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僕に届け  作者: しの
2/6

12月23日


   15


 「ちょっと、生き返ってくれない?」

「いや、無理。」

 目の前の少女の要求に僕は間髪入れずに答える。

 死神の「のぞみ」と名乗る、小学校低学年ぐらいの女の子は、僕の回答が予想外だったのか、大きな声で「はあ?」と顔を歪めて叫んだ。

 「なんで?チャンスだよ。普通は無いよ、こんなこと。一回死んだのに、生き返れるなんてさ。太一、あんた何考えてんの?ちゃんと頭を使って考えなさい。」

 突然、親が子供を叱るような口調に変わる。

顔や身長は十歳にもならない程幼く、肩にようやく届く長さのショートカットの髪は、一度も染めたことが無いような健康的な物で、さらに彼女を幼く見せた。透き通るように鮮やかな純白の着物に深い赤色の帯、藁で編んだ草履を履いている。体の大きさに似合わない大きな黒い辞書を片手に、座り込んだ僕を少しだけ上から見下しているその姿と発言に、思わずカッとなり言い返してしまう。

 「当たり前だろ。僕は偶然死んだんじゃない。自分で首を吊って死んだんだ。自分で死を選んだんだよ。お前こそ、ちゃんと頭使えよ。」

 幼く細い目をカッと開き、死神は顔を真っ赤にしながら言い返して来た。

 「選んだ?逃げただけでしょ?」

 何なんだ、この生意気な餓鬼は。

「うるせえな。いいんだよ、どっちでも。どうせ、生きていたって良い事なんて無いんだ。どうせ負け続ける。何も手に入らない。誰も幸せに出来ないし、誰かを不幸にしてしまう。生きる資格なんて無い。僕の命に価値も意味も無いんだ。」

死神は呆れた様子で溜息をついた。

「せっかく勇気を出して死んだのに、何で生き返らないといけないんだ。もう、いいんだよ。早く天国でも地獄でも連れて行ってくれよ。」

死神の小さな手が僕の両肩を掴む。座り込んで背を丸めた僕の顔の高さに、膝立ちをしている死神の顔がある。その顔が一瞬、遠のいたと思ったら、凄まじい速さで近付いてきた。

ゴン。

「痛え!」

死神はその石頭を僕の額に勢いよくぶつけてきた。僕はあまりの痛みに両手で額を何度も擦った。怒りを込めて、「何するんだ」と言い放ちながら、死神の方を見ると、僕を憐れむかのように冷たい鋭い視線を浴びせかけてきた。そして、じっと僕の目を見て死神は言う。

「立ちなさい。太一。行くよ。」

僕は視線を逸らした。

「あんたが死んだら、泣く人がいるでしょ?」

全部わかっているような口調で、自分が絶対に正しいと思っているであろう発言を続ける死神が僕は煩わしかった。僕は肩を回し、死神の手を外して立ち上がるついでに、一言だけ。「いないって。どこにも。」そう言うと、死神は困ったような、怒ったような表情をして、黙り込んでしまった。

1999年7月、恐怖の大王がやって来て、人類は滅びる。というノストラダムスの予言は見事に外れ、これからも生きていかないといけない事が確定してから一年半が経った2000年のクリスマスイブのイブ。僕の心は限界を迎えた。

なぜ首を吊ったのか、その理由を話すと「たった、それだけのことで?」と疑問に思う人もいるかもしれないが、中学三年生という多感な時期の真っ只中にいる僕にとって、その理由は十分に生きる希望を失うに値する出来事であった。もうこの世には生きる希望も生きる意味も、そして生きる資格すら無い。そう悟った僕は、放心状態で街を徘徊し、気が付けば、父が勤めていた会社の近くにある公園を訪れていた。

小さい頃、よく遊んだ小さな公園の奥にある桜の木。今はもう一枚の葉も付けていない大きな木から伸びる細い枝に、先月母親からもらった白と紺と赤のストライプ柄というフランスの国旗を思わせるハイセンスな手編みのマフラーを括り付けて、そのマフラーで首を吊った。死ぬ程苦しい一瞬の後、僕の肉体は死を迎え、十五年という短い生涯に終止符を打ったのだ。だが、小学校低学年の女の子が本物の死神なのだとすれば、どうやら僕は魂だけ現世に取り残された、らしい。

今の僕は肉体を失った魂だけの存在らしいのだが、手も足も、髪もちゃんとあり、形は死ぬ前と何も変わっていない。死ぬ前に着ていたお気に入りのパーカーもジーパンもちゃんと着ている。本当に自分が死んだのか、疑問にすら思うが、目の前にある自分の死体が持つ説得力には劣る。目の前の僕には、先程受けた暴行の痕がハッキリと残っており、頬から目の下は腫れて、鼻血が滴り落ちていた。口からは唾液が垂れ流しになっており、顔は真っ赤に紅潮している。もうこれ以上見たくないと思った瞬間、バキという音と同時に目の前の僕が動いた。

「うわっ」と、僕は驚き、後ろに飛び跳ねた。目の前の僕は力無く、地面に倒れ込んでいる。僕の体重を支える事が出来ず、桜の木の枝が折れたという事に気付いたのは、その場から走り去ってからだった。

死神の横を走り抜け、公園を出ると、民家が何軒も並んでいる。中には同級生の家もあった。三階建ての豪邸だ。確か母親が隣りの校区の小学校で教師をしており、自分自身も学級委員をしていた筈だ。勉強も出来るし、友達も多く、女子にもモテる。僕はその同級生は優等生過ぎて嫌いだった。彼を見ていると、羨ましくなる。そして、自分が惨めになるのだ。

民家を越え、走る速度を落とし、歩き始めた。車の修理工場の前を通り、弁当屋を右に曲がると、そこは駅前の商店街の外れになり、人通りが急に多くなる。

厳しそうなお父さんとショートカットの優しそうなお母さん、そして小さな女の子が三人で手を繋いで歩いている。自分には最早縁が無い家族団欒に思わず目を逸らす。背が高くて格好良いお兄さんと綺麗な茶髪のお姉さんが寄り添うように歩いている。友達同士で遊んでいる高校生のお姉さん達は二人とも満面の笑顔で話しながら歩いている。どちらも僕にはどれほど頑張っても手に出来ない程の幸せな姿で見ていたくなかった。

みんな、幸せそうな顔をして、それぞれの目的地へ向かっているのに、僕は目的も無く歩いた。せっかく死んだというのに、未だに自分が惨めに思えた。たくさんの車が僕の横を通り過ぎ、たくさんの人とすれ違ったが、誰も僕の存在に気付かない。魂だけの存在となった僕は、やはり誰からも見えていないのだろうか。いや、死ぬ前でも誰からも見られていなかったような気もする。

 このまま駅の方へ進めば、僕が自殺を決意した駅間広場に辿り着くだろう。そこに島袋や首藤、林はいるのだろうか。大竹沙織は、あの後どうなったのだろうか。どうか、辛い想いをしていませんようにと、願う事しか僕には出来ない。

 「生きていたら、良い事あるかもしれないよ。」

 駅まで続く道路の端、声の主の方を振り返ると誰もいない。いや、そこから視線を少し下げると死神ののぞみが立っていた。

 「素敵な彼女が出来るかもしれない。親友との思い出が作れるかもしれない。大事な家族が支えてくれるかもしれない。宝くじが当たるかもしれないし、天職と思える程の仕事に就けるかもしれない。生きていれば、どんな奇跡が起きても不思議じゃない。生きている限り、どんなに不可能に思える夢だろうと現実に変わる可能性が残っている。だから、今はまだ、あんたの命に価値が無いなんて、決められる筈も無い。」

見た目は小学生だが、発言と見た目は決して釣り合わない。でも僕は知っている、そんな戯言が通用する世の中では無いことを。どんな奇跡も起こらなかった事を。不幸な現実に満ちている事を、僕は知っている。

 「無いよ.。僕には明るい未来なんて待ってはいない。」

 僕ははっきりと言い切る。知っているからだ。

 「いいや、そんな事は無い。あんたには楽しい未来が待っている。」

 「楽しい未来なんて、無い。」

 「あったら、どうする?」

 「無いって。」

 僕にはわかる。だから言い切る。

 「あったら?」

 「無い!」

 死神を睨み付ける僕に対して、余裕綽々の死神はニコっと笑った。

 「ある。」

 「いや、だから…」と言いかけた僕の発言を遮る為に、死神は声を大きくして言う。

 「明日、一ヶ月後、一年後、あるいは十年後。あんたの未来は輝いてる。」

 死神は自信満々にそう言い切る。まるでこちらの反論など無いと決めつけているかのような言い方は、発言の内容に反して幼さを感じる。どうして、そこまでして僕に生きる希望を与えたいのだろうか。

