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僕に届け  作者: しの
3/6

12月24日


   15


 くだらない人生だった。

 心の底からそう思う。

厳格で頑固で、その上生真面目な父と、胆の据わった男らしい母の間に長男として生まれた僕は、何をやらせても平均以下のどこにでもいるような子供だった。

小学生の頃は父が勤める会社の近くのアパートに住んでいたが、父が病気で死んだのをきっかけに町の外れの団地に引っ越した。順風満帆に歩んでいた僕の人生はここから大きく変わった。

父が死んでから、母は家事に仕事に本当に大忙しだったようだ。家族三人で食事が出来るのは、朝だけだった。朝食を済ませた後、僕が学校に行くのを見送り、妹を保育園に連れて行き、それから、掃除や洗濯をこなし、夕食の準備をし、その後は近所の飲食店で働いていた。夕方、妹を保育園に迎えに行った後は、着替えて再び別の仕事へと向かった。その仕事は深夜まで続き、いつも僕らが眠ってから、母は帰って来た。そして、僕らよりも朝早く起きて、再び朝食の準備をしていた。母が夕方からの仕事に出掛けた後、僕は妹にご飯を食べさせ、お風呂に入れてから、寝かしつけた。母が忙しいと解っていたから、妹の世話をする事に抵抗は無かったが、僕の事を見てくれる人がいないような気分にもなっていた。

僕は運動も勉強も苦手で、その上性格も内向的だった為、学校内でも目立たない地味な生徒だった。それは中学校に進学してからも変わる事は無く、テストの順位は二百人中百五十位以上になった事は無く、竹刀に憧れて入部した剣道部では同級生の中で最も下手で、後輩にも追い抜かれ始めた中二の夏から幽霊部員となった。

特に仲が良い友達もおらず、影が薄く、目立たない存在であった僕だが、ある日、一人の同級生から話しかけられる。島袋公明という横にも縦にも体の大きな同い年の生徒だった。彼とは一年の時に同じクラスになり、家が近い事がきっかけで仲良くなった。島袋は、機械修理屋の息子で、作業場兼事務所兼自宅、となる工場に住んでいた。その工場、「株式会社島袋機電」は僕が引っ越して来た団地の近くにあった。島袋とは、授業が終わると一緒に帰るようになり、朝は一緒に通うようになった。休みの日に一緒に遊ぶようになり、島袋の友達とも一緒に遊ぶようになった。島袋やその友達が煙草を吸い始め、万引きを始め、恐喝を始めた頃とほぼ同時期、僕の学力の低さと運動神経の悪さが露呈され始め、煙草も万引きもしない上に、彼らの誘いに応じなくなっていった僕を彼らは仲間では無く、おもちゃへと認識を改めていった。些細な冗談のつもりの暴言や遊びのつもりの暴力が悪意を込められた物に変わるまで、時間はかからなかった。

島袋の友人達は学校内でも特に素行の悪い人物が多かった。島袋の親友だという首藤春樹は暴走族にも入っており、喧嘩も強い為、皆から恐れられていた。もう一人の親友、林健太は背が低いお調子者で、いつも首藤や島袋の傍らにいた。林を恐れる者はいなかったが、彼を怒らせると首藤と島袋が動く。そのため、林に逆らう者はいなかった。

 毎日のように、僕は彼らのおもちゃにされていた。腹を殴られ、脚を蹴られ、頭を叩かれた。物を盗まれ、隠され、壊された。服を脱がされ、笑い者にされた。

 給食の時間、スープにゴミを入れられた。

 体育の時間、島袋や首藤、その仲間から一斉にバスケットボールを投げつけられた。

 数学の時間、ペンケースの中の鉛筆をすべて折られた。

 国語の時間、画鋲が置いてある椅子の上に座らされた。

 社会の時間、三十分間太腿をつねられ続けた。

 理科の時間、髪を無理矢理切られた。

 掃除の時間、みんなの前で服を脱がされた。

 登校中、殴られた。

 下校中、蹴られた。

 放課後、殴られて、蹴られた。

 島袋公明、首藤春樹、林健太。殺したい程、憎かった。そして、逃げ出したくなる程、怖かった。

先生に一度だけ相談した事がある。酒井邦夫という五十歳ぐらいの音楽教師で、中学二年生と三年生の時の担任だった。しかし、結果は何も変わらなかった。「意思の弱いお前が悪い。辞めろとハッキリ言え。」と諭され、首藤や島袋に対しての指導は一切無かった。ベテラン教師である筈なのに、物事を荒げたくないのであろうその態度に、僕は酒井だけではなく、すべての教師に失望してしまった。

学校に楽しみが無かった為、休み時間は一人で屋上に隠れて携帯型オーディオプレーヤー、所謂ウォークマンで音楽を聴いて過ごしていた。音楽だけが僕の友達であった。僕はロックバンド「キムラロック」の大ファンで、毎日飽きもせず彼らの音楽を聴き続けた。彼らのメッセージ性が強い音楽は、僕の心を支えてくれた。彼らの音楽が、もしこの世に無かったとしたら、僕が首を吊る時期はもっともっと早かっただろう。

さらに「キムラロック」の音楽は僕に唯一の趣味を与えた。ギターだ。

中学二年生のクリスマス。僕は母に何度も土下座して、お小遣いを強請った。「キムラロック」のようになりたかった。「キムラロック」のようになれると思った。ギターさえあれば、と信じていた。母は渋々承諾し、冬休み、母の仕事が休みの日に一緒に楽器屋へ行った。本当は「キムラロック」のようにエレキギターを弾きたかったのだが、高くて買えなかった為、中古のアコースティックギターを買ってもらった。

母はお金が無い事を僕に何度も謝っていたが、僕にとっては大した問題では無かった。エレキであろうが、アコースティックであろうが、ギターはギターだ。また、「キムラロック」の楽曲の中にはアコースティックギターで演奏する曲もある。まずは、その曲から練習すれば良いのだ。僕は毎日のようにギターを弾いた。「キムラロック」の楽曲から練習を始めた僕は、彼らのデビューシングルのカップリング曲である「東京交差点」とセカンドアルバムの三曲目である「ラズベリー」は完璧に弾ける。最新アルバムの最後の曲「君に届け」も練習した。

ギターを弾いている時は、嫌なことを忘れる事が出来た。

それでも、ただでさえ低い成績はさらに下がり、教師からの救いの手は一向に差し伸べられなかった。次第に虐めはエスカレートしていき、金を要求されるようになり、怪我が増えていった。首藤や島袋以外の男からも、女からも虐めの標的にされ、クラスの底辺に位置づけられてしまっていた僕は、いつも誰かに怯えていた。物を盗られ、金を盗られ、暴力を振るわれる。いつも怯えて、屋上に隠れては、「キムラロック」の音楽に救いを求めていた。教師やクラスメートから救いの手が差し伸べられる事は無く、母には救いを求める事が出来なかった。母には、僕の問題を解決する余裕など無いと解っていたから、僕は心配をかけないように、全力で虐めを隠し、一言も相談をしなかった。母に心配させたくなかった。

次第に僕は心のバランスを保つ為に、自分より弱い者を作ろうとしてしまった。

虐めによるストレスを発散する為に、妹に悪口を言って泣かせた。

誰にも見てもらえない寂しさを紛らわせる為に、妹を叩いて泣かせた。

そんな事をする自分が大嫌いで、もっと嫌いになる為に、妹を蹴り飛ばして泣かせた。

それでも、泣いた後は再び懐いてくれる妹に、強い罪悪感を感じながら、再び怒りを感じ始めた。虐められていた僕は、他の誰かを虐める事で心を保っていた。だが、そんな日々はすぐに終わりを迎える。

妹の体の痣を母が見つけた。

母は今まで見た事が無い程怒り、憐れみに満ちた表情で僕を叱りつけた。何十発ものビンタと何時間も続く説教を聞きながら、僕の心は不思議と落ち着いていた。僕の心のバランスが崩れていった。僕はもう妹に虐めをする事は無い。もう出来ない。ここから先、僕は虐められるだけの存在となっていく。

そして僕は心を失った。心があるから、辛いのだ。心が無ければ、辛さも感じない。僕は死んだように生きた。死んだようにしか、生きられなかった。自他ともに認める屑に堕ちた僕に、たった一つだけ残った希望があった。大竹沙織の存在だった。

 大竹沙織と知り合ったのは、中学三年生の九月末だった。

 人がいない理科室で島袋達に暴行された後、ウォークマンを持って屋上へ逃げた僕は一人で「キムラロック」の音楽に浸っていた。屋上からグラウンドを見渡していた僕の耳へ絶えず流れ続けていた旋律は突然途切れた。驚いて振り返ると、セーラー服を着た女子生徒が、サラサラの髪を風に靡かせながら、僕のウォークマンのイヤホンを耳に当てていた。僕は驚いて、何も言えないまま、固まってしまった。女子生徒の顔は、僕の顔の十センチ程の位置にあり、女子とここまで顔を近づけた事は無かった。

 「ねえ、これ何ていう曲?」

 少し高音で、甘い声は僕の耳では無く、脳に直接語りかけているかのように、僕の心を掴んでいった。

 「ねえ。聞いてる?」

 僕はハッとして答える。

 「こ、こ、これはキムラロックの、き、君に届けっていう曲で。」

 女子生徒は「ふーん」と笑った。

 「良いね、この曲。」

 僕らは、その後それぞれ片耳ずつイヤホンを付けて、「キムラロック」を聞いていた。

 これが大竹沙織との出会いだった。

 それ以来、僕はたまに屋上で大竹沙織と会った。土曜日や日曜日にはお互いの家のおよそ中間にある公園で遊んだ。一緒に音楽を聞いたり、他愛もない話をしたり、ブランコを漕いだり。彼女は自由で、明るくて、よく喋る。心から楽しそうに笑い、心から悔しそうに怒る。クラスが違った為、屋上で会うまで面識は無かったが、僕らはすぐに打ち解けた。

 大竹沙織はすぐに「キムラロック」のファンになり、僕はよくCDを貸してあげた。楽しかった。

 キムラロック、ギター、大竹沙織。この三つだけが僕の世界を形成していた。

 「君に届けが一番好き。あの歌詞みたいに、誰かから好かれてみたいよ。」

 「キムラロック」の楽曲の中で一番好きな曲は何かという話題に、大竹沙織がそう言ったのがきっかけだった。僕はすぐに決めた。ギターを弾いて、「君に届け」を歌おう。大竹沙織、ただ一人の為に。そして、告白するのだ。その日から僕は毎日のように猛練習を繰り返した。声が枯れるまで歌い、指の感覚が無くなるまでギターを弾いた。

大竹沙織が好きだった。

肩まで伸びた栗色の髪、真っ白でニキビの一つも無い透き通った肌、心を見透かされそうな大きな目、優しくて細い声。体の一部分でさえ、文句のつけようが無い程、かわいい。彼女は、心から笑う。心から怒る。好奇心旺盛。天真爛漫。才色兼備。どんな言葉なら彼女を正しく表現出来るのだろうか。頭が悪い僕にはわからないが、とにかく彼女は素晴らしい。一番素晴らしいのは、僕みたいな底辺の存在に対しても、態度を変えない事だ。

親とも、妹とも、必要最低限の会話しかしない。島袋達から虐められている時は心を閉ざし、教師とも、クラスメートとも、関わらないように生きている僕の心は、彼女と一緒にいる時間のみ、活発に動いた。彼女と過ごす時間は僕にとってかけがえのない時間だった。

三年一組だった僕は、三年八組だった彼女とは普段殆ど面識が無い。虐められっ子の僕としては、普段の情けない姿など見られたくないし、休み時間はすぐに島袋達に捕まってしまう為、自由に行動が出来ない。唯一、給食を食べた後、煙草を吸う為に島袋達が校外へ出ていく昼休みに屋上でしか会わないのだが、その日は島袋や首藤達が早退して学校にいなかったので、僕は休み時間に八組の教室へ行った。

しかし、大竹沙織はいなかった。

今日は休んでいるのだろうか。それとも、次は体育の時間で更衣室にでも行ってるのだろうか。僕は教室を見渡し、小学校の時に同じクラスになり、当時はよく遊んだ森島君を発見した為、入り口から呼び、尋ねてみた。返って来た森島君の返事は僕の想像とはまったく別の回答だった。

「大竹?…ああ、二学期に転校してきた奴か。今日はいないどころか、転校してから一度も教室に来てないよ。ずっと、保健室にいるんだってさ。」

「え?何で?」

「よくわかんないけどさ。ってか、俺、あんまりお前と話してるところを、誰かに見られたくないんだよ。お前と友達だと思われたら、俺まで首藤君から標的にされちまうよ。用事が済んだなら、早く行ってくれよ。」

