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僕に届け  作者: しの
4/6

12月25日


   15


 自分の涙に起こされた。

 僕が目覚めたのは、水色の汚いソファの上だった。自分の家にも置いてある品だが、かなり傷んでいる。周囲を見渡すと、そこはどこかの家の居間のようにテーブルや食器棚、テレビなどが並んであった。そして僕はテレビとテーブルの間に置いてある物に視線を奪われた。アコースティックギターだ。これは僕の物だった。

 「泣いてたわよ。あんた。」

部屋の隅から声をした。そちらを見ると、のぞみさんが立っていた。

「夢を見てた。」

それは、大竹沙織の夢だった。大竹沙織は笑っていた。大竹沙織と手を繋いで歩いていた。僕は大竹沙織に謝った。すると、彼女は「全然、大丈夫。」と笑って答えたのだ。僕は許された事が嬉しくて、涙を流して喜び、お礼を言っていた。「許してくれてありがとう。許してくれてありがとう。」最悪の夢だ。こんな夢を見る自分に嫌気がさした。

 「未来のあんたの家よ。ここ。」

 黙って考え込んでいたであろう僕に、のぞみさんが教えてくれた。やはり、というのが率直な感想である。

 「昨日の事、覚えてないの?」

 思い出そうとすると、頭の奥がズキズキと痛んだ。


昨日は未来の僕と一緒に静岡から帰って来た後、会社に向かうという未来の僕と別れ、、駅前のラーメン屋で食事をした。勿論、未来の僕のクレジットカードで支払った。そのまま、再び漫画喫茶に行き、昨日の漫画の続きを読もうと思ったのだが、どうせこのまま終わる人生だ、やりたい事をしようと思い、生まれて初めてキャバクラに行った。駅の裏にある派手な看板のおかげで、すぐに辿り着いた。入り口で金髪の男の店員に、「未成年は入れないよ。」と止められたが、僕は未来の僕の免許証を出し、「もう30歳なんだけど。」と返すと、店員は何度も僕の顔と免許証を繰り返し見ながら、困惑した様子で「…どうそ。」と答えた。

キャバクラでは、入口から一番遠い席に案内された。ソファに座ると、すぐに、そんなに年齢が離れていなさそうな、若い女性が隣りに座ってくれた。「こんばんは。コリンです。」と鼻が詰まったような声で、随分変わった名前を口にした、胸元が露わになった派手なドレスの女だった。「何飲む?」と聞かれたので、僕はビールを頼んだ。

コリンさんの逆隣りに、のぞみさんは座った。どうやら、姿を消しているようだった。のぞみさんは、「それで、あんたが生きる希望も持てるなら良いよ.。楽しみなさい。」と何故か寛大であった。「まだ早い」と、叩かれると思っていた僕は、拍子抜けした。「若いよね。」とか「こういう所、よく来るの?」とか、コリンさんが話しかけてくれていたが、緊張していた僕は「うん。」とか「ううん。」でしか答えられなかった。すると、金髪の店員がビールを運んで来てくれた。届いたビールをすぐに口に運び、一気に半分まで飲んだ。

 大人が自棄になって、酒を飲むように、僕も酒を飲めば嫌な事が忘れられるような気をした。いや、忘れてしまいたかった。未来の僕は、どうしようもない毎日を送っていたからだ。チビでデブで毛深くて、童貞で、白髪も多いし、皺も多い。最悪の見た目。友達は殆どいない。仕事以外で携帯があまり鳴らない。彼女はいない。好きな女は他の男と仲が良い。仕事は失敗で謝ってばかり。大きなミスで二人に殴られ、むちゃくちゃ怒られ、誰にも助けてもらえないなんて、未来の僕は生きていて楽しいのだろうか。今の僕より、もっと不幸な気さえした。


 「で、たった一杯のビールを飲んだだけで、酔っ払って、倒れちゃったってワケ。」

 「仕方ないだろ。初めてなんだから。」

 「でも、あの後大変だったのよ。あんた、起きないからさ、あんたの姿を消して、浮かせてここまで運んでさ。感謝しなさい。」

 その時、廊下の方からガチャという音がした。

 「太一、ほら綾香が来るよ。眼鏡と鬘しなさい。」

 さすがに未来の僕を知っている人に顔を見られてしまうと、驚かれてしまうので、必ず眼鏡と鬘で変装することにしていた。昨日、雑貨屋のパーティグッズ売り場で買ったのだった。未来の僕のクレジットカードで。今まで伸ばしたことが無い程の前髪で、顎まで隠せるようになっていた。慌てて装着したと同時に扉が開いた。

 「おはよう。起きてた?」

 僕は、驚いた。予想通り綾香が来たが、予想以上の綾香だった。

 顔のパーツは面影が残るが、背は倍ぐらいに伸び、女性の体つきになっている。あんなにバカっぽい喋り方だったのに、ちゃんとハッキリ喋っている。僕がいた時代から十五年が経っているから、当然ではあるが。

 「お、おう。お、おはよう。」

 「仕事が大変みたいで、お兄ちゃんも出ていっちゃったみたい。」

「お、おう。」

「ごめんね、お兄ちゃんと仲良いんだよね?」

「お、おう。」

 「でも、私、まったく知らなかった。奈良に親戚なんていたんだね。」

 「え?そうなの?…痛っ」

 のぞみさんに頭を叩かれる。

 「あんたの設定は、奈良県に住む太一と綾香の親戚、杉山一郎よ。冬休み中に親戚の太一に会う為に名古屋に遊びに来たという設定で、ここに泊めてもらったの。」

 そんなの聞いてないのだから解る筈も無い。

 「僕の父親の母親の姉の娘の従妹が、綾香さんのお母さんだから、なかなか会う機会が無いからね。って言いなさい。」

 のぞみさんの指示に素直に従う。

 「僕の父親の姉の母親の娘が綾香のお母さんだから、なかなか会う機会が無いからね。」

 「ん?じゃあ、要は私の従妹ってこと?」

 どうやら、のぞみさんは今姿を消しているらしい。僕の発言のミスに怒って、脚を抓ってくるぐらいなら、自分で言えば良いのに。

 「全然、知らなかった。従妹、いたんだね。お兄ちゃんそういう事、あんまり教えてくれなかったから。」

 綾香は台所でコップに水を汲んでいた。コップは二つあった。一つは自分で飲み、もう一つは僕の前のテーブルに置いた。

 「母ちゃん、今日はどうしたの?」

 「お母さん?いないよ。何で?」

 僕はハッとした。確かに、従妹である僕が綾香の親の事を気にするのは変だろう。綾香が、何でそんな事を聞くのか理由を尋ねる気持ちもわかる。僕は脳みそフル回転で言い訳を考えた。

 「昔、遊びに来た時に遊んでもらった事があって。」

 我ながら苦しい言い訳だ。

 「え?そうなの?お母さんに会った事あったんだ。お母さん、そういう人間関係の事あんまり話してくれなかったからさ。お母さんが死んでからわかったこともたくさんあってね。お通夜とお葬式の時は悲しいを通り越して、驚きばっかりだったよ。」

 「ふーん。」

 「一郎君、ご飯食べる?パンぐらいしか無いけど。」

 「食べる食べる。あとヨーグルトとかあれば……ん?え?あのさ、ちょっと待って?さっき、何て言った?」

 綾香はすでに食パンを取出し、トースターに入れていた。

 「あと、クリスマスケーキもあるよ。本当は昨日、お兄ちゃんが食べる予定だったんだけど、帰って来なかったし、今日も遅くなるらしいから。」

「そんなのどうでも良いよ。そんな事よりさ、母ちゃん、死んだの?」

 十五年が経った世界なのだから、当然可能性としてはあった。だが、思いもしなかった。誰かが死ぬなんて。しかもそれが、自分にとって一番近い存在だなんて。

 それでも、こちらの心情などお構いなしに、綾香は明るく答える。

 「うん。そうだよ。十年前。交通事故でね。」

 十年前、つまり五年後。僕がいた時代から、すぐじゃないか。僕はのぞみさんを見た。のぞみさんは僕とは目を合わせずに、「ごめん。黙ってた。」と呟いた。俯く僕を見て、綾香は声をかけてくれた。

 「一郎君、ちょっと来て。もし良かったら、お母さんにお線香でも。」

 そう言って、綾香は廊下へと出て行った。後を追いかけると、綾香は左側の部屋に入って行った。そこは綾香の部屋らしく、女の子らしいデザインのクッションやぬいぐるみが置いてあった。

その部屋の片隅にある小さなテーブル、その上にあったのは位牌と線香を立てる灰が入った丸い器、そして、よく知った顔の遺影が二つ並べてあった。一枚は父親の遺影だった。そして、もう一枚。僕が知っている顔よりも、少し老けている気もするが、それは正しく母、杉山希和子だった。

 こっちの気も知らずに、満面の笑みを浮かべる母の顔に、こみ上げて来るこの感情は、一体何だろう。怒りだろうか、悲しみだろうか、後悔だろうか、僕には分からない。それでも、頭を駆け巡る数々の思い出達。エレキギターを欲しがる僕に、アコースティックギターで我慢してくれと言っていた申し訳なさそうな表情、仕事に出掛ける時の疲れているのに元気に振る舞う表情、いつも綾香の面倒見てくれてありがとうと言う穏やか表情、給料日の明るい表情、綾香を虐めていた僕を叱りつける失望と怒りに満ちた表情、その後に仲直りという事で僕と綾香に同じ柄の手編みのマフラーをプレゼントしてくれた時の自慢気な表情。そして、そのマフラーで首を吊った僕を見たら、どんな表情をするのだろう。その表情だけは思い浮かべたくも無い。

 線香に火を点け、丸い器に入った灰の上に刺した。居間の方から「チーン」とパンが焼ける音がし、綾香は部屋を出て行った。僕は手を合わせて、目を閉じた。

 「クソババア…勝手に死にやがって。」

 涙がもう止まらない。鼻水も止めどなく流れる。この世界の母は幸せだっただろうか。でも、この世界は僕が生きていたらと仮定した世界。僕の時代の母はこれから、息子を失った悲しみを抱えながら生き、五年後に幼い娘を残して死ぬのだ。無念だろう。死神ののぞみさんの話が本当なら、母こそ成仏出来ないと思う。母こそ、生き返るチャンスを与えらえるべきだ。母を想うと、涙が止まらない。人が死ぬとは、そういう事なのか。自分が死ぬとは、そういう事なのか。

小さな手が僕の背中を擦ってくれていた。その手の温もりは、僕を少しずつ落ち着かせた。

少し心が落ち着き、涙が止まった頃、再び居間に戻ると、テーブルの上のパンにはジャムが塗ってあり、ホットコーヒーが用意されていた。

「食べようか。」

綾香は何事も無かったかのように言う。僕はそのまま座布団に座り、食べ始めた。

「綾香…さんは、もう平気なの?生活とか、大変じゃない?」

「でんでん、ふぇいき。」

おそらく、「全然、平気」と答えたのだろう。綾香は口の中いっぱいに含んであったパンをコーヒーで流し込んでから、続きを答える。

「お母さんね、私達の為に、本当に頑張ってくれてたんだ。毎日早く起きて、朝食の用意をして、飲食店の仕事に行って、夕飯作りに帰って来て、また仕事に行って、深夜に帰って来てね。だから、お母さんが死んだ後、通帳を見たら、すごい金額が貯まってたの。私達にお金で苦労させたく無かったんだろうね。だから、当面の生活については、何の問題も無かったわ。それにね、お通夜の時の弔問客の人達が凄くて。例えば、昼の飲食店の時の同僚だった人達。その中の一人はさ、駅の近くで居酒屋をやっててね、お腹が空いたら、いつでもおいでって言ってくれたし。君たちなら無料でいいよって。実際、何度かお世話になったんだけどね。お母さんとは、同じ四国の出身ってことで、仲良くなったみたい。それからね、ヤクザみたいな人とか派手なお姉さん達が来た時は怖かったわ。お母さん、夜の店でも働いてたんだって。給料が良いからって。何かトラブルがあったら、何でも言いなさいってヤクザみたいな人が言ってくれて、派手なお姉さんからは、あなたがうちの店に来たら、すぐにナンバー1になれるわ。だってさ。何よそれ。みんな、口を揃えてさ、和子さんの為なら、何でもしますって言うから笑っちゃったわよ。お母さん、源氏名が和子って言うんだって。昭和じゃんって。」

綾香は時々、パンを口にしながら、楽しそうに話してくれた。母が死んで、悲しくない子供なんていない。それでも、こうして話せるのは、綾香がもう前に進んでいるからだろう。楽しく話しているのに、それでも、すでに一度決壊している僕の涙腺は脆い。再び、涙が流れ落ちる。気付かれないように、下を向いて、鬘の前髪で隠した。ふと横を見て気付く。のぞみさんも泣いていた。しかも、ボロボロと大粒の涙を零し、それでも隠さずに真っ直ぐに綾香を見ながら。