 「無いよ…きっと。」

 「あったとしたら?」

 「無いよ。」

 「もし、未来の自分が幸せだったら、生き返る?」

 「…わかんないよ、そんなの。」

 今までで一番の笑顔を見せた死神は僕の手を握った。

 「じゃあ、確かめに行こう。」

 「え?」

 その瞬間、僕と死神は地面を離れ、宙に浮かび上がった。先程まで僕らが立っていた場所からどんどん離れていき、車も、弁当屋も、家族連れも、カップルも豆粒のように小さくなった。

 「ぎゃああああああああああああ」

僕は死んでいるにもかかわらず、命の危険を感じた。あまりの恐怖を感じたからであろうか、悲鳴というのか、奇声というのか、意味不明な言葉を発しながら浮いていった。

「ここ数日ずっと、ある地縛霊を追っててね。その地縛霊は何とか成仏させたんだけど、他の事にはまったく目が届いてなかったのよ、私。」

 僕は浮いている事に怯え、死神の手を両手で握っていた。死神の話を聞いてはいるが、あまり理解が出来ない。僕は周囲に目を配る。駅や商店街、中途半端にライトアップされた城、高速道路を走る車のヘッドライト、この街の中途半端な夜景は綺麗だが、どこか物足りない。物足りない夜景が、僕を少しだけ落ち着かせた。

「でね、地縛霊が片付いたと思ったら、この間、ビル火災があったでしょ?そこで十五人も霊界に送ったの。四日間かけて。そしたら、地獄裁判所の閻魔大王と死神商会のちよ会長から呼び出されて注意されちゃったのよ。今月、おまえの地区から運ばれる魂が多すぎるから、今月は送ってくるなって。あと、ビル火災に手一杯だった四日間の間に地縛霊が三人も発生しちゃってね、そっちも早急に成仏させないといけないしね。だから、今月送ってもいい魂は地縛霊の三人だけって決められちゃったのよ。もう大忙しで。最近、成績も悪いからさ、これ以上評価が下がると死神を廃業しなきゃいけなくなっちゃうし。」

 最早、死神が何を言っているのか理解出来なかった。ビル火災などあったかどうかも覚えていない上に、地縛霊とか、閻魔大王とか言われても、何も解らない。

 「要するに、どういう事?」

 「要するに、太一は一回生き返って、どうしても死にたいなら、来月に死んで。」

 無茶苦茶で、理不尽で、自分勝手な要求に思わず絶句した。要求は理解した。だが、もう一つ、確認しなければいけない事がある。

 「とりあえず言い分はわかった。で、浮いた理由は?」

 死神はやや前傾姿勢になると、そのまま空中を進み始めた。歩いているのと変わらないぐらいの速度だと思うが、足が地面についていない為、恐ろしく速く感じる。死神の手を握る両手に力が入る。

 「魂を成仏させる為に、死神には許可されている行動があるのよ。もちろん、他人の人生を変えたり、未来を変えない程度にだけどね。過去から物を取り寄せたり、過去に移動したり、何か小さな物ぐらいなら再生出来るし、破壊も出来る。現世の誰かと直接会話したり。なかなか、説得だけで地縛霊を成仏させるのは難しいからね。あの手この手で成仏させるのよ。」

 その発言に、その幼すぎる見た目。まるで、子供が夢を話しているような錯覚に陥り、何だか笑えてきた。先程までは、浮いてしまっている状況に怯えていたのにも関わらず。

 「あのさ、何言ってるの?過去へ行く?お前、馬鹿だろ?」

 「手、離すよ。」

 僕はハッとした。今は上空三十から四十メートル。落ちたら、死ぬ。すでに死んではいるが、もう一度死ぬ。

 「ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん。」

 僕は死神に抱き付いた。自分の半分の身長しかない女の子にしがみつく自分が情けないが、この状況は仕方ない。死神は、ニヤリと笑っていた。

 「地縛霊を成仏させる為には、どんな未練があるのかを知らないと始まらない。その未練によっては、過去に無くしてしまった物を手に入れる必要だってある。壊れた物なら治す必要がある。わかるでしょ?どれも必要な能力だから、備わっているのよ。勿論、中には能力に頼らずに地縛霊を成仏させる死神もいるけどね。ちなみ、死神商会のちよ会長は明智光秀に復讐するって怒り狂っていた織田信長の魂を三分で、しかも言葉だけで成仏させた凄腕なのよ。すごいでしょう?」

 それはすごいなと思いながらも、やはり死神の話が理解出来ない。

 「要するに?」

 「要するに、あんたを未来に連れていく。自分が幸せになっているかどうか、確かめてきなさい。自分の目で。」

 僕は再び絶句した。要約してもらっても、頭の中は疑問でいっぱいだった。一つだけ絞り出した質問は、

 「できるの?そんな事。」

 死神は「だから…やるしかないでしょ。」と少しイライラしながら答えた、まるで、出来の悪い子に教えているかのような言い方だった。

「霊界で生活する私達は、現世の理を越えた次元に存在しているの。さすがに車とか家とか持てない程の大きさの物を持っていくことは出来ないけど、あんた一人を未来に連れていくぐらいなら大丈夫よ。」

死神は駅ビルの屋上に降り立った。五年前に改築されたその八階建ての駅ビルには、ホテルやスポーツジム、立体駐車場など様々な施設が入っている。一階と地下一階が駅の施設となっており、改札やホームがある。そして、駅の北側にはバスターミナルとタクシー乗り場、そして駅前広場があり、広場には週末ともなると、たくさんの若者達で賑わっている。この街の人々にとって、この駅ビルを含む周辺の施設はシンボルのような物であった。夏祭りの時はここが会場となり、クリスマスを明後日に控えた今の時期にはここがイルミネーションでライトアップされていた。逆に、ここ以外には目立った施設が無い。映画館兼ボーリング場は街の外れにしかなく、ゲームセンターは隣りの街まで行かないと無い。昔ながらの商店街が近くにあるぐらいだ。

屋上に降り立った僕は、端のフェンスの前まで移動し、駅前広場を見下ろす。ベンチで話し込む人もいれば、ダンスの練習をする人、路上ライブをする人、中央の大きな噴水の前で待ち合わせしている人、様々な人を僕はビルの屋上から見た。先程まで、僕もここにいた。先程までの騒動がまるで夢のようだった。

「ここなら、四十年先まで残ってるから大丈夫ね。」

死神は黒い辞書を開きながら、そう呟いた。

「じゃあ、行こうか。未来。」

死神は再び僕の手を握ると、その瞬間に僕の視界は急激にぼやけ始め、すぐに何も見えなくなった。真っ暗闇で、死神の手の感触だけを感じていた。

「どうか…お願い。」

死神がそう呟いた。


「はい、十五年後。」

ゆっくりと目を開ける。

目の前には満面の笑みの死神。駅ビルの屋上。端にあるフェンス。先程よりも少しだけ肌寒い気もするが、何も変わっていないような気もする。

「あのさ、死神さん。何の冗談なの…うっ!」

その瞬間、腹部に痛みが走る。死神の握り拳が僕の腹部に伸びていた。

「付いてきなさい。」

そう言って死神は屋上のドアへ向かう。何故、殴られたのか疑問に思いながら、僕は後を付いていく。死神はドアを開け、下のフロアへ続く階段を降りていく。どうやら非常階段のような物で、辺りは薄暗く誰も歩いていなかった。

「死神さん、ここって本当に未来なの?何かあんまり…痛っ!」

死神は僕の脛を蹴飛ばして、言う。先程の腹部の痛みとは比べられない程の痛みに、僕は脛を抑えて蹲ってしまった。

「さっきから死神さん、死神さんって。私はのぞみっていう立派な名前があるの。のぞみさんって言いなさい。」

見た目は子供、態度と発言は大人。死神が理解出来ない。

「のぞみちゃん、ここって…ぎゃあ!」

「のぞみちゃんじゃなくて、のぞみさんでしょ。」

のぞみちゃん、いやのぞみさんは僕の耳を強く引っ張りながら言った。死神というのは高圧的で、上下関係を重視しする生物らしい。僕はあまりの痛みに、「すみません、すみません、のぞみさん。お願いだから離してください。」と情けなくお願いをしてしまった。耳が取れると思う程痛かったのだから、仕方ない。のぞみさんは満足そうに、耳から手を離した。

「ちなみに、ここでは、あんたは実体を与えられてるから、人からも認識される。さっきみたいに魂だけの存在では無く、実体があるの。生きてる人間と同じよ。くれぐれも目立たないようにしなさい。特に未来のあんたを知ってる人に会ったりしたら、未来が変わってしまうわ。生きてる人間と同じように行動して、同じように体験して、それから決めなさい。生き返るのか、このまま死ぬのか。」

僕の意思は決まっている。未だに信じられないが、ここが本当に未来だとして、未来の自分が幸せだとしても、僕の意思は変わらないのだ。十五年後が幸せでも、僕には辛い明日が怖いのだから。