僕は、その日の昼休み、屋上で彼女を待った。彼女は来た。いつもと変わらない元気な姿で、明るく会話して、一緒に音楽を聞いた。

「どうして、保健室にいるの?」とか「誰かに虐められているの?」とか、そんな事聞ける筈が無い。彼女の笑顔は、悲しい過去や苦しい現在の上に成り立つ、彼女のつよがりかもしれない。

大竹沙織が好きだった。だから、彼女と付き合いたかった。手を繋ぎたかった。キスをしたかった。抱きしめたかった。彼女を独占し、僕だけの物にしたかった。誰にも愛されてない僕を、愛してほしかった。この想いは変わらなかったが、そこにもう一つの想いが生まれた。彼女を救いたい。

彼女を救う為には何をすれば良いのかわからなかった。だから、僕は毎日ギターの練習をした。「君に届け」を歌って、彼女に告白する為に。彼氏になれば、すべてを打ち明けてくれるだろう。彼氏になれば、悩みに対して一緒に戦えるだろう。そう考えていた。

決行は十二月二十三日になった。

終業式の後、校門で大竹沙織を捕まえ、約束を取り付けた。本当は十二月二十四日のクリスマスイブが良かったのだが、用事があるとの事で断られてしまった。じゃあ、二十五日はと聞くと、その日も都合が悪いと言うので、二十三日で落ち着いた。場所は駅前の広場の噴水前。夕方七時に来てほしいと頼んである。成功したら、そのままご飯でも行こうと思って、その時間にした。

中学生だし、ファミレスで良いだろう。その後は公園で少し喋って、手ぐらいは繋ぎたい。いや、そうだ、記念にプリクラを撮りに行こう。そんな良い想像だけを膨らませていた。

プリクラ、所謂プリント倶楽部は、ゲームセンターや観光地などにあり、友達同士や恋人同士で写真を撮影し、それをシールとして印刷する事が出来る機械だった。周囲ではプリクラは大人気で、皆それぞれプリクラ帳というプリクラ専用の手帳を用意し、友達同士で見せ合いをしていた。僕は一度も撮った事は無いが。

当日、妹の綾香にご飯を食べさせ、ビデオを再生してから家を出た。二時間のアニメ映画のビデオを再生したので、二時間ちょっとは大人しくしてるだろう。母は相変わらず仕事に行ったままだった。

ギターをケースに入れて、肩から担いだ。お気に入りのパーカーとジーパン、この間買った黒のダウンジャケット、母からもらったフランスの国旗のようなマフラーを身に着けて、家を出発したのは六時だった。そして、島袋に見つかったのが、六時三分だ。

「おう、太一。どこ行くんだよ。ってか、お前ギターなんか弾けるのかよ。」

終わったと思った。計画はすべて失敗だと悔やんだ。

僕が黙っていると、島袋は僕の腹を蹴飛ばした。

「うっ」と顔を歪める僕を見て、島袋は「じゃあな」と走り去って行った。向かった先には、テカテカに黒光している高そうな車が停まっていた。後部座席の窓が開くと、髪を金髪に染め上げ、厳ついサングラスをかけた人相の悪い男が、吸っていた煙草を島袋に投げつけていた。

「公明!遅せんだよ!待ち合わせ、六時半だぞ。早くしろよ。」

「はい、すみません。」

そう言って、島袋はその車の後をバイクで追って行った。

僕にとっては恐怖の対象である島袋にも、当然だが上がいる。当然の事ではあるが、今までそんな事考えもしなかった。

ともあれ、難を逃れた僕は足早に駅前の広場へ向かった。広場に到着したのは、六時四十分頃、周囲に人は疎らであった。僕は噴水の前に座り、ギターを取り出した。告白すら初めての経験なのに、考えてみれば路上で、そして人前で歌うのも初めてだった。ピックを持った手が緊張で大きく震える。体育の授業で千五百メートル走をした後と同じぐらい心臓の鼓動が早い。口が渇いてきた。水を買うのを忘れた事に今頃気が付いた。それでも時間を考え、水は諦めた。

すでに陽は沈んで、辺りは真っ暗だった。僕は噴水の淵に座り、ギターを鳴らした。待ち合わせをしている人達や座り込んで喋っている人達、どんどん広場に人が増えた。こんなに人がいる場所で歌えないと思った、その時、いつもの優しい細い声がした。

「へえ、太一、ギター弾くんだ。すごいじゃん。練習してたの?」

どこに売ってるのかわからないようなピンクのダウンジャケットとチェックのミニスカート、黒いブーツ、どういう名前の髪型なのか僕にはわからないが、三つ編みのように束ねた髪を一つに結んだ髪型、学校で会う時以上に可愛いその姿に、一瞬僕は言葉を失った。

「どうしたの?キョトンとして。太一がここに来てくれって言うから来たのに。」

「ご、ごめん。」

大竹沙織は僕の左に座った。

「今日は公園じゃないんだね。どこかに連れてってくれるの?」

僕の顔を覗き込んで尋ねる彼女の笑顔に見とれてしまう。その笑顔を見ていると、何だか緊張が解れていった。何て言おう、どう言おう。ずっと考えて、考えて、悩んで、悩んでいたのだが、言葉は自然と出てきた。

「どこへ行くのか、まだ決まってない。ファミレスとか、いつもの公園とか、考えてはいるんだけど、その前に、少し話したいんだ。」

「ん?いいよ。私も、話したい事あるし。」

彼女の目を真っ直ぐに見つめた。五分後の未来がどんな結果になっているのだろうか。怖くて、怖くて仕方が無い。それでも、彼女の力になりたい。この気持ちを伝えたい。君に届いてほしい。

「僕は君が好きだ。」

「……え?」

彼女は顔を真っ赤にして、驚いていた。

「君と一緒にいたい。君を困らせる物があるのなら、やっつけたい。」

「…」

「だから、聞いてほしい。一生懸命、練習したんだ。それにこの曲は僕の気持ち、そのものだよ。」

僕はギターを鳴らす。「キムラロック」の「君に届け」を歌う。彼女が大好きな曲だ。彼女は最初は「え?マジで?」と驚いて笑ったが、歌が始まると、微笑みながら聞いてくれた。左右にリズムをとりながら。

僕は大声で歌った。広場の人達が、僕の声に気付き、こちらを見ていた。指を差して笑う人、一度見てから何事も無かったかのように振る舞う人、「頑張れ」と言う人、誰に何を思われてもいい。僕が伝えたいのは、ただ一人。大竹沙織に対してだけだ。

この想い、君に届け。

彼女の目に涙が見えた。

その次の瞬間、右肩に強い衝撃が走り、僕は背中から噴水に落ちた。

驚いて顔を上げると、そこには腹を抱えて笑う島袋や首藤、林がいた。

「本当、気持ち悪いな、お前。弾き語りで告白かよ。相変わらずダサいよな。」

 島袋が噴水の淵に座り、僕を見下ろし、威圧しながら言った。

 「悪いんだけどさ、この女借りるから。」

 そう言うと首藤は大竹沙織を後ろから抱え、無理矢理連れて行こうとした。彼女は暴れて必死で抵抗した。先程までの微笑みは消え去り、怒りと恐怖のどちらともとれる表情を見せていた。

 「辞めてよ。離して!この変態!」

 「諦めろよ。この男と一緒にいたのが、運の尽きだよ。こいつは俺たちのおもちゃだからさ。こいつの物は俺達の物なんだよ。」

 「お願い、離して!」

 大竹沙織は泣きながら抵抗した。大粒の涙を飛ばしながら、叫んでいた。脚が震えている。僕は大竹沙織を守りたかったが、恐怖で体が言う事を利かなかった。さっき、あんなに威勢の良い事を言っておきながら、いざという時に何も出来ずにいた。手も脚も自分の物では無いように、意思疎通が出来ない。動けと思う心に、四肢は逆らい続ける。

 「俺達の暴走族のリーダーがさ、女との約束すっぽかされたみたいでよ、超怒ってんだよ。代わりの女を連れて来いってな。そしたらよ、お前がギター鳴らして、ここにいますって言ってくれたからさ。ラッキーと思って来たんだよ。ありがとな、親友。もし、誰も連れて来れなかったら、俺らがボコられっからよ。助かったぜ。」

 悪びれる様子も無く言い捨てる島袋の姿に、僕の思考は飛んだ。

 「誰か!助けてください!警察…」

 そこまで言ったところに、島袋の拳が飛んできて、僕は再び後ろに倒れた。

 「痛くしないからさ。行こうか。」

 号泣している大竹沙織に、優しく言い捨てる首藤。

 「それに先輩、けっこうテクニックあるらしいからさ。安心しろよ。」

 そうして、大竹沙織を連れて行く林。

 「お前、八組の大竹だろ?保健室で何度か見たぜ。」そう自慢気に話す林に、「え?そいつウチの学校なの?」と一瞬弱気になる島袋だったが、首藤は強気を崩さなかった。

 「ウチの学校でも関係ねえよ。ってか、何で林が保健室に行くんだよ。」

 「こいつ、保険の先生好きなんだよ。」

 「シマ、言うなよ。」

 島袋達が仲良く喋っている光景が、僕には恐ろしかった。これから一人の女の子を拉致しようとしている人間に何故ニヤニヤと冗談が言えるのだろうか。彼らに罪の意識が無いのか、それとも事の重大さが解っていないのだろうか。

「三組の柿本が言ってたけど、前の学校では、けっこうヤリマンだったらしいじゃん。だから平気だろ?減るもんじゃないし。」

 林の一言に、大竹沙織は黙り込んだ。そして、静かに僕を振り返り、冷たい視線を浴びせた。

 「お前のせいだ。」

 そう言われた気がした。

 僕はその場で俯き、噴水の中で固まっていた。

 僕が悪い。僕と一緒にいたからだ。守りたいなんて、ただの口先だけだ。

 大竹沙織達を乗せたテカテカの黒い車が走り去った後に、数人の大人が僕の元へ駆け寄って来た。

 「大丈夫かい?」「今、警察に通報したからね。」「何て奴らなんだ、まったく。ロクな大人にならんな。」

 ロクな大人?あいつらは屑だ。でも、助けてくれなかったあんた達もロクな大人じゃないさ。そして、一番ロクな大人になれないのは僕だ。好きな人さえ、不幸にしてしまう。大竹沙織の冷たい視線が頭から離れない。

 大竹沙織が好きだった。ただ、それだけだった。もう何も残っていない。虐めの状況は変わらない。むしろ、唯一の救いの時間も、もう無くなってしまったのだ。

 僕が命を絶ったのは、それから数時間後の事だ。

それが、僕のくだらない人生の終わりだった。


見慣れないリクライニングシートの上、四方を黒い板で囲まれた、一畳分ほどの個室スペースに僕はいた。目の前には家のテレビよりも大きな画面のパソコンが置いてあり、ディスプレイの前には昨晩読んでいた漫画が積み重なっていた。

昨晩、首を吊った僕は死神と出会い、生きる希望を取り戻す為に未来へ連れて来られていたのだった。そして、未来の自分と出会い、生きる気力を完全に失い、駅ビルの屋上で一通り泣いた後、漫画喫茶に入り、未来の漫画を片っ端から読んでいたのだが、常に頭の中には大竹沙織がいた。大竹沙織の泣き顔が頭から離れず、一晩中罪悪感も自己嫌悪も消えてはくれなかった。自分のくだらない人生を振り返ってしまう夜は、かつて無い程、長かった。

 未来にいられる時間は三日間。生き返らないと決めたのだから、この三日間が僕の人生最後の三日間になる。それならば、後先考えずに楽しもうと決めたのに、少しも楽しく無い。楽しめる筈も無い。大事な人を傷つけた僕には、楽しむ資格なんて無い。頭から大竹沙織が離れないのだ。頭の中の彼女が僕を責める。彼女が僕の死を望んでいる気がする。頭の中から大竹沙織を追い出したくて、僕は再び漫画に手を伸ばした。

 「痛っ!」

 漫画に伸ばした手に激しい痛みが走った。のぞみさんが僕の手に噛みついていた。

 「漫画読む以外に、やる事あるでしょ?」

 「いたの?のぞみさん…うっ!」

 のぞみさんの小さな手が僕の喉を突いた。

 「あんたの為に仕事してきたのに、何よ、その言い方は。」

 そう言うと、のぞみさんは僕に黒い財布を差し出して来た。

 「未来の太一の財布。あんた、漫画喫茶の会計どうするつもりだったの?何も考えてなかったでしょ?その財布から払いなさい。どうせ、未来のあんたのお金よ。」

 感謝はするが、喉を攻撃される理由はわからない。そんな行動をしていたなんて知らなかったのだから、仕方ないと思うのだが。

 そんな事を考えながら、黒革の長方形の財布を開くと、免許証や保険証、ビデオレンタル店の会員カードなどは揃えてあったのだが、お金がほとんど入ってなかった。お札は一枚も無い。千円札すら無い。小銭が少しあるだけだ。僕は小銭をすべて取出して数えてみたが、全部で625円しか入ってなかった。他に何か入ってないかと思い探してみたが、カードの他にはレシートがあるぐらいだった。