「あと、汚れた作業着を着た体格の良い、強そうなオジサンが泣きながらやって来て、まずお兄ちゃんに土下座してさ。で、息子がご迷惑をおかけした事、そしてお母さんの前科はすべて俺の責任ですって謝るのよ。え?お母さん、前科があるのって驚かされたわ。その人ね、お兄ちゃんを虐めていた人の親なんですって。で、それを知ったお母さんが単独で家に乗り込んで、その人をぶん殴って失神させちゃったらしくて。事情を知らない奥さんが警察を呼んで、みたいな。元々、手が早いのは知ってたけどさ。お兄ちゃんが虐めをきっかけに入院した時があるらしいんだけど、気を失ってて、目が覚めた時に、お母さんに泣きながらビンタされて、また失神しちゃったらしいしね。」

ハハハと笑った綾香は一瞬、言葉を止めて、自分の部屋の方を見て、呟いた。

「お母さんがたくさん愛してくれたから。たくさん残してくれたから。だから、平気だよ。お兄ちゃんもいるし。だから、大丈夫。安心して。」

まるで、母親に伝えるかのように呟く綾香の発言に、僕は疑問を感じてしまい、思わず聞いてしまった。

「でも、あいつ…綾香…さんに暴力を振るってたって言うしさ。恨んだりしてないの?」

「ああ、何かあったらしいね。何それ、お兄ちゃんから聞いたの?」

「お、おう。」

綾香は疑っているのか、僕の顔をまじまじと見た。

「恨むも何も、覚えてないよ。それに、覚えていたとしても、お母さんが死んだ後、私はお兄ちゃんに育てられたからね。許すも何も、感謝してるよ。」

僕は自分の愚かさを知った。そして、妹の器の大きさを知った。

「ごめんな。ごめん。本当に、ごめん。」

「何で、君が謝るの?そして、泣くの?」

その問いに答えられる言葉は無い。僕は泣き続けた。綾香はティッシュを持ってきてくれた。そこから、二枚ほど取出し、涙を拭いて、鼻をかんだ。ようやく涙が止まった頃、僕は冷めたパンを食べようと前を向くと、座布団に座っている綾香を横から抱きしめているのぞみさんを見てしまった。

「ごめん。ごめんね。」

号泣しながら、そう呟くのぞみさんの姿は、何だか見てはいけないような物に思えて、目を逸らした。

綾香が自分の食べた食器を持って立ち上がろうとしたので、僕は慌てて止めた。

「待って。そのまま、じっとしてて。食器ぐらい、洗わせてよ。」

「いいよ、別に。まだ食べてるじゃん。」

「いいから。お願い。」

「…そう?じゃあ、お願いね。」

のぞみさんは綾香をそのまま抱きしめ続けた。


朝食の後片付けをし、顔を洗ってから、未来の僕の家を出た。綾香は「またおいで」と言っていたが、言われなくても来る。きっと、今日の仕事が終わったら、未来の僕が。

僕らは何となく駅の方角へ歩いた。

「のぞみさんの力でさ、何とかならないの?55キロのコンプレッサーってやつ、過去から運んで来たらいいじゃん。」

「それが出来るなら、こんなに苦労しないわよ。あれだけ大きな物は運べないし、私に出来るのはあくまで成仏させる為よ。未来を変える為じゃないわ。」

それならば、未来の僕に希望は無いだろう。今の事態を解決する手段はほとんど無いのだ。諦めるしかない。でも。それでも。目の前の死神は諦めていないようだ。

「だから、これから未来を変える為に頑張るのよ。」

「は?」

「今、未来が変わる分岐点。今日の行動で未来が決まる。」

すると、のぞみさんはある大きな家の前で止まった。その家は、未来の僕が住んでいるアパートと同じぐらいの大きさがあったが、表札を見たところ、どうやら一軒家のようだった。表札には「三浦」と書いてあった。のぞみさんは躊躇なく、インターホンを押す。

 「ちょっと、何してんの?」と僕が聞くと、「言ったでしょ?未来を変えるって。」

 しかし、インターホンが鳴っても、反応が無かった。のぞみさんはもう一度、インターホンを押したが、やはり反応が無かった。

 「仕方ない。太一、プランBで行こう。」

 「いや、プランAですら教えられてないけど…」

 のぞみさんは、再び歩き出した。僕はその後を追った。それ以降、僕らは会話する事無く、黙々と歩いた。

鼻の頭が一瞬ヒヤリとした。空を見上げると、雪が降り始めたところだった。雪片の大きさに、「これ、積もりそうだね。」とのぞみさんに話しかける。のぞみさんは一言、「知ってる。」とだけ答えた。綾香が「今日、雪降るよ。」と言って、無理矢理持たせてくれた黒い傘を開いた。二人で一つの傘に入り、並んで歩いた。

てっきり未来の僕の会社に向かっているのだと思っていた。だが、到着したのは、駅前広場から少し離れた場所にある居酒屋「香川」だった。

「何で、ここに?」と素朴な質問をストレートにぶつけてみると、のぞみさんは振り返ってにっこりと笑った。「言ったでしょ?プランBよ。」

のぞみさんは躊躇する事無く、店の入り口の引き戸を東の彼方まで飛ばすような勢いで開けた。店内では、真っ白な長髪を後頭部で一つに結んだ、白い口髭が似合う男性が店内の掃除をしていた。僕らを見て、その男性は動きが止まった。驚いているのだろうが、表情は一切変わらなかった。

店内は、おそらくクリスマスパーティーを行ったのだろうか、所々に飾りつけがそのまま残っていた。キラキラに光るリボンが色んな所に貼ってあり、大きなクリスマスツリー、メリークリスマスの垂幕、それらを一つずつ男性が片付けていたのだろう。

「どうしたの?お嬢ちゃん。」と優しく語り掛ける男性に、のぞみさんは、ハッキリとした口調で答えた。

「君彦、愛子ちゃんとの不倫の事は、まだ内緒か?」

そう言った瞬間に、男性いやおそらく君彦さんの表情が固まった。

「………………ん?」

「友達の奥さんの愛子ちゃんだよ。葛城愛子ちゃん。困って、相談に来たじゃない。」

「……………お、お嬢ちゃん。そ、それ、誰に聞いたんだい?」

「一人しかいないでしょ?」

そう言って笑うのぞみさんと対照的に、困惑したまま固まる君彦さんのツーショットが何だか面白かった。

「君彦、一つだけお願いがあるんだ。」

君彦さんは喋らない。まだ困惑している。真冬だというのに、その額には汗が滲んでいた。遠目からでもわかる程、手が震えていた。

「今夜、杉山太一が来るからさ、飯でも食べさせてやってよ。あいつ、今、人生最大のピンチでね。このままじゃ、自殺してしまう。本当なら、ここに寄って愚痴でも言えば良いのに、本当は今夜は休みなんだろ?それが、あの子の逃げ道を潰した。」

「冗談だろ…?」

「冗談で、こんな事しないよ。」そう言って、のぞみさんは飛び跳ねて、僕の鬘と眼鏡を取り上げた。君彦さんは目を丸くして、大きく口を開けて、固まった。

「過去から連れて来た。太一を救う為に。」

君彦さんは僕とのぞみさんを交互に見て、ゆっくりと目を閉じ、深呼吸を何度も繰り返した。そして、震えた脚を少しだけ動かし、カウンターの椅子に座った。ポケットから煙草を取出し、一本咥えて火を点けた。ゆっくりと吸い、そしてさらにゆっくりと煙を吐いた。のぞみさんは、カウンターの君彦さんの隣の席にちょこんと座った。

「別に信じなくても良いよ。お願いさえ聞いてくれればね。」と伝えると、「そういう所が、あの人にそっくりなんだよ。」とさらに困惑しながら、頭を抱えた。

君彦さんと見た目は小学校低学年ののぞみさんが対等に会話しているのが、何だか不思議だった。二人の会話から察すると、二人は元々知り合いだったらしい。のぞみさんは現世で君彦さんと知り合い、その後、死を迎え死神になってから、初めてこの店を訪れたようだ。

「店は休みなんだ。今日はどうしても、外せない用事がある。今日は沙希と、娘とクリスマスパーティーなんだ。一年に二回、誕生日と今日だけは会う事を許されている。」

「そうか。離婚したんだね。沙希ちゃん、いくつになった?」

「6歳だ。まだサンタさんを信じてる。だから…」

「わかった。仕方ないね。こんな事、あんたにしか話せなかったからさ。ごめんよ、迷惑掛けちゃって。」

のぞみさんは椅子から飛び降りて、こちらに歩いてきた。

「太一、プランCだ。」

「だから、BもCも知らないって。」

 店から出ようとした時、のぞみさんは振り返って言った。

 「君彦、ありがとう。」

 僕らは傘を差して、再び歩き始めた。

「何で、今日この居酒屋を開けないといけないの?」

のぞみさんは足を止めず、そのまま進み続ける。

「未来の太一を励ます為よ。このまま、手を打たなかったら、自殺してしまいそうだからね。生きる希望どころか、あんたに人生の終わる瞬間を見せてしまいそうだからさ。」

確かに。それほどのピンチに、未来の僕はいる。僕なら、きっと死を選ぶ。

「あの店長には、のぞみさんの存在や僕の存在を伝えても良いの?」

「勿論、本当は駄目だよ。でもね、極力ルールは守るけど、目的の為ならルール違反が必要な時もあるのよ。だから、私の中では二人だけ。最小限の人数で、最小限の変化で、未来の太一を救うの。」

自分に都合よく話す辺り、やはりのぞみさんは年上なんだと実感した。見た目に騙されてはいけない。

その時、僕らを後ろから追い抜き、目の前に一人の男が立ち塞がった。全力で走って来たのか、肩で息をする男は、呼吸を整えずに言った。

「何とか…する。」

先程、店にいた時と同じ格好の君彦さんだった。黒いエプロンに黒のスラックス、白い半袖のTシャツしか着ていない。見ているこっちが寒くなるような格好で追いかけて来てくれたのだ。そんな君彦さんを見て、のぞみさんは満面の笑みを浮かべていた。

「ありがとう。信じてくれたんだね。」

「正直…半信半疑だよ。…信じろって言う方が無理だと思うしな。でも、あの人しか知らない情報を言うからさ。騙されてやろうかなって思って。」

のぞみさんはニヤリと微笑んだ。君彦さんも肩を上下させて、荒い呼吸をしながら微笑んだ。

「それに、ある約束を思い出した。ここで約束を破ったら、誰かさんにまたビンタされそうだ。」

二人とも目を合わせて大笑いしていた。

「うちの看板娘に頼んでみる。太一君のピンチなら、飛んで来るだろう。」

「ありがとう。本当に。心から。」

君彦さんは、視線を僕の方へ移した。僕は何て言えば良いのかわからず、目を逸らしてしまった。

「じゃあ、頼むよ。」のぞみさんは、君彦さんに別れを告げた。

「約束は守る。終わったら、ゆっくり飲もう。愛子ちゃんの話、実は続きがあるんだ。」

のぞみさんは了承も拒否もしないで、笑顔一つ見せて歩き始めた。僕は再びのぞみさんを追いかけた。

「あの店の店長、本当に知り合いなの?」

のぞみさんはその問いには何も答えない。冷静に考えれば、のぞみさんはこの街に住む人間の秘密はすべて知っているのだ。他の人が知らない情報も、のぞみさんはすべて知っているのだ。誰かの情報を、自分の事のように話す事だって出来るのだ。

途中、僕が首を吊った公園の隣を通ったが、特に立ち止る事も無く、そのまま進み続けた。パチンコ屋、ケーキ屋、ドラッグストア、小学校、街の景色を見ながら歩く。見覚えがある景色の筈なのに、所々建物が傷んでいたり、汚れていたりと、時間の経過を感じさせる。今にも崩れそうな歩道橋を渡り、川沿いに歩く。雪はますます強く降り、視界が悪くなっていた。さらに少し歩くと、コンビニエンスストアやオシャレな美容院、女性が好きそうなバーなどが並んでいた。十五年前には無かった店ばかりだった。

「ねえ、どこに行くの?」

「もう着くよ。」

「もう着くって、この辺って僕の家の近くだよね。」

「そうだよ。でも、あんたの家はもう無いけどね。」

そう言われて、ようやく気付く。すでに僕が住んでいる団地がある筈の場所にいた。この時代に、僕の住んでいた団地は存在していない。家族三人の、辛い思い出が詰まった薄汚れた安っぽい団地は、オシャレな美容院や女性が好きそうなバーに変わってしまった。あの辛い思い出も建物と同じように、綺麗に変えられたら良いのに。そう思う。

団地があった場所から二分程歩くと、突然のぞみさんが止まった。

僕はのぞみさんの視線の先を追って、驚いた。

「さあ、太一。あんたが頑張る番だよ。」

「いや…え?ここで?」

「勿論。」

「いや、ここ…知り合いに会ったらダメだって言ったの、のぞみさんじゃん。未来が変わるから、知ってる人間に見られるなって。」

「確かに言った。でも、良いのよ。私はね、未来を変えたいの。あんたが未来のあんたを救うの。生きる希望が無い未来なら、自分の手で変えれば良いんだよ。それに言ったでしょ、目的の為なら、ルール違反が必要な時もあるって。」