「十二月二十三日の午後九時二十五分に未来に来たから、期限は十二月二十六日の午後九時二十五分までね。ルール通り、きっちり三日間。」

そんなルール、僕には理解が出来なかった。

階段の段差が無くなり、僕らは一階まで辿り着いた。目の前にある昔は真っ白だったと思われる薄汚れた白の、重たい鉄の扉の前に立った。

「太一、未来の自分をしっかり見てきなさい。」

死神は、いやのぞみさんは全身の力を使って、扉を開けた。

正直、驚いた。

まず目の前に飛び込んできた駅前広場のイルミネーションは僕が知っている何十倍もの電球で飾られており、赤や黄色、青などカラフルに彩られていた。中央の噴水の水にまで色が付けられており、その風景を眺めている人の数も僕の時代よりもかなり多い。

広場を取り囲むように、五階建てから八階建てのビルが何棟も出来ていた。居酒屋、コンビニ、学習塾、意味不明なオブジェ、何から何まで景色が変わっている。駅前広場でスケートボードをしている人もいれば、ダンスを踊っている人もいる。

ビルの一つには巨大なテレビが設置されており、コマーシャルが絶えず流れ続けている。見たことの無い男が意味のわからない商品をPRしている。巨大なテレビの横にあるデジタル時計を見ると、そこには、はっきりと「2015年12月23日 PM9時29分」と表示されていた。のぞみさんは、デジタル時計を見て、「良かった。成功した。」と呟いた。まさか、失敗の可能性もあったのかとゾッとしたが、また蹴られたくないので、黙っていた。広場で屯している若者達は、派手な髪型でみんな似たような服装をして、みんな同じように四角形の手帳を触っている。何だあれはと、目を凝らしてみる。

「あれは携帯電話よ。」

「携帯?メールに夢中なのかな、未来の人は。」

のぞみさんはニヤリと笑って言う。

「メールしている人もいるかもしれないけど、それだけじゃないわ。今の携帯電話は最早電話では無いのよ。電話やメールはもちろん、カメラであり、ゲーム機であり、パソコンであり、テレビでもある。世界中の人と連絡がとれるし、音楽だって聞ける。本にだってなる。芸能人にメッセージを送る事も出来るのよ。この時代の人にとって、携帯電話は必要不可欠な物なの。あと財布にもなるわ。」

僕はのぞみさんの説明に震えた。思わず、「それ、欲しいな。」と呟いてしまった程だ。

「じゃあ、他に何もいらないじゃん。カメラは写真何枚とれるの?」

「何百枚でも。」

「ゲームは?ドラクエやれる?」

「多分、シリーズ十作目ぐらいまでなら。」

「テンまで出てるのか。インターネットも出来るの?」

「当然。インターネットで買い物も出来るわ。」

「音楽は何曲ぐらい聞けるの?」

「もう、キリが無いわね。音楽は何万曲と聞けるわ。あんたの好きなバンドのキムラロックだって聞けるし、本だって、何冊でも大丈夫。漫画も読めるわ。テレビはどのチャンネルでも見れるし、その気になれば東京の番組や外国の番組だって見れる。」

自分が作った物では無い筈なのに、何故か自信満々なのぞみさんにはイラッとしたが、それでも、この携帯電話の進化は認めざるを得ない。未来の携帯電話は確かに素晴らしい。

「さあ、未来の自分に会いに行くわよ。この時間は多分…って、太一、ちょっと、待ちなさい。」

のぞみさんが何か言っていたが、僕は無視してコンビニへ向かった。

コンビニに置いてある雑誌を片っ端から読む。

「全然、知らないアイドルばっかりだ。でもめちゃ可愛い。グラビア、エロイな。」

「何、この服?超オシャレじゃん。」

「おお、こち亀まだ続いてる。すげえ。」

「マジ?スターウォーズの新作出るの?見てぇ!」

僕が感激している横でのぞみさんが遠い目をして、立っていた。

「太一、そろそろ行くよ。未来の…ちょっと待ちなさい。」

のぞみさんが何か言っていたが、僕は無視して家電量販店へ向かった。のぞみさんには悪いが、これは仕方が無いのだ。未来は面白過ぎる。

僕は閉店準備をしている家電量販店に入り、商品を片っ端から物色していく。

「テレビ、薄っ!」

「カメラ、小さっ!」

「ウォークマン、薄くて小さっ!…痛たたた!」

蛍の光が流れている家電量販店に僕の声が響く。右腕の肘のやや下、激しい痛みが走り思わず叫んでしまったのだ。痛みが走った場所を見ると、そこには小さいがはっきりと歯型があった。

「噛みつかなくてもいいじゃん。」

「あんたが言う事を聞かないからでしょ!」

かなり怒っているのぞみさんに連れられて、僕は店の外に出る。

「あんた、未来に何しに来たのよ。バッカじゃない?」

なかなか怒りが収まらないのぞみさんは文句を言い続けている。僕は何度も「ごめん」を繰り返す。

「ここ、本当に未来なんだね。すごいな。」

気持ちを切り替えてのぞみさんに話しかけると、すぐに帰ってきた言葉は、想像していた幼い声では無く、もっと威圧感のある低くて太い声だった。

「こんな時間に何してるの?兄妹?」

薄い青色の制服と帽子、胸に輝く正義の証、庶民の味方、警察官が二人、目の前に立っていた。僕は急に心臓の動きが早くなった。すでに死んでいるというのに。

 「お嬢ちゃん、いくつ?おうちは?」

 と優しくのぞみさんに話しかけている若くて爽やかな警察官に対し、僕を担当しようとしている警察官は筋肉質で気が短そうな中年男性で、口より先に手が出そうなタイプに見えた。のぞみさんに対する態度よりもかなり威圧的な態度を僕にはとった。

 「家どこ?名前は?早く。」

 僕はのぞみさんと目を合わせた。のぞみさんは少し困って笑った。そして、手をすっと伸ばし、僕の手を握った。その瞬間だった。

「ぎゃああああああ!」と叫んだのは、のぞみさんに優しく話しかけていた警察官だった。「き、き、消えた!消えた!」と、僕に威圧的な態度をとっていた警察官も目を丸くして、ギョロッとした目玉を360度グルグル回転させて驚いていた。

僕はのぞみさんに手を引っ張られて、そっと歩き始め、その場を一歩ずつ離れた。離れる僕にまったく気が付かない警察官二人は、周囲をキョロキョロと見渡すと、顔を真っ青にして、可笑しな動きをしていた。僕らはその場を離れ、狭い路地へと入り、建物の影に隠れた。僕は威圧的だった警察官の態度の変わり様に、思わず吹き出しそうになっていた。

 「良かったね、うまく逃げれて。」

 のぞみさんは満面の笑みで言った。

 「僕ら、消えてたの?」

「そうよ。さすがに、警察に保護されるのは面倒だしね。私が手を繋いで、あんたも一緒に姿を消したのよ。死神って凄いでしょ?」

 僕は半信半疑だったが、現に先程の警察官は僕の事など完全に見失っていた。信じざるを得ない。

 「しかし、のぞみさん、その見た目じゃ補導されて当然だよな。」

 「仕方ないでしょ。死神になった時にこの姿って決まっちゃったんだから。こう見えてもね、あんたよりずっと年上なのよ。現世で生きていた時間も合わせるとね。」

 「のぞみさんって、昔は普通の人間だったの?」

 「当たり前じゃない。死神も地獄裁判官も地獄弁護人も、みんな元は現世にいた人間達よ。未練があったり、罪があったり、すぐに転生出来ない魂達が霊界で働くのよ。で、働き始める時に、姿を無理矢理変えられるのよ。知り合いに会ったら、大変でしょ。お互いね。だから、見た目で判断するのは辞めなさい。私はずっと年上よ。」

 ムキになって言い返してくる辺り、そんなに年の差は無い気もするが、反論は辞めた。

さっきの警察官を警戒し、手を繋いで、姿を消したまま歩いていると、賑やかな若いサラリーマン達が数人、僕らの横を通り過ぎて行った。黒光している革靴に細見のスーツ、派手なネクタイにロングコート、まるで顔を洗ったばかりのような清潔感漂う肌、そして整えられた眉毛、おしゃれな髪型。この時代のサラリーマンというのは、まるでモデルのように、なかなか格好良かった。しかし、サラリーマンの事も忘れてしまう出来事が次の瞬間に起きた。

「かわいい~」

「でしょ。純ちゃんにもらったの。付き合って三ヶ月記念。」

「何よ~、さつき、それ自慢?お熱い事ね。羨ましいわ。」

「奈菜、ごめんって。怒らないで。」

キャッキャ言いながら歩いていく女の子二人組。一人は黒のロングヘアーを靡かせながら、白のタートルネックのセーターにチェックのミニスカートを履き、胸を張って歩いて行った。ちらりと見える八重歯が少し幼いのだが、それでも言葉に表せない大人の雰囲気が僕をドキドキさせた。その隣りにいた女の子は茶色の髪はウェーブがかかっていて、体のラインがはっきりと出てしまうような白いパンツを履いており、お尻を振って歩いて行った。二人が通った道から、甘い香水の匂いがした。

