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僕に届け  作者: しの
5/6

12月26日


   15


 時刻は夜の0時を過ぎた。

 未来の僕が勤める会社、九重電機の応接室のオフィスの隅にある打ち合わせスペースの椅子に座り、未来の僕の様子を見ていた。未来の僕は自分のデスクでパソコンに向かって、作業をしていた。昨日の会話から察するに、工事に必要な書類を作成しているのだろう。

 ご飯を食べに行っていた桜井奈菜と三浦結衣という女性二人組は、食事中に打ち解けたのか、仲良く喋りながら戻って来てから、暖房を全開に動かした社長室のソファの上で仮眠をとっていた。

 結局、桜井奈菜が電話していた九重電機のサービス部の人達からの折り返しの連絡も、彼女が頼んでいたという会社からの連絡も無かった。

 オフィスには、未来の僕がキーボードを叩く音だけが響いていた。たまに窓の外から改造した車かバイクのエンジン音がしたが、すぐに消えた。

 九重電機に来てから、ずっと手を繋いでいるのぞみさんは、口数が少なく、事の成り行きを見守っているようだった。

 その時、溝口の机の上に置いてあった三浦結衣の携帯電話が鳴った。先程から、何度も何度も鳴っていた携帯だが、驚いて席を立って見に行く度に友達からのメールだった事に気付き、再び席に戻っていく事の繰り返しだった為、最初は僕も未来の僕も微動だにしなかったのだが、携帯電話の着信がなかなか鳴り止まず、どうやらメールでは無く、電話だった事に気付き、未来の僕は席を立ち、三浦結衣の携帯を手にした。ディスプレイを見て、すぐに通話に応じたので、僕とのぞみさんは慌てて、近くまで駆け寄った。

 姿が見えないのを良い事に、未来の僕が持つ携帯電話にギリギリまで耳を近付ける。未来の僕の息や体臭が少し不快であったが、それは我慢する。

 「もしもし。どうだった?」

 慌てて前のめりにそう聞いた後、未来の僕は少し黙り込んだ。

 「そうか。電動機が3台。いや、中古の物は消耗品だけ交換して使おう。それについては説明するさ。圧縮部が、2台か。いや、仕方ないさ。むしろ、凄いと思っている。僕が探しても、1台ももらえなかったんだ。それが、島袋のおかげで3台までは改造が出来るんだ。大した物だ。ありがとう。」

 おそらく、電話の相手は島袋だろう。本当ならば、圧縮部があと5台、電動機が3台必要だったのだが、圧縮部が3台足りないようだ。未来の僕は明らかに落胆していた。

 「いや、改造はしよう。それで、大同食品の担当者の処罰が少しでも軽くなるかもしれないし。ああ。それは大丈夫、朝の7時に迎えに行く事になってる。だから、作業は先にやっておいて、閉じる前にメーカーに確認させよう。ああ、じゃあ6時に大同食品の正門前に集合にしよう。宜しく。」

 未来の僕は電話を切ると、深い溜息をついて、自分の席に戻った。先程の作業の続きを行うのでも無く、ただ天井を見つめていた。

 「やっぱり、駄目か。」

 そう呟いた未来の僕に笑みは無い。それでも、昨晩のような絶望も無い。手は尽くしたという満足感と、結局目的を達成できない敗北感とが混在しているのだろうか。その表情から、感情が読み取れなかった。

 「やっぱり、駄目だったんだね。」と、僕がのぞみさんに話しかけると、のぞみさんは視線を未来の僕から逸らさずに「それでも、未来は変わり始めている。」と呟いた。「そう信じたい。」と。

 未来の僕は再びパソコンを操作し始めた。再び、キーボードを叩く音だけがオフィス内に響いた。二十分程が経過し、未来の僕は作成した書類を印刷し、クリアファイルに入れた。そして、事務所の隅にあるキーボックスへ向かい、二種類の鍵を取り、オフィスを出た。当然、僕とのぞみさんはその後を追った。

 一階の裏口から外へ出ると、凍えるような寒さが待っていた。雪が降り積もり、九重電機の営業車の屋根には厚み十五センチ程の雪が乗っていた。営業車の間をすり抜けて、未来の僕は隣りの建物へと向かって行った。二階建てのその建物は、のぞみさんによると、「この会社の倉庫。」だそうだ。慣れた様子で、未来の僕は倉庫の鍵を開けた。指紋認証とパスワードを入力していた。

 倉庫の中は、入ってすぐに四畳半ぐらいのスペースの事務所があり、それ以外は様々な大きさの段ボールや見たことが無い機械が並んでいた。この会社の在庫として置いてあるのだろう。どれも使用した形跡が無く、綺麗な状態を保っていた。

 ポケットからメモを取出し、倉庫内からいくつか部品を集めている未来の僕は、やはり落ち込んでいるのか、動きに元気が無い。台車を押して、一つずつ部品を乗せていく。十分程かけて部品を集め、それを倉庫の一番奥に停めてあった軽トラックの荷台に乗せていた。

 準備が完了したのか、未来の僕は再び九重電機の裏口からビルに入り、階段を上がって行った。二階のオフィスに行くのかと思っていたが、二階では無く、さらに上へと上がって行った。そして三階の廊下を歩き、小さな部屋に入って行った。扉の上には資料室と書いてあった。

 資料室の中には細長い鉄板を組み合わせて作られた棚がいくつか並んでおり、その棚には漫画雑誌二冊分程の太さのファイルがたくさん置いてあった。ファイルの背表紙には、西暦と月が記入されており、未来の僕は「2015年 10月」と書いてあるファイルを手に取り、資料室を出た。

そして、二階のオフィスに戻り、自分の机の前に座り、ファイルを開いた未来の僕は素早く何枚もページを捲り、ある所で止まった。背中越しに、ファイルを覗いてみると、それは発注データと書いた書類であった。発注データには、顧客名「大同食品」、機種「55KW 食品工場向け コンプレッサー 特注仕様」、台数「6台」、機械コード「C1544131」と書いてあった。隅の方には数人の名前が入った判子が押されており、「杉山」、「野杁」、「山崎」、「国吉」と四名が確認したという意味なのであろう。

 「コーヒー飲みますか?」

 私服に着替えた桜井奈菜が茶色の四角いトレーにコーヒーカップを二つ乗せて立っていた。そのうちの一つを未来の僕の机の上に置き。もう一つは自分で飲むようで、手に持ったまま自分の席に座った。

 「どうですか?状況は。」

 未来の僕は苦笑いして、「駄目だった。」と答えた。「電動機は揃ったけど、圧縮部があと3台足りない。中学の時の同級生にも探してもらったけど、足りなかった。ウチのサービス部からも連絡無いし。だから、明日はとりあえず遠藤を迎えに行って、桜井さんが集めてくれた部品を引き取って、改造出来る機種だけ改造しようと思ってる。」

 「そうですか。わかりました。」と自分を納得させるように呟く桜井奈菜は優しく微笑んでいるようにも、少し悲しそうにも見えた。

 「眠らないんですか?明日に備えて。」

 「寝るよ。でも、その前にやっておこうと思ってさ。」と言って、未来の僕はファイルを桜井奈菜に見せた。「まあ、対応出来ない事がほぼ確定したし、僕はやっぱり解雇されて、損害賠償を請求されるからさ、情報は集めておこうと思って。この発注データも、僕が作って、印刷して、野杁部長も山崎本部長も国吉課長もチェックしてるんだよ。僕が間違えていたとしても、僕一人の責任じゃないんじゃないですか?って言えるようにしようと思ってさ。ハハハ、ただの悪足掻きだけど。」とお道化て笑っていた。そして、立ち上がりファイルを持って、複合機へ行き、発注データのコピーをとっていた。

 桜井奈菜は俯いて、目を閉じた。未来の僕の諦めの悪さに呆れたのだろう。

 「今回のミス、杉山さんの責任じゃないんです。」

 「…え?」

 稼働中の複合機の前で、未来の僕の動きが止まった。僕とのぞみさんの動きも止まった。

 「だって、見てください。杉山さんが作った発注データ、合ってるんですよ。機械コードも。だから、このミスって杉山さんの責任じゃないんですよ。」

 未来の僕は動揺して、何かを言おうとしては言葉にならなかった。

 「昨日、大掃除の時、更衣室で電話していた時に調べていたら、気付いちゃったんです。野杁部長に報告しないといけないって思っていたんですけど、どうすれば良いのか解らなくて。昨日杉山さんには言おうと思ったんですけど、何て言ったら良いか、わからなくて。結局言い出せなくて。」

 僕には意味がよく解らず、のぞみさんに「どういう事?」と聞くと、「ちょっと待ちなさい。」と視線も合わさずに言われた。のぞみさんは難しい顔で未来の僕と桜井奈菜のやりとりを見ていた。

 「つまり、僕は間違えていなくて、野杁部長や、山崎本部長も、チェックは合ってるって事?まあ、ちゃんとチェックしたかは解らないけど。という事は、業務課での入力時に間違えていたって事だ。」

 二人の間に、気不味い空気が流れる。

 「長谷川さんのミスって事か。」

 桜井奈菜は俯き、「ごめんなさい」と呟いた。

 つまり、今回未来の僕が苦しめられているトラブルは、僕の責任では無く、長谷川さつきという茶髪のエロそうな女が悪いという事だ。

 「長谷川さんが間違えて入力したって言っても、発注の履歴は37キロになってるんだから、やっぱり僕が間違えたのか?データ上は、機械コードが違ってる。」

 「でも、発注データを印刷したファイルを見ると、機械コードが合ってるんですよ。」

 未来の僕は、徐々に理解していったようだ。

 「誰かが、データを改竄したって事か。」

 まったく意味が解らない僕は、再びのぞみさんに説明を求めると、のぞみさんは少し面倒そうに「だから、未来のあんたはちゃんと仕事したのよ。でも、それを長谷川さつきって女が間違えてしまったの。で、おそらく後でそのミスに気付いたんだろうけど、もう手遅れな状況になっていたんでしょうね。ミスを正直に名乗り出るのでは無くて、データを後から訂正して、このミスを未来のあんたに被せたのよ。」と言い放った。のぞみさんの言葉を理解していくにつれて、心の奥から湧き上がるのは怒りだった。

