知らぬ存ぜぬとばかりに耽読する日もあったほどでした。これはいよいよ耄碌したものと、家人はおろか、誰もが祖父を気遣わなくなってくると、それを幸いとばかり、よりいっそう、静かに読書に傾注しだすのでした……そうして、ついにその時がやって参りました。祖父の痩せ衰えた身体のどこにそんな声を張り上げる力が残されていたものか、ある時邸内じゅうに届く大きな声で『俺の人生は間違っていた!』との祖父の叫びがこだましたのです。すわ何事、とわたくしたちは書斎へ向かったのですが、祖父は気でも触れたように、間違っていた、間違っていた、と繰り返すばかりで、こちらの言葉にはいっこうに応じようとしないのです。その様子を見た者はみな誰しも、祖父は狂ってしまったものと考えております」
「人生を間違えた、と言っていたんですか?」
「ええ、たしかにそうおっしゃっていました。祖父はその後まもなく亡くなってしまい、その真意を知る者はもはやこの世には誰一人いなくなってしまったのですが……その祖父が、どうやら今際のきわに書き置きを遺していたようで……」
「遺書ですか?」
「遺言として允可されたのはごく最近のことでして……狂った人間の書き置きは、なかなか遺書として有効にならないのです……その内容が、どうもわからないのが、わたくしの今後についての記述に終始していたのです。祖父はわたくしに、兄や姉とは違った人生を歩めと、どうもそう言っているらしいのでした」
「お兄さんやお姉さんたちとは違った人生って、エリート街道まっしぐら! じゃなくて、あたしたちみたいに、普通の人生を歩め、と……?」
ゲームでいったら、雑輩ルートだ。
「そういうことなのでしょう。いえ、わたくしはそれが嫌だ、と申したいのではなく、なぜ祖父がそのようなことを申されたのか、真剣にその意味を揣りかねたので、戸惑っているのです。四月の末頃という中途半端な時期になってしまいましたが、祖父の母校であるこの三校に特別編入したのも、祖父の遺言あったればこそかなったことなのです。前の高校には、けっこう無理を言って一年かぎりの転校を頼みこんだのです」
「え、お祖父さんの母校が三校って……ここってそんなに古い学校なんですか⁉」
どこにそんな費用があるのか、何回も建て替えしてるから校舎はけっこう新築だが、学校自体の創立は百年近いんだぞ。表にある百年桜の由緒をお前は知らんのか……まぁ、風にやられないよう補強テープでぐるぐる巻きだったから、無理やり生かされた感じがしないでもないのだが。
先輩は続けた。曇天の中から冴えたる部分を探し出そうとするかのように、無謀なことを成し遂げようとする直前の人の語気を真似るかして。
「きっと祖父は三校でわたくしに、何かを学んでほしいと思ったのでしょう……だから自らも三年間を閲したこの学び舎にわたくしを送り込んだのです。ですからわたくしは、一年間という限られた時間のうちに、祖父がほんとうに言いたかったことがなんだったのか、知らなくてはならないのです……多くの部活動を見て回ったのも、その一環です」
……なるほどねぇ。事情はよく呑み込めたのですが、しかしお祖父さんが通っていた当時と今の三校じゃ、何もかも風土が違いますよ。それこそ同じものといったら、無理して生きてるみたいな外の桜しかない。
「ええ。ですからわたくしも、ひょっとしたらあの百年桜に秘密があるのではと早合点したのですが……」
「百年桜といえば、お約束ですもんねぇ。何十年越しの孫娘に宛てたメッセージとかが彫られていたりして」
「それはありえませんわ。調べてみましたらあの桜、祖父が学生時代の頃からあのようにテーピングされていたようですから」
そんな前から無理して生きてんのかよ。もうとっくに白目剥いてんじゃねぇの、あの桜。
誰も楽にさせてやろうとは思わんのかね……。なんならこの、ドリルを使うか?