「この時代の女、何かエロイよな…」

「いつの時代の女もそうよ。」

「……」

見た目は小学生ののぞみさんがそう言っても、説得力は無い。僕は白のタートルネックの女性の姿が見えなくなるまで、目で追っていた。正確に言うと、目が離せなくなってしまっていた。それ程に、綺麗な女性だと思った。学校のクラスの女子よりもずっと。

 「で、太一。未来はどう?」

 いずれ質問される事が予想される内容だったのにも関わらず、僕はドキッとしてしまった。そして、一拍置いて答えた。嘘を言っても良かったのだが、何故だが本当の事を答えてしまった。

 「未来、悪くないかも…」

 のぞみさんの口がアヒルみたいに尖っていく。目を細めて、顎を突き出して、僕を下から見下す。その仕草にやはりイラッとしたが、今更発言を訂正するつもりは無い。

 「あの携帯電話は欲しいし、駅前は華やかだし、アイドル可愛いし、漫画面白いし、家電すげえし。」

 僕の発言の度に頷くのぞみさんは鬱陶しいが、未来は素晴らしい。

 「あと、女の子が可愛い。」

 「もしかして、さっきの子?」

 僕はぶんぶんと空気を切り裂くぐらいの勢いで顎を上下に振った。

 「あんた、十五年間、好みが変わってないんだね。」

 何度目かの上下運動の途中で止まってしまった顎の先で、幼女が大きな黒い辞書を広げて続けて喋る

 「さっきのサラリーマンとその後ろのOL二人組、あんたの会社の同僚だよ。先頭の男は、松田亮二。あんたの同期入社だね。あと、溝口純っていう後輩と…」

 のぞみさんの言葉を遮ってでも聞く。松田とか溝口とか、どうでも良い。

 「あのお姉さんも、同じ会社なの?」

 「そうだよ。」

 僕は右手で小さくガッツポーズを作った。

 「あの茶髪が長谷川さつき。部署が違うし、あんまり仲良くない。でも、もう一人の黒髪の方、桜井奈菜。この時代の太一は、この子に恋をしてるのよ。机も隣だし、一緒に仕事してる。けっこう仲良いみたい。」

 僕は先程作ったガッツポーズを天高く突き上げた。

 「未来、最高!」

恋をしている。そしてけっこう仲が良い。その二つの言葉が僕をその気にさせた。きっと、十五年後の僕は桜井奈菜さんとお付き合いをしているのであろう。携帯電話も、漫画も楽しみだが、それ以上に未来では彼女がいるという事だけで十分だった。彼女がいるという事は、デートをした事があるという事だ。彼女がいるという事は、キスをした事があるという事だ。未来の僕は童貞ではないという事だ。未来では彼女がいるという事は、僕にとっては最も重要な事である。しかも、あんなにも可愛い彼女がいるのであれば、僕にとっては一筋の灯りどころでは無い。未来は眩しく輝いたのだ。

改めて、伝えよう。のぞみさん。

 「僕、生き返ります。」

 のぞみさんは小さな両手で、精一杯の大きなガッツポーズを作った。

 「やったー!太一、あんたは偉い。賢いよ。」

 のぞみさんはそのまま小さな手を差し出し、握手を求めてきた為、僕はすぐに応じた。

 「未来は輝いてるんだよ。わかったでしょ?太一。」

 僕たちは握手をしたまま、ニコニコと笑っていた。

「ちなみに、この辺りであんたの会社のみんなが飲んでたみたい。十五年後のあんたもそろそろ通る筈よ。」

 僕は慌てて建物の影から大通りを見る。先程の警察官達はもういなくなっていた。人通りも減り、静けさが漂っていた。すると遠くの方から、数人が歩いてきた。先頭を歩く二つの人影、右には身長が180センチぐらい、スラッと細見の体型の男性にしては長い髪の三十代ぐらいのスーツ姿の人物。左に背は170センチほどと、少し低いが短髪で元気そうな、こちらもスーツ姿の青年がいた。腕や足も太く、体を鍛えている事は一目瞭然だった。しかし暗くて顔がよく見えなかった。その二人の後ろには背が低く、少し太ったおじさんがいるだけだった。会社員という事を考えると、先頭を歩く二人のどちらかである事は明白だった。

 「ねえ、どっち?僕、どっち?」

 のぞみささんは何も言わない。

 「ねえ、どっち?」

 のぞみさんは小さな声で「あれ?」と呟いた。その瞬間、二人組は交差点を左折し、一瞬で姿を消した。僕の思考回路が追いつく前に、追い打ちの言葉が聞こえた。

 「いたいた。その後ろ。」

 僕は目を疑った。本当に疑った。後ろにいた人物はただ一人だけだった。他に誰かいないか探した。何度も何度も周囲を見渡した。そして、後ろの人物が巻いている白と紺と赤の手編みのマフラーを見た瞬間、確信した。

心臓は激しく鼓動し、真冬だというのに汗が噴き出した。顎が震え、脚が諤々と揺れた。そして、自然に涙が零れ落ちた。僕はその涙も拭かずに、その人物の目の前に飛び出した。

 「太一、待ちなさい。」というのぞみさんの静止などで止まる筈もない。

 僕は至近距離からその人物を見る。その人物は驚きながらも、大した抵抗は見せない。

 今の僕と変わらない身長、白髪交じりでベタついている髪、皺が増え、口の周りが髭で青くなった顔、ふっくらとした頬と顎、よれよれのスーツ、泥がついた靴、第二関節まで毛が生えている汚い指と手、そして腕、服の上からでもわかる突き出たお腹。「どうした、君。」そう話しかけられた瞬間に薫る不快感に満ちた口臭。尋ねるまでも無い。確信している。彼女などいる筈が無い。彼女などいた事がある筈が無い。絶望的な見た目が、これまでの人生の道程を表現しているようだ。目の前の男は、間違いなく不幸だろう。負け組であろう。そう思うと、さらに涙が止まらなくなる。裏切られた気持ちでいっぱいだった僕は、どうしようもなく未来の僕が憎かった。いくら携帯電話はすごくても、駅前は華やかでも、アイドルは可愛いくても、漫画が面白くても、家電がすごくても、僕自身が不幸であれば生きる意味は無い。この見た目で彼女がいる筈が無い。いた筈が無い。桜井奈菜さんと付き合っていると、勝手に勘違いした僕が悪いのだろうが、それでもこの気持ちをどこにぶつければ良いのかわからず、僕は僕に言い放った。

 「この、童貞!馬鹿!不細工!死んじまえ!」

 僕はその場を走り去った。現実から逃げる為に。そして、僕は誓った。もう生き返る事は無い。このまま死ぬ。そう誓った。


   30


 「桜井奈菜ちゃん、ずっと前から好きでした。」

 一瞬の間を置いて、その返答が飛んでくる。

 「ごめんなさい。私、チビで毛深くてデブな男、ダメなの。」

 発言した人物を取り囲む人の大きな笑い声まで聞こえてくる。駅から徒歩五分程の場所にある居酒屋「香川」の入口の前に立っていた僕はこのまま引き返すべきか迷った。

 「童貞とは付き合いたくないわ。」

 その低い声が聞こえた瞬間、僕は目の前の引き戸を東の彼方まで飛ばす勢いで開いた。

 「童貞じゃねぇし!」

 愛媛県今治市の地鶏を使用した焼鳥と種類豊富な焼酎を提供してくれる居酒屋「香川」、愛媛県の地鶏が売りなのに、店の名前が「香川」のカウンターに座っている男がこちらを見て、笑いながら言い返して来た。

 「素人童貞だろ?」

 ぼくは事実を言い当てられ、反論の材料を探したが見つからなかった為、一言。

 「やかましい。」

 カウンターに座っている男はニヤニヤしながら、隣りの席に置いてあったコートを片付けた。

 「待ってたぞ。座れよ。」

 僕は店の扉をしっかりと閉め、カウンターに向かった。

「直哉、店の外まで聞こえていたぞ。何、一人芝居してるんだよ。」

 そう言いながら、僕はカウンターのその男の横に座った。カウンターに座ると、厨房から無口な店主である香川さんが、低くて威圧的な声で、「いらっしゃい」と呟いた。香川さんは四国の愛媛県生まれで、僕が高校生の頃からこの場所で居酒屋を開いていた。本当に見えているのだろうかと思ってしまう程細い目と、鼻の下に蓄えた白い髭、後頭部で一つに結んだ真っ白な長髪、そして口数は少なく、必要最低限しか喋らないのだが、的確な助言と料理の腕前で常連客を持っていた。僕にとっては、会社からの帰り道にあるという立地条件と、美味しい料理が目的で常連客の一人となっていた。