僕は今更ではあるが、パソコンのモニターの後ろに立て掛けられていたメニュー表を見た。標準料金が430円。入店から一時間半が経過した後は、十分毎に50円が追加されるのが、この漫画喫茶のシステムだそうだ。昨夜は二十三時過ぎに店に入り、今は朝の七時。計算するまでも無い。間違いなく足りない。仕方ない、逃げるか。

小さな手でパソコンのキーボードを叩き、何かを調べていたのぞみさんがこちらを向いて、笑顔で言う。

 「さあ、行こう。太一。もう朝の七時よ。」

 「え?逃げるの?」

 「何言ってるのよ?まだ寝惚けてるの?行くよ、早く。」

 「行くって、どこへ?」

 「未来のあんたの所よ。」

 「嫌だよ。見ても変わらないよ。見たくもないし、あんなおっさん。」

 のぞみさんは僕の手をとり、真剣な表情でもう一度言った。

 「太一、行くよ。」

 僕が黙っていると、のぞみさんは続けて言う。

 「あんたはまだ見た目でしか判断してないでしょ?未来のあんたの姿、ちゃんと見なさい。どんな仕事をして、どんな仲間に囲まれて、世の中に対してどれだけ役に立ってるのかをね。未来まで来て、見た目だけで判断なんてさせないわよ。」

僕は反論が出来ずに黙り込んでしまった。

「それに、理不尽に見た目とか能力とかで判断されて、序列を決めつけられる悲しさとか悔しさとか、理不尽にクラスで一番下に順位付けされたあんたが一番わかってるんじゃないの?」

 のぞみさんはすべて知っているという事を実感してしまったからだ。

 「太一。」

 僕は渋々漫画を手に取った。続きを読む為にでは無い、片付けて、ここから出発する為だ。座り心地の良いリクライニングシートから立ち上がり、両手で十冊以上の漫画を抱えて、その小さな個室を出た。

 僕は本棚に漫画を返しながら、小声でのぞみさんに話しかける。

 「あのさ、お金足りないんだけど、どうしようか。逃げるしかないよね?…うっ」

 のぞみさんは殴りもせず、蹴りもせず、噛みつきもしないで、僕を睨んだ。その迫力に思わず一歩後退りしてしまった。

 「お金は払いなさい。人に迷惑をかけちゃダメよ。たとえ、死んでたとしても。」

 「そうは言っても…」

 「財布の中に、クレジットカードがある筈だから、それを使いなさい。」

 「クレジットカード?」

 僕は財布の中を探すと、免許証の後ろに青いカードを発見した。ローマ字で僕の名前が書いてあり、有効期限が2017年と書いてあった。

 「それよ。レジに行って、それで払うと言えばいいわ。暗証番号を入力しろと言われたら、0409って入力しなさい。暗証番号はあんたの誕生日だから。」

 「何で僕の誕生日知ってるんだよ。」

 のぞみさんは「ふう」と息を吐き、呆れた様子で呟く。

 「杉山太一。四月九日生まれのおひつじ座、血液型はO型。趣味はギター。好きな食べ物は寿司、ハンバーグ、カレーライス。生まれて初めて喋った言葉はパパでもママでも無く、バナナ。最後におねしょをしたのは小学校四年生の時…それから…」

 「わかった、わかった。最後の情報いらないって。」

「私、死神だよ。知ってるに決まってるでしょ。」

決まってるでしょと言われましても、死神について知ったのはつい昨晩だ。わかる筈も無い。

「誰の事でも?」

「この街の住民ならね。例えば、あんたの妹、杉山綾香。この時代では二十歳、二月四日生まれの水瓶座、血液型はB型。好きな食べ物は茄子とベーコンのスパゲティ。初めてアルバイトしてもらった給料で買ったのは、松阪牛のステーキ。初恋の相手は…」

「わかった、わかった。最後の情報は聞きたくない。少し気になるけど。」

 僕は漫画を返却し終えると、レジへ向かった。このカードを使えば、買い物は出来るのだが、これは未来の僕のカードだから、その請求は未来の僕に届き、さらに未来の僕が支払う事になるのだろう。本当に使って良いのだろうか。

 「ねえ、本当にいいのかな?使っても。」

 「良いよ。」

 のぞみさんは少し冷たく言い切った。

 「未来の太一が払えるかどうかはわからないけど。」

 小さな声で、誰に伝えるつもりも無い発言だったのだろう。僕は聞こえたが、そのまま聞き流した。僕はレジで髪も髭も金色の店員から1221円を請求されて驚いた。この国の消費税8はパーセントに上がっていたからだ。僕が生きていた時代はまだ5パーセントだったのにも関わらず、この時代では倍近くにまで上がってしまったようだ。僕は生き返らないという意思を再び固めた。

 クレジットカードでの支払いを終えた後、僕はのぞみさんに聞いてみた。

 「ねえ、この店員の事はわかる?」

 金色の店員が眉間に皺を寄せてこっちを睨み付けたが、僕は目を合わさないようにした。

 「こいつはわからん。この街の人間では無い。」

 「そっか。」

さらに険しく睨み付ける金色を無視して、僕らは店を出た。店を出ると、頬に冷たい風が当たり、眩しい太陽が僕を迎えてくれたが、僕の気分は決して良い物では無かった。

僕が一晩を過ごした漫画喫茶は駅前のビルの中にあった。駅からはたくさんの人が出てきて、またたくさんの人が駅に入って行った、所謂、通勤ラッシュという状態だが、まさかこんな田舎街でも起こるとは想像もしていなかった。この十五年で、この街はそこそこの発展は遂げたようだ。それは人の多さに現れている。

お腹が空いていた僕は駅前のコンビニに向かった。駅前のビルに設置された巨大モニターでは早朝だというのに、大音量でコマーシャルが流れていた。あまりの五月蝿さに、逆効果のような気もしたが、周囲の人々はあまり気にもしていない様子だった。スーツを着たサラリーマンも、派手な私服のお姉さんも、皆目的地へ無表情で向かっていた。

のぞみさんの能力を疑っていたつもりは無いのだが、この街の人間の事は誰でもわかるというのぞみさんの力を使って遊んでみようと思いつき、のぞみさんに尋ねた。

「ねえ、あのピッチリ横分けの眼鏡のサラリーマンの事わかる?」

「本田圭祐。左利きよ。」

「じゃあ、あの金髪の鱈子唇ミニスカギャルは?」

「錦織圭よ。粘り強いわ。」

「あのアフリカ系ボンバーヘッドの長身外国人は?」

「ボルト。足が速いわ。」

「本当に知っているんだね。」

「当然でしょ。行くわよ。」

コンビニに入り、朝食を選ぶ。せっかくの未来だ。現代に無い物を食べようと思って探していたが、おにぎりの具も、惣菜パンの種類も今と大して変化が無い。僕は梅と鮭のおにぎりを一つずつ手に取り、もう片方の手でオレンジ味の炭酸飲料のペットボトルを手に取った。

「げげ、あんた、どういう組み合わせで食べる気よ。お茶にしなさい。」

「いいじゃん。この組み合わせがうまいんだよ、僕にとっては。」

「馬鹿じゃない?そんな食生活してたら、体壊すわよ。」

「…もう死んでるから良いじゃん。」

「やかましい。」

のぞみさんは僕の手からペットボトルとおにぎりを取り上げ、おにぎりを買い物籠に入れて、ペットボトルを商品棚に返した。代わりに十八茶という現代には無いお茶を買い物籠に放り込んだ。のぞみさんは基本的に僕の言う事は聞かない。僕は諦めて、のぞみさんの後を付いていった。

見た目が小学校低学年の女の子がクレジットカードで買い物をする様子に店員や周囲の人が少し驚いていたが、特に気にせずに店を出た。そして、駅前の広場の噴水の淵にのぞみさんと並んで座り、僕は十八茶を飲んだ。意外に美味しかったが、感想を言うのは辞めた。のぞみさんのしたり顔など見たくは無いからだ。僕はおにぎりを包んでいるビニールを破り、朝食をとった。一口、また一口と朝食を進めながら、僕にとっては人生の分岐点となった広場を眺めていた。

昨晩は華やかに見えた広場だったが、朝になり、明るくなったその広場を見ると、捨てられた空き缶やペットボトル、煙草の吸殻、コンビニ弁当の容器などが散らかっていた。昨日とは打って変わって、汚い広場に見えた。

この汚い広場を眺めていると、昨晩の事を思い出してしまう。未来の広場では無く、現代の広場での出来事をだ。

 「のぞみさんは、どうして僕が自殺をしたか、その理由を知ってるんだよね。」

 のぞみさんは真っ直ぐに正面を見たまま、頷いた。

 「馬鹿よ。あんた。」

 のぞみさんが呟いた。

 「方法はあったわ。こうなる前に、手を打つべきだったのよ。」

反論したかったが、しなかった。抗っても無理な事はある。変えようとしても、変わらない事もある。むしろ、僕の行動によっては悪化していたかもしれない。のぞみさんのように言うのは簡単だが、実際に行動するのは難しいのだ。それでも一切の反論をしなかったのは、のぞみさんが涙声だった気がしたからだ。

 「周囲の人間も馬鹿よ。クラスメートも、教師も。大人も。暴走族も。そして、親が一番の馬鹿よ。どうして気付いてあげられないのか。あんたの周り、馬鹿ばっかり。」

 「…」

 それから、無言でおにぎりを食べ続けた。そして、食べ終わったのを見るや否や、「行くよ。」と言ってのぞみさんは噴水の淵から飛び降り、広場の出口へと向かった。

「ちょっと待ってよ。」と慌てて、おにぎりを包んでいたビニールやペットボトルをビニール袋に纏めて、のぞみさんを追いかけた。駅の広場から出て、五分程歩いたのだが、その間、僕らには一言も会話が無く、僕は無言のまま、のぞみさんの後を付いて歩いた。すると、僕らのすぐ隣を一台の自転車が一瞬のうちに駆け抜けていった。一拍遅れて届いた鼻を突く渋い匂いによって僕は気付かされた。

「のぞみさん、僕だよね、今の。」

「そうよ。急ぐよ。」

僕らを追い抜いて行った自転車は二百メートル程先にある茶色のビルの前で止まり、慌ただしく駐輪場らしきスペースに放り込まれていた。運転手である未来の僕は慌ててビルの中で駆け込んでいった。

「あそこが、未来のあんたが勤めている会社。九重電機っていう専門商社で社員数は約百五十人。一応、あんたは営業職で採用してもらって、もう八年間勤めてる。」

僕は少しがっかりした。僕にとって会社のイメージは、父が勤めていた会社のイメージが強く、未来の僕が勤めている会社とはかなりイメージが違っていたからだ。僕の父はこの町でも有数の大企業に勤めていた。従業員は四千人以上で、敷地は僕が通う中学校五十個分は軽くあった。それに比べて、未来の僕が勤めている会社は、のぞみさんによると従業員が百五十人、ビルは四階建て、敷地は僕が通う中学校の三分の一程度。こんな未来、予想していない。ビルの隣には二階建ての小屋のような物があり、ここは倉庫となっているそうだ。

九重電機株式会社の正面玄関と思われる場所に辿り着いた。防災のポスターなどが貼ってある玄関は、綺麗に掃除はしてあるのだが、床や壁の傷みも見えており、年期を感じさせた。

「太一、手をだして。」

のぞみさんはそう言うと、僕が手を出す前に僕の右手を左手で掴んだ。姿が消えているであろう僕はのぞみさんに手を引かれ、九重電機の中へ入って行った。

 正面玄関から入ると、学校の教室の半分程の広さのロビーが広がっていた。受付は2階となります、と書いたプラカードがまず目についた。その横には、おそらく九重電機の取扱製品であろう一メートル程の高さの四角の箱が置いてあった。箱の横には綺麗な女性の等身大パネルが置いてあり、女性のお腹の前辺りに、「省エネ」とか「高性能」とか、箱を宣伝する言葉が並んでいた。僕は、このような箱をどこかで見たことがあったような気がして、暫く眺めていたのだが、まったく思い出せなかった。

ロビーの奥には二階へ続く階段があり、その横には細い廊下が続いていた。廊下の途中には、トイレを示す男と女のマークが張ってあり、さらに奥には裏口と思われる扉があった。その瞬間、その裏口が開いた。