 「長谷川さんに、そんな事は出来ないだろ。データの訂正には、主任以上のパスワードが必要だから。もしデータを改竄した人間がいるなら、それは主任以上の人間だ。」

 桜井奈菜はずっと俯いていた。おそらく、誰がやったのかを知っているのではないだろうか。そして、その人間の名前を言って良いものか悩んでいるのではないだろうか。それでも、このままでは未来の僕が責任を負わされ、損害賠償を請求され、会社を解雇されてしまうのだ。黙っている必要など無い。力づくでも言わせるべきだ。僕の怒りは、長谷川さつきに対しても、その主任以上の犯人に対しても、そして桜井奈菜さんに対しても膨らんでいった。

 「桜井さん、この話、誰にも言わなくていいよ。野杁部長にも、長谷川さんにも。」

 「はあああああああああああああああああああああああああああ?」

 未来の僕の血迷った判断に驚き、叫んだのは当然桜井奈菜では無い、僕だ。何をやっているんだ、未来の僕は。犯人を捜さないと、自分が責任を負わされるんだ。自分を陥れた人間を見つけて復讐しないと、気が済まないだろ。未来の僕は馬鹿だ。しかもとびっきりの。

 「結局、ちゃんとチェックしていない僕が悪いんだ。だから、長谷川さんともう一人の主任以上の奴の事は、ここだけの内緒だ。そうしよう。」

 「でも…。」

 戸惑う桜井奈菜だったが、「頼むよ。」と言われて、渋々納得していた。

 そして、未来の僕はオフィスを出て行った。

腑に落ちない暗い様子の桜井奈菜はコーヒーを飲みながら、パソコンのマウスを動かした。先程までスリープ状態となっていたパソコンが、少しの間を置いてディスプレイが点灯した。

 「杉山さん!杉山さん!」

 そう叫ぶと、「え?何?え?」と、再び未来の僕がオフィスに戻って来た。

 「見てください。これ。」

 何事かと慌てて駆けつける未来の僕よりも先に、僕は桜井奈菜の視線の先を確認する。

 「メールが来てました。私が、お願いして、連絡を待っていた人からです。」

 僕はそのメールを読んで、全身に鳥肌が立った。まさか、この男から救いの手が差し伸べられるとは、想像もしていなかった。それでも、疑いようの無い、その文面は僕の目頭を熱くさせた。ふと、隣りを見ると、のぞみさんは顔をクシャクシャにして泣いていた。地面にポタポタと涙が落ちるのを見て、僕は未来が変わったであろうことを確信した。桜井奈菜は口元を抑えて泣いていた。未来の僕はまた泣いていた。もうその泣き顔は見慣れてしまった。

 (本日ご相談頂いた件、生産の工程をやりくりして、下記の部品確保しました。電動機3台、圧縮部3台。弊社、静岡工場にあります。明日、工場稼働しておりますので、出荷可能です。送り先、着日ご指示願います。   日置製作所 生産管理課 久保)

 「やったー!」

四人の声がオフィス内に響いた。勿論、未来の僕には二人の声しか聞こえていないだろうが。桜井奈菜は泣きながら、右手を挙げて、未来の僕の方を見た。未来の僕も泣きながら、右手を挙げて、二人でハイタッチをした。それを見て、僕とのぞみさんも繋いでいない方の手でハイタッチをした。

 「これ、よく見たら久保さんって、昨日の十時過ぎにメールくれてたんだな。ちゃんとチェックしとけば良かった。」

 「まあ、結果オーライですよ。良かったじゃないですか。」

 未来の僕は三浦結衣の携帯を手に取り、どこかへ電話をしようとしていた。

「結衣の奴、パスワード設定してあるから、携帯操作出来ないじゃねえか。」

 そう言って笑うと、桜井奈菜は「結衣ちゃん、一回起きてもらいましょうか?」と申し訳なさそうに言って、オフィスを出て行った。二人の和やかな雰囲気に、僕はこの件が上手く終わるという確信を持った。先程から、隣りで泣き続けているのぞみさんも、おそらく確信を持っているのだろう。

 暫くすると、三浦結衣が現れた。桜井奈菜から話を聞いたのだろう。三浦結衣は泣いていた。その後ろには桜井奈菜を続く。三浦結衣は「はい。」と言いながら、携帯電話を未来の僕に渡した。どうやら、既にパスワードを入力し、ロックを解除しているようだった。未来の僕はすぐに電話を掛けた様子で、すぐに携帯電話を耳に当てた。

 「もしもし?杉山だけど。部品、揃った。だから、6台全部作業して欲しいんだ。うん、そう。ん?ああ、人手がいる?ああ、そうか。それは、これから集める…。ああ、宜しく頼む。」

 電話を切って、未来の僕は三浦結衣に指示をした。

 「結衣、明日の朝、7時に遠藤さんを迎えに行ってほしいんだ。で、車に乗せて、大同食品まで来て欲しい。」

 「了解。」と、結衣は未来の僕のコーヒーを自分の物であるかのように飲み、能天気に答えていた。

 「桜井さんは、結衣と一緒に遠藤さんを迎えに行って。」

 「解りました。杉山さんはどうするんですか?」

 「僕は今から静岡に行って、朝、久保さんから部品を貰ってくる。」

 「大丈夫ですか?静岡までの高速道路、通行止めになってなければ良いけど。」

 そのやりとりを聞いていた結衣が「ちょっと、アニが静岡に行っちゃったら、島袋さん達が大同食品に入れなくなっちゃうよ。」と、尤もな事を言った。僕は、「確かに。」としか言えなかった。

 「アニは、決まった時間に、大同食品に行って、みんなに指示しなきゃ。」

 三浦結衣はそう言いながら、携帯電話を耳に当てた。どこかに電話を掛けているようだ。

 「あ、もしもし?三浦です。はい、はい、そうですよ。出番です。え?あ、ちょっと待ってくださいね。」三浦結衣は携帯電話をそのまま、未来の僕に差し出した。「怒ってるよ。」と少し悪戯っ子のように笑っていた。

 未来の僕は恐る恐る電話に出た。「もしもし?」と答えた瞬間、携帯電話から大きな声が聞こえた。

 「何で俺に相談しないんだ!水臭いだろ!」

 未来の僕は嬉しそうに謝った。

 不思議そうにその様子を眺めていた桜井奈菜に、三浦結衣が説明をしていた。

 「アニの、いや杉山さんの親友です。人手が足りないかもしれないって聞いてたので、連絡しておいたんです。そしたら、仕事を早退してくれて、備えていてくれたんです。俺の力が必要な時は必ず教えてくれって言われてました。」

 「素敵な親友がいるんだね。」と桜井奈菜が言っていたが、僕には信じられなかった。この僕に友達がいるなんて。こんな深夜にお願いしたら答えてくれる親友がいるなんて。

 「すまん、静岡に行って、で、部品を引き取ってから、大同食品に持ってきてくれ。ああ、そうだな、結衣の携帯に電話してくれ。おお、先方には伝えておくよ。引き取りは、おそらく8時以降からだ。で、改造の時間もあるから、10時から11時までには大同食品に来てほしい。ああ、ごめん。多分、軽トラックじゃないと無理だ。荷物が乗らない。悪い、後でレンタカー代は払うよ。ああ、ありがとう。」

 三浦結衣は「アニ、また泣いてるの?」と茶化していた。だが、これは仕方ない。僕だけは理解する。僕からすれば、親友のこんなに優しい行動は、泣くに決まっている。

 すでに時刻は深夜1時を過ぎていた。

 未来の僕と親友の電話の後、桜井奈菜と三浦結衣は再び社長室へ行き、ソファで眠った。未来の僕は、日置製作所の久保へ、お礼と代理の人間が取りに行くから対応して欲しいという内容のメールを送っていた。その後、おそらく上司と大同食品の担当者に現在の状況報告のメールを送った後、そのまま自分の机の上で少し仮眠をとっていたので、僕も隣の桜井奈菜の席を借りて少し眠る事にした。


 「じゃあ、そろそろ行くよ。運送会社に行って、色々引き取らないといけないし。戸締りのやり方わかるよね?また後で、大同食品の前で。」

 その声を聞き、目が覚めた。周囲を見ると、未来の僕と桜井奈菜が会話していた。そして、未来の僕はそのままオフィスから出て行った。時計を見ると、時刻は既に4時を過ぎていた。

「太一、行くよ。」

僕とのぞみさんは、慌てて未来の僕の後を追った。

 一階の裏口から外へ出て、未来の僕は再び隣りの倉庫へ入って行った。暫くすると、倉庫のシャッターが開いた。僕とのぞみさんはシャッターを潜り、先程未来の僕が部品を積み込んでいた軽トラックの荷台に飛び乗った。軽トラックは少しだけ進み、倉庫を出てすぐに停まった。未来の僕は運転席から降りて、倉庫のシャッターを閉めると、再び運転席に乗り、軽トラックは勢いよく走り出した。

 軽トラックが走り出して、すぐに気が付く。雪が積もった真夜中を走行する軽トラックの荷台はビックリする程寒い。僕はすぐにのぞみさんと手を繋いだまま両腕を組み、膝を畳んで丸くなった。のぞみさんは、特に動じること無く、風景を見ていた。目に焼き付けるかのように、瞬きすら殆どしなかった。