 「で、どうだったんだよ。」

 先程まで一人芝居をしていた男がニヤニヤしながら、僕に話しかける。彼の前には焼鳥の串が十数本も置いてあり、おそらくすでにかなりの量の酒を飲んだのだろうと安易に予想が出来た。彼は若森直哉という高校の同級生だった男で、同じく居酒屋「香川」の常連客だ。よく喋るお調子者で、様々な雑学を知っている。歴史や政治の事からアニメやアイドルの事まで網羅しており、彼の周りには男が集まる。僕以上に太った体、少し薄くなりつつある天然パーマの頭髪、腫れぼったい目、荒れた肌、僕と同じぐらい女性とは縁が無い人生を送っていたのだが、先日めでたい事に、人生初の彼女が出来た。三歳年上の大人しい性格の保育士さんだ。彼は今までに見たことが無い程、浮かれていた。それ以来、僕に対しても早く彼女を作るように促すのだ。勿論、その行動に対して不快感は無い。直哉としては、自分が幸せだから、僕にも幸せになってもらいたいのだろう。

 「会社の飲み会で、アタックするって言ってただろ?結果は?」

 何て答えようか迷っていると、目の前に湯気が立っている丸まったおしぼりが現れた。

 「アニ、お疲れ様。ビールでいい?」

 「おう。」

 居酒屋「香川」の店員、三浦結衣だ。

 「結衣も笑い過ぎだよ。笑い声、外まで聞こえてたぞ。あと店長も。」

 結衣は僕の肩をポンポンと叩き、「ごめんって。」と笑いながら言った。本当に謝る気があるのだろうか。まったく、最近の若い女は失礼極まりない。

 「スーツ、かけとこうか?」

 「いいよ。自分でやるから。」

 「じゃあ、何か食べる?もうお腹いっぱい?」

 「いや、ちょっとだけ食べる。」

 「わかった。適当に持ってくるからさ、さっきの話、もうちょっと待ってて。私も聞きたい。すぐ持ってくるから。直哉さんは?ビールおかわりする?」

 直哉が頷くと、結衣は厨房へと足早に消えていった。僕は席を立ち、壁際にあるハンガーラックへと歩いた。スーツの上着とコート、マフラーをハンガーにかけていると、結衣が他のテーブルへ料理を運んでいた。結衣は僕と目が合うと、口の動きだけで、「待ってて」と言った。

 結衣は居酒屋「香川」でアルバイトしている大学生だ。身長170センチ近い長身で、アーモンドのような形の黒目がちの大きな目と綺麗な白い肌で、店の看板娘として常連客から人気があった。黒のポロシャツにジーンズとスニーカー、濃い赤色のエプロン、一つに結んだ髪。決して、着飾っている格好では無いのだが、結衣目当てで来る客も多く、彼女のシフトは「香川」の売上に多大な影響を及ぼした。カウンターに十席、四人掛けのテーブルが五つという決して広くは無い店ではあるが、現在居酒屋「香川」の中には僕を含めて十五人はいるだろう。全員、会社帰りのサラリーマン風の人物ばかりだった。何度か結衣が休みの日にも、「香川」を訪れたことがあるが、客が僕だけだった事も何度かあった。

 「今日仕事は?」

 僕は直哉に尋ねた。興味があったという事では無く、結衣が来るまでの時間潰しの為だ。

 「夕方で終わった。で、明日は休みだから、今日はとことん飲むんだよ。明後日からまた泊まり勤務だからさ。」

 直哉はそう言うと、チェック柄のネルシャツの胸ポケットから、クシャクシャになった煙草を取出し、一本咥えると慣れた手つきで火を点けた。直哉は幼い頃からの夢を叶え、現在は電車の運転手として働いている。泊まり勤務の翌日は休みになる為、そういう日は居酒屋「香川」で飲めるだけ飲んで帰る。「香川」を紹介したのは僕だが、今では僕以上の常連客となった。

 「さっきさ…」

 僕は結衣が戻ってくる前に、僕の身に起きた衝撃的な出来事を話しておこうと思った。この時点では、直哉は目を合わせず、返事だけをしていたのに、僕の話を聞いた瞬間、彼の目が輝いた。

 「顔をくしゃくしゃにして泣いていた中学生か高校生に、この童貞って怒られた。」

 「あははは。何だよ、それ。一生に一度の経験しやがって。めちゃ面白いじゃん。誰だよ、そいつ。何でわかったんだ?」

 隣りで直哉は過呼吸になりそうな程、笑っていた。

 「誰かなんて知らないし、僕は童貞じゃないっての。」

 でも、直哉の言う通りだ。誰だったのか、彼は。顔がくしゃくしゃで、おまけに街灯が逆光になっており、はっきりと表情がわからなかった。一体、誰だ。あいつは。

「おまたせ。」

 そう言って、結衣は四角のお盆にビールの中ジョッキを三つと枝豆、煮物を運んできた。

 「結衣、ビール一つ多いぞ。」

 そう指摘してやると、結衣は勝ち誇った顔で僕に言い返した。

 「多くないよ。私が飲むもん。」

 「は?」と、僕と直哉は口を揃えた。

 「私、今日はシフト十時までだもん。今、十時過ぎたでしょ?今から私は店員じゃないわ。お客の一人よ。ね?店長?」

 カウンターの僕の隣の席に座った結衣に、店長はニヤリとして「好きなだけ飲んでけ。」と低く呟いた。

 僕が軽くジョッキを持った瞬間、両サイドから勢いよく二つのジョッキが衝突してきた。

 「乾杯!」

 その直後から、ゴクゴクと喉を鳴らしながら、ジョッキの半分以上を飲み干していく女子に僕と直哉は目を奪われた。幸せそうな表情で、「プハー」と息を吐いた結衣は、右手で口を拭いながら、左手を僕の肩に乗せて言った。

 「で、アニ、どうだったの?」

 アニ。それは一応僕の事だ。結衣は僕の事をそう呼ぶ。


 僕が居酒屋「香川」に通い始めてから二年が経過した頃、結衣はアルバイトを始めた。その明るい性格と可愛らしいルックスで、あっという間に看板娘となった結衣だったが、僕の事は「杉山さん」と呼び、決して店員とお客という関係を崩さなかった。だが、約一年前のある日、仕事の失敗が原因で飲み過ぎてしまった僕は泥酔し、歩行も出来なくなり、所構わす嘔吐を繰り返していた為、妹に連絡を取り、迎えに来てもらった事があった。妹である杉山綾香が店を訪れた時、最も驚いたのは、結衣だった。

 「綾香?」

 「結衣ちゃん?」

 妹である綾香と店員である結衣は抱き合って、再会を喜んだ。二人は同じ中学に通い、同じ高校に通った友人だったのだ。

 「え?杉山さんって、綾香のお兄ちゃん?全然似てないから気付かなかった。」

 「結衣ちゃん、久しぶりだね。元気だった?」

 「元気、元気。綾香は?」

 「元気だよ。私も。」

 「今度、ご飯行こうよ。ひかりちゃんとか、絵里も誘って。」

 「行こう、行こう。年末になったら、理央ちゃんも帰ってくるっていうから。」

 「理央ね。会いたいな~。そういえば、理央の彼氏って名大行ってるらしいよ。確か。」

 「違う、違う。もう名大は辞めて、工事現場でアルバイトしてるんだよ。ゆっくんでしょ?」

 「あの…お嬢さん達?あの…」

泥酔し、倒れ込む兄をほったらかしにして、綾香は結衣と話し込んでしまった。後で聞いた事だが、二人は一ヶ月ぶりの再会だったそうだ。

僕は再び激しい吐き気に襲われ、トイレへ駆け込んだ。その後、椅子を八つ並べて簡易ベッドを作り、寝転がる僕の隣で、結衣と綾香、そして何故か店長の香川さんは宴会を開始した。楽しそうな皆の笑い声が頭に響き、再び吐き気を感じた。

この日を境に、結衣にとって僕は常連客の杉山さんでは無く、友達の兄に変わった。そして、それは呼び名にも影響を与え、妹でも無い女から、「アニ」と呼ばれるようになってしまった。綾香の兄貴、だからアニ。


 「どうなのよ、アニ。」

 興味津々で下から僕の顔を覗き込ん聞いてくる結衣の方が見れず、直哉の顔を見て答える事にした。

 「一言も喋れなかった。」

 「はあ?何、それ?」

 直哉の方を見て喋ったのに、即座に反応したのは結衣だった。

 「アニ、奈菜さんをクリスマスデートに誘うって言ってたじゃん。弱虫。意気地なし。あと、店長、生中ください。」

 後半の発言に驚き、僕と直哉は思わず結衣の方を見てしまった。先程まで中身を満たしていた筈のジョッキはすでに空になっていた。法律上、お酒が飲めるようになってからまだ一年半しか経過していない筈なのに、結衣は我々よりも大酒飲みだった。 