「ですからわたくし、まずはここら辺にあった釣り堀を探してみようと思いましたの。祖父の思い入れの深い、よく昔語りのお話で耳にしていた、釣りのスポットですわ。その釣果でご友人方と競った経験が、実業家としての自分をつくったのだとよく豪語しておりましたから」
「釣り堀? ここらへんに釣りなんて……」
先輩は急にばつが悪くなったような顔をして、下を向いていた。
「……その、何年か前に、大規模な建設がありまして……もう、釣り自体できなくなってしまいましたの」
「えぇー、それってなんか残酷。お祖父さん、それを知った時悲しかったんだろうなぁ……思い出の場所が開発でつぶれるとか、あんまりだよね。そんでもって、お祖父さんの遺言の手掛かりも一つ消えたわけかぁ……」
「……」
……。なるほどねぇ……。
「ねぇ先輩、さっきから気になってたこと、一つ訊いていいですか?」
「ええ、わたくしに答えられるものでしたら、なんなりと」
「そもそも、先輩のお家はなにをあきなっているんですか?」
「令泉院コンツェルンです」
なにをあきなっているのか、という問いへの答弁として令泉院コンツェルンが適当かどうかはとりあえずおくとしても、なんだその某お巡りさんの実家みたいな肩書き。ぜったい飛び跳ねる感じの雑誌で息の長い長寿マンガのパクりだろ、それ。
しかしその響きは夢見の瞳に星々の煌めける小宇宙をビッグバンさせるには十分すぎたようで、眼をきらきらさせながら「本当にいたんだ……中川さん」と呼んではならない方の名を口にしていた。この人は中川さんではない、エロゲでよくある感じの令泉院さんだ。
「……えろげ、ですか……?」
いえ、なんでもありません。紳士としての教養と嗜みを、人はそのようにいうのです。
「はぁ……?」
「ところで先輩があたし達にしたい相談って、一代で財を成し遂げた偉大なお祖父さんがなぜ先輩をこの学校へやったのか、その理由のことですか?」
「ええ」
重いな。
「重いわね。嗜みといえば、お祖父さん、お亡くなりになられる前はどんな本を読んでいたんですか? ひょっとしたら、その本は晩年に読むとなにか影響を与えるような魔書なのかも」
「……わたくしも、もしやその本が、と思いはしたのですが……家の者は全員、たかが本を読んだくらいで人が狂うとも思えないと言っていて、やはり齢のせいにして片づけています……本についてですが、今はよく憶えていなくて……」
「人を狂わせる本といえば……名高いのは、夢野久作大先生の『ドクラ・マグラ』ね! 日本三大奇書の一冊にして、一度読むと頭がおかしくなるっていう触れ込みの!」
かの江戸川乱歩をして、わけのわからぬ小説と言わしめたあれか。
「まぁ、そんな危険な本がこの世にはあったのですか……?」
「かくいう、あたしもその本を読んだことがあるんですよ!」
「まぁまぁ、それでは……!」
「あぅあぅあー」
と、そこで夢見のやつ、やおら目ん玉を上に向けると口端からテカりのある唾液を滴らせやがった。先輩は「ひぃ」と言って、可愛らしく悲鳴を上げていらっしゃる……なんだかウィッグを外してからは小学生にしか見えないぞ、この人。どんだけドリルのインパクト強いんだよ。
それと夢見。お前、まさか『ドグマグ』の一度読んだら頭をおかしくするって触れ込み、本気にしたわけじゃないよな? 営利的な嘘を真に受けるなよ。あれは科学や医学というものが人の心をないがしろにしている現世の地獄をいっていて、熱心な読者は作中のほとんど大半を占めるちょんがれ節やなんかの説得力に負けてしまって、人からズレた見方をするようになるという意味での頭がおかしくなる、だからな。その一人歩きした触れ込みについ手をとったミーハーな読者は物語として進行している部分だけを読むようなやからもいるから、頭はおかしくならないんだけどな。自ら一人では自覚しえない病。指を指されてこその、人とズレてこその、精神病だ。
「う……し、知ってたし! というか、そういうこと言っちゃいけないんじゃないの? 販売促進の口上を真っ向から否定するってのは、見方によっては業務妨害よ?」
知者は言わず、言う愚者なりってか? フールでけっこう、こけこっこー。横紙破りの内幕バラしキャラで、フールにいこうぜ。まぁ、披露するのは僭越な読みだがな。それが唯一の答えというわけじゃない。答えは読者の数だけある。
「あんたねぇ……」
「……本のことですが、祖父が読んでいたのはどうも、海外の人の、それも長い小説だったような気がします。夢野久作の『ドグラ・マグラ』ではなかったような……」
「むむ、となると世界三大奇書、『吸血鬼ドラキュラ』、メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、ロバート・ルイス・スティーヴンスン『ジキル博士とハイド氏』とか?」