 僕はドキッとした。裏口が開き、入って来たのは、長い黒髪を靡かせ、暖かそうなファーが首回りに付いた黒いダウンジャケットに身を包み、黒いタイツを履いた長い脚を動かすたびに高いヒールをカツカツと鳴らせて歩く美しい女性だった。

 「桜井奈菜さん。」

 僕は直立不動となり、桜井奈菜さんをお出迎えした。

 桜井奈菜さんは耳にイヤホンを付けたまま、僕に向かってスピードを落とさずに真っ直ぐに歩いてきた。このままではぶつかってしまうのだが、あの柔らかそうな体に触れられるなら、ぶつかっても良いと思った。いや、むしろぶつかりたいと思った瞬間、強い力に引っ張られ、僕はその場から飛び退く形となった。僕がいたその場所を、スピードを落とさずに通り抜けた桜井奈菜さんは階段を上がって行った。

 「…エロガキ。」

 軽蔑するような視線で、下から見下すのぞみさんの発言は無視した。十五歳の男子がエロガキじゃない筈が無い。死神だろうと、僕より大人だろうと、女であるのぞみさんには理解出来ないのであろう。

 「本当に見えてないんだね。」

 「何よ、あんた。疑っていたの?」

 「そんな事ないけど…」

 「ふーん」と、のぞみさんは僕を疑いの眼差しでじろじろ見ていたが、「まあ、いいや。十五歳の男ってのは、みんなスケベだからね。仕方ないか。行こ。」と僕の手を引っ張って、階段を上がった。何だか、心を読まれてしまった事が恥ずかしくて、僕は「違うし。」とだけ言っておいた。

 九重電機株式会社の二階に上がると、正面には掲示板のようなボードがあり、そこには製品のPRのためのポスターが何枚も貼ってあった。エアコンとかコンプレッサー、トランスなど聞き覚えが無い言葉が並び、僕にとっては意味が伝わらないポスターであったのだが、どのポスターにも共通して「日置製作所」と書いてあった。日置製作所、とはコマーシャルで聞いた事があるような大きな会社だという事は知っていたが、てっきりテレビや冷蔵庫、電子レンジなど家で使用する電化製品を作っている会社だと思っていた。電化製品以外も作っていたとは、まったく知らなかった。おそらく、このポスターに書いてあるような製品を作っているのだろう。

掲示板の横にはガラスの扉があり、その奥には受付と思われるカウンターがあった。僕はのぞみさんに手を引かれるがまま、そのガラス扉を開き、中に入った。

 目の前には、初めて見るオフィスがあった。学校の教室を三つから四つ繋げた程に広がっているスペースに、六十人程のスーツに身を包んだサラリーマンやOL達がいた。

長方形の部屋は三方向が窓に囲まれており、残る一方向はクローゼットが一面に並んでいた。窓の前には、大きな机がおよそ一からニメートル間隔で横に五つ並んで置いてあり、それぞれ偉そうな人が偉そうに座っていた。偉そうな人の机の前には、八つの机が二つずつ向かい合って並んでいた。どの机の上にもパソコンと電話が設置されており、資料が積んであったり、書類が散らばっていたり、綺麗に整理されていたりと、それぞれ所有者の性格を表していた。フロアの端にはコピー機、壁には営業マンの成績表やそれぞれの名前が書かれたホワイトボードが掛けられていた。

僕が周りを見渡していると、徐々に周囲が騒がしくなってくる。

「はい、かしこまりました。ご注文ありがとうございます。」

「うん、いいよ。いいけどさ、逆にこういう案はどうかな?」

「よし、じゃあ今日はこっちの方向で動いてみよう。」

「バカヤロー!何考えてんだ、お前は!新入社員からやり直せ!」

平和な朝、突然聞こえてきた怒声に僕はビクッとした。その怒声の主を探すと、それは偉そうな机に、人一倍偉そうに座った若干頭髪が薄い、大柄な体格のヤクザのような男だった。ヤクザは続ける。

「お前に頼むぐらいなら、俺の五歳の娘に頼んだ方がまだ良い仕事するわ。このバカたれが!お前、頭おかしいんじゃねえの?」

「申し訳ございません。」

そう呟いたのは僕だ。未来の僕だった。未来の僕はヤクザの机の前に立ち、腕を後ろで組んで、下を向いていた。

僕は未来の僕の隣に立ってみた。近くで見る未来の僕は、昨日に比べると髪はボサボサで、目の下には隈があった。シャツはしわしわで、髭は所々剃り残しがあった。汚いおじさんだった。

ヤクザが未来の僕を怒鳴る中、周囲の社員達は特に動じる事も無く、仕事や会話を続けていた。それでも、会話をしながら、チラチラと様子を伺う人や仕事を続けながら、しっかりヤクザと未来の僕の会話を聞いているであろう人もいた。

結局、大人になっても、人間は大して変わらない。僕が虐められている時も、クラスメートは見ていないフリをしながら、興味津々にこちらの様子を伺っていたのだ。そして、次第に僕を自分より下の存在と認識し始め、虐めに加わり始める。この会社の社員達も何も変わらない。未来の僕の不幸が楽しいのだろう。最低だ、大人も子供も、みんな。

「なあ、何が出来るの?お前。こんな簡単な事も出来ないなら、辞めてもらった方がいいぞ。なあ、そう思わんか?」

延々と続くヤクザの怒鳴り声と周囲の視線に、僕はまるで自分が怒られているかのような錯覚に陥り、思わずこのフロアを出ようとしたが、すぐにのぞみさんに気付かれ、「太一、まだ我慢しなさい。」と心を見抜かれた。

その時、「おはようございます。」と可愛らしい声で挨拶しながら、フロアに入って来たのは、制服に着替えた桜井奈菜と友人の茶髪、確か、長谷川さつきという女だった。皆、振り向いて、彼女達に挨拶をしていた。中学生の僕はOLと言われる職業の女性をあまり見たことが無い為、その制服姿にドキドキしてしまった。胸元にリボンが付いている白いブラウスにチェック柄のベスト、膝上までの黒いスカート。私服の桜井奈菜も可愛いが、制服の桜井奈菜はもっと可愛い。

フロアの奥の方から、やや色黒で髪をオールバックにした青年が桜井奈菜に近付いてきた。「おはよう」と言いながら、桜井奈菜にぶつかるんじゃないかという勢いで近付き、ぶつかる直前で止まった。

「おはようございます。松田主任。」と笑顔で答える桜井奈菜。

「昨日、ありがとうね。楽しかったよ。また行こうな。」と爽やかに笑顔で話す松田と呼ばれた男。確か、未来の僕の同期らしい。

「是非。約束ですよ。ぜったい誘ってくださいね。」と笑顔全開の桜井奈菜。

「ああ、約束だ。」そう言って、キスをするのでは無いかと思う程、近い距離の松田。

「羨ましい…」と、見つめ合う二人を見て、思わず考えが声に出てしまった僕。

「…スケベ小僧。」と見下すのぞみさん。

「申し訳ございません。」と、未だに怒られ続けている未来の僕。

「今日の午前中に報告書を作り直して、提出しろ。必ずな。」とヤクザ。

会社ってどんな場所なのか、よくわからなくなってきた頃、突然チャイムが鳴った。学校のチャイムとは違い、非常ベルのような音が一瞬社内に鳴り響いた。すると、憎きスケベ男、松田は桜井奈菜の元を離れ、ヤクザは未来の僕への説教を辞めた。ガラスの扉が開き、どこにいたのか社員達が続々とフロアに入って来た。汚れた作業着のおじさんや、ベテランのOLであろうおばさんなど、様々な人が入って来ては、デスクの間に並び始めた。総勢百五十人ぐらいだろうか。皆が並び終えると、白髪の太った初老の男性が入って来た。まるで達磨のような体型のおじいさんで、少し親しみが湧いた。そのおじいさんが立ち止まった瞬間だった。

「おはようございます。」と約百五十人が一斉に叫んだ。僕は思わず耳を塞ごうと手を挙げたが、片手はすぐに下ろされた。のぞみさんと手を繋いでいたのを忘れていた。

「では、十二月二十四日、ただいまより朝礼を始めます。連絡事項がある方、お願いします。」そう言ったのは、五十歳ぐらいの細見の男性だった。あのおじさんが朝礼の進行役なのだろう。何人かが入れ替わり皆の前に立っては、本日の連絡をしていた。

僕は朝礼の間、フロアをぐるっと回ってみた。途中、掲示板に張られた営業実績表と書かれた紙を見つけてしまった。12月22日現在と記入された紙には、人の名前がズラリと並んで書かれており、目標の金額と達成率が名前の横に書いてあった。じっと眺めていたが、よくわからなかった。ただし、松田が一位で、杉山が最下位だという事は理解できた。

「以上で朝礼を終わります。」と細見の五十歳が叫んだ後、約百五十人の社員達はそれぞれの場所へ散って行った。未来の僕はヤクザの机の前の席に座り、その右隣には桜井奈菜が座った。桜井奈菜は椅子に座り、パソコンの電源を入れながら、喋り始めた。

「顔、赤いけど大丈夫?昨日、飲み過ぎたんじゃない?」

「うん。ちょっと、飲み過ぎたかも…二日酔いで頭痛い。」

「もう…馬鹿。こうなると思ったのよね、昨日。私、痛み止めの薬持ってるからあげようか?」

「ありがと。やっぱり奈菜ちゃんは優しいな。」

同感である。なんて気が利く良い人だ、桜井奈菜は。欲を言えば、この会話が桜井奈菜と未来の僕の会話であって欲しかった。先程までの会話は桜井奈菜とその右隣に座っている溝口という昨日見かけたチャラそうな男性社員の会話だった。二人はまだ会話を続けながら、徐々に仕事を始めていたようだ。

一方、未来の僕はパソコンを見ながら、毛深い手で電話をかけていた。

「もしもし、お世話になっております。九重電機の杉山です。はい、はい、先日は申し訳ございませんでした。その件に関しては、弊社の方で責任を持って対策させて頂きますので。はい、勿論でございます。はい、申し訳ございませんでした。」

「もしもし、お世話になっております。九重電機の杉山です。はい、はい、先日は申し訳ございません。現在、発注している製品の納期ですが、何とか十日程の短縮をお願いしたいのですが…。いえ、状況は解っておりますが、そこを何とかお願いします。すみません、ご無理申します。宜しくお願い致します。失礼致します。」

「もしもし、お世話になっております。九重電機の杉山です。はい、はい、先日は大変申し訳ございません。メーカーとのやり取りに不備がありまして、ご迷惑をおかけしました事、深くお詫び致します。申し訳ございませんでした。今後はこのような事が無いよう、対策を徹底致します。申し訳ございません。宜しくお願い致します。」

冬なのに汗を流しながら働く未来の僕の仕事を十分程眺めていたのだが、僕はどんどん気持ちが沈んでいた。

「ねえ、のぞみさん。仕事って、こんなに謝らないといけないの?未来の僕って、もう一生分の申し訳ございませんを言ってるんじゃないってぐらい謝ってるけど…大丈夫なの?」

のぞみさんは首を傾げるだけで、何も答えなかった。代わりにヤクザが答える。

「おい、杉山。報告書はまだか!」

「申し訳ございません。」

未来の僕の仕事をしばらく眺めていると、次第にフロアは騒がしくなっていった。

電話は引っ切り無しに鳴り響き、九重電機の社員達は電話をしたり、打ち合わせをしたり、指示をしたりと、皆が騒がしく働き始めた。先程まで喋っていた溝口も、桜井奈菜も、ヤクザでさえも仕事をしていた。相変わらず僕は謝りながら、電話をしていた。唯一、桜井奈菜の友人、長谷川さつきだけが暇そうに欠伸をしながら、隣りの女と喋っていた。それでも手はかなりの速度でパソコンのキーボードを叩いており、何かを入力していた。あんな様子でもちゃんと仕事が出来るのだろうか、僕には不思議に思えた。

僕はその場を離れる事にした。未来の自分が辛そうにしているのを見るのは、もう耐えられない。その場を離れようとする僕を、のぞみさんは止めようとはしなかった。

三階に上がると、そこでも数人の大人達が静かに仕事をしていた。二階の騒がしさとは打って変わって、このフロアは静けさに満ちていた。本当に同じ会社なのだろうか。

「ここは総務部ね。会社を運営するお金を扱ったり、社員を採用したり、会社を裏で支えている部署ね。」と見た目が小学生ののぞみさんが説明しているのが何だか不自然だった。

さらに上の四階に上がるとそこは汚い作業着を着た中年のおじさん達が五人いた。入った瞬間にわかる汗と油が混じった独特の匂いは、昔どこかで嗅いだ事があるような気がした。