 「そもそも、今日は仕事が忙しかったんだよ。」

 僕は言い訳を話し始めた。何も出来ない奴だと思われたくなかった。


 僕は地元の小学校、中学校を卒業した後、名前さえ書けば誰でも合格できるような定員割れの高校に進学した。三校受験し、第三希望の滑り止めの高校への進学だったのにも関わらず、母も妹も盛大にお祝いをしてくれた。母は入学式の日は仕事を休み、父の遺影を持って入学式に出席した。僕はそんな母が、正直恥ずかしかったのだが、一言でも文句を言おうものなら、蹴り飛ばされるのは目に見えていた為、大人しくしていた。

元々、勉強も運動も苦手で性格も内向的だった僕は高校でも一人で生活していくのだろうと考えていた。中学の頃のように、虐められさえしなければ、一人でもそんなに寂しくは無かった。僕はいつも一人で、携帯型オーディオプレーヤー、所謂ウォークマンで音楽を聴いて過ごしていた。音楽だけが僕の友達であった。僕はロックバンド「キムラロック」の大ファンで、毎日飽きもせず彼らの音楽を聴き続けた。そんな僕に「何、聴いてるの?」と話しかけてきたのが、若森直哉だった。

直哉とは音楽の趣味が合った為、休み時間によく話すようになった。次第に一緒に弁当を食べるようになり、学校が終わると一緒にCDを買いに行くようになり、一緒にライブへと出掛けるようになった。初めてお酒を飲んだ時は、直哉と一緒だった。電車で二人旅もした。一緒にアルバイトをして、同じ人を好きになって、同時に失恋した。恐喝された時も一緒だったし、運転免許も一緒に取りに行った。直哉は僕の親友と呼べる存在になった。

それから、名前さえ書けば誰でも合格できるような定員割れの大学に進学した後、大学の就職課の紹介で、創業九十年、社員数150名、機械工具の商社「九重電機株式会社」に就職し、第一営業部産業システム課という部署に配属された。大手電機メーカーである日置製作所から設備機械を仕入れ、工場に販売する。メーカーとユーザーの間に挟まれ、互いの無理難題に悩まされ続けて早くも八年が経つ。その間、ずっと自分の無力さを嘆きながら、何とか今日まで働いてきた。

勉強も運動も苦手で性格も内向的だった僕は、案の定、仕事も苦手だった。営業成績は下から数えた方が早く、毎日のようにお客や上司から怒鳴られ、いつも下を向いて過ごしていた。僕にとって、仕事は辛い物であり、楽しさを感じるには程遠い代物であった。

上司である野杁部長は体格が大きく、声も大きい上、思った事はすぐに言葉にする。そしてよく怒鳴る。仕事の失敗だけではなく、人格を攻撃する為、僕に少しだけ残っていた自信は入社後一ヶ月で粉々に砕かれていた。それでも、僕が入社した時はまだ課長で、仕事のやり方やマナーなどを厳しく叩きこんでくれた人でもある。恐怖も、恨みもあり、毎日「死んじまえ」と思う一方、ほんの少しの感謝も残っている複雑な相手だ。

 同期入社である松田亮二は、第二営業部に配属され、五年目で主任に昇格するという異例の速さで出世した。野球で鍛えた体、色黒の肌、野性味あふれる整ったルックスで社内でも人気があり、上司や同僚からの信頼も厚い。社内でも最も大手のお客を担当し、売上もトップだ。みんなを纏めるリーダーシップもあり、一般的には良い奴なのであろうが、僕にとっては邪魔な存在である。同期入社というだけで、比べられてしまうからである。「杉山に比べて、松田は。」「松田に比べて、杉山は。」そんな言葉、もう聞き飽きていた。

 最近では、第一営業部に配属された後輩、溝口純というよく喋るお調子者にすら、営業成績で負けている。おしゃれで、人との距離の縮め方が上手い溝口は社内でも松田に次いで人気があり、上司に対しても従順な彼の評価は上からも良い。

 そんな中、徐々にやる気を無くしていった僕だが、会社には一つだけ楽しみがあった。若手の社員達だけで行う飲み会や旅行に誘われなくても、女子社員が配るバレンタインのチョコを僕だけ貰えなくても、一つだけ楽しみがあった。それは、隣りの席に座っている桜井奈菜であった。

 桜井奈菜は六年前、高校卒業後に九重電機へ入社し、第一営業部産業システム課に配属され、僕の営業補佐として働いてくれている。ちらりと見える八重歯が幼さを感じさせるが、背が低く優しそうな雰囲気、小動物のような顔、明るい性格に彼女のファンも多い。仕事での対応は丁寧で真面目、痒い所に手が届く気配り、ミスは少なく、おまけに作業が早い。趣味は旅行と料理、ショッピング。悩みは、個性が無い事と不器用な事。彼氏いない歴は四年。好きな色は黄色。社長や部長、年配のおじさんから若手の社員まで、会社全体が彼女を好いていた。また、仕入先である日置製作所の担当者やお客さんにも彼女のファンが多く、営業担当である自分よりも彼女目当てで電話が掛ってくる程だ。僕も彼女のファンの一人で、彼女との会話だけを楽しみに、会社へ通勤していた。

 そんな中、入社八年目にしてようやく部長から褒められる仕事をした。大手食品メーカー大同食品株式会社の新事業の機械設備の注文をもらったのだ。今まで歴代の担当者達が苦戦し続けたお客だが、我が社として初めて大口の注文をもらった事で、僕は朝礼で表彰された。本来であれば、いつも購入している仕入先に発注をしていたのだろうが、大同食品の担当者がその仕入先を嫌った。毎日のように訪問していた事で僕が目に留まり、担当者からチャンスをもらったのだ。僕はその担当者に感謝した。少しも楽しく無い、まったく上手く進まない仕事にやる気を失いかけていた矢先だった為、その注文は僕にとっては何より嬉しい物であった。朝礼で表彰された日、あまりの嬉しさから、いつものように居酒屋「香川」へ行き、結衣や直哉と祝杯を挙げていた時、直哉が提案した。

 「その勢いで、奈菜ちゃんにもアタックしろよ。」

 気が大きくなっていた僕は、その場で了承した。忘年会で桜井奈菜にアタックすると。桜井奈菜とクリスマスを一緒に過ごすと。

 僕は幸せになりたかった。仲睦まじい両親を見て育った僕にとって、幸せとは円満な家庭を持つことだと思っていた。良い嫁、良い子供、良い祖母。みんなが笑って過ごせる家庭を作りたかった。仕事とは、その家庭を守る為の手段だ。僕らの血筋を次の世代へ繋ぐことが、僕を育ててくれた両親への恩返しだ。何より、不幸だった今までの人生を変えたかった。今までの不幸はすべて、幸せになる為の布石だと、そう思いたかった。だからこそ、仕事で成功した勢いを借りてではあるが、僕は桜井奈菜にアタックする事を決意したのだ。

しかし、その大同食品向けの仕事が原因で、僕はチャンスを逃した。

 忘年会、当日。つまり本日、十二月二十三日。祝日にも関わらず、会社の行事である忘年会を計画している我が社の幹事の判断を疑うが、祝日にも関わらず、仕事をしないと追いつかない自分の能力の低さにも呆れてしまう。大同食品の機械搬入を明日に控え、提出書類や社内での報告書が山積しており、僕は休日出勤をし、書類作成に励んでいた。結果、7時30分に、駅前の名古屋コーチンの店に集合だったのだが、書類が終わらず、店に到着したのは7時50分だった。

既に乾杯も、社長の挨拶も終わっていた。座敷の宴会場を貸し切っていたのだが、桜井奈菜の席の周りは座布団の枚数以上にたくさんの人が集まっており、窮屈そうなぐらいだった。松田とか溝口とか、若手の男性社員が女子社員を囲み楽しそうに飲んでいたのだが、その近くに空いてる席が無く、結果僕は野杁部長に呼ばれ、その隣りに座らされ、そこから延々と説教を受けた。「遅刻するとは何事だ。」「仕事の進め方が悪い。」「とりあえず、一杯飲め。」

忘年会が終わるとすぐに、桜井奈菜は松田達と一緒に、おそらく二軒目に向かったのだろう。行く宛の無い僕は一人、居酒屋「香川」へ報告に向かった。


すでに結衣の前には空になったジョッキが二つ並んでいた。

直哉の前にある灰皿には煙草の吸殻が山盛りになっていた。

「太一、本気でアタックしろよ。二軒目まで追いかければいいじゃねぇか。」

「無茶言うなよ。仕方ないだろ?これは。」

僕はジョッキに入ったビールを飲み干した。結衣はそのジョッキと自分のジョッキを持って、厨房の奥へ向かった。その途中、他の常連客から「こっちにも来てよ。」と声を掛けられていたが、「指名料金かかるけど?高いよ。」と切り返していた。

「直哉が羨ましいよ。彼女がいるし、やりたい仕事してるし。」

と、呟いてみたが、直哉は何も返さなかった。再び煙草に火を点けて、深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出していた。