 二十分程走ると、軽トラックは運送会社へと入って行った。そこで未来の僕は圧縮部を1台と電動機を3台引き取り、荷台に乗せていたので、僕とのぞみさんはその隙に助手席に移動した。僕が助手席に座り、手を繋いだままのぞみさんを膝の上に乗せた。荷物を積み終わると、未来の僕は再び軽トラックを発進させた。

 軽トラックの車内では、大音量でラジオが流れていた。ラジオのパーソナリティが、明け方にも関わらず、陽気に喋りかけていた。「今日は晴れる。」とか「クリスマスは娘の為にサンタクロースになった」とか。興味も無い情報ばかりがスピーカーから流れていた。僕は窓から流れる景色を見ていた。見覚えのある場所もあれば、変わってしまった場所もある。「じゃあ、ここで一曲、聞いて頂きましょう。南区のラジオネーム鈴子さんからのリクエストです。鈴子さんにとっての思い出の曲だそうです。」曲紹介をするパーソナリティの言葉の後ろで、既にその曲のイントロは始まっていた。僕は、パーソナリティの題名発表を待たなくても、その曲がわかる。何度も、何度も練習した曲だ。僕の想いの全てを託した曲だ。僕を地獄の底へ叩き落とした曲だ。

 「彼らのファンの間では隠れた名曲としても名高い、唯一のラブソング。キムラロックで君に届け。」

 そのギターの音色、心地よいベースとドラムのリズム、心を打つ歌声。この曲を聞くと、どうしても大竹沙織の事を思い出してしまう。曲に対する純粋な感動と、それに結びついてしまった辛い思い出が同時に甦り、僕の心を掻き乱す。大竹沙織、今この時代では笑っているだろうか。笑っていて欲しい。そう思った。

 あっという間に一番が終わると、再びパーソナリティが喋り始める。「初デートでは緊張して失敗した」とか「嫁が一番理想の女」とか、興味も無いくだらない話に戻った。

僕は運転席の未来の僕を眺めながら考えた。やはり、未来の僕に希望は見出せない。決して幸せでは無い。むしろ、幸せになろうと足掻いているだけだ。それでも、二十三日の夜、初めて見た時よりも印象は変わった。チビでも、毛深いオジサンでも、臭くても、童貞でも、仲間はいる。未来の僕を救おうとしている人はいるのだ。のぞみさんに言われて、居酒屋「香川」を営業させるように仕向けたり、島袋に会うのは勇気が無くて駄目だったが、島袋機電に電話し、協力のお願いをしたりと、きっかけは作った。ただ、僕はあくまできっかけを作ったに過ぎない。それによって動いてくれたのは、親友であり、三浦結衣であり、桜井奈菜であり、静岡の久保さんであり、そして島袋公明である。僕が頼んだ人では無い。未来の僕には助けてくれる仲間がいるという事だ。たとえ未来にどんなに可愛いアイドルがいても、どんなに便利な携帯電話が開発されていても、生きる理由にはならない。僕の明日は、決して輝いていないかもしれない。だが、孤独では無いのかもしれない。

そして、その考えは大同食品に到着する頃、確信に変わる。

周囲はまだ真っ暗だったが、二十四時間稼働している大同食品の工場は灯りが点いていた。大同食品のマスコットキャラクター「腹ペコ大ちゃん」は、いつもと変わらぬ表情で僕らを迎えてくれた。

「あれ?」

軽トラックの車内、独り言を呟いたのは未来の僕だった。そして、少し遅れて僕らもそも異変に気が付く。「何で、こんなに車が停まってるのよ。」と、のぞみさんも驚いている。その通りだ。車が多いのだ。

大同食品の正門の前の道路の路肩に停車している車を数えると、8台も停まっていた。正門に最も近い位置には島袋機電の社名が書かれているトラックが2台。未来の僕はその隣りに軽トラックを停めて、車外へ出た。すると、島袋機電のトラックから、島袋公明とその父親、おそらく彼らの部下であろう若い作業員も二人、トラックから降りてきた。

「ありがとうございます。」と未来の僕は深々と頭を下げると、それ以上に深く頭を下げて「とんでもない。君の役に立てるなら、喜んで。」と言ったのは、島袋の父親だった。

「すまねえな。デカい口を叩いておいて、部品集めれなくて。」

大人になったとは言え、僕に対して頭を下げる島袋を初めて見た。

「いや、むしろ助かった。島袋が集めてくれなかったら、部品足りなかったから。」

島袋公明は首を傾げてみたり、腕や脚をボリボリと引っ掻きながら、ようやく絞り出した言葉は「あの頃の借りを、今日返したかったけどよ。」

何とも言えない気持ちになった。謝るなら、ちゃんと謝れという怒りもあれば、未来の僕を助けてくれたという感謝もある。そして、謝るなら僕では無く大竹沙織に対してじゃないのだろうかという疑惑もある。

「何これ、デブじゃん。」

それは当然、島袋では無い。僕らが振り返ると、そこには未来の僕の贅肉を摘まむ綾香がいた。「え?何で?」僕らは口を揃えて言ってしまった。綾香はニコニコしながら、ポケットから携帯電話を取出し、その画面を見せた。

(みんな助けて。お兄ちゃんが仕事でミスっちゃって、人手が足りないの。このままじゃ、兄妹二人とも路頭に迷っちゃうよ~出来れば機械に詳しい男の子、明日の早朝、大同食品に来て)

「結衣ちゃんから連絡が来て、皆にこのメールを一斉に送ったの。理央とか、理央の彼氏も来てくれたし。大学の友達とか、その友達とか。全部で十五人。これで足りる?」

「ああ、足りるさ。さすがだ、お嬢ちゃん。」

言葉が出てこない未来の僕の代わりに答えたのは島袋の父親だった。未来の僕は急いで涙を拭いて、周囲に停まっている車に向かって叫んだ。

「ありがとう。本当に。ありがとう、助かった。」

車から出て来て、笑顔で手を振る大学生達に、深々と頭を下げる。見えていない筈なのに、のぞみさんまでもが頭を下げていた。僕は綾香が一台の車に駆け寄っていく姿を目で追っていた。その首に巻かれた奇抜なデザインのマフラーに目を奪われていたのだ。白と紺と赤のストライプ柄のマフラー、それは母ちゃんからのプレゼントで、僕と綾香のお揃いの物だった。今も大事に使っている綾香と、そのマフラーで首を吊った僕。自分が情けなく思えた。

未来の僕は歩いて正門の守衛のおじいさんの所へ向かった。少し離れた所から見ていたので、会話の内容までは解らないが、書類を提出している途中、おじいさんに笑顔で肩を叩かれていた。「頑張れ」とか「良かったね」とか言われているのだろうか。

未来の僕は軽トラックに戻り、大同食品の中へ入って行く。その後を、島袋機電のトラックが2台、綾香が乗った車を含め大学生達の車が6台続いた。僕とのぞみさんは、それを見送った。そして、車が見えなくなってから、僕はずっと繋ぎっ放しだった手を離した。

未来の僕のトラブルは解決の目途が立った。それについては安心した。また、僕を助けようとしてくれる人の存在も解った。それは嬉しかった。それでも、心の中は喜びも希望も無かった。何故かは解っていた。

「大竹沙織に会えないかな?」

のぞみさんの顔から笑みが消えた。

「未来の僕がどんな毎日を送っているかは解った。周りにどんな仲間がいるのかも、幸せになろうと足掻いている事も。でも、一番気になるのは、未来の僕じゃない。大竹沙織だ。あの子があの日の一件以来、立ち直っているかどうか、人生が狂っていないかが、僕にとって最も大事な事だよ。大竹沙織はどこにいるの?」

「この街にはいないよ。だから解らない。辞書にも書いてない。」

「生きてるのかな?」

「解らない。」

冷たく言い切るのぞみさんに、これ以上尋ねても無駄だと悟った僕は、道の端に積もった雪を手に取り、丸く固めてから、「腹ペコ大ちゃん」に投げつけた。が、届かなかった。悔しくて、もう一つ雪の玉を作って、投げたのだが、今度は大きく外れた。

「大好きな女の子の幸せを奪った僕には、生きる資格も無いと思うんだ。借りに生き返ったとしてもきっと、誰も幸せには出来ない気がする。確かに未来の僕には仲間がいる。幸せになろうとしているけど、誰かを幸せになんて出来るのかな。出来ないと思ってしまうんだ。」

そう言って投げた四個目の雪の玉は、「腹ペコ大ちゃん」の人間離れした長い舌にようやく当たった。

もう一つ雪の玉を作ろうと、地面に手を伸ばした瞬間、左頬に柔らかい衝撃が走った。肩の上に散らばった雪の塊が残った。体を起こして、僕に雪の玉を投げつけた人物を見ると、表情を一切変えずにこちらを見据える小学生のような見た目の死神がいた。

表情を変えずに、死神はもう一度雪の玉を投げつけてきた。そして、その雪の玉は再び僕の左頬に当たり、砕けた。

「何だよ。」と独り言を言いながら、そっちがやる気なら、こっちも投げつけてやろうと再び地面の雪を集めようと手を伸ばした瞬間、左頬に雪の玉が当たり、砕けた。

三回連続で同じ場所に当てるなんて、大したコントロールだ。少しは喜べば良いのに、のぞみさんは表情を一切変えなかった。

「やめろよ。」と言った僕の左頬にもう一度飛んできた雪の玉は流石に避けた。

「大竹沙織が幸せかどうかなんて知らない。今の彼女は不幸かもしれない。でも、それは必ずしもあんたの責任かどうかなんてわからない。だって、そうでしょ?十五年経ってるのよ。あんた一人の失敗が、彼女の人生の全てを不幸にしたなんて、自惚れ過ぎよ。大竹沙織は自分じゃ何も出来ない人間だと思ってるの?大竹沙織は、自分一人じゃ幸せになれないって思ってるの?そんなワケ無いでしょ。あんたは誰かを幸せにする事だけじゃなくて、誰かを不幸にも出来ないのよ。」