「サービス部。機械のメンテナンスとか修理とかを担当している部署ね。」

のぞみさんは、この町の人の事だけでは無く、この町の会社の事をよく知っていた。そのまま、誰もいない会議室や、誰もいない食堂を見学し、女子更衣室の横を少し興奮して通り、再び階段を降りた。一階まで辿り着いた僕は裏口へ向かい、先程桜井奈菜が入って来た扉から外へ出た。そこは駐車場となっており、白い営業車が何十台と停まっていた。その端には自動販売機と青くて安っぽいベンチ、汚い灰皿と思われる筒状の物が置いてあるだけだった。

僕はベンチに座り、両手で顔を覆った。未来は、知れば知る程につまらない。昨日、一瞬だけ持っていた未来への期待は、すでに一握りも残っていない。

「太一、手を繋ぎなさい。誰かに見られたら、どうするの?」

のぞみさんはそう言うが、僕には疑問だった。

「僕が死んだら、この未来は無くなるんだよね。」

「もちろん。」

「じゃあ、良いじゃん。見られても、パニックになっても何も変わらない。あのヤクザみたいな男も、松田も、溝口も、桜井奈菜も、そして僕も無くなるんだから。」

のぞみさんは何も言わなかった。

「え?誰?」

その声に驚き、顔を両手で覆っていた僕は顔を上げて、その声の主を見た。見てしまった。

「杉山さん?」

その場にいたのは、桜井奈菜と一緒にいた茶髪の女、長谷川さつきだった。煙草を片手に、僕を見たまま固まっていた。そして、その次の瞬間、静寂は終わる。

「ぎゃああああああああああああああああああああああ!」

長谷川さつきはその場に座り込んた。体中を震わせながら、何度も目を擦った。長谷川さつきの叫び声を聞いたのか、松田と溝口がどこからともなく現れた。

「どうした?さつき。」

「き、き、消えたの。」

「何が消えたの?」

「若い杉山さん。」

松田と溝口は顔を見合わせて大笑いした。長谷川さつきは涙目で弁解していたが、二人の男は聞く耳持たなかった。長谷川さつきが可哀想だったが、僕には弁護することが出来なかった。僕は僕で、けっこうピンチだった。

「馬鹿!何してんのよ!あんたは!」

のぞみさんが僕の片手を掴んで、もう片方の手で全力で僕のお尻を叩いた。何度も、何度も。その度に、なかなかの痛みが走る。

「ごめんごめんごめんごめんごめんごめん!」

僕を叩く手を緩めずに、のぞみさんは言う。

「誰かに見られると、場合によっては未来が変わるのよ。特に未来のあんたと近い人間に見られるとね。気をつけなさい。わかった?慎重に行動しなさい。」

僕は「はい。」と返事したが、その声はさらに大きな声で搔き消された。

「朝のやつ、見ました?」

「ああ、あれな。まあ、見たというか、どうしても見えちゃうよな。」

長谷川さつきが首を傾げながら、裏口から入って行く後ろで、松田と溝口は煙草を吸いながら、話している。

「あの人、わざわざ休日出勤してまで作ったらしいですよ。あの報告書。それを、野杁部長にあれだけ怒られるって、マジ無能。あの人。おまけに、それで昨日の忘年会も遅刻してますからね。ホント、傑作ですよ。もう八年も勤めてるのに。多分、俺の方が仕事出来ますよ。」

溝口が一方的に喋り続ける。松田はニヤニヤしながら、話を聞いていた。途中、「あんまり悪く言うなよ。一応、俺の同期なんだからさ。」と言っていたが、溝口の「でも、役職は何年か前から違いますよね。」という反論には「まあな。」と答えていた。

「あの人、営業から外した方が良いですよ。いくら大同食品のコンプレッサー決めたからといっても、他の事が出来なさすぎですよ。前任の担当の松田主任が良い関係を作ってたから、注文をもらえただけでしょうし。」

僕は何も言わず、何も反応はしなかったが、のぞみさんの僕の手を握る力がどんどん強くなっていくのを感じていた。その力強さが、きっとこれは未来の僕について話しているのだろうと気付かせた。

「あの人、何が楽しくて生きてるんですかね?」

溝口が悪意に満ちた問いを松田にした。

「まあ、そう言うなって。駄目な奴を笑うなよ。不幸でもさ、仕事出来なくても、頑張って生きてるだろ。あいつなりに頑張れば良いんだよ。百回でも千回でも一万回でも空振りしたとしても、たまにホームラン打つ時もあるんだからさ。」

 「松田主任、言い過ぎですよ。いくら杉山さんでも一万回は空振りしないでしょ。」

 「そうか?もっとしそうだけどな。」と笑っている二人。

 「でも、実際、誰よりも仕事には取り組んでますよね。あの人。休日出勤も、残業も多いですし。努力してるのは認めますけど、方向が間違っているんでしょうね。ここまで駄目って事は。」

「行くよ。太一。」

そう言うのぞみさんが、今までで一番怖かった。未来の僕が馬鹿にされて、のぞみさんは怒っていた。それでも僕自身は不思議と怒ってはいなかった。松田や溝口に対する怒りよりも、自分に対する憐れみと、どうせ大人になってもこんな程度だという諦めがあった。もう希望なんて、無い。

「そういえばさ、二十六日のパーティ、奈菜も呼ぶから。」

その場を離れようとする僕らの背中に届いたその言葉に、思わず足を止めてしまった。

「クリスマスパーティですか?この間ナンパした子呼ぶって言ってませんでした?」

「ナンパした子は断っておくよ。」

「マジっすか?ナンパの子達って確か四人で来るって言ってましたよね。人数足りなくなっちゃいますよ。」

「誰か、適当に誘っておいてくれよ。うちの会社の連中でも良いしさ。」

「じゃあ、杉山さん誘っておきますよ。どうせ予定も無いでしょうし。ってか、どうしたんですか?急に。ナンパの子って結構雰囲気良かったじゃないですか。」

「いや、今朝、奈菜と話したら、また誘ってほしいって言ってたし。二十六日、丁度良いかなって思ってさ。」

「そりゃそうでしょ。松田主任とだったら、皆行きたがりますよ。昨日だってけっこう良い雰囲気でしたし、ずっと二人でイチャイチャしてたじゃないですか。多分、ヤレますよ。あれ。さつきもそう言ってましたし。」

「そうか?」

「何なら今日にでも。クリスマスイブですよ、今日。誘ってみた方が良いですよ。」

先輩の気分を良くしようとする溝口と、調子に乗ってニヤニヤしている松田を見ても、もう諦めしかない。僕が女でもそう思う。桜井奈菜だって未来の僕よりも、松田という男を選ぶだろう。松田の方が何十倍も良い男だからだ。

松田達の会話が終わる前に、裏口から九重電機株式会社に入る。階段を上がり、二階のフロアへ辿り着く。そして僕は長谷川さつきの机の上に胡坐をかいて座り、フロアの人々を眺めた。長谷川さつきは僕の膝の前で何度も首を傾げながら、キーボードを叩いていた。時々、未来の僕を見ては、「うーん。」と呟いていたのが、少し笑えた。

朝礼が終わり、一時間以上経過した頃、フロアは少しずつ落ち着いてきた。スーツを着たおじさん達は順番にホワイトボードに行き先を書いては、出掛けて行った。フロアの人数は朝の半分以下になっていた。

松田は何度か電話をかけたり、上司と打ち合わせしたり、女子社員からお菓子をもらったりと、何だか余裕をもって過ごしていた。未来の僕のように、「申し訳ございません。」を連呼する事は無く、爽やかに対応をしていた。ヤクザは出掛けて行き、溝口はあっちへ行ったり、こっちへ行ったりと落ち着かない様子で、仕事をしていた。桜井奈菜の周りには相変わらず男が集まっており、何人かと笑顔で会話したり、パソコンに入力をしたり、電話を取り次いだりしていた。それに比べ、未来の僕は慌ただしく働いていた。

「申し訳ございません!」

フロアにその謝罪の言葉が鳴り響いた。その言葉の主は、やはり未来の僕であった。ただし、先程まで同じ言葉を連呼していた未来の僕とは様子が違う。受話器を片手に立ち上がり、真冬だというのに額からは滝のような汗が流れ落ちていた。

「申し訳ございません。すぐに伺います。」

電話で話しているにも関わらず、何度も頭を下げながら話す未来の僕。

僕の手に痛みが走った。のぞみさんと手を繋いでいる方からだった。

それは、今までで一番の痛みだった。


   30


目の前が真っ白になった。

手が震えた。脚も震えた。一瞬にして口がカラカラに渇き、頭のてっぺんからは止めどなく汗が流れ落ちた。言葉が上手く出てこない。受話器の向こうで、相手が何を言っているのか理解が出来ない。体の奥が冷たい。

「申し訳ございません。すぐに伺います。」

電話だというのに、僕は全力で頭を下げた。

「当然だ!ガチャ!」

受話器を叩きつけるように電話を切られ、僕は全身の力が抜けた。糸が切れた操り人形のように、椅子に力無く座り込んだ。汗が頬から首へ流れていく。手が未だに震えている。目の奥で涙が製造されていく。

「…大丈夫ですか?」

隣りの桜井奈菜が仕事の手を止め、心配そうにこちらを見ていた。

「大丈夫。」

と、強がりを言ったが、すぐに「…じゃないかも。」と諦めた。

僕は大きく深呼吸をした。何度も深呼吸をしたが、腕や脚の震えはまったく止まりはしなかった。震える手でパソコンのキーボードを叩き始める。自分がどのような仕事を行ったのかを確認する為だ。お客の言い分が正しいのか、間違えているのか。いや間違いであって欲しいと願いながら。

「杉山さん、3番にお電話です。」と、会社にかかってきた電話を桜井奈菜が取り次いでくれた。だが、今の僕に電話に出る余裕は無かった。

「誰?どこから?」

「株式会社タチオカの轟原専務からです。」

「む、無理。電話中って言っておいて。」

声が震えているのが、自分でもよくわかる。汗がデスクの上にポタポタと落ちた。パソコンに、大同食品向けコンプレッサーの発注データ画面が現れ、すぐに細かく確認をした。机の引き出しから、機械毎の価格リストを取出し、発注データの内容と照らし合わせる。そして、僕は頭を抱えた。違っていたのだ。発注データ自体が間違えだった。

我が社では、トランスという変圧器やエアコンなど工場の設備機械を販売している。その中でも最も主力の製品はエアーコンプレッサーという機械だ。コンプレッサー、日本語にすると圧縮機という意味となり、エアーコンプレッサーとは空気圧縮機という意味となる。空気圧縮機とは大気を内部へ吸い込み、空気を圧縮し、圧縮空気を吐き出すという機械で、工場内のあらゆる設備に使用されている。逆に、圧縮空気を使用しない工場は殆ど無く、どこの工場にもエアーコンプレッサーが必ずある。エアーコンプレッサーの中にも種類があり、出力によって分けられる。小さな機種は十万円以下で購入できるが、大きな機種になると一台で数千万円という機種もある。

業務の流れは部署によって異なるが、基本的には営業担当がお客を訪問し、製品のPRや打ち合わせを行う。さらに、金額の提示や機器の能力などの確認をし、注文書をもらう。我が社は商社のため、機械を作る技術も設備も無い。そのため、お客から貰った注文書を元にメーカーへ発注を行うのだが、ここで何重ものチェックが必要となる。まず、営業担当もしくは営業補佐によって、お客から貰った注文書を元にメーカーへの発注データをパソコンにて作成する。その際、機械毎のコード番号を確認し、その番号と機械の型式と台数、そして特殊仕様内容、発注元データを記載し、発注データは完成となる。作成された発注データを上司に承認してもらい、業務課へメーカーへの発注を依頼をする。業務課は、発注データをもとにウェブ上の入力画面にてメーカーへ発注を行う。つまり、最低でも三人の人間が発注の工程に関わり、三重のチェックが行われるのだ。そのため、発注ミスはあまり考えにくい。

「大同食品のコンプレッサーの発注、間違えちゃった…」

パソコンの画面を見ながら、素早く入力をしていた桜井奈菜は目を開いて、こっちを見た。顔が引き攣っている。

「ど、ど、どう間違えたんですか?」

桜井奈菜の声まで震えている。無理も無い。

大同食品という会社は、この国では知らない者などいない大同グループの系列会社である。大同金属、大同住宅、大同自動車など、系列会社はニ十社以上の大企業だ。

大同食品の看板製品であるレトルトカレー「カレー天国」とレトルトシチュー「楽園シチュー」は置いていないスーパーなど無い程の人気商品で、コマーシャルでの宣伝文句「食べないあなたは地獄行き」は一時期、子供の間で少しだけ流行った。他には、ラーメンやパスタなどのインスタント麺、チョコレートやスナック菓子、調味料など様々な食品を扱っている。従業員は下請会社を含めると五千人以上という大企業である。最近では、飲料の製造を開始する予定である。