僕は、言葉を失った。そこは、ある小さな会社の前だった。作業場からは油の匂いが漂い、鉄くずと配管材が転がっている。その奥には、昨日、未来の僕の会社で展示されていた四角の箱が何台が並んであった。荷台にクレーンが設置されたトラックが停めてある、その横の鉄柱には看板が掲げられていた。「株式会社 島袋機電」と書いてあった。僕を死に追い込んだ人間の実家だ。

恐怖で顔が引き攣った。殴られた場所や蹴られた場所の痛みを思い出す。大竹沙織の泣き顔が呼び起こされた。

作業場の横のプレハブの事務所の扉が開いた。一瞬の内に、体中が緊張で固まる。扉から出てきたのは、紺色の作業服を着た六十歳ぐらいの初老の男性だった。十五年経って、体が少し小さくなっているような気がしたが、すぐに島袋の父親である事は解った。ホッと息を吐いた僕は、再びそのまま止まる。扉は閉まりかけた瞬間に、再び飛び跳ねるように開いた。そこから出てきたのは、紺色の作業服を着て、口の周りには髭を蓄え、ボサボサに伸ばした黒髪が目立つ身長百八十センチ程の大柄の男だった。親指と人差し指で煙草を摘まむように持ち、口の右端で咥えながら吸う。独特の仕草に僕は一瞬で理解してしまった。

間違いない、島袋公明だった。

僕はすぐに振り返り、島袋機電を背に歩き始めた。のぞみさんに「太一、待ちなさい。」と呼び止められても、その指示には従えない。

「太一、聞きなさい。未来のあんたは日置製作所というメーカーのコンプレッサーという機械のトラブルで悩んでる。多額の損害と、自分のミスが周囲の人の生活を狂わせてしまう罪の意識に、今にも首を吊りそうな程、苦しんでいる。メーカーは助けてくれない。上司も助けてくれない。正攻法が無理なら、裏技でも何でも使うべきなのよ。島袋達があんたを苦しめた借りは、ここで返してもらうのよ。十五年分の利子をたっぷりつけてね。」

僕は、明日の夜、死ぬ。だから、この未来は無くなるのだ。島袋と向き合う必要なんて無い。無理する必要なんて無い。未来の僕を助ける必要なんて無い。人生悪く無いとか未来は希望に満ちているとか。そんなのは嘘だと知ってしまったのだから。

「太一!」

僕は、のぞみさんの声に振り返ると僕らの傍をトラックが続けて二台通過し、持っていた傘が風に煽られて飛ばされそうになった。島袋機電のトラックだった。助手席に座る島袋公明は笑顔で、後輩と思われる運転手と話していた。幸せそうな彼の表情が一瞬だけ見えた。

のぞみさんは、残念そうな顔で、僕を見ていた。その、のぞみさんの背後には島袋機電が見えた。その場に一人、こちらを見ている人物がいる事に気付く。島袋公明の父親だった。驚いた様子で、一歩も動かず、こちらを見ていた。僕は自分に気付かれては不味いと思い、再び振り返り歩き始めた。

「太一!」というのぞみさんの声が聞こえた数秒後、「待ってくれ。」と少し掠れた声が聞こえた。その声が島袋公明の父親だと解っていた僕はその声をきっかけに走り始めた。まるで逃げるように走った。


雪が降り続ける。家も、ビルも、木も、道路も、全てを白く染めながら降り続ける。世界は白く染まる。走り疲れた僕らは特に相談することも無く、雪の中を歩いた。靴下はびしょびしょに濡れて、気持ち悪かった。ジーパンとパーカーだけでは寒さを凌げず、寒さで口が震えた。死んでいても寒さは感じる。

 辿り着いたのは、よく家族三人で買い物に行ったスーパーマーケットの駐輪場だった。自転車の列に並び、駐輪場の屋根で雪を凌いだ。すでにスーパーマーケットは開店をしていたが、自動車で訪れる主婦がほとんどで、駐輪場を使用する人は殆どいなかった。

 僕は未来の僕の財布を取出し、のぞみさんを駐輪場に置いて、スーパーマーケットの入口の横にある缶ジュースの自動販売機へ向かった。あったかい飲み物を飲み、体を温めようと思い、自販機に硬貨を入れておしるこのボタンを押したのだが、まったく反応しなかった。不思議に思い、何度もボタンを押したが、やはり反応が無い。すると、僕の背後から白くて綺麗な腕が伸びてきて、自動販売機に硬貨を一枚入れてくれた。すると、突然、自動販売機が明るくなり、缶のおしるこをガシャンと吐き出した。

 「お金が足りてないのよ。この時代は消費税が上がってるから。」

 僕はお金を返し、お礼を言う為に、その声の主を見て、驚いた。

 金色のロングヘアーは、一切の傷みが無く、輝いて見えた。少し切れ長で、黒目がちの目と長い睫、小さな顔、ピンク色の艶やかで柔らかそうな唇。白いドレスのようなノースリーブのワンピースから伸びる白い腕は細過ぎず太過ぎず正に健康的で、くっきりと浮かび上がる鎖骨は色っぽさを感じさせた。キュッと締まったウエスト、その腰の位置からわかる長い脚。体のどの部分を見ても、美しい。十代後半から二十代前半ぐらいの年齢に見える、美しい人間。いや人間と一言に片づけられないほど、美しい存在が、目の前にいた。

 僕は慌てて、美しい存在の目を見て、お礼を言う。

 「…あ、あ、ありがとう、ございます。」

 その美しい存在はニコッと微笑んだ。結果、より一層美しさが増した。

 「私はね…」と喋り始める。先程は気付かなかったが、困ったことにこの存在、声まで美しい。耳、では無く、脳に直接語り掛けられているかのような感覚に陥る。

 「一度、死を選んだ人に、誰かを救う事なんて出来ないと思っているの。」

 この存在が言うと、まったく別の事を考えても意見を変えたくなる。そんな声だ。この存在が白を見て、黒と言ったらそれは黒だ。この存在が、戦争は正しいと言えば、正しいのだ。この存在が、言った事に少し遅れてから気付く。ハッとして、再び顔を見ると、先程以上に優しい微笑みを浮かべたその存在は、僕をゆっくりと抱きしめた。

 「もう、休もうか。よく頑張ったよ。」

 その突然の行動に、僕は一瞬ドキッとした後、心の底から癒されていた。この存在は一体、何だろうか。この存在に抱きしめられると、過去の罪や失敗も、自分の弱さすらも許されていく気がしてしまう。自分の存在を認めてもらえたようで、心が穏やかになる。でも、それは一瞬の事だった。

 「痛たたたたたたたたた。」

 誰かに髪を思いっきり引っ張られ、その美しい存在と引き離される。誰の仕業かなど想像は付いているが。

 「何やってんのよ。おしるこ持って。」

 そう言うのぞみさんだったが、顔は僕の方を向いていない。その美しい存在に目が釘付けになっていた。よく見ると、のぞみさんは怒っているというより、怯えているようだった。

 「何やってるの?のぞみちゃん。こんな所で。」

 微笑んで、その存在は問う。のぞみさんは何も答えない。むしろ、ちゃん付けで呼ばれたのに怒らない。

 「自分が何をやっているのか、わかっているの?」

 やはり微笑んで、その存在は問う。のぞみさんは何も答えない。

 「死神に許した能力は、過去から無機物を取り寄せるとか、姿を消すとか、あとは空中浮遊ぐらい。未来を変えるような事、許可していませんよ。」

 風が吹いて、雪が舞う。こんなにも寒い、スーパーマーケットの外、入り口の横の自動販売機の前、汗をだらだらと垂らす死神が一人。

 「道理で同じ時間帯に、同じ死神が二人いるわけよね。不思議だと思っていたのよ。」

 その口調からは決して大事では無いように思える。怒っているのでは無く、ニコニコと言い聞かせているかのように思える。

 「ちよ会長…。見逃しては、もらえないでしょうか?」

 ちよ会長と呼ばれた、美しい存在の微笑みが失われていく。ちよ会長の名前を聞いて、僕は思い出した。その名前は、のぞみさんが言っていた死神商会の会長の名前だ。つまりは、のぞみさんの上司。女子高生か女子大生ぐらいの美女と、小学校低学年の女子が雪が降る中、真面目に会話している様子は少し不思議な光景だろう。

 「未来を変えたり、現世に深く干渉した死神は、地獄裁判所行きよ。おそらく、その罪の重さから、輪廻転生の輪から除外される事になるでしょう。つまり死なんて言う生温い処置では無く、存在を消され、もう二度と生き返る事が出来なくなるのよ。のぞみちゃん、死神になって、もう十年でしょ。もう少しで転生門に行けるようになるのよ。馬鹿な事は辞めて、全てを受け入れましょう。」

 「すみません。罰は必ず受けます。だから今は見逃して頂けないでしょうか。」

 のぞみさんは即答で頭を下げた。

 「意味が無いんです。このまま、生まれ変わったとしても。」

 ちよ会長は困った表情で、溜息を吐いた。困った表情も美しい。

 「存在が消えるのよ。それでも良いの?」

 頭を下げていたのぞみさんは勢いよく顔を上げ、答える。

 「命より、魂より、大事な物が二つあります。その一つが、最大のピンチなんです。あの人が死んで、地縛霊になった時、成仏させる時に約束しました。絶対に守るって。だから安心してって。…だから!」

 僕には二人の会話の意味が理解出来ない。見逃す?会長から、「魂を送るな」って言われたんじゃないの?存在が消える?わからない事だらけの中で、確信を持っているのは、たった一つの事だ。のぞみさんは本気だ。

 「私は彼を救います。彼の為なら、命も、魂も、存在も、過去も未来も、全てを懸ける価値があります。私のすべてを失っても、彼の明日を守りたいんです。」

 困り顔だったちよ会長は、再び微笑んだ。

 「私の失敗は、あなたを死神にした事ね。どれだけ頼まれても、地獄裁判所勤務にすれば良かったわ。」

 そう言って、笑っている二人の姿を僕は困惑しながら見ていた。二人には二人の思い出があり、決して敵同士では無いのだろうが、それでも主張はまったく逆に思える。

 「許可は出来ません。未来を変える小さな変化が、その後の世界に大きな変化をもたらす事になります。一つの命でも、見逃す事は出来ません。いえ、一つの命を見逃すと、その後の世界は大きく変わります。」

 ハッキリと言い切るちよ会長。すでに笑顔は消えていた。

 「その変化は、悪い変化でしょうか。未来は良い方に変わるかもしれません。いえ、良い方に変わると、私は確信をしています。何より、死神でも、ちよ会長でも、閻魔大王様でも、未来の事はわかりません。この選択が最良の一手か、最悪の一手か、それは誰にも判断が出来ません。未来の可能性は誰にも測り知る事など出来ないのです。」

 大粒の涙を零しながら、ちよ会長を説得するのぞみさんの姿に、僕も何故か涙が出そうになった。一生懸命な人の姿は、人の心を打つ。

 「どうか、彼の明日をお守りください。」

 頭を下げる死神。目を閉じて、考え込む死神の長。周囲の時間が止まっているかのようだった。誰も動かず、言葉を発しない中、雪だけが振り続けている。

 そして、ゆっくりとちよ会長は目を開く。

 「許可は出来ません。どんな事情であれ、未来を変える事は違法です。」

 「…ただ」と言いながら、ちよ会長はその黒目がちの眼で僕を見た。その眼は何もかもを見透かしているかのうようだった。

「ここであなたを諦めさせて、地縛霊になった彼を成仏させる方がよっぽど大変そうね。久しぶりに現世に来たし、二、三日巡回してから霊界に戻って、閻ちゃんと相談するわ。」

 そう言うと、ちよ会長はまるで蒸発するように消えた。

 のぞみさんは、ちよ会長がいた場所に向かって頭を下げ続けた。

 「ありがとうございます。」

 そう呟くのぞみさんに、もう涙は無かった。僕は、あまりの困惑にどうすれば良いのかわからず、とりあえず、それを差し出した。

 「おしるこ、飲む?」

 のぞみさんは「飲む」と言いながら、僕の手からおしるこを奪い取り、一気に飲み干した。

 「行こう。太一。時間が無い。」

 空になったおしるこの缶をゴミ箱に叩き込むと、のぞみさんは雪の中を歩き出した。僕はその背中を追った。聞きたい事が山程ある。

 「魂、送るなって言われたんじゃないの?」

 「ごめん。嘘。」

 「存在が消えるって、どういう事?」

 「あんたは知らなくていいの。」

 「未来を変えるのはダメな事なんだよね?」

 「そうよ。」

 「でも、変えるの?」

 「そう。」

 「ここは、僕が生きていたらって仮定した世界なんだよね?」

 「…。」

 「僕が生き返ったら、未来は変わる。そうしたら、のぞみさんは消えるの?」

 「……」

 「未来はわからないって、どういう事?ここは未来じゃないの?」

 「………。」

 早歩きで進んでいたのぞみさんは、突然立ち止る。こちらを振り返らずに答えた。

 「未来のあんたは死ぬわ。」

 震える声で、のぞみさんは説明を続ける。

 「仕事の失敗で、たくさんの人や会社に迷惑を掛けてしまって。その影響で過ちを起こし、最後は自ら首を吊る。これは、もう決まっている未来なの。」

 白い雪が舞う中、僕は固まってしまった。死んだから来れた世界でも、僕は死んでしまうらしい。僕は人生三十年の間に二回も死を選ぶ大馬鹿野郎のようだ。

 「それは、その辞書に書いてあるの?」

 のぞみさんは首を縦に振る。

「私はあんたを救いたいの。十五歳のあんたも、三十歳のあんたも。十五歳のあんたを救う為には、三十歳のあんたを救わないといけない。でも、三十歳のあんたを救えるのは、十五歳のあんたしかいないのよ。だから、私はあんたをここに連れてきたの。だから、立ち止まっていられないの。今日が未来の分岐点だから。」