 言葉と供に雪の玉がいくつも飛んできたが、その全てが僕を大きく外れた。

「勿論、故意では無いにしても、誰かを傷つける事はある。勇気が無くて、助けられなかった人もいる。一度の失敗が、その後の人生を変えてしまう事もある。それでも、あんたは大竹沙織に対して影響力の高い加害者じゃない。あんたは彼女が好きだっただけ。あんたの失敗は、命を懸ける程の失敗では無い。あんたの命は、そんなに軽くない。」

少しずつ、周囲が明るくなっていった。人生最後の朝も陽は昇る。

「誰かを不幸にしたとか、誰も幸せに出来ないとか、そんな事を考える必要無い。ちゃんと考えてみなさい。何で、未来のあんたの周りに人が集まったのか。どんな想いで皆があんたを助けてくれたのか。あんたの幸せを願っている人の前で、生きる資格が無いなんて言える?死にたいなんて言える?」

溶け始めた雪が、太陽に照らされてキラキラと光る。

「太一、あんたに幸せになって欲しい人の想いに気付いて。」

その言葉と、本気で僕に伝えようとしてくれている熱意に押され、思わず目を逸らしてしまった。

僕は僕が嫌いだ。弱いし、社交性も無いし、勉強も出来ない。好きな人を守る事も出来ない。大竹沙織がいなければ、生きがいも無い。希望も無い。妹にも迷惑を掛けたし、親にも失望されている。友達もいない。助けてくれる人もいない。夢も無い。好きだったギターも壊れてしまった。生きる資格が無い。いや、生きる意味が無い。楽しく無いのだから。希望が無いのだから。

それでも、のぞみさんの言葉は僕の心を揺さぶる。

「あんたが幸せになれば、それが自分の幸せになる人もいる。」

その言葉が必ずしも嘘とは思えない。理由は解らないが、自分の存在を懸けて、僕を救おうとしてくれている死神の少女がいるからだ。目の前に、確かに。

「僕は、のぞみさんに会う為に、ここに来た気がするよ。」

「何よ、それ。」と、のぞみさんは困ったような顔で笑った。そして、着物の帯から何かを取出し、僕に向かって投げつけた。先程までの雪玉とは違い、黒くて長方形のそれは勢いよく、僕の左頬目がけて飛んできた。僕は慌てて、顔の前でそれをキャッチした。

「財布?未来の僕の。」

「見てみな。」

僕は言われた通り、その財布を開ける。見てみろと言われても、昨日まで自分で持ち歩いていた財布で、特に何も変わっていなかった。未来の僕の免許証やクレジットカードはそのまま、小銭が少し入っているぐらいだった。

「その財布はね、自殺を図ったあんたが奇跡的に一命を取り留めた後、家族三人で旅行に行った時に、母親から貰った物よ。」

約十五年間、使い続けたのも納得出来る傷み具合、黒革の端々が剥げている。

「小銭入れの両側にお札とかカードを入れる所があるでしょ。その裏に狭いポケットがあるから、そこ見てみなさい。」

言われた通りに、カード入れの裏の狭いスペースに指を突っ込むと、薄くて固い紙のような物に触れた。

「本当はね、この財布は未来のあんたが、昨日雪道で転んで落とす事になってたの。本当は、この財布が未来のあんたの自殺への衝動を少しでも止める筈だった。でも、自殺しようとする時に、無くしてしまっているから、私が先に盗んでおいたのよ。今日返そうと思ってね。」

未来の僕の自殺への衝動を少しでも止める筈だった?そりゃそうだろ。そう書いてあるのだから。黒革の長財布の中、カード入れの裏の狭いポケットから出てきたのは、一枚のプリクラだった。右端には少しいじけた顔の僕。左端には無邪気に笑う幼い綾香。そして真ん中には僕と綾香の肩を組んで、豪快に笑っている母ちゃんがいた。僕も綾香も紺と白と赤のカラフルなマフラーを身に着けていた。一月三日という日付のスタンプの下に、おそらく母ちゃんの字だろうか、メッセージがあった。「ずっといっしょ」そして、プリクラの裏面には、ボールペンで「次、勝手に死んだら殺すからね。絶対許さない。」と意味不明なメッセージが書いてあった。

「いたでしょ?あんたが死んだら、悲しむ人。…怒る人かな。」

気が付くと、のぞみさんは目の前にいた。自信満々の笑顔で。

「財布返す前に、朝ごはん、食べに行こうか。」

時刻は朝の六時半。どこに食べに行くのか解らないが、のぞみさんは歩き始めた。

「のぞみさん。」

僕は歩き出したのぞみさんを呼び止める。そして、「何よ。」と、のぞみさんが振り返った瞬間に雪の玉を顔に投げつけた。その雪の玉はのぞみさんの鼻の辺りに当たり、砕けた。

のぞみさんは笑いながら、怒っていた。

「ありがとう。僕をここに連れて来てくれて。」

 と言った瞬間、僕の顔に雪の玉が当たり砕け散った。

 「やかましい。」と言いながら、のぞみさんは次の雪の玉を作り始めていた。僕は負けずに雪の玉を素早く作り、のぞみさんに投げつけた。

 一対一の雪合戦。僕が投げた球は大きく外れたり、電柱に当たったりしていたのに対して、のぞみさんの投げた雪の玉は全て僕に当たった。大したコントロールだ。雪の玉を投げ合う様子を、守衛のおじいさんが笑って見ていた。「お兄ちゃん、頑張れ。」と言っていた。という事は、明らかに僕が劣勢だったのだろう。少し笑えた。僕は五回連続で外し、のぞみさんがその間に六回雪の玉を当てた時、「参りました。」と伝えた。

 「朝ごはん行くぞ。太一。」

 僕とのぞみさんは守衛のおじいさんに手を振りながら歩いた。

 雪が溶け、そして凍ってしまった滑りやすい歩道を、慎重に歩いていると、のぞみさんは周囲をキョロキョロと見渡し、誰もいない事を確認してから、僕の手を握った。その瞬間。僕の足が地面から離れた。

 「おおおおおおおお!」

 明け方、陽が昇り始めた町の中で僕とのぞみさんは宙に浮かび上がった。二度目の空中浮遊に恐怖が無かったのは、のぞみさんを信頼しているからだろうか。上空十数メートルから眺める周囲の景色は僕に感動を与えた。

歩くよりも早くて、走るよりも遅い。丁度良い速度で、僕らは空中を進む。風が少し冷たくて心地良い。足元を見ると、新聞配達のバイクが走っていた。太陽の光を浴びて、溶け始めた雪がキラキラと輝く。あれは未来の僕が勤める九重電機。その奥には、駅前広場が見える。さらに進むと、居酒屋「香川」がある。僕が首を吊った公園、中学校、そして未来の僕の家。この町に少しだけ愛着が湧いた。

 僕らは未来の僕の家の前に降りた。のぞみさんは躊躇する事無く、着物の袖から鍵を取出し、扉を開けた。そのまま、居間であり、未来の僕の部屋まで真っ直ぐに向かうと、その奥の台所で朝食の準備を始めた。

 僕がソファの上に座って、待つこと約十分。台所からは良い匂いがした。嗅いだ事がある匂いだった。

 「出来たよ。お皿持ってきて。」

 そんな偉そうな態度の小学校低学年の女子にはもう慣れた。僕は黙って、食器棚からお皿を持って、台所へ向かう。そこには、卵焼きのウインナー入りと、トースト、そしてバナナとヨーグルトを和えた物があった。毎日、僕が食べていた朝食だった。

 「驚いた。死神って、ここまで解るんだね。」

 「…まあね。」

 僕らは一緒に朝食を食べ、テレビを見て、少しの間ゆっくりと過ごした。ふと、未来の僕の部屋の隅にアルバムが積んであったのを見つけたが、手を伸ばしかけて、止めた。これを見たら、僕のこれからが少しは解る。いや、解ってしまう。今は見なくても良い。何となく、そう思った。

食器を片付けてから、僕らは再び出掛けた。のぞみさんと手を繋ぎ、姿を消し、宙へと浮かび上がった。陽が昇り、明るくなった町の上を僕らは目的地へ一直線に進む。頬に当たる風が気持ち良くて、雲一つ無い青空が爽快だった。そして、僕らは宙に浮かんだまま、大同食品へ入った。

 のぞみさんの案内で、未来の僕がいる場所に到着すると、大同食品の新工場の機械の改造作業を行っている現場の端で、未来の僕達は休憩をとっていた。困難を乗り越えつつある彼らの雰囲気は非常に明るかった。

「ごめんなさい。私達、チビで毛深くてデブな男、ダメなの。」

 三浦結衣や、綾香、綾香達の友達が三人で口を揃えて笑いながら言った。

 「杉山さんから聞いてますよね。コンパ、いつにします?」そう聞いただけなのに、何故そんな事を言われないといけないのか、日置製作所の遠藤という人は口を開けたまま固まってしまった。「毛深くは無いけど…」と少しの間を置いて返すのが精一杯だったようだ。それを周りで聞いていた島袋、島袋機電の社員達は大きく口を開けて笑っていた。桜井奈菜ですら、笑いを堪えて肩を震わせていた。