我が社としては、大同金属や大同自動車の二社が売上一位、二位のお得意様であるのだが、大同食品については注文が長年無く、売上は無いお客であった。歴代の担当者が苦戦を続け、前任は我が社のエース松田が担当していたが、それでも売上は上がらなかった。そんな中、どうやら会社は諦めてしまったのか担当が僕に変わった。

それから半年、様々な奇跡が絶妙に重なった結果、今回の飲料事業の開始に伴う新工場設立の設備案件を受注できたのだ。コンプレッサーが6台。1台四百二十三万円。合計で二千五百三十八万円を超す為、奇跡を起こした僕は朝礼で表彰された。二ヶ月前に受注した今回の案件は本日十二月二十四日納入が条件であった。何故なら、新工場は年明けから稼働する為、二十四日から二十五日に設置、二十六日に稼働テストを行い、問題無しと判断されれば、年明け初日が竣工式となる。

「機種を間違えてる…発注の時に。」

自分で言ってて、涙が出そうになった。こんなミスありえない。あってはいけない。

「能力が55キロのコンプレッサーを注文もらったのに、1ランク下の37キロを注文してしまっている。」

桜井奈菜の顔が真っ青になる。

「6台、全部。」

二千五百三十八万円の損害。いや、工場の稼働を止めてしまうとなると、損害賠償が発生する。二千五百三十八万円では済まない。新工場が一日にどれだけの製造を行う予定なのか、今すぐに正しい機械を発注し、完成するまでに何日かかるかによっては、一生かけても返せない程の金額になるかもしれない。

桜井奈菜は口に手を当てて、驚いたまま止まっていた。僕はパソコンの画面と機械毎の価格リストを何度も見たが、そこに書いてある事実は変わらない。

価格リストに記載されている55キロのエアーコンプレッサーの機械コードは「C1544131」だが、発注データでは機械コードが「C1544130」となっている。「C1544130」は37キロのエアーコンプレッサーの機械コードなのだ。違いはたったの一桁。たったの一桁なのに、製造される機械は全く違う。おそらく発注データ作成時に機械コードを間違えて入力したのだろう。型式は正確に入力してあっても、機械コードが違っていれば意味が無い。何故なら、メーカーの工場は機械コードを元に機械を製造するのだ。55キロの発注をしていても、37キロの機械コードを記入していたら、完成する機械は37キロなのだ。

大量の汗が流れ落ちる。僕らは言葉を失い、固まったままだった。

「杉山さん、3番にお電話です。」

会社にかかってきた電話を業務課の山本さんという二年後輩の女の子が取り次いでくれたのだが、もうそれに答える余裕は無い。

「杉山さん?聞こえますか?株式会社タチオカの轟原専務からですけど…」

僕は何て答えれば良いのか、わからず、無視していた。

「杉山さん?電話ですけど!」

「今、出れねえよ!」

山本さんは僕の怒鳴り声に一瞬ビクッとして、その後すぐに僕を睨み返した。

「申し訳ございません。今、出れないって本人が言っております。はい、はい。私にもわかりません!」

そう言って、山本さんは受話器を置いた。まだ、僕の事を睨んでいた。

僕は最低だ。自分の苛立ちを他人に、自分より弱い誰かにぶつけている。十五年前から、何一つ成長していない。周囲の視線が僕に集まっているのに気付いた。桜井奈菜が涙目で僕を見ていた。

「ごめん、山本さん。」そう言った瞬間、僕の声以上に大きな声が聞こえた。

「こんにちは。」

受付から届いた声にハッとした。そこには、百キロを超す巨漢が立っていた。桜井奈菜は席を立ち、その巨漢に駆け寄った。

「遠藤さん、大変なんです。」

桜井奈菜は遠藤と呼ばれた巨漢の撫肩に手を当て、涙目で訴えた。

「手配ミスがあって…助けてほしいんです。」

それを聞いた我が社の社員達は皆動きが止まった。皆の視線が桜井奈菜に集中した。

溝口が桜井奈菜に近付き、「どうしたの?」と心配そうに話しかけたり、松田も心配そうに桜井奈菜に近付いてきた。長谷川さつきは桜井奈菜に駆け寄り、彼女の手を繋いだ。

「どうしました?教えてください。」

その巨漢は普段滅多に笑わない。淡々と黙々と仕事をこなす。だが、それはあくまで男に対しての場合に限る。女に対してのみ見せる微笑で言った。

「大丈夫ですから。」

遠藤圭介。三十一歳。日置製作所の営業マンで、横に大きな体と、それ以上に大きなふてぶてしい態度、感情が無い口調から、僕はあまり好きでは無かったのだが、彼の製品担当はエアーコンプレッサーである為、今の僕は彼を無視することは出来ない。僕は、彼に縋るような思いで、その口から出る回答を待った。

桜井奈菜は内容を簡潔に伝えた。その内容を理解した同僚達からは憐れみに満ちた視線が僕に集められたのだが、僕はただ遠藤だけを見続け、彼の言葉を待った。松田は桜井奈菜の肩に手を乗せた。どこまでもスケベな男だ。松田も、遠藤も、溝口も。僕の所へは一切近寄ってこない。この失敗で桜井奈菜にどんな危機を待ち受けているというのか。いや彼女には危機など無い。この失敗の責任は、間違いなく僕に集中する筈だ。

「37キロのコンプレッサーを改造して、55キロにしましょう。」なのか、「たまたま、55キロのコンプレッサーが余ってますので、すぐに用意します。」なのか。どんな回答でも良い。誰か、助けてくれ。そう願った。

「無理ですね。どうしようもありません。」

遠藤は桜井奈菜では無く、僕を見て言った。

「大同食品向けの機種は特殊仕様品なので、どこにも在庫はありません。今から作るとしても二ヶ月はかかります。また外枠部分は同じですが、構造が全く違うので、改造できるような代物では無いですね。お手上げです。」

僕は何も言えず固まった。

「無理です。」

無表情で、追い打ちをかけるように遠藤は再び言葉を吐き捨てた。女の前では大丈夫ですって言っていたのに。

「…痛い!」と、突然遠藤はそう叫ぶと、脛を抱えて蹲った。

そんな遠藤の様子を不思議に思いながらも、僕は周囲の視線に息苦しさを感じ、鞄を持ってフロアを出た。桜井奈菜を励ます男達に吐き気を感じながら出発した。

素早く階段を駆け下り、裏口から外へ出て、駐車場の営業車の前まで辿り着く。再び深呼吸をしてから、僕は営業車へ乗り込んだ。

勢いよく営業車を出発させてから気付いた。今日、僕は財布を持っていない。昨日の夜、何時間か探したが、結局見つからなかったのだ。つまり、免許証が無い。だが、そんな事はどうでも良いのだ。今のピンチは、免許証不携帯なんて大した事は無い。もうどうにでもなれと、アクセルを深く踏み込んだ。

大同食品へ向かう途中、僕の頭の中は今回のミスの事でいっぱいだった。どうして僕はこんな失敗をしてしまったのか、どうすれば解決できるのか、どうすれば許してもらえるのか、どうすれば自分は助かるのか、僕じゃない誰かのミスであってくれ、本当に誰も気が付かなかったのか、野杁部長はちゃんと見ていたのか、業務課の人はちゃんと見ていたのか、遠藤にも機種は55キロだと伝えていた筈なのに何故あいつはミスに気が付かなかったのか。どうしてこうなったのか、誰か助けてくれ。そんな想いが心を満たしていた。

隣りの車線を走る青いスポーツカーに乗るカップルが幸せそうで嫌気がした。バックミラー越しに見えた後ろのトラックの運転手が楽しそうに歌っているのを見て、涙が出そうになった。横断歩道を手を繋いで渡っている小さな子供と色っぽい母親を見て、寂しくなった。

死刑台まで車で向かう。死刑判決まで時速六十キロで近付いていく。

全身の血液が沸騰しているかのように体が熱い。止めどなく流れ落ちる汗をハンカチで拭いながら運転を続けていると、見慣れた筈の大同食品の工場が見えてきた。五キロ離れた場所からでもわかる程大きな看板には、マスコットキャラクターである「腹ペコ大ちゃん」が描かれている。赤いキャップに、顔の半分ぐらいの大きさの目、異常な量のそばかす、耳まで届く舌を垂れ流しながら、フォークとスプーンを持って、満面の笑みを浮かべる少年のキャラクター。いつもは微笑ましいその姿が、僕を地獄へと運ぶ死神にすら見えた。大ちゃんが「お前、やってくれたな。」と、「どうしてくれるんだ。」と言っている気がする。「お前、終わったな。」と。

信号を右折し、大同食品の正門へ到着する。車を停め、守衛のおじいさんに挨拶をしてから入門許可書を見せる。おじいさんは「ご苦労様」と笑って言ってくれたが、僕は申し訳なく会釈だけをした。僕はこの会社にとっては決して歓迎されるべき人間では無い。

再び車に乗り、ゆっくりと発進する。敷地が広すぎて、徒歩で移動するには時間がかかる為、大同食品の工場内では時速二十キロ以下での車の通行が許されている。目的地である新工場は、敷地の一番端にあり、まっすぐゆっくり走って約五分、工場が見えてきた。

小学校の体育館を五個か六個並べた程の大きさの真新しい工場は、二十六日の稼働テストの為に、作業服を着ているたくさんの工事関係者が慌ただしく動き回っていた。僕にはよくわからないのだが、飲料を作る機械やペットボトルを作る機械など、大同食品としての新事業の為に様々な機械が搬入されていた。それらの機械を動かすための動力源となる機械、それを無事に納入するまでが僕の仕事だった。それに失敗したのだ。

僕は工場の前に車を停め、ヘルメットをかぶり、工場内へと駆け込んだ。一歩、工場へ入った瞬間に飛び込んできた風景、それは6台のエアコンプレッサーを前にして、項垂れる一人の男の姿だった。

「し、下出課長。」

僕の呼びかけに素早く振り返り、顔を真っ赤にして立ち上がったその男こそが、先程の僕の電話の相手であり、今回の新工場立ち上げプロジェクトのコンプレッサー担当の下出智治課長だ。年齢は四十代前半、背丈は小さく、あまり迫力は無いが、冷静で規律の厳しい人であった。その下出課長が、鬼神の如く僕に近付いてきた。今まで感じたことが無い迫力があった。

「下出課長、この度はまことに…」

ここまでしか喋らせてもらえなかった。代わりにゴンという音が工場内に響いた。言葉は下出課長の鉄拳に遮られ、僕は頬を殴らた衝撃で尻もちをついた。下出課長は地べたに座った僕の胸倉を掴み、睨み付けた。

「お前なんて、信用するんじゃなかった!クソ!」

下出課長はうっすら目に涙を浮かべていた。工場内で作業する人達が僕らの様子に驚いてこちらを見ていたが、皆その場から動けずにいた。おそらく事情は知っているのであろう。止めるに止めれない。何故なら、殴られた僕は被害者では無いのだ。

ここまで感情を露わにする下出課長を見たことが無かった僕は、より一層の危機感と罪悪感を感じた。頬の痛みなど、感じ無い程に心は取り乱していた。

胸倉を掴む手の力が抜けたため、僕は立ち上がり6台の機械に近付いた。そして、銘板といわれる機械の名札を一つずつ確認していく。コンプレッサー、食品用、特別仕様、ここまでは問題無い。だが、やはり、すべてが出力37キロ。疑っていたという事では無く、どうか嘘であって欲しかった。だが、このミスは現実だった。それを再認識させられ、僕の目にも涙が溜まった。「お前、終わったな。」と、誰かの声が聞こえてくる。

「下出課長、大変申し訳ございませんでした。」

僕は生まれて初めて土下座をした。地面に着いた手のひらも、膝も、スーツの袖も一瞬で真っ黒に汚れた。こうすれば許してもらえるなんて、微塵も考えていない。ただ、これ以上に謝罪する方法を知らなかった。

「当然、こちらが発注した機械をすぐに納入してもらう必要がある。もちろん、時間は無い。遅くても明日中には何とかしてもらわないと、稼働テストに間に合わない。稼働テストには、本社から社長が来るんだ。お前にとっては、うちの社長なんてただのおじさんかもしれないが、我々にとっては神様のような人だ。稼働テストには絶対に間に合わせないといけない。」