結衣は戻ってくると、僕の目の前に一枚のチラシを置いた。そのチラシは居酒屋「香川」のイベントの告知であった。

「明日、ここでクリスマスパーティーやるからさ、アニも来なよ。私も店長もサンタの格好して待ってるからさ。」

ニコニコしている結衣を無視して僕は店長に尋ねた。

「店長、正気ですか?」

店長は答えずに恥ずかしそうに笑った。居酒屋「香川」でこの手のイベントが行われた事は、僕の記憶では一度も無い。そもそも店長はそういうタイプでは無い。さては、結衣の発案のイベントなのであろう。店長は結衣には甘い。あっさりと許可してしまったのだろう。

「明後日のクリスマスはウチの店休みだし、明日はトコトン盛り上がるわよ。いいわねアニ。来るでしょ?」

少し酔っているのか、頬を少し赤くしながら、結衣は僕の肩に手を置いてきた。

「俺も来るよ。彼女と。」という直哉の発言を受け、結衣は再び「アニ、おいでよね。待ってるから。」と言った。結衣が考えたイベントなのであれば、友人の兄としては協力しない理由など無い。「わかった。」とだけ伝えておいた。

それから暫く三人で飲んだ。仕事の話や音楽の話をし、次第に直哉は酔っぱらって眠ってしまった為、その場はお開きとなった。直哉は眠ってしまっている為、今日の会計は僕が支払う事になった。ポケットから黒革の長方形の財布を取り出し、一万円を払うとお釣りを合わせても心細い金額となった。その後、直哉を叩き起こして、タクシーに放り込んだ後、僕は家路につく事にした。

「結衣、お前どうする?帰るなら、送ってやるぞ。」

「悪いね。」

結衣はそう答えると、店の奥へと消えていった。荷物を取りに行ったのだろう。僕はスーツの上から黒いカシミヤのコートを羽織り、白と紺と赤の三色で作られたマフラーを巻いて結衣を待った。時刻は既に二十三時三十分を過ぎていた。この時間に二十代前半の女性を一人で帰らせるのも気が引けたし、妹の友人であるのだから守ってやるのは当然だ。それに結衣の家は通り道でもある。

「お待たせしましたー。」

と、結衣は先ほどの格好に白いダッフルコートを羽織り、肩から斜めに鞄をぶら下げて登場した。店長に挨拶をして、店の外へ出ると、より一層寒さは増しており、思わずもう一度店の中へ戻ろうかとも思ったが、そのまま結衣の家の方へ歩き始めた。

結衣の家は居酒屋「香川」から徒歩十分ほどの場所にあり、周囲には中学校や本屋、ドラッグストアなどがあるが、流石に深夜になると灯りが無く、女性一人では少し心細いだろう。ちなみに僕の家は、結衣の家からさらに徒歩十分ほど進んだ場所にある川沿いのアパートだ。

「仕事、忙しいの?」

「まあな、年末だしね。忘年会とかイベントが多いし、日々の業務もバタバタしてるよ。それに、僕は仕事が遅いからさ。毎日、けっこう遅くまで働いてるよ。」

「大変そうだね。」

「逆に、結衣は大学どうだ?単位とか取れてるのか?就活は?」

「何それ?アニのくせに兄貴面して。ちゃんと企業調べたり、卒論のテーマ考えたり、そっちもちゃんとやってるよ。」

真っ暗な住宅街を二人並んで歩く。街灯も無く、月明かりと住宅から漏れる光が行先を照らしている。僕一人だったら、正直怖い。結衣はいつもアルバイト終わりにはこんな道を通って帰っているのかと思うと、少し尊敬した。僕らの話声しか聞こえないほど、辺りは静まり返っていた。それが逆に不気味であった。

住宅街を抜けると、僕が通っていた中学校の前の通りに出た。市立王子中学校、卒業してから一度も訪れていないこの場所には、もう二度と来る事など無いだろう。

「入ろうか。」

そう言う結衣に思わず「はあ?」と返してしまった。

「学校を突き抜けて行くと近道じゃん。通って行こうよ。」

夜の学校程、怖い物は無い。幽霊とかいるような気がする。警備会社のセンサーがあるかもしれない。そして、何より、ここには良い思い出が無い。それでも結衣はすでに正門によじ登っていた。

「アニ。行くよ。」

先へ進む結衣を追う為、僕は渋々正門をよじ登り、飛び越えた。

正門を越えると、右手には体育館やプール、職員用駐車場があり、左手には花壇とその先にはグランドが広がっている。正面の校舎には一切の灯りが無く、おそらく誰もいないのだろう。どこを見ても、あの頃の嫌な思い出しか蘇らない。不思議な事だが、どうして昔を思い出す時、嫌な事ばかりを思い出してしまうのだろうか。それは、僕が不幸な人生を送って来たからだろうか。嫌な事の方が記憶に深く刻まれるのだろうか。だとしたら、幸せだった時の事を先に忘れてしまう僕ら人間は不幸ではないだろうか。

ふと、島袋公明と大竹沙織の事を思い出した。僕を不幸にした人間と、僕が不幸にした人間。僕は加害者だろうか、被害者だろうか。僕は良い奴だろうか、悪い奴だろうか。十五年が経った今でもわからない。それでも、あの頃が僕の人生の底辺だった事は間違いない。あの頃から少しでも良くなるように毎日頑張って来た。失敗もたくさんしてきたが、それでも、この学校に通ったあの頃よりも良くなる事を目標に頑張ったのだ。あの頃、不幸だった分、人一倍の幸せを掴みたい。

「懐かしいね。学校。」

結衣は周囲をキョロキョロと見渡しながら話す。何だか幸せそうな表情に、僕が知っている学校とは別の学校を指しているような気がして、返事が出来なかった。

「毎日、五人でいたんだよ。綾香も一緒に。クラスも、部活も一緒で。」

「バレー部だっけ。綾香って運動出来るの?」

「学年じゃ一番下手だったけど、頑張ってたよ。バレーはみんなで綾香に教えて、勉強は綾香にみんな教えてもらってた。よく出来た関係だったのよ。」

中庭を越えて、歩いていると、結衣が「何か夜の学校って怖いね。幽霊とか出そう。」と呟いた。ご尤もだ。だから、こんな場所から早く立ち去ろう、そう思った。ただ一つだけ不思議なのは、実際に夜の学校に入ってから、頭の中を駆け巡るのは過去の思い出ばかりだった。そして、静かに思い出す。僕がこの場所に通っていた時、夜よりも昼間の学校の方が何倍も怖かった事に。

「アニってさ、将来の夢は何だったの?」

結衣は酔っ払っているのか、話題がころころ変わる。

「何だよ、急に。」

「じゃあさ、今の仕事は楽しい?」

「楽しいかと言われたら、何て答えれば良いかわからない。将来の夢だった職業についたんじゃないしね。でも楽しい時もある。辛い時もある。」

結衣はよくわからないと言いたげに、眉間に皺を寄せた。

「警察官とか消防士とか、俳優やスポーツ選手。華やかな職業には就けなかったけど、今やっている仕事はそれを根底で支えているからさ。車もバイクもパソコンも食料も、作り出す機械が必要だろ。そういう機械を動かす為の動力源になる機械がコンプレッサーっていう僕が販売している商品だ。だからさ、皆の暮らしを根底で支えているのかと思うとやりがいだってあるさ。でも、全然売れないし、打ち合わせは上手くいかないし、楽しくない事も多々ある。そういう事。」

「ふうん。何か大変そうだね。」

「結衣は将来、何になりたいんだ?」

結衣はニコッと笑って、僕を見て歩みを止めた。

「言わなーい。」

 中庭を越えて、再び花壇を越えて、裏門へと辿り着く。

「アニって、どんな生徒だったの?」

何気なく聞いてきた結衣の質問に、僕は何も答えられなかった。無言のまま、裏門をよじ登り、学校の敷地から出た。どんな生徒だったのだろう、僕は。優秀で、手のかからない生徒では無かった事はわかっているのだが、何て答えれば良いかわからず、僕は黙り込んだ。

周囲から音が消え、僕らの足音だけとなった後、結衣は話をがらりと変えた。

「桜井奈菜さんのどこが好きなの?」

「どこって…お前。」

「いいじゃん。教えてよ。」

「嫌だよ。」

最近の若い女は、いや若くない女もそうだが、他人の恋愛話には過剰に興味を示す。その理由を聞いたところで、何の役にも立たないというのに、何故か知りたがる。この質問が別の人間からであれば答えないのだが、結衣に対して最早隠す必要も無い。