 再び歩き出すのぞみさんを、僕は再び追う。

 「存在が、消えてもいいの?」

 のぞみさんは叫ぶように言った。

 「当然よ!たとえ、未来が変わって、地球が滅びることになったとしても、私はあんたを救う。そのためだけに、私はここにいるの。」

 僕は、その言葉を噛み締めていた。

 「私の全てを失っても、あんたを救う。」


   30


 終わった。すべて終わった。


 夕方、約十年間お世話になった九重電機株式会社の屋上で僕は完全に未来の光を失っていた。雪は止んだが、辺り一面は降り積もった雪で真っ白だった。見慣れない無機質な世界の中、涙が枯れる程泣いた。片手で顔を覆い、嗚咽する。これは、この世界にとってはただの日常、しかし、僕の人生では終わりの光景となるのだ。


 昨晩は気が付くと、会社の社長室のソファで眠っていた。時計を見ると、深夜の3時過ぎであった。過去の僕や死神の少女と出会った事を思い出すが、夢のような出来事なのにとても夢だと思えない程の現実味があって困惑した。それでも、少し冷静になると、僕にはそんな事を考えている時間など無い事に気が付く。すぐに事務所の2階の自分のデスクへ向かった。

大同食品のエアーコンプレッサーの手配ミスを解決する為、過去の納入実績のリストや日置製作所の代理店のリストを作成した。このリストに挙がった会社が、僕の命運を握っている。祈るような気持ちで作成した。明け方、リストが完成した後、コンビニエンスストアへ行き、歯ブラシと朝食用のパンを買った。再びデスクに戻り、食べ始めたのだが、久しぶりの食事だった為か、あまり食は進まなかった。

 そして、朝一番からあらゆる手段を試みた。55キロのエアーコンプレッサーが必要だったのに、37キロを発注し、納入してしまった対策は、圧縮部と電動機を入手し、改造するのが最も早い対策となる。九重電機と同じような日置製作所の代理店や過去に納入実績がある顧客に、余って無いか、譲ってもらえないか、ひたすらお願いするしかない。台数は6台、決して簡単では無い事は理解していた。

 緊張しながら、電話機のボタンを押す。

「もしもし、お世話になります。九重電機の杉山と申します。55キロのコンプレッサーの圧縮部と電動機を探しておりまして。」

「申し訳ない。持って無いな~」

 「もしもし、お世話になります。九重電機の杉山と申します。55キロのコンプレッサーの圧縮部と電動機を探しておりまして。」

 「は?いやいや、そんなの在庫しないからさ。」

「もしもし、お世話になります。九重電機の杉山と申します。55キロのコンプレッサーの圧縮部と電動機を探しておりまして。」

「電動機なら数台は在庫してるけど、圧縮部は持ってないな。え?譲ってほしい?電動機1台なら良いよ。」

「もしもし、お世話になります。九重電機の杉山と申します。55キロのコンプレッサーの圧縮部と電動機を探しておりまして。」

「持ってるわけねえだろ!このクソ忙しい年末に、そんな冷やかしの電話かけてくるな馬鹿野郎が!」

そんなやりとりを全国に113社ある日置製作所の代理店それぞれと繰り返した。他の仕事は全て放棄し、大同食品のエアーコンプレッサーの対策だけに注力した。それでも、代理店から譲ってもらえたのは、電動機が1台のみだった。その1台についても、今日出荷してもらい、明日の午前中に到着するのが最短だった。

昼休みも返上し、他メーカーのカタログをインターネットでかき集めて、大同食品向けのエアーコンプレッサーの仕様と同じ物を探した。大同食品の下出課長も探している筈ではあるが、自身でも手を尽くす。まったく同じ機種は無かったのだが、近い機種でも在庫を持っていればと思い、片っ端から競合メーカーへ電話をした。

「もしもし、お世話になります。九重電機の杉山と申します。御社で扱っているコンプレッサーの在庫状況について教えて頂けないでしょうか?」

「申し訳ございません。そちらは受注生産品でして、在庫がありません。」

「もしもし、お世話になります。九重電機の杉山と申します。御社で扱っているコンプレッサーの在庫状況について教えて頂けないでしょうか?」

「失礼ですが、御社は日置さんの代理店ですよね?御社への販売は出来ませんが。」

「もしもし、お世話になります。九重電機の杉山と申します。御社で扱っているコンプレッサーの在庫状況について教えて頂けないでしょうか?」

「ウチは直売しないんだけど。おたく販売店とかと付き合いあんの?そっち聞いて。」

競合メーカー7社、全滅だった。残された手段は納入実績を調べ、譲ってもらえるか頼み込むしか無い。ここで譲ってもらえなければ、本当に手が無い。真冬にも関わらず、大量の汗が流れ落ち、手は震えていた。

パソコンの実績管理ソフトを使い、過去に55キロのエアーコンプレッサー、もしくはその圧縮部、電動機を納入した顧客を検索し、リストを作成した。そして、一社ずつ電話をかけた。祈るような、縋るような気持ちで。

「もしもし、お世話になります。九重電機の杉山と申します。先日納入させて頂いたコンプレッサーについてですが、まだ未使用の物ってございますでしょうか?」

「え?いや、もうとっくの昔に使ったよ。」

「もしもし、お世話になります。九重電機の杉山と申します。先日納入させて頂いたコンプレッサーについてですが、まだ未使用の物ってございますでしょうか?」

「使うから買ったんだよ。もう使ってるに決まってるだろ。」

「もしもし、お世話になります。九重電機の杉山と申します。先日納入させて頂いたコンプレッサーについてですが、まだ未使用の物って…」

「はあ?無えよ。」

 納入実績のある顧客、19社、全滅。最後の電話を終えてから、目を閉じ、心を落ち着かせる。僕に出来る事は、もう無い。

 可能性は低いと思ったが、どんな希望にでも縋りたい僕は、もう一本だけ電話を掛ける事にした。電話番号は暗記している為、本来であればスムーズに出来る作業なのだが、手が震えて何度か間違えた後、ようやく正しく押せた。

 「もしもし?」

 低くて、不愛想な声が聞こえた。

 「もしもし、杉山です。昨日の件、どうですかね?」

 暫くの沈黙の後、「いろいろ探しましたけど、やっぱり無理ですね。」

 絶対に探していないであろう、その対応に苛立ったが、すぐに期待した自分を責めた。結局、この男はそういう人間だ。自分で何とかしないといけない事は解っていた。

 「わかりました。ありがとうございます。遠藤さん。」

 席を立ち、会社の二階のオフィスを出る。隣りの席では桜井奈菜が忙しそうに仕事をこなしていた。彼女は僕が大同食品の対応に専念出来るよう、他の全ての仕事を引き受けてくれていたのだ。だが、今日は朝から一言も会話が無い。目すら合わせていない。やはり会社での秘め事がバレてしまった事から恥ずかしさを感じているのだろうか。いつも以上に仕事に打ち込むのは、僕が大変な時に男とイチャついていた罪悪感からだろうか。勿論、そんな筈が無い。彼女は僕の恋人では無い。ただの同僚である。罪悪感など持つ必要など無い。それでも、一言も会話が出来ないのは、きっと僕自身が避けてしまっているからであろう。本当はそれが原因だと解っていた。

 僕は階段を下り、裏口から駐車場へ出た。外は雪が降り続けていて、徐々に積もり始めていた。今頃、社長と山崎本部長、そして野杁部長が大同食品の事業部長と打ち合わせをしている。トップ同士で会話し、その結果によって今後の動きが変わる。僕に出来るのは、どうかその打ち合わせが良い方向に運ばれるのを祈る事だけだ。胸の前で手を合わせて、ゆっくりと目を閉じる。もしも、神様がいるのであれば、どうか助けてほしい。どうか。

 「えええ?マジっすか?その話、詳しく聞かせてくださいよ。」

 その上擦った声は、駐車場の端にある自動販売機の方から聞こえてきた。

 「だからさ、昨日、大同食品の件で、杉山が静岡行っただろ?」

 「はいはい。」

 どうやら、松田と溝口がいるようだ。確かに今日は朝礼で「午後三時頃から大掃除を開始し、六時から年末の納会を行う為、営業マンは早めに帰社するように」と連絡があった。まだ昼の二時だというのに、戻ってきているのは年内の仕事納めという事もあり、世間は休みムードで仕事があまり無いからであろう。毎年、仕事納めの日は、年末の挨拶で各顧客を巡回するのだが、今年に関しては、そんな余裕は全く無い。

 僕は裏口の前でじっと固まった。

 「杉山が静岡に行ってる間、奈菜が杉山の仕事を全部やってただろ。で、定時過ぎても終わらなかったみたいでずっと残業してたんだよ。クリスマスイブだし、仕事も終わったから、杉山の席に座って、奈菜を誘ったんだよ。こういう日は飲みにでも行こうって。」

 「ほうほう。それで、それで?」

 「でもな、奈菜は杉山を待つって。自分がちゃんとチェックしていれば、こういう事にはならなかったって責任を感じちゃってたみたいでさ、杉山が帰ってくるまで、仕事しながら待つって聞かないんだよ。で、仕方なく、コンビニで弁当とか飲み物とか買ってきてあげて、隣りで話相手になりながら、過ごしてたんだよ。」

 松田と溝口がいる場所から煙草の煙が上がった。その匂いは、僕の元まで届いた。何だか、松田の発言は現実味が無かった。

 「皆が帰って、仕事が片付いても、杉山が帰って来なくてよ。徐々に距離を縮めて、会話したり、慰めたりしながらな。」

 「で?で?」

 「いや、後はわかるだろ。あいつ、やっぱり押しに弱いわ。最初は断ってきたけど、最後は…。な?」

 「何が、な?ですか。スケベだな、松田主任は。」

 「ハハハ。まあ、今回ばかりは杉山のおかげだよ。感謝しなきゃな。」

 「そんな事無いですよ。元々、松田主任からのアプローチを待ってたと思いますよ。ちなみに付き合う事になったんですか?」

 「それが、ちょっとな。邪魔が入ってよ。」

 「明日のクリスマスパーティーで、勝負しますか?」

 「勝負っつうか、とりあえずもう一回ぐらいヤッとこうかな。なんちゃって。ってか、明日来てくれるかな。」

 「さつきに言って、連れて来させますよ。」

 僕は感情を見失っていた。これは、怒りなのか、悲しみなのか、それとも…

僕はその場を動けず、ただ、彼らの会話を聞き続けていた。

 「お疲れー。」と言いながら、営業マンが二人帰って来て、自販機横の喫煙所へ直行していった。一人は役職は係長で、三十代後半のベテランだった。もう一人は新入社員の爽やかな男の子だった。

 「何だよ。楽しそうな話してるな、お前ら。」

 「いや、ちょっと、例の話を。」

 「例のって、大同食品か?」

「あれ、超悲惨ですよね。マジ笑える。二千五百万の注文もらって、その全部を間違えていたなんて。あの人、クビですかね。」

「クビで済めば良い方だろ。損害賠償、多少は背負わされるだろうし、野杁部長も降格だろうな。まさか、ここまで大事になるとは思わなかったぜ。普通、途中で気付くだろ。」

彼らの会話に腹が立ったが、松田の言い分は正論だ。普通は途中で気付く。二ヶ月も時間があったのだから。忙しかったからだなんて、言い訳にはならない。

「ってか、そこに杉山いたぞ。」

「え?」と松田と溝口が声を揃えて言ったのを聞いて、すぐに事務所へ逃げ込んだ。一段飛ばしで階段を駆け上がり、屋上まで辿り着いた。少し乱れた呼吸を整えながら、それ以上に乱れた心を落ち着かせようとしたが、こちらはなかなか整わなかった。あんな話、聞かずに立ち去れば良かった。十分程、その場に留まり、少しでも心を落ち着かせてから、階段を下りた。二階のフロアに到着し、自分の席に座った瞬間だった。

「ただいま。」と声がした。声がした入口の方向を見ると、社長と山崎本部長と野杁部長が立っていた。その表情に笑みは無く、三人ともが暗く、険しい表情であった。

僕は、打ち合わせが失敗であった事を悟った。

「杉山。」と野杁部長から呼ばれた僕は、黙って席を立ち、その場を立ち去る社長と山崎本部長、野杁部長の後を追いかけた。社長を先頭に階段をゆっくりと上がり、四階の更衣室の隣にある五、六人用の小さな会議室に入った。そこは、長テーブルが二つ向かい合って並べてあり、それぞれのテーブルに椅子が三つ置いてあった。社長は入り口から最も近い場所にあった椅子に座り、その対角線上の席に山崎本部長が座った。僕はこの山崎本部長が苦手だった。