僕とのぞみさんは天井に設置されたクレーンの上に座って、下を眺めていた。僕はちゃんと見ておこうと思った。僕を助けようとしてくれた人の顔を。僕の幸せを願ってくれた人がいる事を。

桜井奈菜さん。会社の同僚で、僕の仕事をサポートしてくれるとびっきり可愛い人。この人が頑張ってくれたから、未来の僕は助かった。

未来の僕の、いや近い未来の僕の親友の若森直哉。僕の為に仕事を早退してくれた。静岡まで部品を取りに行ってくれた。のぞみさんが教えてくれて初めて顔を見たが、僕と大して変わらないブスだ。少し愛着が湧いた。

三浦結衣。妹の友達であり、行きつけの居酒屋の店員。この人の明るい性格が、僕を絶望の淵から救ってくれた。

何故かこの場にいて、みんなにおにぎりとお茶を配っていたのは、居酒屋「香川」の君彦さん。この人のおかげで、未来は変わり始めた。

殺したいほど憎い。でも、僕の為に部品を集め、部下を動かしてくれた島袋。そして、島袋の父親。若くてハンサムな作業員が二人。

部下の僕を心配して見に来てくれたのだろうか。上司のヤクザ。

綾香の友達。その友達。そして、その友達。

杉山綾香。僕には勿体無いぐらい、良く出来た妹。生意気だけど、僕の為に人を集めてくれた。

そして、手が早くて、生意気だけど、自分の存在を懸けて僕を救おうとしてくれた見た目は小学生低学年、実年齢は年上の死神、のぞみさん。

自分を助けようとしてくれた人達の事、ちゃんと見て、ずっと覚えておこうと思った。生き返った後もずっと。

「ありがとう。」

その声は誰にも届かずに消えた。


   30


 幸せになりたかった。

 大金持ちになって、美人と結婚して、誰からも羨ましがられる仕事をしたかったのでは無い。生活出来るだけのお金があれば良い。僕を愛してくれる人、僕が愛した人と結婚が出来れば良い。誰にも羨ましがられなくても、全力で取り組める仕事に就ければ良い。僕は誰よりも幸せになりたかったのでは無い。自分の幸せを掴みたかった。円満な家庭を築きたかった。

 十五年前、不幸のどん底だった僕は、絶望の中で首を吊った。死へ逃げた。首を吊った木の枝が折れて、たまたま通りかかった家族連れが救急車を呼んでくれたことで、拾った命。その命を使って、幸せになろうと思った。不幸過ぎる過去を乗り越える為には、自分が納得できる幸せを掴むしか無い。

 だからこそ、十五年前の僕がこの時代に来ていると聞いて、僕は動揺した。幸せになりたいと強く願った若き日の僕に見せたのは、ズタズタの不幸。絶望しただろう。自棄になっただろう。腹が立つ。過去の僕にも、今の僕にも。

 過去の僕よ、勝手に不幸だと決めつけて、絶望するな。まだまだ、これから幸せになるのだ。今の僕よ、このままで良いのか、幸せになるんじゃなかったのか。そんな想いが頭の中を駆け巡る。


明け方、僕が大同食品の新工場に到着した時、周囲には大同食品の新しい挑戦である飲料事業を支える機械設備がいくつも設置されていた。僕はその機械設備を見ていたが、それらの機械設備の構造がまったく理解出来なかった。それでも着々と、この新工場内では新事業立ち上げに向けて進んでいるのだ。その中で、僕は僕に任された役割を遂行しなければいけない。

島袋の父親の指示で、圧縮部や電動機がトラックから降ろされていく。年季の入った工具箱を片手に、島袋公明も車から降りた。島袋機電の若い社員達は綾香の友達に指示を出しながら、ブルーシートを地面に敷き、養生を開始した。僕は工場の端に工事看板を立て掛け、昨晩作成した工事書類を張り付けていく。すると、奥の方から足音がした。僕はその足音に気付き、深く頭を下げた。足音は僕の前で止まった。「顔を上げなさい。」僕はゆっくりと顔を上げて、目の前に立った下出課長の顔を見る。

「メール見たよ。ありがとう。6台分、全部集めてくれるとは思わなかった。君を信じて良かった。」

満面の笑みでそう言った下出課長は、「そう言ったら、ちょっと都合が良いか。」とお道化て見せた。険しい表情ばかりが印象に残っていたが、僕に注文を出してくれた時と同じ表情を久しぶりに見せてくれた。「殴って悪かった。」と、下出課長は僕の肩を叩いた。

僕は下出課長と握手をした後、気を引き締めて、島袋達の元へ歩いた。既に皆は丸い輪になって集まっていた。綾香や、綾香の友達の学生達は見様見真似で輪に加わった。僕が輪に入ると同時に、島袋公明が言葉を発した。

「おはようございます。」と元気よく発せられる声に、何十倍もの大きさで「おはようございます。」と返す学生や島袋機電の社員達。ふと、後ろを見ると下出課長も輪のすぐ近くに立って、挨拶をしていた。

「本日の作業、日置製作所製エアーコンプレッサー、37キロから55キロへの改造作業です。台数は8台。午後から大同食品様の新工場稼働テストがある為、時間の制限があります。ケツが決まってる為、効率良く作業進めてください。現時点ではまだ部品が揃っていませんので、まずは4チームに分かれて、4台を作業。十時から十一時頃に追加で部品が届くので、届き次第残りの4台の作業を開始。あと一時間ぐらい経つと、日置製作所の担当者が来ますので、蓋を閉じる前に、必ずチェックしてもらってください。で、チーム分けですが…」

工事の前には朝礼による作業確認とKYと言われる危険予知活動を行うのが決まりである。僕は朝礼を纏め上げる島袋を複雑な気持ちで見ていた。十五年振りに会う島袋は、僕の知らない一面を見せつけた。こんなにしっかりした大人になったのかと。

「…の4チームとなります。太一は現場監督、太一の妹さんとお友達のお嬢ちゃんは応援で。女の子に応援されると、皆頑張れるから。」

「それ、専務だけじゃないですか?」

と、島袋機電の若手社員が茶々を入れると、周囲に笑みが零れた。そんな中、僕は一人だけ驚いていた。島袋の奴、すでに専務なのかと。

「うるせえな、まったくよ。じゃあ、次、KY。今日の作業は、重量物の運搬の際は、手や指を挟まないように注意。それから、配線の繋ぎこみ時の感電注意ってぐらいか。」

再び、島袋の顔が真剣な表情に変わる。

「本日は、手伝いの学生さんが多い。くれぐれも怪我、事故が無いよう徹底お願い致します。それから、ウチの社員らは昨日からけっこうハードワークが続いてるから、無理し過ぎないように。」

全員で「はい。」と大きな声で返事をすると、島袋が「それから、個人的な事ではありますが」と前置きした上で喋り始めた。

「俺は、昨日、この仕事をしていて良かったと思った。自分の仕事が、友達のピンチを救える事を誇りに思う。」

島袋公明は僕の眼を真っ直ぐに見て言った。皆の視線が僕に集まる。皆、ニヤニヤしていた。僕は何て言えば良いのか解らず、下を向いた。

「作業開始。」と島袋が叫び、皆が散って行った。先程言い渡されたチーム毎にエアコンプレッサーの前に集まり、作業に入って行く。綾香と友達の理央ちゃんは皆の作業を二歩下がって眺めていた。僕はさらにその三歩後ろで作業を眺めていた。

一時間程が経過した頃、桜井奈菜と結衣、日置製作所の遠藤が到着した。

結衣は真っ直ぐに綾香と理央ちゃんの元へ向かって行き、意味も無く三人で飛び跳ねていた。「久しぶり、理央。」とか「元気だった?」とか。

桜井奈菜は真っ直ぐに島袋の父親の所へ行き、深々と頭を下げていた。会話の内容は聞こえなかったが、島袋公明や島袋機電の社員、綾香の友達の大学生にも頭を下げていた。島袋公明は、僕に向かって、片手で桜井奈菜を指差し、もう片方の手は小指を立てていた。「この女、お前の彼女?」という意味であろうが、残念ながら違う。僕は首を左右に振って否定した。それを見て島袋公明は近くにいた大学生の肩を叩いた。「お前、アタックしろ。」そう言っていたのだろう。

そして、遠藤は僕の所へ来て、一言「合格です。結衣さん、可愛いですね。コンパやりましょう。」と凛として言った。こいつ、大した男だ。百キロを超す巨漢が、何だか格好良く見えたのは何故だろうか。

遠藤の後ろには、作業着を着た同い年ぐらいの男が立っていた。中肉中背の爽やかな顔で、ニコニコしながら立っていた。

「こちらは私の同期の稲谷です。ウチの会社のサービス部に所属していて、製品の修理や改造作業などを行っています。本日の改造作業の確認は、彼にやってもらいます。」

と、遠藤が淡々と説明する。それならば、遠藤にコンパを組む必要も無い気がして、思わず僕は、稲谷という青年に「宜しくお願いします。ところで、ご結婚って…」と尋ねると。「してますよ。子供も二人います。」やはり、遠藤にコンパを組む必要は無いか。

改造作業は続く。

作業が始まってから二時間程が経過した頃、突然、工場に野杁部長が現れた。いつも通りの紺色のスーツに、髪はオールバックに整えていた。野杁部長は部外者の多さに驚き、周囲を見渡してから、僕の元へ歩いてきた。野杁部長に気が付いた桜井奈菜も駆けつける。