そう喋り始めた下出課長の言葉に力は無い。淡々と、黙々と、伝える。

「でも、無理だろう。特注品だもんな。何度も打ち合わせして決めた仕様だからな。製作にも二ヶ月はかかると言っていたのにな。それを…」

何故、間違えたのか。何故、間違えることが出来るのか。

自分を落ち着かせるように、下出課長は深呼吸をしてから言った。

「とにかく、方法を考えてくれ。改造できるのか。どこかに同じような機械が無いか。あらゆる対策を講じてくれ。そうしなければ、お前も、私も終わりだ。」

少しずつ、下出課長の声が震えだす。

「お前にとっては機械の発注ミスで二千五百万の損害かもしれないが、すでにこのプロジェクトはスタートしている。新商品の製造、発売日もすべて決まっている。コマーシャルだってすでに撮影のスケジュールが決まっている。勿論、万が一を考え、それはタイトなスケジュールでは無い。工場の稼働テストがうまくいかなかった事も考え、多少の余裕を考えてはいる。だがな、余裕は二ヶ月も無い。正月休みを含めて三週間ぐらいだろう。一ヶ月分以上の損害賠償が発生するだろう。いくらになるかなんて、もう計算したくもない。それを払うのは、お前だけじゃないだろう。私もだ…」

言葉に詰まる下出課長の顔を僕は直視出来なかった。それは、僕の責任だからだ。今頃になって殴られた頬が痛い。地面に鼻血が数滴落ちた。

「私にも責任がある。お前を信用してしまった事が私のミスだ。このまま、事態を収束出来なかったら、私はクビだろう。社内での責任を誰かが負わなければいけない。」

僕はまた誰かの人生を狂わせるのだろうか。意識が遠のきそうな程の眩暈がした。

「私は他のメーカーで用意が出来ないかを調べる。お前は、正しい機種が用意出来ないか、改造が出来ないか、大至急確認をしてくれ。」

最後に、頼むと呟いた言葉が耳に残った。


目の前に迫って来た大きな拳に僕の体は固まり、左頬に衝突した瞬間、その衝撃によって後ろに倒れ込んだ。

「馬鹿たれが!」

野杁部長は倒れ込んだ僕を見下ろしながら、怒鳴った。その様子を同僚達が黙って見ていた。「立て!」と、僕を倒した張本人に促され、僕はゆっくりと立ち上がった。部長に殴られ、その前は下出課長に殴られた左頬は、ズキズキとかなり痛む。

大同食品の工場を出た後、僕は野杁部長の携帯電話に連絡し、報告をした。昼食をとっていた野杁部長は激怒し、すぐに会社に戻ってくるように指示をしてきた。そして、急いで戻った僕を待っていたのは顔を真っ赤にした野杁部長の鉄拳と、いつも以上に何故か落ち着いている社長だった。そして、すぐに日置製作所の遠藤と業務課の国吉課長が集まって来た。受付のすぐ横にある打ち合わせスペースで、僕は吊し上げられた。

「業務課としては、杉山くんの作成した発注データに基づいて発注をしております。入力は長谷川さんが行っておりますが、発注データ通りで間違いありません。」

まずは来年で定年を迎える国吉課長が先手を打った。だが、それについて異論は無い。確かに僕の作成した発注データには、55キロでは無く、37キロと記載されていた。そして、この発注データはパスワードで管理しており、僕のパソコンで、僕のパスワードを使用しないと入力が出来ない事になっている上、変更を加えるには主任以上の人間の承認が必要となるのだが、変更の形跡も無い。つまり、発注データについては僕のミスが確定している。それでも先手を打ってくるのは、業務課としてのペナルティを避ける為だろうし、自分自身を守ろうとしているのだろう。

「遠藤。何か、手は無いのか?」

野杁部長が遠藤を睨み付けながら尋ねる。

「私としても、いつもお世話になってる野杁部長の案件ですし、何とかしたいと思って方法を考えたのですが、今回の機種については非常に難しいです。仕様が特殊過ぎて、打つ手がありません。非常に悔しいのですが…」

と、答える遠藤を今度は僕が睨み付ける。さっきは「無理です。」って即答したのに、この態度の変わり具合は何だ。

「私がちゃんとしていれば…」

そう言う野杁部長を見て、その後ろで、このやり取りを泣きながら見ている桜井奈菜に気付いた。その横には長谷川さつきと予想通り松田。どこまでもスケベな男だ。

僕は地面に滴り落ちる鼻血を見た。みんな誰の事を、何の事を考えているのだろう。この場で事態を収拾しようとしている人間は何人いるのだろうか。

「今は、誰の責任かを明確にするよりも、この事態をどう解決するかを考えないといけません。」社長が淡々と喋り始めた。口調は穏やかだが、目は決して笑ってない。

我が社の社長、九重貞治。確か年齢は74歳か75歳。九重電機を立ち上げた方で、国立大学出身とあり知識も深く、頭も切れる。いつも笑顔を絶やさず、恰幅の良い達磨のような体型で親しみやすい存在ではあるが、強いリーダーシップも持ち合わせ、社員からの信頼も厚い。それでも一度怒ると、誰も手が付けられない存在である。

「野杁部長、お願いしますよ。すぐに緊急で対策をとってください。」

「すぐに対策致します。」野杁部長は力強く返事をした。

「申し訳ございません。」

目の前の社長に向かって言ったのでは無い。会社に、お客に、もっと大きな何かに許されたくて、僕はもう一度言った。いや、言ったというよりも叫んだ。

「申し訳ございません!」

誰も、何も言ってはくれなかった。

その後、野杁部長と遠藤の三人で対策の打ち合わせをした。発案は二つ。一つは、エアーコンプレッサーの製作工場に頼み、55キロの製作を限界まで急がせることだ。だが、当然本来は製作に二ヶ月ほどかかる機械だ。どんなに急いでも数日で用意できる筈が無い。二つ目は、37キロを改造する事だが、こちらはすでに結論が出ていた。遠藤が調べたところ、電動機も圧縮部も、配管も違っていたそうだ。改造など出来る中身では無かった。つまり、道は一つに絞られる。僕と遠藤はすぐに支度を済ませ、名古屋駅へ向かい、新幹線に飛び乗った。コンプレッサーの製作工場がある静岡に行く為だった。

今朝、妹の綾香から二万円借りておいて良かった。まさか、新幹線代をくださいと会社に言っていたら、痣がもう一つ増えていただろう。

野杁部長は車に乗り、大同食品へと向かった。謝罪と、期限の延長を認めてもらう為だった。

新幹線の中、僕と遠藤は一言も会話を交わさず、約一時間の道程を進んだ。途中、スマートフォンにメールが届いた。一通は桜井奈菜からだった。(ごめんなさい。ちゃんとチェックしてなくて。何にも役に立てないですけど、せめて他の仕事はやっておきますので、工場へのお願い、頑張ってください。)彼女の気持ちが嬉しくて、少し涙目になった。やっぱり、良い子だ、桜井奈菜は。その後、すぐにもう一通、居酒屋「香川」の看板娘、三浦結衣からだった。(アニ、今日何時に来れる?クリスマス会の準備手伝って。全然間に合わない。このままでは、いつも通りの味気ないお店でみなさんをお出迎えしないといけなくなってしまう  笑)そんな事知らねえよ。少しも笑えないが、少し気が緩んだのか、お腹が鳴った。そういえば、昨日は財布を探し回っていた為、あんまり寝ていなくて、朝は寝坊してしまった。そのため、時間が無く、朝食すら食べていない。当然、このトラブルで昼食も食べていない。

ふと窓の外に目をやる。沈む夕日を見ながら、零れ落ちそうな涙を堪えていた。陽はまた昇る。僕は、どうだろうか。再び昇るイメージがまったく沸かない。

(大丈夫。心配しないで。何とかなる。そっちは大丈夫?)と、桜井奈菜へメールを送った。何とかなる、いや何とかしないと僕に明日は無い。下出課長にも、野杁部長にも。すぐにスマートフォンが振動した。届いたメールを開封する。(ねえ、何時ぐらいに来れる?)という結衣からのメッセージを読んで、返信もしないで画面を閉じた。その後、新幹線に乗っている間に桜井奈菜からの返信は無く、代わりに結衣からは画像付のメールが届いた。サンタクロースの格好をしている結衣の写真だった。能天気に満面の笑みで写る結衣に少しイラついた。

製作工場に到着した時、既に六時を過ぎていた。本来であれば、退社時刻を過ぎているのだが、生産管理課の担当者、久保は僕らを待っていてくれた。僕に死刑宣告する為に。

「絶対に無理です。」

事務所の中にある応接スペース。白いテーブルに水色の四つの椅子。椅子に座った瞬間に挨拶も無く、飛び込んできた一言だった。駆け足で辿り着いた為、肩で呼吸している僕は、その言葉を聞いた時に一瞬固まった。久保は、見た目は僕よりも三つか四つは若いだろう。無表情で身長は180センチ以上あるだろう。耳にはピアスの穴がいくつもあり、髪は茶色く染めている。

「無理は承知です。そこを何とか…」

そう言う僕の言葉を遮り、久保は表情を変えずに説明に移る。

「事前に遠藤から連絡を頂いた仕様から判断すると、対応は100パーセント無理です。今回納入した37キロと55キロは外観やパッケージは変わりません。勿論、銘板部分は変わりますが。つまり、内臓部品を取り換えて改造する事は可能です。」

僕は思わず、遠藤を睨んだ。こいつは改造出来ないと言っていたのだ。遠藤は僕の視線に気付きこちらを見て、すぐに目を逸らした。久保は僕らの様子などお構い無しで説明を続ける。

「共通部品もありますが、当然違っている部品も多々あります。プーリーやベルト、配管、フィルター、タンクなどは幸い共通部品ですが、圧縮部、それからインバータ、電動機、オイルポンプ、始動盤など計三十五点の部品を交換する必要があります。」

久保は手元のエアーコンプレッサーの分解図と部品リストを手早く捲りながら喋った。我々が来る前に、しっかりと調べてくれていたことは伝わった。

「交換部品の内、殆どの部品が常備在庫品の為、今日持ち帰ってもらう事だって出来ますが、二点だけ在庫が無い部品があります。まず一つは電動機。そして、圧縮部。どちらもコンプレッサーの心臓部にあたる部品です。もし仮に用意出来たとしても、部品代だけでも、本体の半額ぐらいの金額になる事が予想されますので、約一千万程の損害は発生するかと思います。」

「圧縮部と電動機、何とか用意して頂けないでしょうか。」

僕は白いテーブルにぶつかりそうな勢いで頭を下げた。

「今回のご発注機種は、食品関係の為、特殊な圧縮部を使用しております。そのため、弊社としましても年間の納入台数も少なく、常備しておりません。ご発注を頂いてから、製作をしますので、どんなに急がせても、二ヶ月近くかかります。フォーキャストを頂いて、エビデンスを残した上で、事前に製作し、短納期対応する事はありますが、今回は厳しいでしょう。年末年始の休暇もありますし。」

僕は気が付けば、久保の胸倉を掴んでいた。一拍置いて、椅子が後ろに倒れる音がした。フォーキャストだとこか、エビデンスだとか、横文字を並べられても意味がわからない。その機械のように無感情な喋り方に苛立ってしまった。こちらとしては、何とか協力してもらうしか方法が無い。

「今回は?次回なんて無いんだよ。ここでやれなきゃさ。年末年始、しっかり休まれてもよ。年明けじゃ、すべて手遅れなんだよ。」

それでも久保の表情は変わらない。

「それ、自分が悪いんでしょ?」

それは勿論認める。だが、すでに自分一人の問題じゃないのだ。

「それに…」

久保からの死刑宣告が終わる。

「圧縮部はタイの工場で作っています。今すぐに作っても、船で運ぶ為、一ヶ月はかかります。勿論、製作には一ヶ月はかかりますが…」

全身から力が抜ける。

「絶対に無理です。この言葉の意味、理解して頂けましたか?」

その後、一時間は粘ったが、最後まで希望は見出せなかった。久保の上司の五十代ぐらいの優しそうな男性に肩を叩かれて、コーヒーを奢ってもらい、「お役に立てず申し訳ない」と頭を下げられた時が交渉終了のタイミングだった。結局、圧縮部と電動機を用意してもらい、改造する方法が一番損害は少なくて済む。その二つの部品を少しでも早く用意してもらえるよう、頼むしかなかった。現在在庫している部品については、無理を言って、運送会社のトラックに集荷に来てもらい、圧縮部と電動機を除く6台分の全ての部品を発送してもらった。明日、九重電機に到着する予定だ。

念のため、久保からエアーコンプレッサーの分解図と部品リストのコピーをもらい、鞄に仕舞った。そして、久保と、久保の上司を前に、僕は本日二度目の土下座をして、製作工場を後にした。