それらを読んだからといって、頭がおかしくなるとも思えんな。ちなみに俺は、『ドラキュラ』は血税をふんだくる悪徳領主の譬喩を言っていると思うし、『フランケンシュタイン』は、科学だとか経済だとか法律だとか刑罰だとか、労働だとかいったそういうもろもろの諸制度・諸概念が作り主たちをすら殺す物語だと読むし、頭にボルトが刺さった顔面つぎはぎだらけの怪物は映画のつくりだしたレッテルだからな? それと『ジキルハイド』だが、これの二重人格なんて、みんなそうだろ? って疑問符がつくほどのものだからな。人前で喋る時の自分と、頭の中の自分は性格が違う。今でいったら、ネット弁慶か? どれも俺の勝手な読みだけどな。
「まぁ、随分とお詳しいのですわね。文学系の大学に進まれるおつもりですの?」
いいえ。大学には進学しません……人とズレてしまいそうなので。
「むぅ! でもそれじゃ、先輩のお祖父さんがどうして『俺の人生は間違っていた』って叫んだのか、さっぱりお手上げよ」
「やはり、そうですわよね……この一年間の生活で、解明できると嬉しいのですけれど……」
ちなみに先輩、貴女はお祖父さんのことが好きでしたか。
「……? ええ、それはもちろん、我が家で祖父を嫌う人は誰もおりません。厳格な人で、すごく乱暴な物言いをされる方でしたけれど、人情に篤い好々爺でしたから。わたくしも小さい頃から、舐るように可愛がられたものでしたわ。さっきも申しましたとおり、伯母も父も兄も姉も、みな祖父には頭が上がらないくらいで……」
お祖父さんも、先輩のことが大好きだったんですね。
「ええ、それはもちろん。といっても、いくら血縁とはいえ、人の気持ちは根の方まですっかりわかるというものでもありませんし、もしかしたら違ったのかもしれません。その仕打ちが遺言なのかもしれないですし……」
「それはないわよ! お祖父さんは先輩に、普通の人たちとの暮らしを望んでいたのよ! それだけはわかるわ、義理に篤いというお祖父さんの気持ちが」
「ええ、わたくしもそう思いますわ。転校してさっそく、こんなに温かくわたくしを迎え入れてくれるのですもの。きっと祖父は、わたくしにその温かさを知れ、とおっしゃりたかったものと思います」
……お祖父さんは、土地の開発の計画に携わったりしたことは?
「頻繁にあります。むしろその方面の才覚が祖父には具わっておりまして」
……なるほどね。
俺は寒気を覚えて一つぶるっと肩を揺すったね。
「大金持ちになって、家族を幸せにしてあげて……言うことなしのお祖父ちゃんなんだけどねぇ」
「ええ、ほんとうに……どうして、間違っているものですか。わたくし達一家に何一つ不自由はさせずに、いつでもわたくし達のためを想って優先してくれた、あの祖父が人生を間違えるなんて、そんなのは嘘にきまっています。ですのでわたくしは、この高校で答えを見つけてみせます!」
「がんばってください! お力にはなれませんでしたけど、あたし達も考えるだけのことは考えてみますね、お祖父さんの真意」
「ふふ。ありがとうございます。そのお言葉をいただけただけで、ここに来た甲斐がありましたわ」
……死の間際に気が触れるなんて、まるでファンチーヌだな。さしずめ俺たちは、彼を狂わせたジャベールを突き止めるってことか。
「海外の小説なのよね……こうなったらあたしたち、夏休みに先輩の家の海外の別荘へ遊びに行くしかないわね! そこが小説の舞台となっているのかも」
なんでそうなるんだよ。いや、言いたいことはわかるよ? リゾートバカンスはサブカル的にそりゃお約束だもんな。しかし役立たずの俺たちが出向いたところで、避暑にしかならんぞ。別荘に秘密があるとも思えんし。
「ちなみに海外に別荘とかありますぅ?」
訊くな。眼を輝かせて訊くな。
「ええ。アゼルバイジャンに小さなペンションが」
「アゼルバイジャン⁉」
アゼルバイジャンにあんのかよ⁉ なんであんな辺鄙なとこに別荘が⁉
「辺鄙なとこ言うな! 先輩にも地域の方にもジャンさんにも失礼でしょ!」
ジャンさんは関係無くないか?
「……ジャンさん……? ……あ、いま憶いだしましたわ」
と、ちんまりした顎に手を当てて、なにやら思案顔をしていたと思ったら、次の瞬間にはぽんと横手を打った先輩は、よく徹る淑女の声を保健室いっぱいに響かせた……。
どこまでもどこまでも、滑るように凛とした声音で。
「たしか、祖父が最期に読んでいた本は、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』だったと思いますわ」」