「大掃除、サボりやがって。馬鹿たれ。」

そう言う野杁部長だったが、表情は明るい。いつもの口が悪くてしつこい野杁部長では無かった。僕は「すみません。」と一応謝る。

「でも、よくやったよ、お前。部外者が多い気がするが、まあ目を瞑るわ。メーカーがちゃんと管理してるんだったら問題無いだろ。」

野杁部長は改めて、周囲を見渡す。

「部品、どうやって集めたんだ。」

その問いに僕は桜井奈菜を指差した。

「桜井さんがほとんど…」

桜井奈菜は両手を胸の前で振って、「私は別に、何も…」と慌てていたが、僕は何も否定はしなかった。彼女のおかげだ。本当に。

「俺も杉山も、桜井に助けられたんだな。桜井を主任ぐらいには昇格させないとな。」

野杁部長の言葉に僕らは笑った。そんな僕らの元に島袋の父親が慌てて駆けつけてきた。

「こんにちは、島袋機電の島袋と申します。」と深々と頭を下げた。

「杉山がお世話になりました。杉山の上司の野杁と申します。」

「私共、日頃はエアーコンプレッサーの修理やメンテナンスを行っております。今回は、私の倅と杉山さんが同級生だったというご縁から、お仕事頂きましてありがとうございます。」

早速ですが、と切り出した島袋の父親の言葉は僕の残りの不安を取り除いてくれた。

「非常に図々しい申し出ではありますが、本日交換をした部品を譲って頂けないでしょうか?勿論、お代はお支払致します。圧縮部や電動機などの部品はよく使用するのですが、最近は物不足で納期遅れが多発しておりまして、もし譲って頂けるなら、非常に助かるのですが。」

僕と野杁部長は目を合わせた。お互いに笑みが零れる。野杁部長は声を抑えて答えた。

 「それは、こちらとしては願っても無いお話で。」

 「ありがとうございます。助かります。」そう言ったのは島袋の父親だったが、心からそう思ったのは僕だっただろう。僕は島袋の父親に頭を下げた。心からの感謝を込めて。

 「これで、損害はかなり抑えられる。それどころか…」

 むしろ売上が上がるかもしれない。上がらなかったとしても、損害はかなり少ない。僕は桜井奈菜と喜びのあまり顔を見合わせて喜んだ。

 「遠藤!」と、野杁部長は遠藤を呼び、「お前、値引きしろ。」と低い声で凄んだ。「55キロの値段で37キロを発注してんだからよ、儲けすぎだろ。お前ら。値引きしろ。」

 「はい。勿論です。」と遠藤は答えた。

僕らの問題は解決していく。皆の力で。そして今、金の問題までもが解決しようとしている。

さらに十数分後、野杁部長が下出課長と話している頃、直哉がトラックで到着し、部品が揃った。何度もお礼を言う僕に対して、直哉は「じゃあ、この間の香川での飲み代、払わなくても良い?」とだけ言っていた。当然だ、むしろもう一杯奢りたいぐらいだ。この親友には今日だけでは無く、何度も助けられた。大竹沙織との別れをきっかけに沈み込んでいた僕に話しかけてくれた時を始め、数えきれない程の感謝がある。

「童貞のお前の為に頑張ってくれる人がいるんだよな。」

そう呟く直哉を見て、先程の考えは無かった事にしようと思った。

「何だよ、太一。お前、童貞だったのかよ。ソープでも行くか?」そう言いながら笑うのは島袋公明。

「俺も行こうかな」と言う、この間まで童貞だった直哉。

「じゃあ、俺も」と話に乗っかる野杁部長。「じゃあ、私も。」と笑っている下出課長。島袋の父親、島袋機電の社員達もニヤニヤこちらを見ていた。結衣は誰よりも大きく口を開けて大笑いしていた。綾香は複雑そうな表情で笑いを堪えていたが、隣りの理央ちゃんはしっかり笑っていた。綾香の友達の大学生達も、今日初めて会った日置製作所の稲谷さんも、そして桜井奈菜も。皆、笑っていた。

それでも、言うべき事は言おう。

「童貞じゃないって!」

皆、笑っている。冗談だと思っているのだろうか。

「本当だって。」

その後、暫くして、何故か居酒屋「香川」の店長である香川さんがやって来た。「これぐらいしか出来ないから。」と、店長は皆に昼食のおにぎりを配り始めた。僕は店長のその気持ちが嬉しくて、今まではカウンター越しにしか会った事が無い店長と初めて握手をした。

そして、皆で少しの休憩を取った。工場の端に固まって、おにぎりを食べて、温かいお茶を飲んで、雑談をした。その輪の中には下出課長もいた。知らぬ間に辺りにいた大同食品の社員や他の設備の工事中の作業員達も呼んで、皆でおにぎりを食べた。

「稼働テストの前に体力つけてくださいね~。普段は駅前で居酒屋やってますので、良かったら来てください。」と、結衣は精一杯愛想を振りまいていた。おにぎりを受け取る中年達の表情を見たところ、おそらく居酒屋「香川」は暫く忙しい日が続くだろう。島袋機電の社員も来そうだし。

「杉山さんから聞いてますよね。コンパ、いつにします?」

遠藤が澄ました顔で、結衣に尋ねると、近くにいた綾香や理央ちゃんと息ぴったりに、「ごめんなさい。私達、チビで毛深くてデブな男、ダメなの。」と答えて、周りの皆に笑みが零れた。「毛深くは無いけど…」と呟く遠藤。そんな遠藤は僕の元へ近づいてきて、「一流企業に勤めていて、仕事もそこそこ出来るし、性格だって悪く無いのに、何故ですか?もしかして、初めから断るように指示していたんですか?」遠藤の顔が真っ赤になっており、あまりに本気だった為、思わず謝りそうになった。

「いや、OKだって言ってたんですけどね。」

「…そうですか。」と肩を落として、丸い背中がいつも以上に丸くなってしまっている遠藤は、何だか可哀想に見えて、笑えてきた。遠藤は煙草を吸いに行くのか、工場から出ようと歩き始めたので、その哀愁漂う背中に呼びかける。

「遠藤さん。」

「はい。」と振り返る遠藤の表情は悲しみそのものだった。笑いを堪えて、僕は「ありがとうございます。突然のお願いにも関わらず。本当に助かりました。」と、伝えた。

「ありがとうございます。」「ありがとう。」「助かった。」

僕は、昨日と今日だけで、その言葉を何度口にしたのだろうか。いつもは謝ってばかりの仕事だが、皆のおかげで大きく変わった。僕は、僕を助けようとしてくれたたくさんの人のおかげで、今ここにいるのだ。ありがとう。心から。

その時、目の前を黒い何かが上から通過し、足元で「パン」と乾いた音を鳴らした。そこにあったのは、黒の長方形。三日前に亡くした僕の財布だった。何故、ここにあるのだろうか。その理由がまったく想像出来ない。理由を探していると、もう一枚、紙のような物がゆっくりと上から舞ってきた。その紙は財布の横に落ちた。

「次、勝手に死んだら殺すからね。絶対許さない。」

そう書いてあった長方形の紙、それは僕にとっては懐かしいメッセージ。思わず工場の天井を見上げる。そこにはいくつもの電球と大きなクレーンがあるだけだった。僕は財布を落としたのでは無く、盗まれていた事に気付く。同時に犯人も解った。あいつら以外に考えられないのだ。やはり夢じゃなかった。

死神がいる。過去の僕もいる。

僕は財布と長方形の紙を拾った。長方形の紙を裏返すと、それは家族三人で写ったプリクラであった。「ずっといっしょ」その文字の下、豪快に笑う母ちゃんを見て、何だかこちらも笑えてきた。こっちの気も知らないで、ずっと笑ってたみたいで、悩むのが馬鹿らしくなる。

そして、僕は意を決して歩き出す。一歩、また一歩。この世界にあいつがいるのであれば、僕のやるべき事は決まっているのだ。ゆっくりと歩く。

「作業再開するぞ。」

島袋がそう言うと、皆一斉に立ち上がり、それぞれの持ち場に戻って行く。人の波が落ち着くと、そこには取り残された女性が一人。こちらに気付く。店長の香川さんと結衣が紙コップやごみを片付けている。綾香と理央は改造作業を見学している。遠藤と直哉、下出課長、野杁部長、稲谷さんは喫煙所に行った。

この場には、僕と彼女だけが取り残された。

「桜井さん。」

「はい。」

「今晩、予定って空いてますか?」


予定をややオーバーした午後二時過ぎ、無事に改造作業が終わり、島袋機電の社員や綾香の友達の大学生達は大同食品を後にした。直哉も、店長の香川さんもそれぞれ帰って行き、遠藤と稲谷さんは野杁部長の車に乗り、すっかり仲良くなった結衣と桜井奈菜は黒のセルシオで帰って行った。

僕は一人、大同食品の新工場の片隅に残り、稼働テストを見守っていた。

稼働テストが終わったのは、夕方の6時過ぎであった。まだ陽が昇る前に大同食品に到着した僕が帰る頃、辺りは再び暗くなっていた。下出課長と握手をし、守衛のおじいさんに温かい缶コーヒーを奢ってもらった。「よく頑張ったな」と顔をクシャクシャにして笑う守衛のおじいさんの優しさが嬉しかった。

そして僕は会社の軽トラックに乗り込み、九重電機へ向かった。ルームミラーに映った自分の顔は、油でテカテカで髭が疎らに伸び、目の下には隈が出来ていた上、ベトベトの髪が額にくっついていた。それでも何故だろうか、いつもの自分よりも少しはマシに見えた。

途中、国道沿いの牛丼屋に寄り、並盛の牛丼を頼んだ。朝食は抜き、昼食はおにぎり一つ、空腹過ぎて、家に着くまで我慢が出来なかった。店員が出した牛丼を三分程で片づける。食べ終わるとすぐに店を出て、再び九重電機を目指す。