山崎幸一。五十代前半。営業本部の本部長という役職で、すべての営業マンのトップである。細見で背が高く、いつも同じフレームの小さな眼鏡をかけており、髪は一本の例外も無くオールバックで整えられていた。滅多に笑わない、ロボットのような性格は、社長とは真逆で親しみにくい存在であった。指摘事項などは細かく、社員にとっては鬱陶しい存在であった。

野杁部長は二つある窓の内、開いてあった窓を閉めてから、山崎本部長の隣に椅子一つ分の間を空けて座った。「お前も座れ。」と促され、僕は社長の隣に椅子一つ分の間を空けて座った。

「今日の打ち合わせだが…」と口を開いたのは山崎本部長だった。

「大同食品東海事業部の原田事業部長、設備部の細川部長、製造部の多々良部長、新規事業部の竹中部長、それから、設備課の下出課長が出席した。」

 黒い名刺入れから、一枚ずつ名刺を取り出し、読み上げるように呟いた。

 「当然、こちらとしては謝罪をし、納入期限の延長を求めたが、認められなかった。すでに新製品のプロジェクトは稼働しており、二ヶ月のロスは絶対に認められないそうだ。当然、多少の余裕はあるが、余裕は一ヶ月も無い。様々な契約は進んでおり、販売の計画はもう止められない。大同食品の新商品、大ちゃんのおいしくて綺麗な水、大水はもう販売を遅らせる事は出来ない。」

 大水、それが売れるかどうかわからないが、その販売スケジュールはもう既に決まっている。下出課長が昨日言っていた通りだ。

 「こちらの動きとしてだが、まず、37キロのコンプレッサーを6台、これは明日回収する。大同食品さんは明日もやってるそうだ。これは、杉山、頼む。そして、引き上げた37キロのコンプレッサーは他のお客に転売をし、少しでも利益を稼ぐ。これが二千五百万で売れるとは思えんが、二十パーセント引きで売れると仮定すると、損害は約五百万で済む。そして、55キロのコンプレッサーを発注し、大至急で製造し、二ヶ月の納期を一ヶ月半まで短縮させる。」

 期待していた内容とは違い、社長や本部長が訪問しても、特に変化は無かったようだ。結局、こちらが全面的に悪いという結論だろう。

「つまり、こちらの損失としては、差額の五百万と約半月の遅れによる損害賠償となる。」

一瞬、小さな会議室が静まり返る。

「差額の五百万は九重電機にて負担する。損害賠償については今後大同食品から請求が来る為、ハッキリとした金額は不明だが、概算で六千万程だそうだ。この支払について、我が社としては、何割支払う必要があるかはわからないが、確実に請求は来るだろう。当然、その請求は杉山にもする事になる。最悪の場合、その半分の三千万ぐらいは覚悟しておいてくれ。」

三千万。想像以上に大きな金額に、思考が停止する。

「そして、お前の処分だが…」

長い沈黙の後、野杁部長の投げやりな声が聞こえた。

「かいこだ。」

 「カイコダ?」

 言葉の意味が一瞬理解出来なかった。かいこって何だ。本気でそう思った。言葉の意味を理解出来たのは、その直後だった。

 「おい、そんな解雇通告あるか。気持ちは理解するが。」という山崎本部長の発言に、「すみません。」と頭を下げる野杁部長。そのやりとりに、ようやく気が付く。

かいこ。解雇と書く。雇用主が一方的に従業員との労働契約を解除すること。所謂クビというヤツだ。

僕はこの会社から解雇される。

野杁部長が少し落ち着きを取り戻し、説明を続けた。

 「正式には今日の緊急部課長会で決定となるだろうが、今回の大同食品のコンプレッサーの件、会社への損害が大き過ぎる上に、信用問題にもなっている。大同食品だけの問題であれば、売上も殆ど無いし、お前を庇ってやる事も出来るが、大同金属や大同自動車などグループ会社に情報が漏れる事を考えると、このままお咎めなしで、お前を会社に置いておくことは出来んだろう。本来であれば、ここまで厳しい処置は無いのだが、大同食品の担当者である下出課長は関連会社に出向、そして降格になる事がほぼ決まりだそうだ。俗にいう左遷というやつだ。それに対して、こちら側は何も無しには出来ない。」

下出課長の顔を思い浮かべる。僕のせいで、責任を取らされる。僕の事を恨んでいるのだろう。僕のせいで不幸になる人がまた増えたのだ。確か、子供がまだ幼かった筈だ。一度、打ち合わせの後で子供の話をしてくれたことがあった。小学校の低学年の男の子で、休みの日にキャッチボールをして遊んでいると。見た事が無い筈なのに、下出課長の子供が泣いてる姿を思い浮かべてしまう。謝っても許されない。僕は人の人生を変えた。変えてしまった。

「勿論、責任を負うのはお前だけじゃない。俺は降格だ。」

 いつも苛立っている野杁部長が冷静に落ち着いて喋る。それが事態の緊迫さを際立たせた。何度も酷く叱られ、僕の残り少ないプライドをズタズタに切り裂いた張本人だが、覚えの悪い僕に根気良く仕事を教えてくれた人でもある。教えてもらった恩を仇で返す事になるのだ。大嫌いな存在で、こんな奴死んじまえといつも思っていた筈なのに、今は罪悪感でいっぱいだった。

 「損害は、役員や社員の給与カットでやりくりする事になるかもしれん。決して、お前だけに厳しい処置を行っているのでは無い事は理解してくれ。」

 下出課長。野杁部長。九重電機の役員。社員。そしておそらく、大同食品の従業員。僕は着実に人を不幸にしている。目頭が熱くなった。グッと涙を堪える。泣いていいのは、僕じゃない。僕よりも泣きたい人はいっぱいいるのだ。

 山崎本部長からも「あちらが厳格な処分をしている以上、こちらとしても誠意を示す必要がある。解雇、いや自主退職をしてもらった方がお互いにとって良いかもしれん。まあ、正式決定はこの後の部課長会議でだが、この結論は変わらないだろう。」と追い打ちをかけられ、「勿論、次の転職先は探してやる。だから…」と野杁部長の優しさとは思えない発言を受けても、僕の心は荒れたままだった。

 何故、相手の会社の処罰の内容によって、この会社は社員の処罰の内容を決めるのだろうか。

転職先など見つかる筈が無い。ここまで大きな損害を出した人間を雇う企業などあるものか。

上司が降格で、何故平社員である僕に損害賠償の支払いを命じるのか。処罰の内容の差が大き過ぎる。そもそも、業務上のミスの責任は、僕が負うべき事では無いと思う。

会社が僕を身代わりに会社を守ろうとしている事に気付くと、目の前の景色から色が消えた。見慣れた人の顔が、初めて見た人のように別人に変わっていく。自分と、世界が切り離されていくような感覚に陥った。

 話は今後の対策へと変わった。55キロの納期フォローの為、社長自ら年明け初日に製造工場へ行くそうだ。また、改造の方向についても再度フォローし、可能であればその方法で対応するそうだ。メーカーとの連携、同じミスが二度と無いよう社内での対策などについて話している途中から、僕は記憶が無い。

 もう疲れてしまった。

 

 気が付くと、僕は一人、雪が降る中、九重電機の屋上に立っていた。そこには降り積もった雪で辺り一面真っ白な無機質な薄暗い世界が広がっていた。

 損害賠償三千万円。そんな金額、どこにも無い。年収約四百万の僕が、三千万円を返そうとしたら、月に十万円、一年に百二十万円ずつ返しても約三十年かかる。定年まで毎年百二十万円ずつ返さないといけない。ましてや、仕事が見つかるかもわからない。見つかったとしても、今と同じ年収が確保出来るとは限らない。極端に落ちるかもしれない。

 綾香にも迷惑を掛けてしまう。暫く、まともな生活は無理だ。生活をトコトン切り詰めないといけない。母ちゃんが残してくれたお金もあるが、それに手を付ける事は出来ない。綾香の結婚式のために残しておかないといけないからだ。いや、損害賠償の支払いが残る兄を持つ綾香に嫁の貰い手などあるのだろうか。僕の存在が、綾香の重荷となる。今はまだ良いかもしれないが、それは年を重ねる毎に重くなり、邪魔になるのではないか。夫に、子供に、親戚に煙たがれる存在になるのではないだろうか。それならば、母ちゃんが残した金と僕の生命保険を足せば、損害賠償の支払いが出来ないだろうか。

 桜井奈菜はより一層の責任を感じるのだろう。彼女は何も悪く無い。ただ、僕が悪いのだ。それでも彼女はチェックを怠った自分を責めるだろう。彼女を追い詰めたかったのでは無い。むしろ、彼女を幸せにしたかった。それが僕の幸せになる筈だった。だから、松田に抱かれて欲しく無かった。嫉妬した。苛立った。悲しかった。それでも彼女には幸せになって欲しいとも思っているが、その一方で不幸を願う自分もいる。そして、不幸にしている自分に気付く。桜井奈菜が好きだった。だから、彼女と付き合いたかった。手を繋ぎたかった。キスをしたかった。抱きしめたかった。彼女を独占し、僕だけの物にしたかった。誰にも愛されてない僕を、愛してほしかった。それは、全て実らない事だと知ってしまった。

 松田や溝口、会社の同僚達は笑うだろう。馬鹿な奴だと。そして怒るだろう。僕の失敗は皆に迷惑をかけてしまう。申し訳ない。野杁部長、申し訳ございません。下出課長、申し訳ございません。大同食品様、申し訳ございません。何度も使い続けた同じ言葉でしか表現が出来ないのだが、仕方ない。心を込めて、伝えるしかない。馬鹿な人間で申し訳ございませんでした。

 大竹沙織さん、あの時、僕はちゃんと死んでおくべきだった。それでも、ここまで生きてきたのは、幸せになりたかったからだ。中学の時の不幸な自分は、幸せになる為の布石だと思いたかったのだ。幸せな家庭を築いて、仕事を充実させたかった。

それでも、何一つ上手くいかない。あの時、拾った命。拾うべきでは無かった。死ぬべきだったのだ。

母ちゃん、ごめん。

父ちゃん、ごめん。

せっかく育ててくれたのに、僕は人に迷惑をかけてばかりの人間だった。でも、もう全てが終わってしまった。僕はもう疲れ切ってしまって、もう頑張れない。

ふと、雪が止んだ。

「ああああああああああああああああああああ!」

僕は泣いた。片手で顔を覆いながら。涙は途絶える事無く流れ続けた。同僚達が大掃除をしている中、僕の心は限界を迎えた。

僕の世界は終わった。


もう何もかもが嫌になり、何もかもがどうでもよくなってしまった僕は、帰り支度をする為に屋上から男子更衣室へ移動し、コートとマフラーと鞄を手にした。マフラーを巻いている途中、溝口が偶然入って来て、「あれ?杉山さん、どうしたんですか?帰るんですか?」と尋ねてきたが、面倒だったので、無視して更衣室を出た。目の前には女子更衣室の扉があり、ふと昨日の事を思い出してしまう。松田の会話を聞いてしまった為、それに至る経緯まで鮮明に想像してしまう。

男子更衣室の扉が開き、溝口が出てきた為、僕は慌ててその場を立ち去り、四階の非常口を出た。雪が積もった非常階段を一歩ずつ、滑らないように下り、僕は会社を出た。

まだ誰の足跡も付いていない雪の上を歩いた。

十分程歩くと、スマートフォンが何度も振動した。昨日、ディスプレイが割れてしまった為、どこからの着信かもわからなかったが、おそらく会社からであろう。きっと溝口が誰かに話したのであろう。僕は無視して、電源をオフにした。どうせ、辞める会社だ。対応などしなくて良い。

空気が不味い。空が薄汚い。世界が醜い。世界はここまで堕ちてしまったのか。

とぼとぼと雪道を歩く。日は落ちて、辺りが暗くなり始めた。駅前広場を横断する途中、踏み固められた雪の上を踏んでしまい、滑って転んでしまった。地面に倒れたまま、周囲を見渡すと、クリスマスに浮かれた人々が目に映った。幸せそうなカップル達も楽しそうな家族連れも、皆が不幸になればいい。どうして、こんなに幸せそうな人々がいるのに、僕はこんなに不幸なのか。何を恨めば良いのか。誰を憎めば良いのか。

暫く歩くと、居酒屋「香川」の前に着いた。勿論、店内に入るつもりは無かったが、店の入り口から漏れている灯りに気が付く。先日の結衣の話では、今日は休みの筈だった。この二日間で、一食しか食べていない為、極度の空腹状態だった僕は、自然にその扉を開けた。

 居酒屋「香川」はいつもと様子を変え、クリスマスパーティーの飾りつけがされていた。飾りつけが施されたクリスマスツリーや、いつもと配置が違うテーブル、隅々まで飾りつけされた店内は、所々に結衣と店長の努力の跡が見えた。店内にはお客が一人もいない。いや、誰もいない。それでも厨房からは、何だか美味しそうな匂いが香ってきた。僕は入り口から一歩も動けずにいると、店の奥から声がした。