工場を出た後、駅に向かって歩きながら野杁部長に報告の電話をした。当然、成果を上げらえなかった為、散々怒鳴られたが、黙って聞くしかなかった。野杁部長の方もうまくいかなかったようだ。下出課長に頼み込んでも、二十六日の稼働テストまでに用意してほしいの一点張りだったそうだ。残された手段は、メーカーに頼らず、自分の力で圧縮部と電動機を探す事だ。過去に納入した実績を調べ、頼み込むしかない。貸してくれと。そして、僕らでも他メーカーに頼み込むかだ。下出課長がすでに動いている筈だが、自分達でもやるしかない。

再び静岡駅に到着し、遠藤と二人で新幹線に乗った。真っ暗な景色を見ながら、僕は振り返っていた。何で間違えてしまったのか。本当に自分だけの責任なのか。追い詰められて、助かる方法が無くなってくると、誰かに責任を押し付けたくなってしまう。自分の汚さが嫌になるが、今はそうでもしないと、プレッシャーに潰されそうだった。それに、一人ではどうにもならない。本気で、自分の事だと捉えて動いてくれる協力者が必要だ。

「あの、見積の依頼をした時は、55キロでしたよね。」

新幹線の中、窓側に座った僕は、通路側に座った遠藤に、声を潜めて尋ねた。

今回の発注機種は特注品の為、僕には値段が算出出来ない。必ずメーカーから、遠藤から見積書として、価格と納期を提示してもらっているのだ。もし、その時点から間違えていたのであれば、当然その後の全てが間違って進んでしまう。

「確か、そうですね。55キロの、食品工場向け仕様の55キロ。」

「じゃあ、図面や仕様書も55キロで提出してくれてますよね。」

「そうですね。」

「注文は55キロの価格でしているし、事前に見積も提出書類もお願いしているのに、37キロの発注をしている事におかしいとは思わなかったんですか?」

先程までは会話中に目も合わせず、ずっとノートパソコンを操作していた遠藤はムッとした表情で、こちらを向いた。

「私の責任だと言いたいのですか?」

勿論、全てがメーカーの責任だとは思っていない。僕が悪いのだが、どうしても本気で協力してもらう必要があったのだ。

「遠藤さんにも責任があるとは思っています。」

遠藤は再びノートパソコンの画面に視線を移し、今まで同様に感情を込めずに答えた。

「私は、37キロで注文をもらったので、その通りに工場へ指示をしただけです。価格は確かに本来より高かったですが、杉山さんが高く発注をくれただけだと思いました。承認図の依頼も無かったですし、55キロの事はまったく気にしていませんでした。」

遠藤はノートパソコンを閉じ、立ち上がった。「煙草、行ってきます。」と呟く背中に、もう一言だけ投げかける。

「僕、言いましたよね。大同食品のコンプレッサー、注文になったと。発注をすると。遠藤さんの言い分だと、それはどうなったと考えるんですか?まだ発注をしていないだけとでも言うんですか?」

遠藤は振り返らずに吐き捨てるように言った。

「そんな事、言ってましたっけ?」

遠藤はそのまま名古屋に着くまで、席に戻ってこなかった。

名古屋に戻ってきたのは、九時半頃だった。新幹線から降りると駅のホームのあまりの寒さに驚いた。明日は雪が降ると、朝の天気予報で言っていたが、今すぐにでも降って来そうな程の寒さだった。

そのまま飲みに行くという遠藤と別れ、疲れ果てた心と体を引き摺って会社に戻ると、二階部分の電気が点いていた。裏口から入り、階段を上がる。外から見た限り、三階や四階は灯りが点いていなかった為、おそらく二階のフロアにしか人はいないのだろう。そして、いるとしたら野杁部長だろうか。僕は怒られるのを少しでも先延ばしする為に、まずは四階へ上がった。男子更衣室の自分のロッカーへ行き、コートとマフラーを置く為だった。暗い廊下を進むと、右側に男子更衣室があり、左側に女子更衣室がある。すると、突然更衣室の扉が開いた。出てきたのは、湿った生々しい匂いと同期の松田だった。それは左側の扉から出てきたのだ。

「お、おう。お疲れ。帰って来てたのか。遅かったな。」

僕を見て、目を大きく開いて驚いた松田は冬なのに少し汗をかいていて、ワイシャツのボタンは三つ目まで開いていた。室内を見る松田の視線の先を覗くと、そこにいたのは、朝よりも髪が乱れていて、頬を赤くした綺麗な女性だった。今日、黒いタイツを履いていた筈なのに、白い脚が見えた。

あまりの衝撃に、僕は一瞬その女性が誰か理解出来なかった。毎日見ているのに、初めて見る表情をしていたからだ。乱れた髪の隙間から覗いた目が、僕を見た瞬間、その女性はすぐに目を逸らして、松田と僕の横をすり抜けて駆けて行った。

「ごめんなさい。」

そう言いながら去って行った女性を、松田がご丁寧に、「奈菜、待って。」と相手を紹介しながら追いかけた。

僕は、更衣室のロッカーにコートとマフラーを置いて、二階のフロアに降りた。

すでに誰も残っていなかったが、僕は自分のデスクに向かい、パソコンを立ち上げた。圧縮部と電動機を探さないといけない。他メーカーで同じような機種を持っているところを調べないといけないのだ。やらなきゃいけない事は理解している。それでも、頭からさっきの光景が消えない。クリスマスイブの夜、誰もいない会社の、誰もいない更衣室に、若い男女が二人。汗ばんだ男と、髪が乱れた女。素人童貞の僕でもわかる。二人が、そこで何をしていたのか。自分が見てしまった物は、見てはいけなかった物だと。

桜井奈菜の表情が頭から消えない。笑った顔、泣いた顔、困ってる時の顔。でも、何故だろう。見たことが無い筈なのに、想像出来てしまう。あの更衣室の中で、どんな顔をしていたのか、頭に浮かんでしまう。頭が回らない。何を思えば良いのか、わからない。

鞄の中から、「ブーン」という振動が聞こえた。スマートフォンを鞄に仕舞っていたのを忘れていた。メールだった。送信者は結衣だった。(何時ぐらいに来れそう?仕事、まだ終わらない?)というメッセージの下には、他にも八通の未読メールがあった。七通は結衣からだ。残り一通は奈菜からの返信だった。受信時刻は八時過ぎだったのだが、まったく気が付いていなかった。

(こっちは大丈夫です。杉山さん、ちゃんと帰ってきてくださいね。心配です。待ってます。)

僕は持っているスマートフォンをそのまま壁に投げつけた。バキという音を鳴らして壁に衝突し、地面に落ちた。

何が大丈夫なんだ。松田と一緒だから大丈夫とでも言いたいのか。何が心配なんだ。男に抱かれながら、他の人間を心配できるのか。そんな事を考えてしまうが、本当は彼女は何も悪くない。裏切られたのではない。彼女はただの同僚なのだ。恋人では無い。友達ですら無い。この悲しみも、この怒りも、全て僕の独りよがりなのだ。これはただの失恋。それでも、心は裏切られた気持ちで満ちていた。

神様、あなたは残酷な人だ。気に入った人間には、二物も三物も与え、気に入らない人間に対しては悪魔のような仕打ちをする。僕らにだって心がある。傷つけられたら痛むし、いつまでも平気では無いのだ。夢だってある。欲しい物だって、なりたい理想だって当然あるのだ。それでも、どんなに頑張っても手に入らないのでは、心が折れそうになる。そして今、僕の心は限界を迎えている。どうか、神様許してください。もう、無理です。これ以上の不幸は。今までの不幸でもう限界です。

その時、地面に落ちたスマートフォンから音楽が流れた。着信音に設定していたキムラロックの「君に届け」だった。ただ、ずっとマナーモードにしていたから、久しぶりに聞いた。

最初は無視しようと思ったのだが、あまりに長く鳴り続ける為、僕は渋々スマートフォンを拾いに行った。液晶画面が割れていて、誰からの着信か読み取れなかったが、とりあえず通話ボタンは反応した。声を整えてから喋る。

「もしもし?」

「もしもし、死神商会です。」

「……………………はい?」


 僕は自転車を漕いだ。立ち漕ぎで、全速力で。ただ、頭の中は混乱したままで、何一つ意味が解っていない状態であった。それでも、現場に行く為に、ひたすら自転車を漕いでいた。そして、目的地に到着し、自転車を停めて、僕の住んでいるアパートの階段を上がると、二人の人物が視界に入った。その瞬間、僕の思考は停止した。

 「遅かったね。待ってたよ。」

 そう言う、小学校低学年の白い着物を着た女の子は、まだ良い。僕の思考を止めたのは、その後ろでぐったりと横になっている中学生の男の子だった。それは、僕だ。紛れも無い、若い頃の僕だった。

 僕と妹が住んでいるアパートの玄関の前、寒い寒いクリスマスイブの夜、荒い呼吸の度に白い息が風に消える。

 「…僕?」

 白い着物の女の子が少し自慢気に笑いながら答える。

 「そうだよ。中学生の杉山太一。あんたが自殺した十五年前から連れて来たの。電話で説明したでしょ。」

 確かに、先程の電話で僕は死神商会ののぞみという女と会話した。おそらく、この白い着物の女の子なのであろう。確かに、過去の僕を連れて来たという事も聞いた。それでも、パニックになり過ぎた僕の頭は冷静な思考を失い、何も理解出来なかった。

 「十五年前、あんた自殺したでしょ?それって、こちらとしては非常に困る事だったのよ。だから生き返ってもらう為に、未来に連れて来たの。未来のあんたが幸せなら、過去のあんたも生きる希望を持てると思ってね。」

 死神商会ののぞみと思われる女の子は、過去の僕の方を見て、残念そうに言う。

 「でも、結果は駄目だったわ。逆に失望しちゃった。」

 その言葉に、心が波を打った。

 「過去のあんたと一緒に、昨日と今日のあんたを観察させてもらったの。」

 死神商会ののぞみは、僕の方を向いて言った。過去の僕では無い。未来の僕だ。

 「仕事では謝りっぱなし。同僚には馬鹿にされる。そして、大き過ぎるミスをして、二千万円以上の損害を出して、評価は最悪。彼女もいない。好きな女は、別の男に抱かれる始末。もう希望も何も無い。こんな未来なら、今ここで人生を終わらせたくなったんだって。それで、飲んだことも無いくせに、この歳で妬け酒飲んで、たった一杯で、泥酔しちゃってさ。」

 僕は死神商会ののぞみという女の子から目を逸らせなかった。それは驚きと、怒りにも似た疑いの想いから。

 「どうしてくれるのよ。過去のあんたには生き返ってもらわないと困るのよ。」

 あまりの出来事の連続に、僕は言葉を失っていた。その間、死神商会ののぞみという女の子は、地面に落ちていた鬘と眼鏡を拾い、過去の僕に装着させた。その鬘は前髪が非常に長く、表情が隠れてしまう程であった。

 「とりあえず、過去のあんたを泊めてあげて欲しいんだよね。良いでしょ?こんな状態じゃ、どこにも泊めれないからさ。」

 その依頼に、ようやく言葉が反射的に出た。

 「いや、綾香がいるし。何て説明すれば良いのか…」

 「親戚とでも言っておけば良いでしょ?ほら、担いで。」

 何故だか、素直に言う事を聞いてしまい、僕は過去の僕を背負った。重くて、フラッとしたが、死神が手を貸してくれた瞬間、急激に軽くなった。僕は混乱したまま、玄関を開け、すぐに部屋から出て来た綾香に説明をした。彼は杉山家の親戚で、杉山一郎君。今日は奈良県から遊びに来たんだけど、疲れて眠ってしまった。今日は泊めると。綾香は「ふーん。わかった。おやすみ。」と言って、再び部屋に戻って行った。

 僕は、水色のソファに過去の僕を寝かせて、再び外へ出た。

 一緒に外に出て来た死神商会ののぞみに問う。

 「これは、何?まったく理解出来ない。」

 「何?信じてないの?」

 そう言うと、死神商会ののぞみは僕の手を握った。

 「これなら信じるでしょ。」と言った瞬間、頭上から風が吹いた。いや、違った。足が地面から離れ、僕等がいたアパートや、今まで走って来た道路、学校、駅、様々な物が沈んでいった。そして、一瞬の後に気付く。僕と女の子が急上昇しているのだ。僕らは高く高く宙に浮いて行った。

 「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 あまりの恐怖と、現実離れした状況、そして今日一日の不運な出来事、僕の心のキャパを軽く超えていき、僕は意識を失った。

 死神商会ののぞみも、今の僕を見て希望を失った僕も、仕事の失敗も、桜井奈菜への失恋も、全てが夢だったら良いのに。

目が覚めたら、またいつもの今日が始まれば良いのに。





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