夕方の渋滞に巻き込まれながら、四十分ほど掛けて会社に戻った。会社の倉庫にトラックを停め、倉庫のシャッターを閉め、鍵を掛ける。皆よりも一日遅れで年内の仕事を終えた僕は一息つく暇も無く、足早に家へ帰った。

自宅のアパートに到着し、久しぶりの我が家の玄関の鍵を開け、扉を開くと、室内は真っ暗で誰もいなかった。廊下の電気を点け、居間兼自室へ一直線に向かう。

約三日間着続けたスーツを脱ぎ、ソファの上に放り投げた。ネクタイを外し、ワイシャツを脱ぐと、襟や袖の裏側が汗を吸って茶色に汚れていた。ワイシャツを手に洗面所へ向かい、その場で肌着や下着も脱ぎ、すべて洗濯機へ放り込んだ。そのまま三日ぶりのシャワーで汚れを洗い落とし、しっかり髭を剃り、入念に歯を磨いた。

シャワーを終え、お気に入りの赤いパンツを履き、休日はいつも履いているジーパンとグレーのパーカーに着替えた。髪をドライヤーで乾かし、その後整髪料で前髪を上げた。そして黒のダウンジャケットを着て、ポケットに黒革の財布と携帯電話を入れた。そして箪笥の引き出しを開け、マフラーを取り出した。白と紺と赤のストライプ柄の奇抜なそれを首に巻く。

心臓がいつもより早く動く。すでに緊張している。口が渇く。それでももう後戻りは出来ない事を知っている僕は、部屋の片隅で埃を被っていた約1メートル程の長さの物を、専用の黒いケースに入れ、肩から背負った。

再び廊下の電気を消し、玄関を出た。

「今晩、予定って空いてますか?」と、投げかけた問いに対して、桜井奈菜は「今日はクリスマスパーティーなんです。」と笑顔で返した。そう言われて、会社の後輩の溝口から「もし暇だったらパーティー来ませんか?」と誘われていた事を思い出した。どうせ人数が足りないからだろうと思っていたので、行くつもりは微塵も無かったのだが。「松田主任に誘って頂いて。さつきと一緒に行ってきます。」そう言った後、一瞬の間を挟んで、発言を後悔するような顔をした。一昨日の松田との事を思い出させたくないのか、それともミスをした長谷川さつきを思い出させたくないのか。

「駅前のスペイン料理のお店を貸切にして、松田主任や松田主任の友達が幹事になって百人ぐらい参加のパーティを開催するんですって。遠藤さんも来ますし、日置製作所の人やウチの会社の人もたくさん来るらしいですよ。杉山さんも来ますか?今日の打ち上げしましょうよ。」

無邪気に笑う桜井奈菜には次の問いを投げかけた。

「それって何時までなの?」

「六時開始で三時間なので、多分九時過ぎまでだと思いますけど…。」

「じゃあ、終わったらさ、帰る前に駅前広場の噴水の前に寄ってくれ。」

「え?」

「時間は取らせない。五分だけで良いんだ。」

「何かあるんですか?」

「ある。僕にとっては何よりも大切な事が。」

「わかりました。終わったら、噴水の前に行きますね。」

そんな会話を思い出しながら、駅へ向かって歩く。時刻はまだ夜の八時過ぎだった。今頃、駅前のスペイン料理屋のクリスマスパーティーは盛り上がっているだろうか。居酒屋「香川」には今頃、綾香や理央ちゃんが飲みに行っているだろう。結衣も今日は店員では無く、客として行くと言っていた。直哉と直哉の彼女も、島袋や島袋機電の社員も、大同食品の社員も数人、皆今晩は居酒屋「香川」で打ち上げを行う事になっていた。今日の改造作業の休み時間に決まった。僕も終わったら行こう。上手くいっても、上手くいかなくても。お礼を言いたいし、それに皆に会いたい。

道の上、所々に雪が残っている。すべての葉を落とし、枝が露わになった街路樹が並んでいる。道路では車が渋滞を作っていた。車内には、渋滞に苛立っている様子の人もいれば、みんなで楽しそうに話している人もいる。真剣な表情で会話している男女、女性は泣いている。プロポーズだろうか、別れ話だろうか。

僕だけでは無い。皆、それぞれの人生があり、喜んだり悲しんだりしながら毎日を過ごしている。この三日間の仕事のトラブルも、この世界の中では一つの出来事であり、無数に起きた出来事の中のただの一つの出来事に過ぎない。

解雇される事や損害倍書を請求される事になったという事を伝えた時の結衣の表情を思い出す。あの時、あっけらかんと返した結衣の言った通りである。もう大丈夫だ、僕は一人では無い。誰だって、いろいろある。死ぬような事じゃない。

先日のビル火災の現場であるビルの前を通る。焼けてしまったビルの周囲には立ち入り禁止を示す赤いカラーコーンと黒と黄色の縞々模様のテープが貼ってあった。見上げると、ビルの向こうに雲一つ無い夜空が広がっていた。

駅が近付くにつれ、周囲には人が増えていく。冬休みを楽しむ人や、仕事帰りの人、活気づく町。僕は駅前の広場に到着し、一直線に噴水を目指す。すると、噴水の端にポツリと座っている小学校低学年ぐらいの白い着物の女の子に気が付く。

「遅かったね。待ってたよ。」

死神の女の子は僕が来るのを知っていたかのように、その場にいた。僕はその隣りに腰を下ろす。

「ありがとう。ずっと、お礼を言いたかったんだ。」

死神は少し笑って、「私はね、未来から来たの。」

「未来のあんたは自殺するんだよ。今日の九時ニ十一分、そのマフラーで首を吊って。だから、それを防ぐ為に動いてたの。」

確かに昨日の僕は、一度は全てを投げ出そうとした。死を覚悟し、死に向かって行動をしようとしていた。にわかに信じがたい話ではあるが、死神が言うのであれば信じる事が出来た。過去の僕を連れ出し、空を飛ぶような相手だ。

「まあ、詳細は省くわ。どうせ、後で解るから。記憶が繋がった時に。」

記憶が繋がる時、つまりは自殺しようとした未来の僕と、今の僕の記憶という事だろうか。未来が変わった瞬間に繋がるのだとしたら、少し怖い。死を決意した時の記憶まで流れ込んできてしまうのだろうか。

「とにかく、あんたはこの三十年の人生で二回も自殺してるの。一回目は十五歳の時。枝が折れて、倒れている所を近所の人に発見されて助かったけど、二回目は確実に死んだ。それを無理矢理変えたの。私が言いたいのは、もう三回目は誰も助けてあげられないって事。だから、死にたくなる前に、手を打ちなさいよ。解った?」

僕はその言葉を噛み締めながら、何度も頷いた。

「さてと、次はあんたの番ね。そのために来たんでしょ。」

「うん。近くにいるの?過去の僕。」

「いるよ。近くには。どっかに隠れてる。」

僕は周囲を見渡す。所々に雪が残った駅前広場には、スケートボードで遊んでいる若者の集団やダンスの練習をしている四人組の男女、街灯の下には待ち合わせをしているであろう若い女性、広場を横切って歩く人々、ベンチに座って楽しそうに笑っている高校生達。ロータリーでは、バス乗り場の前に数人のサラリーマン、タクシー乗り場に数人の客が並び、お迎えに来たであろう乗用車が数台停まっている。広場の端には、遠目でも解るような金髪の整った顔立ちの女性がこちらを眺めていた。この真冬に、白いノースリーブのワンピースを着ている彼女は文句無しに美しい。もしも天使がいるなら、こんな人だろう。

広場を見渡しても、過去の僕の姿は見えなかった。それでも構わず、僕は背負っていた黒いケースを開き、アコースティックギターを取り出した。母に買ってもらい、島袋に壊され、その後修理をしたが、家で埃を被り続けたギターだ。

「未来に絶望して、勝手に生き返るのを辞められても困るからさ。幸せな姿を見せてあげないと。」

僕は幸せになる。幸せになれる。そう伝えたい。

右手にピックを持ち、左手で弦を押えた。毎日のように練習した十五年前とは違い、プニプニに柔らかくなってしまった指先に痛みが走る。隣りに譜面を置き、コード進行を確認しながら、まず最初の音を鳴らした。自分でも笑ってしまうぐらい、情けない音だった。

「そんな音じゃ伝わらないよ。」

と、半笑いで話す死神に、「だから早く来てるんだよ、練習するために。」

何度も失敗して、やり直して、また失敗して、やり直した。時間を忘れてギターを弾いた。寒さで手が冷えて上手く動かなかった。弦を押える指の痛みに耐える。その様子を死神は黙って眺めていた。ふと、譜面を見ると、その横には五百ミリリットルのペットボトルがあった。「十八茶」と書いたその商品は間違いなく先程までは無かった物だ。そういえば十五年前は水を持ってくるのを忘れて後悔した記憶があった。