 「昨日、ずっと待ってたんですけど。」

 厨房から出てきたのは、いつもの黒のポロシャツにいつも付けているエプロンをした、少し怒り気味の結衣だった。一瞬だけ結衣を見て、そのまま視線は地面に移した。申し訳なくて、目も合わせられない。

結衣は「座って。もうすぐ料理出来るから。食べるでしょ?というか、その髭何よ。剃ってないの?泥棒みたい。」と一方的に喋りながら、僕が開けっ放しにしていた扉を閉めた。そして、入口に「本日定休日」の札を掛けた。僕はマフラーとコートを脱ぐと、結衣はそれを奪い取るかのように持っていき、ハンガーにかけた。

 「今日、店長は?」と聞くと、「わかんない。用事があるって、元々言ってたからね。本当は定休日だし。」と結衣はあっさり返し、再び厨房へと戻って行った。少し怒り気味なのでは無い。怒っているのだ、結衣は。

僕はカウンターの席に座り、周囲を眺めていると、思考が停止する。もう疲れてしまって、考える事すら面倒だった。

 「おまたせ。」と言う結衣の声が突然聞こえて、ハッと我に返る。目の前には出来立ての野菜炒めと唐揚げ、枝豆が並んでいた。そして、再び結衣は片手にビールジョッキ、もう片方の手にはウーロン茶を持ってきて、ビールジョッキを僕の目の前に置き、隣りに座った。

 「どうぞ、召し上がれ。」と結衣が言い終わる前に、極度の空腹だった僕は野菜炒めをたっぷり箸で掬い、口いっぱいに放り込んだ。それをビールで流し込み、唐揚げに手をつけては、またビールで流し込んだ。

 「どんだけお腹空いてたのよ。」

 僕は結衣の言葉に反応する時間も惜しんで、ひたすら食べ続けた。

 たまに結衣も枝豆を食べたり、ウーロン茶を飲んだりしながら、ただ無言で僕らは過ごしていた。途中、空になったジョッキを一つ持って、結衣は厨房へ行き、ジョッキにビールを注いで戻って来た。

 「アニ、目が真っ赤だよ。すごい充血してる。」

 僕は返事をしなかった。届いたばかりのビールを口に運んだ。

 「今日は来るの早かったね。いつもなら、まだ仕事してる時間でしょ?」

 残り少なくなった野菜炒めを一気に口へ入れた。

 「何で、昨日来なかったの?」

 僕は口の中の野菜炒めをゆっくりと噛んだ。ゆっくりと噛んで、飲み込んでから、「ごめん。」とだけ呟いた。結局、この店に来てから、結衣の方を一度しか見ることが出来ないままだった。怒っているのだろう、間違いなく。

 「プレゼント交換もあったんだよ。」

 「悪かったよ。仕事が…」と、理由を説明しようと思ったが、言葉に詰まった。

 「みんな、待ってたのに。」

 「ごめん。」その言葉以外見当たらなかった。理由を説明しても、同情されるだけだし、綾香に伝わっても困る。何より、口に出して話すと、実感が湧いてしまって、再び泣いてしまいそうだった。

 「謝らなくていいから、理由を教えて。」

結衣は強くハッキリと言った。僕は思わず、顔を上げて結衣の表情を見る。結衣は笑っていた。大丈夫、心配しないでと言ってくれているかのような、優しい笑顔に、僕は思わず再び目を逸らし、口を開いた。

「解雇される。」

「そっか。」

「前にここで話した大同食品の大口受注した件、機種を全部間違えてて、大問題になってしまって、昨日も静岡に急遽出張したり、会社に泊まり込みで働いたりしてた。」

「うん。」

「でも、やっぱり上手くいかなくて、僕は損害賠償三千万円を背負わされて、クビになる事がほぼ確定した。」

「うん。」

「僕を信用してくれたお客の担当者は左遷。僕を育ててくれた上司は降格。会社の同僚達は給与カット。みんなに迷惑をかけた。損害賠償の支払いがある以上、綾香にも迷惑をかける事になる。」

結衣は何も言わない。

「クソ。幸せになりたくて、頑張って来たんだけどな。やっぱりダメだ。上手くいかねえよ。不幸な奴は、どこまで行ってもダメなんだよ。幸せは平等じゃないさ。持ってる奴が人の分まで持っていくし、持ってない奴は自分の分まで誰かに取られるんだ。」

結衣は何も言わない。

「もう疲れたんだ。」

結衣は何も言わない。

「もう終わりだ。」

結衣は何も言わない。

「全部、無くなってしまった。」

「大丈夫。」

僕は顔を上げ、結衣の顔を見た。結衣はやっぱり笑っていた。

「大丈夫。私がいるって。」


「…………は?」

あまりの驚きに僕は言葉を失った。


「トコトンやって駄目だったんでしょ?仕方ないじゃん。人間だもん、間違える事だってあるよ。」

僕は言葉を失ったままだった。

「私、アニが頑張り屋さんなの知ってるから。だから、いつも頑張ってるアニが失敗したんだったら、仕方無いよ。どうしても駄目だったんなら、私も一緒に謝ってあげるよ。」

そう言って、結衣は僕の肩をポンポンと叩いた。

「大丈夫、大丈夫。私も手伝うから。私も綾香も就職したら、三人で年収一千万ぐらいになるでしょ。損害賠償三千万?三年で返せるよ。」

「馬鹿。どうやって食ってくんだよ。生活費を考えないと。」

「そっか、でも五年ぐらいで返せるよ。きっと。だから、そんな死にそうな顔しないでよ。アハハハハ。」

そう言いながら、結衣の大きな目から、一滴の、大粒の涙が零れた。結衣は笑顔で泣いていた。僕はどうして良いのかわからず、結衣の肩をポンポンと二度軽く叩き、「ごめん」とだけ呟いた。浅はかな考えではあった。五年で支払うなど絶対に無理と解っていたのだが、何故だろうか、心は少し楽になった。本当に言いたかった言葉は「ごめん」では無くて、「ありがとう」だった。

「今日、店長から電話があったの。」と、結衣は震えた声で再び喋り始めた。

「太一君がピンチだって。このままじゃ、自殺してしまうって言ってて。私、びっくりして、でもまったく意味が解らなくて、どういう事ですか?って聞いたら、店長もよく解らないって。何よそれって思ったんだけど、店長って冗談を言うタイプじゃないし。とりあえず、店長は信頼できる人から聞いた情報だから、間違いないって。私に出来る事は、今日店を開ける事だって言うから、友達とカラオケ行く約束を断ってまで、店を開けたんだよ。だから…」

ここまで喋った後、結衣は止まった。僕はその続きをじっと待った。何故、店長がそんな事を知っていたのか。信頼できる人というのは、おそらく僕の知り合いでもあるという事だろう。結衣の言葉の続きを待って、その後尋ねようと思っていた時だった。

 「太一。」

 と、低くて威圧的な声が聞こえた。勿論、結衣からでは無い。僕は、その声が聞こえた方角を見る。すると、入口の扉は開けられ、一人の男が立っていた。

 「久しぶりだな。」

 ボサボサに伸びた黒髪、口の周りの髭、汚れた作業服は見慣れないが、180センチ以上の身長に、吊り上がった目つきと牙のように少し伸びた八重歯は変わっていない。僕はほぼ確信した上で尋ねる。

 「島袋?」

 「おう。」

 僕は一瞬体が硬直した。十五年が経過しても、体が、心が覚えているのだろう。恨みも恐怖も。それでも、そのまま店の中に入ってくる島袋に対して、何も言えなかったのは、恨みよりも恐怖が勝っていたからだろうか。何で島袋がここにいるのだろうか、そんな事を考える余裕すら無かった。

 「あの、今日定休日なんですけど。」と結衣がきっぱりと言ったが、島袋は気にすること無く、「図面とかある?」とふてぶてしい態度で聞いてきた。相変わらず、人の気持ちなど考えずに自分の要求だけを言う最低の性格は、昔からまったく変わっておらず、少しも成長していないことがよく解る。ましてや、十五年振りに会った同級生に対して、図面を要求するなど、とんでもない愚行であり、それはある種の…ん?図面?

 「図面って?」と、僕が驚いて尋ねると、島袋は逆に驚いた顔で、「お前が電話してきたんだろ?」と答えた。僕と島袋はお互いに驚いた顔で見合っていた。

僕は鞄からスマートフォンを取出し、割れてしまって操作出来なくなったディスプレイを見せた。

 「僕、電話掛けれないから。」

 島袋は片手でおでこを叩き、「アチャー」と惚けて見せた。それを見た結衣は思わず笑ってしまっていた。「何、そのリアクション。」

 「だからか。俺、何度も電話したのによ。お前、一回も出ないしよ。」

 島袋は過去の関係に何も疚しい事など無かったかのように、話しかけて来る。そのまま、空いてるテーブルに座り、煙草に火を点けた。結衣は素早く立ち上がり、灰皿を島袋の座ったテーブルに置いた。

 「嫁?」と聞いてきたので、「違う」と即答したら、結衣と声が揃ってしまった。

 「こんなに可愛い子なら、俺の後輩に紹介したいな。どう?20歳の機械整備士、背は低くて、無口だけど、顔は格好良いぜ。」

 「間に合ってるわ。」と、結衣は一言でシャットアウトした。

 「で、何だって?僕が電話したって?」

 僕は話を戻すと、島袋は煙草を一口吸ってから答えた。

 「いや、今日の昼間、うちの会社にお前から電話があったみたいでよ。俺の親父が対応したんだってよ。何か困ってて、本当は55キロのコンプレッサーが必要だけど、間違えて37キロ納入してしまったって。しかも6台も。改造で何とかしたいけど、圧縮部と電動機が足りないって。昔っからそうだけどよ、本当にトロイよな、お前は。」

 悔しいが否定出来ない。それに、誰がそんな電話をしたのか、見当も付かない。確かに今日、僕は手当たり次第に電話を掛けたが、島袋の会社には間違いなく電話をしていない。うちのお客でも無いし、日置製作所の代理店でも無いのだ、そもそも、島袋の家が機械屋だという事を今の今まで忘れていた。

 「どうせ、お前の事だから、部品が見つかっても、作業する人間の事は考えてないんだろ?しかもリミットが明日とかだろ?無茶苦茶な相談しやがってよ。」

 図星だった。改造する人間がいなければ、圧縮部と電動機があっても意味が無い。

 「だから、本当はもう今日が仕事納めだけどよ、わざわざ来たんだよ。時間無いだろ。そもそも何だよ、折り返しの電話はこの番号にくれって言っておきながら、もし電話に出なかったら、駅前の香川って店に来てくれって。」

 「は?」

 困惑する僕を置き去りにして、島袋は一方的に喋り続ける。

「俺の親父、うちの会社じゃ社長なんだよ。で、社長からの指示は絶対なんだよな。だから、仕方無く、やってやろうかと思ってよ。」

 僕は事態がいまいち理解出来なかった。はっきりと理解出来ていない僕を見て、島袋は煙草を消して、少し苛立ちながら言った。

 「だからよ、島袋機電はこの仕事を請け負ったってこと。どんな手を使ってでも、圧縮部と電動機を6台分、用意してやるよ。だから、図面を見せろ。物が解らなきゃ、動けないだろ。」

 待ち望んで、願い続けた救いの手は、まったく予想していない方向から現れた。僕は驚いていたが、すぐに鞄を取りに行き、中からエアーコンプレッサーの図面を取り出した。その図面を持ち、島袋の座っているテーブルに移動する。図面を広げ、島袋に見せると島袋はすぐに理解したようだった。

 「圧縮部と電動機、インバータ、オイルポンプ、始動盤辺りか。交換部品は。」

 「圧縮部と電動機以外の部品は会社に行けばあるし、電動機も1台は明日入荷する。」

 「リミットは?」

 「大同食品の担当に頼んでみないと解らないけど、明日が工場の稼働テストだから、明日がリミットになる。」

 「ハハ、今日は徹夜だな。まったく、何でこんなミスしたんだよ、お前。」

 「…機械コードってのがあって、本来はそのコードを使ってメーカーへ発注するんだけど、それを一桁間違えたんだよ。一桁違うだけで、出力が変わるから。」

 「まったく、馬鹿だな、お前は。昔から。」

 そこに結衣がウーロン茶を二つ持って来た。島袋はその内の一つを奪い取り、一気に飲み干した。

 「時間が無い。俺は今すぐ会社に戻って、部品を探す。」

 「見つかるかな?」

 島袋は少しイラッとして、答えた。

 「見つかるんじゃない、見つけるんだよ。意地でもな。島袋機電のネットワークを舐めるなよ。6台分ぐらい、すぐだぜ。」

 怒った顔は昔から変わっていない。だが、どうしてだろうか、少しも悪い気がしない。昔は恐怖と恨みの対象でしか無かった筈だが。

 「太一、お前は現場で作業させてもらえるか確認しといてくれよ。それから、人を集めといてくれ。技術者じゃなくても良いからよ。とにかく人手が足りなくなる筈だ。あと車もあるとベストだな。部品がどこにあるかわからんから、最悪取りにいかないといけなくなるかもしれん。あと、メーカーの担当者も呼んでおけよ。勝手に改造しても、俺ら保障が出来ないからよ。立ち会いさせねぇとな。」