「最初は一目惚れ。」

「結局教えてくれるんだ。で、何?見た目って事?」

「あくまで最初はな。彼女が入社して、朝礼で挨拶をした時に思ったよ。こんなにかわいい子がこの世にいたんだなって。しかも配属が自分と同じ部署で、しかも自分の補佐をやってくれる。浮かれたよ、当時は。だけどさ、かわいいだけじゃ無かったんだよ、彼女は。僕が元気無かったり、落ち込んだりしている時はすぐに自分の仕事を止めて、話を聞いてくれるんだよ。大丈夫ですか、何かありましたかって。で、僕の愚痴を聞いて、一緒に怒ってくれたり、悲しんでくれたり。夜遅くまで働いた翌日には、こそっと差し入れをくれたりとか、よく見てるんだよ。周りを。僕のくだらない話もちゃんと目を見て聞いてくれるし、ちゃんとリアクションしてくれるし。あと、会話する時の距離が近くてさ、何だか僕みたいなモテない気持ち悪い人間に対しても、平等に扱ってくれている気がして。真面目で、仕事に対しても全力で。それから…」

「わかった。アニ、よくわかったから。聞いた私が馬鹿だったわ。永遠に続きそう。」

僕は我を忘れて語り続けていたようだ。

「そんなに好きなら、やっぱりアタックした方がいいよ。」

 結衣が僕の目を見ずに言ったその言葉は僕にとってはなかなか難しい内容だ。先程話した内容は、僕に対してだけでは無い。桜井奈菜は誰に対しても優しいのだ。誰に対しても気を使えるし、距離が近いし、話を聞くし、差し入れを渡す。僕にとっては嬉しい行動も、彼女にとっては普通なのだろう。僕がアタックしたところで、僕を選んでくれる可能性は非常に低い。限りなく零に近いだろう。ただ、僕にとっては、みんなと同じように扱ってくれた事が嬉しかった。今まで、女性から相手にされなかった僕を、同じように扱ってくれる事だけで十分、恋に堕ちる理由になった。

 「結衣はどうなんだよ。学校に良い人いないのか?」

 結衣は一瞬黙った後、「いなーい。」と呟いた。突然、声のトーンが落ちた為、おそらく結衣は最近失恋でもしたのか、もしくはまったくモテないのだろう。 

「皆、女を見る目が無いんだろうな。大丈夫だよ、結衣もいつかモテるようになるさ。心配するな。」

 「何それ?喧嘩売ってんの?」

 不機嫌を隠さずに切り返して来た結衣に失言だったことを理解させられた。何とか挽回すべく、一瞬の間の後、大人である僕は紳士的に話題を変更する事にした。

「そういえば、明日は香川でもクリスマスパーティーやるんだよな…あれって、結衣の提案だろ?やるな、結衣。プレゼント交換とかするのか?」

 「何よ、それ。まあ、良いけど。」

 「プレゼント交換するよ。一人二千円程度で。さっき説明しなかったっけ。」

 「ごめん。酔ってたのかな。覚えてないや。」

怒ってるかに見えた結衣だが、こちらを見てニコっと笑って、僕に命令を下した。

 「絶対来てよ。待ってるから。」

 「行くよ。さっきも言っただろ。」

 「よろしい。」

 何故か偉そうな結衣の態度に釈然としなかったが、そのまま僕は歩き続けた。

 「そういえば、明後日は何で休みなの?金曜日だぜ。普通休みになんかしないだろ。」

 「店長が用事があるみたいで。私もよく知らないけど。」

 「そっか」と答えながら、僕はふと思い出した。

「そういえば、去年のクリスマスも店休みじゃなかったか?」結衣はハッとして「そういえば、そうかも。」と驚いていた。結衣は知らないかもしれないが、一昨年も確かクリスマスは休みだった。香川さんには香川さんの事情があるのだろうが、その理由が気になった。明日のクリスマスパーティーの時に、素直に聞いてみようかな。「明日、店長に聞いてみよ。」結衣も同じ考えだったようだ。

三階建ての大きな一軒家が見えてきた。茶色の壁、屋根には太陽光パネルがビッシリと並び、車庫はシャッター付、広い庭。この敷地であれば、家が二つ建てられそうな程広く、裕福な人間の家である事は一目で分かる。ここが結衣の家だ。本人曰く、父は普通の会社員だそうだが、普通の会社員が建てられる家では無い。会社員かもしれないが、普通のでは無いだろう。三浦家の家族構成は、父、母、結衣、弟、そして祖父。あとは犬が一匹いる。どう考えても、人数に対して、家が大き過ぎる気はする。

 「ありがと。じゃ、また明日ね。」

 そう言って、結衣はその大き過ぎる家に入って行った。僕は結衣が玄関から家の中へ入り、扉が閉まるまで見送った。そして僕は自宅へ向かって、再び歩き始めた。一人になると、少し酔いが醒めて冷静になってしまう。恵まれた環境の結衣や、充実した日々を送る直哉が羨ましくなる。忘年会の最中、肩が触れ合う程の距離で楽しそうに会話をしていた桜井奈菜と松田が二次会はどこへ行ったのか、どんな楽しい会話をして、どう距離を縮めたのか、どうしようも無く気になってしまった。そして、そんな事を考えてしまう女々しい自分に腹が立った。

 十分程歩くと、川沿いの見慣れたアパートに着いた。一階、二階合わせて八つの玄関があるのだが、建物の大きさは結衣の家とさほど変わらない。二階への階段を登り、突き当りまで進んだ二〇四号室が僕の家だ。

 鍵を開けて、扉を開くと玄関は真っ暗で何も見えなかった。僕は蛍光灯のスイッチを押すと同時に、「ただいま」と言うと、家の奥から「おかえり」という声が聞こえた。

僕の家の間取りは1LDKとなっており、玄関から伸びる廊下の右側に寝室、左側が台所と洗面所や風呂、トイレ。奥には居間兼僕の部屋である。僕は居間でコートやマフラーを脱ぎ、ハンガーにかける。すると、寝室から眠そうな目を擦って妹の綾香が出てきた。寝室はすでに綾香の個室となってしまった。

「遅かったじゃん。飲んできたの?」

灰色の上下のスウェットを着て、髪を一つに結んでいる姿は、結衣と同じ年とは思えない程幼い。身長は150センチも無く、ややぽっちゃりした体型である。分厚い眼鏡をかけているのは、幼い頃からしっかり勉強に励んだ為だろうか、僕の数倍賢く、県内有数の大学に通っている。

僕はネクタイを解き、スーツを脱ぎながら話した。

「おう。会社の忘年会に行って、その後結衣の店に行ってた。」

「毎日、そうやって飲んでるから、こんな体になるんじゃないの?」

「痛っ。」

綾香は僕の脇腹の贅肉を摘み上げた。

「何これ?デブじゃん。」

「やかましい。」

「結衣ちゃん、元気だった?」

「おう。毎日、楽しそうだよ、あの子は。」

綾香は冷蔵庫を開け、ペットボトルに入った水を一口飲んだ後、「じゃあ、私もう寝るから。おやすみ。」と再び、寝室へと消えていった。

ジュースを零した染みが残る水色のソファと小さなガラステーブル、32インチのテレビ、小さなクローゼット、畳んである布団。その横には、埃を被ったアコースティックギターが置いてある。もう十年は弾いてないだろう。一度、壊れて修理して以来、そのままインテリアと化している。十年以上前は、ロックバンド「キムラロック」の大ファンで、音楽があるから生きてこれたと言っても過言では無い程、心酔していた。だが、現在、「キムラロック」のCDは一枚も無い。すべて捨ててしまった。ある出来事がきっかけで。

 僕はズボンのポケットから、家の鍵を取り出してテーブルの上に置いた。胸ポケットから携帯電話を取出し、充電器に繋いだ。ズボンのお尻の部分にあるポケットから財布を取り出して、テーブルに置こうとした時、瞬時に血の気が引いた。財布が無い。

 頭の中が真っ白になった。

落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせ、冷静に、冷静にと自分に言い聞かせた。どこで無くしたのか。朝、コンビニではあった。会社で昼食をとった時にもあった。居酒屋「香川」での支払いの時にもあった。その後、財布を出す場面など無かったのに、今現在財布は無い。僕は慌てて再びスーツの上着を着て、コートを手に取り、外へ出た。居酒屋「香川」から僕の家までの間のどこかに落ちているのだろう。それを見つけるまでは、まったく安心出来ない。お金はどちらでも良い。大した金額は入っていない。だが、あの財布には、免許証やクレジットカード、保険証など大事な物がたくさん入っているのだ。肌身離さず持っていた、筈なのに。

「チクショー、学校なんて通らなければ良かった。」

正門か裏門によじ登った時に落としたのかもしれない。

 仕事で忘年会に遅刻し、上司から説教され、好きな子とは喋れず、若手の仲間にも入れず、友達への劣等感に苛まれ、おまけに見ず知らずの他人に「童貞」と罵られた。そして、財布を無くす。

 走りながら思う。今日は最悪な一日だった。

 まったく、本当に災難だったが、もうこんな状況に慣れている自分もいる。

僕の三十年の人生を凝縮したような一日だった。そう思った。


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