「用意してくれたの?」と死神に聞くと、「私じゃないよ。」と答えた。

僕はペットボトルの蓋を回すと、カチッと音がした。未開封の証拠だ。ありがとう、過去の僕。もう少し待っててくれ。

「もうすぐだね。」

隣りのビルのデジタル時計を見ると、「2015年12月26日 PM9時10分」と表示されていた。

「あんたに会えて良かった。」

死神はその幼く丸い目で、僕を真っ直ぐに見ながら言った。

「何だよ急に。会えて良かったって、それは今の僕?過去の僕?まさか、自殺を選んだ未来の僕?それは無いか。」

今の複雑な状況を、冗談にするつもりで言ったのだが、死神は真顔で返した。

「全部のあんたよ。」

その幼い丸い目から、一滴、また一滴と涙が零れた。

「ごめんね。」

そして、着物の袖で涙を拭い、死神は笑った。

「ありがとう。」

その言葉を最後に、死神は一瞬で消えた。僕は驚き、周囲を見渡すと、そこには待ちわびた女性が立っていた。

「お待たせしました。」

白いニットの帽子に黒のロングヘアー、赤いチェックのワンピース。昼まで一緒だった筈なのに、見違えるほど綺麗になった桜井奈菜が立っていた。

「杉山さん、ギター弾くんですか?」

「うん。十五年振り。」

桜井奈菜は微笑んだ。よく見ると、その後ろには、仲良く腕を組んでいる溝口と長谷川さつきがいた。黒いダウンジャケットを着た松田や、他にも数人の同僚やおそらく松田の友人であろう見た目が厳つい怖そうな男が数人いた。一番奥には遠藤が不機嫌そうな顔で立っていた。

「一人で来ようと思ってたんですけど、さつきにだけ話したら、広まっちゃって。ごめんなさい。」と桜井奈菜は言い訳をしていた。長谷川さつきという女は本当に好きになれない苦手な女だが、それについては別に構わない。人がいても、いなくても、最初から僕は自分のやりたい事をするだけだ。

「構わないよ。ギャラリーは関係無い。一曲だけ、聞いて欲しいんだ。」

「嘘だろ?弾き語り?ダサッ!」

その言葉に反応したのは、桜井奈菜では無かった。溝口のその言葉に長谷川さつきが笑う。「超ウケル」そうだ。解雇されると思っている彼らにとっては、僕は会社の先輩では無く、同等かそれ以下の存在のようだ。敬語は無くし、見下すような発言を続けていた。

「まさか、生歌で愛の告白ですか?」「すげえな、度胸あるな。」「私、クリスマスの曲が良い。」など、悪気があるのか無いのか知らないが、ギャラリーはそれぞれ言いたい事を言っていた。でも、それも関係ないのだ。僕には。

「杉山。大同食品の事でいろいろ大変だったとは思うけどさ、あんまり自棄になるな。この後、俺達みんなで二次会に行くんだけどよ、お前も来いよ。こういう時は飲んで忘れた方が良いんだ。」

松田が僕の隣に座って、肩を叩く。慰めているつもりなのだろうか。僕は相手を見下した松田の態度に思わず苛立ってしまった。

「正気かよ、松田。それともふざけているのか?」

「は?」と松田も同じように苛立った表情を見せた。

「正しく手配した注文を、業務課の女に手配ミスをされ、そのミスを女の彼氏か彼氏と仲が良い主任によって隠蔽された事で、三千万の損害賠償を背負わされ、会社を解雇されそうになった事を、お前は飲んで忘れろと言うのだな。」

松田は驚いて、怒りの表情から困惑の表情へと変わっていく。「何?おい、どういう事だ。純。」と松田が呼びかけると、溝口は顔を真っ青にしていた。目が泳いでいる溝口に、松田は「純、何か知ってるのか?」と困惑しながら話しかけていた。

「溝口、黙っててやるからさ、お前もこの主任を静かにさせておけよ。三千万もお前払えないだろ?」

「いや、その…」と困惑する溝口。

「僕なら払えるよ。五年でな。」

松田は溝口の元へ足早に向かい、未だに困惑したまま、問い詰めていた。溝口の隣の長谷川さつきも同じように困惑していたという事は、おそらくは単独犯なのだろうか。もう、そんな事はどちらでも良いのだが。

僕は改めて、桜井奈菜の方を見た。桜井奈菜もその視線に気付く。

「薄着だね。寒くないの?」

「寒いです。でも、今日は車なので、コートを車内に置いてきてしまったんです。」

微笑む桜井奈菜に、僕も思わず微笑む。心臓はバクバクと忙しく動く。手が震える。五分先の世界を想像すると怖くて仕方ない。「ごめんなさい」と言われて、ギャラリーに笑い者にされてしまうのだろうか。「無理です。」と言われて、二度と気軽に喋られなくなるのだろうか。こんなに怖いのなら、何もしない方が良い。そんな考えが頭を過る。

「大丈夫。私達がいるって。」

そんな言葉が脳裏に浮かんだ。結衣だろうか、直哉だろうか、いろんな人々の顔を思い浮かべた。まあ、いいさ。もしも断られたら、居酒屋「香川」ではこう報告しよう。

「ごめんなさい。私、チビで毛深くてデブな男、ダメなの。」

そう言われたって。

「桜井奈菜さん。」

「はい。」

「僕は君が好きです。」

ギャラリー達から「おおっ」と小さな歓声が聞こえた。険しい顔をしていた松田も思わずこちらを見ていた。

「だから、聞いてほしいんだ。この曲は僕の気持ち、そのものだから。」

ギャラリー達から、今度は失笑が漏れる。「え?」「本当に歌うの?」「ヤバいな」ニヤニヤしながら、こっちを見ていた。それでも桜井奈菜はしっかりと僕の眼を見ていた。だから、僕はギターを鳴らした。君が聞いてくれるのであれば、僕は歌う。全力で。

その時だった。左の頬に激しい痛みが走った。その瞬間、大量の記憶が脳に流れ込む。これが死神の言っていた記憶が繋がる時なのだろうか。

甦る。記憶が次から次へと甦って行く。


「ちょっと生き返ってくれない?」

その言葉を投げかけてくれた死神と供に、いやのぞみさんという女の子と供に十五歳の僕は未来へと駈け出した。初めて見た未来の世界は眩しくて、何もかもが新しい。未来の携帯電話も、ゲームも、漫画も、アイドルも、そして偶然見かけた桜井奈菜さんも。どれも素晴らしい。それでも、十五年後の僕だけは駄目だ。思わず「この、童貞!馬鹿!不細工!死んじまえ!」と酷い言葉を投げつけてしまった。あれは、僕から僕への失望のメッセージだったんだな。今、思い出した。

未来の僕を救う為に、のぞみさんと僕はたくさん頑張ったんだ。香川さんにも、島袋にも勇気を出して話した。そして、のぞみさんは僕を助ける為に、自分を犠牲にしようとしてくれた。「たとえ、未来が変わって、地球が滅びることになったとしても、私はあんたを救う。そのためだけに、私はここにいるの。私の全てを失っても、あんたを救う。」その言葉を聞いた時、涙が出る程、嬉しかったのに、何故忘れていたのだろうか。

生き返った僕を迎えてくれたのは、母ちゃんの手だった。抱き締める代わりに、左頬へのビンタ一閃。未来過去を通して一番痛かった。でも、この痛みの正体が何かは解っていた。だから、僕は幸せになって、その想いに応えたかったんだ。

三学期は一度も学校へ行かず、家族で旅行をした。その時に皆で撮ったプリクラ、今でも宝物だ。

 五年後。交通事故での、唐突な母ちゃんとの別れ。

 さらに十年後、仕事での最大のピンチ。機種の間違えによる損害賠償と解雇。誰にも頼れず、一人で悩んで、自棄になった。クリスマスパーティーで、発注ミスは長谷川さつきの仕業だった事を桜井奈菜から知らされ、逆上してその場で暴行を加え、その罪悪感と背負わされる責任から逃れる為に自殺。

 そして、のぞみさんとの再会。

ありがとう。本当にありがとう。感謝しても、感謝しても、まだ感謝し足りない。貰った物が大き過ぎて、恩返しが出来るイメージが湧かない。あえて言うのならば、それは僕の幸せで返すべきなのだろうか。

 のぞみさん、あなたの正体が解るまで、あの言葉が自分の全てと引き換えにするつもりで話していた言葉だなんて知らなかった。

 「ちょっと生き返ってくれない?」


僕は泣きながら、演奏を続ける。この想いを歌に乗せて届ける。

笑いながら見ている同僚、松田の友人。中には僕の涙を笑っている人もいた。遠藤は無表情で立っていた。こちらに断りも無く、勝手に携帯電話で写真を撮ってくる女子高生の集団、微笑ましく見ている家族連れ、こちらの様子に気が付き、ダンスもスケートボードも辞めて、こちらに近付いてくる若者。ロータリーに車を停めている運転手が窓を開けてこちらを眺めている。松田はキョトンとした様子で僕を見下ろしている。溝口も長谷川さつきも二人とも俯いたままだった。そんな人達はどうでも良いのだ。

ギターの弦を弾く手に力が入り、音はより力強くなる。弦を押える左手の痛みは最早感じない。何度か間違えたが、構うもんか。


届け。届け。届け。

僕の大好きな人に。

可愛くて、誰に対しても優しくて、今の僕の演奏を真剣に聞いてくれている彼女に。

桜井奈菜、君に届け。


届け、僕の幸せを願ってくれた人達に。

綾香に、結衣に、直哉に、店長に、島袋に、島袋の父親に、島袋の部下に、日置製作所の久保さんや稲谷さん、理央ちゃんに、理央ちゃんの彼氏に、綾香の大学の友達に、下出課長に、野杁部長に。そして、父ちゃんにも。

みんなに届け。


僕を囲む人達の向こうに、三人の人影が見えた。

死神商会のちよ会長。見逃してくれて、ありがとうございます。

そして、のぞみさん。誰よりも僕の幸せを願い、誰よりも僕の為に尽くしてくれた人。誰よりも僕を愛し、見守り続けた人。感謝しても、感謝しきれない。

のぞみさん、あなたに届け。


そして、十五年前の僕。

なあ、僕よ。過去の僕よ。僕達は幸せにならなければいけない。僕達の幸せを願ってくれた人の為に。僕は幸せにならなければいけない。必ず。

僕は歌う。その想いを歌に込めて。

届け。届け。届け。

この想い、僕に届け。



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