 時刻は七時前。時間は無い。

 「あと、お前電話はもう一台持ってないのか?連絡取れるようにしないと。」

 「私のに電話して」と割り込んできたのは、結衣だった。二人は素早く、連絡先を交換し始めた。

 「結衣、良いのか?勿論、変な操作はしないようにするけど…」と言うと、結衣は「馬鹿じゃない?何で、私がアニに携帯を渡さないといけないのよ。」と少し怒り気味に返して来た。「私も行くわよ。どこにでも。」

 僕は驚いて、言葉を失った。そんな中、島袋は大声で笑っていた。「太一、お前、すでに尻に敷かれてんだな。」そう言いながら、島袋は図面を片手に店から出て行った。僕は慌てて、それを追った。

 「島袋。」

 島袋は居酒屋「香川」の目の前に泊めてあるトラックの助手席に乗り込もうとしていた。そのトラックの荷台には「島袋機電」と社名が記載されており、運転席には若い男が座っていた。おそらく、島袋の部下なのだろう。

 「何だよ。」と、島袋は僕の言葉を急かした。僕は何て言えば良いのかわからず、言葉が続かなかった。島袋は溜息をついた。

 「親父がよ、お通夜の約束を守るってよ。だから、絶対に何とかするんだ。親父に恥は掻かせられないだろ。」

 お通夜の約束、僕には覚えが無かった。だが、親を立てようとする島袋が少し大人に見えた。

 「それに、俺自身、お前には貸しがあるしな。」

 そう言って、助手席のドアを閉め、トラックは勢い良く出発した。

 島袋が圧縮部と電動機を集めて来れるかどうかは解らない。むしろ、この短時間では難しいと思う。それでも、島袋が手を貸してくれた事に感謝し、結衣が励ましてくれた事に感謝した。そして、少し冷静になって考える。一体、誰が店長や島袋の父親に連絡をしたのだろうか。当然、僕は何もしていない。それでも、僕の現在の状況を知っていて、さらに居酒屋「香川」の存在や島袋機電の存在を知っている人物がいるのだろうか。何の気も無く、ふと空を見上げる。そして、僕はハッとした。

 「夢じゃなかったのか。」

 二人いる。僕の状況を知っていて、居酒屋「香川」も島袋機電も知っている人物が二人だけいるのだ。僕は辺りを見渡したが、その二人は見つからなかった。それでも、きっとどこかで見ているのだろう。一昨日からずっと行動を見ていたと言っていたのだから。

そして僕は正真正銘最後の悪足掻きをする事を決意した。助けようとしてくれた人がいるのだ。ここで、勝手に諦めて良い筈が無いのだ。何より、十五年前の僕に舐められるワケにはいかない。不幸を覆そうとした、幸せになろうとしたこの十五年を否定させる事は出来ない。

 まず、何をするべきか考える。ここから行動するにしても、スマートフォンが壊れている為、何も出来ない。まずは会社へ行かないと、遠藤にも下出課長にも連絡が出来ないのだ。荷物を取る為、僕は再び居酒屋「香川」の店内へ入ると、結衣は慌てて食器を片付けていた。

 「ちょっとだけ待って。すぐ片づけるから。」

 僕はそのまま厨房へ入り、使った食器を洗い始めた。これから世話になるのだ。少しでも手伝わなければ。

 「そういえば、さっき何か言いかけてたよな。」

結衣の動きが止まった。結衣は真顔で僕を見据えた。

 「だから…絶対に死んだら駄目だからねって、言おうと思ったの。」

 僕は何も答えられなかった。

 結衣は素早く最低限の片づけをし、居酒屋「香川」を出て、鍵を掛けた。いつも通りの白いダッフルコートに肩から掛ける鞄を持ち、出て来た結衣は二日前と同じ格好だが、あの日とは存在が全く違う。あの日は守ってあげなければいけない弱い存在だったのだが、今は僕を必要としてくれる大きな存在となっていた。

 「アニ、先に会社行ってて。私、一回家に戻って、車で行くよ。車があった方が便利でしょ?この後、何があるか解らないし。」

 「でも、お前大丈夫か?雪積もってるぞ。」

 「大丈夫。お父さんの車、スタッドレス履いてるから。」

 車を取りに行って、九重電機に到着したら、会社に電話するよう結衣にお願いし、僕らは一度別れた。雪道を再び歩き始める。先程、絶望しながら歩いた道を、今度は少しだけの希望を持って引き返していく。

 足跡がいくつも残る雪道を、一歩一歩進む。クリスマス当日の駅前広場を再び横断する。予期せぬホワイトクリスマスに浮かれるカップルや家族連れが大勢いた。幸せそうな人々の横を通り抜ける。今やるべき事で、頭がいっぱいだった僕は足早に通り抜けた。

 雪が積もった歩道を進むと、遠くの暗闇に九重電機のビルが見えてきた。暗闇の中、何故ビルが見えたのか、その違和感に一瞬の後に気が付く。二階に灯りが点いていたのだ。途中で帰ったとはいえ、今日は大掃除と納会を行う仕事納めの日だ。通常、残業をする者などいない。脳裏に浮かんでしまったのは、松田と桜井奈菜だった。また、昨夜と同じように二人で楽しんでいるのだろうか。勿論、遭遇などしたくない。それでも、止まる事など、もう出来ない。出来る筈も無い。

 静まり返った駐車場を抜け、九重電機の裏口の前に立つ。残業をしている者がいるとはいえ、裏口には鍵が掛っている為、セキュリティーボックスを開く。モニターに人差し指を翳すと、指の静脈を読み取り、一次のセキュリティーが開き、さらにパスワードを打ち込み、すべての鍵を開く。ゆっくりと扉を開け、階段をゆっくりと上がる。廊下は冷え切っており、おそらく納会が終わってから、殆どの人が帰ったのだという事が予想された。

 四階の更衣室にコートとマフラーを置きに行こうと思ったが、辞めた。昨日のように松田と桜井奈菜と遭遇したくは無い。僕は二階のオフィスに入る。

 「ありがとうございます。助かります。」

 そこには、ただ一人残業をしている人物がいた。

 「はい。必ず、二月末にはお返ししますので。はい。ありがとうございます。」

 僕はその人物が何をしているのかを理解してしまった。

どうして、ここにいるのだ。何故、こんな時間まで。未だに制服姿という事は昼間からずっと働いているという事だろう。君は何も悪く無いのに、何故ここまで頑張ってくれるのだ。

 「大変、ご無理申しますが、本日出荷して頂く事は出来ませんでしょうか?はい。すみません。大丈夫ですか?ありがとうございます。送り先、すぐにファックスしますので、番号を教えて頂けないでしょうか?」

 込み上げる涙を堪え切れなかった。

 「はい。かしこまりました。すぐにお送り致します。鴨田様ですね。ありがとうございます。九重電機の桜井と申します。この度は本当にありがとうございました。」

 そうして、受話器を置いた彼女は、手元に置いてあった用紙を持って立ち上がった。そして、コピーやスキャン、ファックスなどの機能が付いた複合機へ向かい歩き出した瞬間に、僕の存在に気付き、立ち止った。

 「何、してるんですか?」

 「その言葉、そのまま返すよ。」

 桜井奈菜は、困ったような様子で、少し笑った。

 机の上からタオル生地のハンカチを取り、僕に差し出した後、桜井奈菜は複合機の前に立ち、ファックスを送っていた。僕は涙を拭いた。でも、まだまだ止めどなく出て来るのだ。桜井奈菜、結衣、憎き島袋、そして、あの二人。皆の想いが嬉しかった。

 「泣くなー、杉山―!」と桜井奈菜はお道化て、僕の背中をポンポンと叩いた。僕は「無理。泣く。」と返すと、桜井奈菜は笑っていた。

 「何とか出来ないかなって思いまして、遠藤さんに電話をしたんです。そしたら、圧縮部と電動機があれば、何とかなるって教えてもらって。年明けに部品が揃っていたら、杉山さんの損害賠償もかなり安くなるんじゃないですかね。で、全国の日置製作所の代理店のリストを作って、で、それぞれ日置製作所の担当者から電話してもらったんです。この地区は遠藤さんから。関西は関西の担当から、それぞれ顔がある人が頼んだ方が上手くいくと思って。もし、持ってるけど、使う予定があるなら、いつまでに返せば良いのかを確認して、間に合いそうなら借りるって。だから、今日、まったく大掃除してないです。パソコンと電話だけ持って、更衣室に籠ってました。えへへ。」

 彼女の行動力に驚き、涙は止まった。僕なんかよりも全然仕事が出来る。桜井奈菜がアシスタントをしてくれていたという事はかなり恵まれていた事に今更ながら気付く。

 「電動機を2台、圧縮部1台確保出来ました。年始の初日、届きます。」

 「流石です。」と一礼した。心から僕は思った。彼女が起こしたのは奇跡。

冷静に考える。桜井奈菜が広げてくれたチャンス、どう生かせるのだろうか。間違える事は出来ない。僕はコートとマフラーを脱ぎ、溝口の机の上に置き、いつもの自分の席に座り、パソコンの電源を点けた。桜井奈菜もいつもの自分の席に座った。

 「まだ、頼む宛はあるの?」

 「一つ、連絡待ちがあります。」

 圧縮部と電動機以外の部品は、既に隣接されている倉庫にある。あとは圧縮部と電動機が各6台必要となるが、僕が頼んだ電動機が1台、桜井奈菜が頼んだ圧縮部が1台と電動機が2台、そのため圧縮部1台と電動機3台は今日出荷で確保が出来ている。残す部品は、圧縮部が5台、電動機が3台。これについては、島袋と桜井奈菜が依頼中の会社に期待するしかない。

 部品が確保出来た場合、必要となるのは、まずは作業員。立ち合いが出来るメーカー担当者。大同食品の作業許可となる。

 「可能であれば、明日改造して、間に合わせたい。6台全部。」

 桜井奈菜は驚いた様子も見せず、じっと僕の眼を見据える。

 「僕の損害賠償だけの話なら、まだ良い。この件、本当は明日が稼働テストだったんだ。それが出来なかった事で、大同食品の担当者が左遷される。野杁部長も降格になる…だから。」

 「明日、間に合わせましょう。」

 強く言い切った桜井奈菜に、最早頼もしさすら覚える。

 「じゃあ、今日出荷してくれた部品の送り状をもらおう。運送会社の支店止めにしといた方が明日動きやすい。」

 九重電機に送った荷物は年明けに届く。何故なら、会社が休みだからだ。それならば、運送会社の近くの支店で止めてもらった方が良い。こちらから取りに行く事が出来る。送り状という出荷の証明書があれば、それが可能だ。

 「わかりました。」と言い、桜井奈菜は早速パソコンを操作し、送り状を探し始めた。のだが、すぐに「あの、杉山さん…」と再び桜井奈菜は話しかけてきた。

 「うん?」と答えたが、彼女は続きを喋れなかった。何かを言いたそうなのだが、言いにくい様子で困っていたので、「大丈夫だよ。気にしないで。」とだけ伝えておいた。おそらく、昨日の事について弁明したかったのだろうが、それは僕が文句を言うような事では無いのだから、謝ってなど欲しく無い。むしろ、それ以上の事をしてくれているのだ。

 僕は、自分がまず最初にやらなければいけない事に取り組む。パソコンの画面にある電話帳のフォルダを開き、電話番号を探す。目当ての番号はすぐに見つかった。

 僕はゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息を吐いた。ゆっくりと受話器を取り、その番号を押した。プルルルルルル、プルルルルルルと呼び出し音が2回鳴った後、落胆した声が聞こえた。

 「もしもし、下出です。」

 「大変ご迷惑をお掛けしております、九重電機の杉山と申します。この度は、多大なご迷惑を…」と言う所で遮られた。「君とは、話したくない。」

 「ちょっと待ってください。話だけでも聞いて頂けないでしょうか?お願いします。」

 「……。」

 話を聞いてるのかどうかも解らないが、それでも届くと信じて言うしか無かった。

 「間違えて納入してしまった37キロのコンプレッサーを、55キロに改造出来るかもしれません。明日、そちらに引き取りに行くよう指示をもらってましたが、可能であればそちらで改造作業をさせて頂けないでしょうか?」

 「……」

 電話の為、相手の姿は当然見えない。聞いてくれているかも解らない。それでも、僕はデスクに額がぶつかりそうになる程、頭を下げた。

 「責任を感じております。御恩を仇で返してしまった事、後悔しております。自己嫌悪で、もう全て投げ出そうと思ってしまいましたが、どうしても出来ません。下出課長が一度、僕を信じてくれた日の事、忘れられません。」

 「……。」

 「チャンスを頂けないでしょうか。最後のチャンスを。どうか。」

 何の反応も無い。ここで、了解を貰えなければ、何も行動は出来ない。縋るしか無い。頼むしか無い。粘るしか無い。

 「…出来るのか?本当に。」

 その反応に、思わず顔を上げた。

 「まだ確定はしておりません。ですが、必ずやり切る所存です。」

 「……。」

 「お願い致します。」

 「………。明日、元々稼働テストをする予定だ。コンプレッサー以外の機械もあるからね。コンプレッサーは隣りの工場から借りて、テストは凌ぐつもりだった。もし、コンプレッサーが間に合うなら、こちらとしては願ったり叶ったりだ。君が私を助けてくれるのか?」

 「僕が下出課長を助けるのでは無く、自信が無くて、ダメダメだった僕を下出課長が助けてくれたんです。僕は、その時の約束を果たす為に、全力を尽くすんです。」

 小さな溜息が聞こえた。呆れているのか。それでも、やるしかない。

 「君も知っていると思うが、うちは24時間稼働している。何だったら、今から改造してもらっても良いぐらいだ。この携帯に電話をくれたら、夜中でも立ち会うよ。ただ、稼働テストは午後一時から行う。コンプレッサー周りの配管は完了しているから、機械が揃えば繋ぎこむだけだ。どうせなら、稼働テストに間に合わせて欲しい。それと、工事届けの書類が必要だ。工事前にその書類を作って来てほしい。フォーマットはメールしておくから。」

 「ありがとうございます。」

 返事は無く、電話は切れた。僕はホッとして、大きく息を吐いた。まずは第一関門突破だ。そう思った瞬間、会社の電話が鳴った。まさか、下出課長から「やっぱり駄目だ」という電話かもしれないと思い、慌てて受話器を取った。

 「はい、九重電機です。」

 「アニ?到着したよ。」

 そうだった。「すぐ行く。」と答え、電話を切った。不思議そうな顔でこちらを見ている桜井奈菜には「ちょっと、僕の助手が来たから、ここまで連れて来る。変な奴じゃないからさ、会社の人には言わないでね。」

 僕は階段を駆け下り、裏口から外へ出た。すると、目の前には黒のセルシオが停まっていた。そこから出てきたのは、予想通り結衣だった。

 「ごめん、ごめん。遅くなっちゃった。」

 「いや、むしろ思っていたより早かったよ。ありがとな…あれ?」

 よく見ると、セルシオの左側面には何かに擦ったような傷があった。

 「結衣、お前もしかしてぶつけた?」

 結衣は舌を出して、頭を掻きながら、「テヘ」と笑った。

「テヘじゃないって。仕方ないな。全部片付いたら、結衣の父ちゃんに一緒に謝ってやるよ。」

「ハハ。立場、逆になっちゃったね。」

結衣を裏口から会社の中に入れた。大学生の結衣はキョロキョロと周囲を見渡しながら歩いていた。初めて見る会社という物に、興味津々なのだろう。階段を上がり、二階のオフィスに招き入れる。

「あれ?アニ、また目が赤くなってるけど?」と結衣が僕をからかうように喋っていると、「こんばんは。」と立って挨拶したのは、桜井奈菜だった。

「こんばんは。」と結衣は急に余所行きの表情に変わり、挨拶をした。きっと、他に誰かいるとは思っていなかったのだろう。

「こちら、三浦結衣さん。僕の妹の友達で、行きつけの居酒屋の店員さん。今回、作業を頼もうとしている工事業者さんとの連絡役とか、あと車も出してくれる事になってる。」

結衣は改めて、会釈をした。桜井奈菜も会釈を返す。

「こちらが、桜井奈菜さん。」

「えーーーーー?」と驚く結衣の肩を強めに叩いた。「五月蝿いよ、お前は。余計な事言うなよ。」と小声で牽制しておいた。

九重電機のオフィスに僕と桜井奈菜と結衣。異様な光景であったが、戸惑っている暇は無い。

「桜井さん、送り状って用意出来た?」

「全部、印刷しましたよ。」

「ありがとう。結衣、ちょっと手伝ってくれ。」

桜井奈菜をまじまじと見ていた結衣は、一瞬の間の後、「はいはい。」と慌てて答えた。

「結衣には二つ、お願いしたい。一つは桜井さんから送り状を貰って、各運送会社に電話して欲しいんだ。送り状を見て、詳細を伝えて、支店止めにしてくれって言えば、相手も解る筈だ。この、溝口の席を使って良いから。頼む。」

僕は溝口の机からコートとマフラーを取り、野杁部長の机の上に移動させた。溝口のパソコンの電源を点けた。

「運送会社の電話番号はインターネットで調べてくれ。で、もう一つ。島袋に電話だ。必要な部品は、圧縮部が5台、電動機が3台だって伝えてくれ。」

「了解。」と元気良く結衣は答えた。「でも、その前に、明日って何時からその改造の作業やるの?」

「まだ決まってないけど、部品の届く時間から考えると、6時とかかな。何で?」

「ついでに島袋さんに伝えようと思って。」

結衣は意外と賢い。「頼むわ。」とだけ伝えて、次は桜井奈菜に指示を出す。

「桜井さんは、うちのサービス部の連中に連絡をして。明日の早朝から作業出来る人を探してほしい。多分、僕が頼むより、桜井さんが頼んだ方が良いと思うし。」

「そんな事無いですけど、指示は了解です。」

結衣も、桜井奈菜も、受話器を片手に電話を始めた。そして僕は次の電話を掛ける為、受話器を取った。本当は、この相手に対しても桜井奈菜から電話してもらった方が良いと思ったが、まずは自分でお願いしてみよう。彼の良心に賭けてみる。

僕は暗記している電話番号を押し、電話を掛けた。プルルルルルル、プルルルルルル。呼び出し音が何度も鳴ったが、相手は一切出なかった。十回程の呼び出し音の後、留守電に変わった。僕は同じ番号を再び押した。出るまで掛け続ける。そのつもりだった。二回目も留守電に変わり、すぐに掛けた三回目、呼び出し音が一回鳴っただけで、電話が繋がった。

「もしもし」と不機嫌そうな声が聞こえた。

「年末の、夜遅くにすみません。九重電機の杉山です。」

「ああ。」と気怠そうに答えたのは、日置製作所の遠藤だった。相変わらず、憎たらしい態度だったが、僕はグッと堪える。誰よりも謝る事には慣れているのだ。いつも通り、心を殺して、謝るだけだ。

「すみません。ちょっとお願いがあって、電話したんですけど。」

「何ですか?」

「大同食品のコンプレッサーの件、何とか改造が出来そうなんです。」

「ああ、そうなんですか。」

「工事、立ち会ってくれませんか?」

「それは、勿論やりますよ。メーカーとして。作業はいつですか?」

「明日です。」

「はい?」

「明日の朝。早朝。」

「いやいや。」

 気持ちを一切隠さず、嫌そうに答えた遠藤をその気にするのが、僕の仕事だ。

 「無理は承知です。何とか、助けてほしいんです。お願い致します。」

 「いや、無理ですよ。」

 「実家に帰るんですか?今日はこの時間ですし、無理ですよね。」

 「今日は無理ですけど。」

 「明日の午前中だけで良いんです。今から寝たら、朝起きれますよね。」

 「起きるだけなら出来ますけど。あのね、杉山さん。私にも予定があるんですよ。無茶言わないでください。年明けにしてくださいよ。」

 「年明けでは駄目なんです。お願いします。」

 遠藤は黙ってしまった。断る理由を考えているのだろうか。でも、逃がすつもりは無い。

 「桜井さんとコンパ組んであげましょうか?」

 小声で僕は呟いた。桜井奈菜に聞こえないように。返事の代わりに、受話器の向こうでは荒い息の音が聞こえた。

 「確か、遠藤さん、前に可愛いって言ってましたよね。」

 「……」

 「どうですか?」

 女を使って、交渉する僕は最低だ。それでも、今が底である。これ以上、堕ちる事など無い。どんな手を使ってでも、目的を達成するのだ。

 「桜井さんって、松田主任と付き合ってるんじゃないですか?」

 僕は言葉を失った。それについては僕が聞きたいぐらいだ。

 「ちょっと、待ってくださいね。」と僕は一度保留にして、受話器を置いた。

 「結衣、コンパしてくれ。可愛い友達、数人連れて。」

 「はあ?ふざけてるの?」

 「大真面目だよ。」

 「なら、いいよ。」

 僕は再び受話器を取り、遠藤と話す。

 「もっと可愛い子を用意する。21歳、大学生。」

 「本当に可愛いんですか?」

 面倒くさい男だと苛立ったが、彼を説得しない事には、先へ進まない。

 「写真送るから、自分で判断してください。返信はすぐにください。」

 そう言って電話を切った。

 「結衣、携帯貸して。」と言うと、結衣はすぐに渡してくれた。カメラの機能にし、「結衣、撮るぞ。」というと、ご丁寧に結衣はピースと笑顔を作ってくれた。そのまま結衣の写真を撮ると、「何、撮ってんのよ。」と結衣から文句を言われたが無視してそのデータを素早く自分のパソコンのアドレスにメールで送り、その写真を遠藤へ転送した。

後は、遠藤からの返信を待つのみだと思った矢先だった。一通のメールが届いた。慌ててメールを開くと、遠藤から「OKです。」の一言だけだった。何て奴だと笑えてきた。

僕は「明日の朝、7時頃迎えに行きます。」と返信しておいた。これで、残す課題は圧縮部と電動機が見つかるかどうか、そして作業員が確保出来るかとなった。

パソコンのデスクトップ画面に、再びメール受信のマークが点灯した。僕はすぐにメールを開いた。下出課長からであった。そのメールは先程の電話で話していた工事の書類のフォーマットだった。その書類は十五枚程あり、作成するのに一時間から二時間は掛りそうな物であった。だが、やるしかない。やるしか道が無いというのは勿論だが、下出課長のメールの本文が僕をやる気にさせた。(失敗については恨んでいる。君の事も、自分の事も。ただ、最後まで諦めずに頑張ってくれている君には、心から感謝する。 下出智治)僕は桜井奈菜から借りているハンカチで再び涙を拭いた。

桜井奈菜と結衣の作業の進み具合を見る。桜井奈菜は受話器を持って会話をしていたが、結衣はスマートフォンを操作していた。

「結衣、終わったか?」と聞くと、「ばっちり。」

桜井奈菜もその時、受話器を置いた。

「桜井さん、どう?」と聞くと、こちらは対照的に「みんな、電話出ないです。一応、留守電には入れてありますから、聞いてくれたら折り返しがあるかもしれないけど。」

そうなると、ここで僕らは連絡を待つだけとなる。島袋からの圧縮部と電動機、作業員の連絡。九重電機の作業員からの連絡。桜井奈菜が頼んでくれた会社からの折り返し。最も、既に時刻は九時を過ぎているので、島袋以外からは連絡が来ない可能性が高い。

「結衣、桜井さんを家まで送ってあげてくれ。」

「ん?いいけど。」

桜井奈菜は少し怒ってこちらを見た。

「杉山さん、何を言ってるんですか?私も最後まで付き合いますよ。」

「でも、全部が上手く進んだとしても、明日の午前中までかかる。女の子に、そこまで付き合ってもらう事は出来ないよ。それに、大掃除の時からやってくれてるなら、ご飯も食べてないんでしょ?よく頑張ってくれたよ。ありがとう。本当に助かったよ。」

そこまで言った瞬間だった。

「痛っ!」

右の脛に激しい痛みが走った。辞書か何か固い物で叩かれたような痛みだった。僕は思わずしゃがみ込んだ。

「杉山さんはいつもそうですね。」と、桜井奈菜は珍しく、いや初めて見る怒った表情を見せた。

「いつも一人でやろうとする。失敗も、成功も全部一人で抱え込んで。私も、大同食品さんの担当です。このミスは私のミスでもあります。この件が収束するまで、私も最後まで付き合います。」

反論は無い。確かにそうだ。一人では何も出来なかった。皆が助けてくれたから、今ここまでは辿り着いた。終わってはいないが、ここまで希望が見えたのは、皆のおかげだ。

「ごめん。」

「許します。」と言うと、桜井奈菜は結衣と顔を合わせて笑っていた。

「でも、奈菜さん、ご飯だけ行きません?まだ長丁場みたいですし。私、もうお腹ペコペコで。」

「そうだね。行こうか。」

「アニはいいよね?ガッツリ食べてたし。」

そう言って、桜井奈菜と結衣は二人で出て行った。去り際の背中に「ゆっくりしておいで。すぐにやる事は無いから。」と投げかけた。

二人の車が出発した事を窓から確認し、僕は屋上へ上がった。

屋上は予想通り雪が積もっていて、真っ白な世界だった。周囲を見渡す。

「おーい、いないのか?」

辺りは静寂に包まれており、一切の音がしない。

「死神さん?出て来いよ。」

何の反応も無い。

「十五年前の僕、出て来いよ。」

誰かに聞かれたら、可笑しな奴だと思われるだろう。少し躊躇したが、声を出してみた。それでも、周囲から反応は無い。死神は空を飛べる事を思い出し、上空を見上げてみるが、やはり見つからない。

近くにいるのか解らない。もう間に合わないかもしれないが、一方的に宣言しよう。あの頃の僕に届くかは解らない。それでも、届けば良いなと、信じてる。

「十五年前の僕!ありがとうな。香川さんや島袋に連絡してくれたんだろ?助かった。おかげで少し希望が見えた。」

辺りは静まり返っている。

「だから、もう少し待っててくれ。十五年後、お前は誰よりも幸せになるって事、教えてやるから。僕が教えてやるから。」

反応など無くても構わない。

「だから、死ぬな。」


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