VI 少女―ショウジョ―
水の中にいるようだ。手を動かすたびにさらさらとした感覚が腕をなでていく。
青色と藍色と、水の色と黒を混ぜたような空間の色。小学校の修学旅行の体験学習で見た、黒く透きとおったガラス玉を、目の前にかざしているようだ。時折透き通った気泡が上に登っていくが、気泡の行き着く先はどこなのか。上も下も右も左も、果ては見えない。
時折頭がキンと痛む。それが、ここも凛音のいるべき場所ではないと教えているようで。
どこにいけばいい…
凛音が再び目の光をなくしかけたとき、手をきつく握られた。その痛みに、我に返った。
ゆっくりと顔を動かし、隣を見る。
自分がいた。
いや。――自分そっくりの、異国の少女が。
その少女は微笑みを浮かべていたが、――不意に顔をゆがめた。
<<<ごめんなさい、>>>
<<<ごめんなさい、>>>
<<<―ごめんなさい…!>>>
ここに音を震わせるための空気は無い。だから、<声>は直接脳に響く。
その声を聞いて、凜音はふいに、凜音は自分が取り返しのつかない道を選んだのだ、と気付いた。
そして、この少女はそのことを知っている。知った上で、凜音がこの道を選ぶように線を引いた。
凜音に夢を見せて、凜音の中のズレを発動させて。訳のわからぬ老婆を使い、混乱させて。そして最後に出逢い、凜音に、自分が何者かわからなくした。そうして凜音の正常な思考を取り去り。
凜音の意志の支配を決定的なものにするために、あの事故を。
ふいに、熱い感情がわき上がってくる。
これは、怒りだ。
たった今凜音は、今までの鬱のようなものが仕組まれたものであったと気付いた。そして気付いた瞬間、その鬱は消え去った。
凜音の正常な感覚が、戻った。
どうしようもない怒り。それは、どんな詫びの品を出されようとも、これからの待遇がどんなに良いものであっても、収まることはない。そして、この少女がそれを望んでやったのではないとしても、心から謝っているのであっても、悔いているのであっても、引かない。
凜音は、自分の腕をつかんでいる少女の手を振りほどいた。キッと睨み付ける。
<<<何で………!!>>>
少女は何かで殴られたように顔を歪めた。凜音の<声>も、あちらにしっかり届くらしい。
<<<…ごめんなさい>>>
<<<それでも>>>
<<<これしか>>>
<<<道はなかった―――>>>
これしか、道はなかったのだと。自分たちが助かるためには、この道を選ぶしかなかったのだと。
<<<……あたしは、選ぶことすらできなかった>>>
声に棘のようなものを含ませ、凜音は少女を睨む。少女は相変わらず顔を歪ませ、それでも凜音の視線を受け止めた。
黒いガラスの空間に、ふたりの視線が交差する。こぽり、とひとつ、気泡が昇っていった。
<<<見つけた―――!!!>>>
凜音はハッとした。
歓喜の叫び。あの夢で見た、もう一つの声。
途端に、空間がキィンと歪む。外から無理矢理、凜音と少女に干渉しようとする力があった。その力は、恐ろしく大きい。
<<<しまった―――!>>>
少女が悲鳴のような<声>を上げた。凜音は少女の方をふりかえる。少女は真っ青な顔で呆然としていたが、その間にも干渉してくる力は近づいてきた。
ぴしりと、音がする。硬い何かが割れるような。
異物が押し入ってくる不快感。
少女は、覚悟するようにクッと唇をかむ。
<<<ごめんなさい>>>
凜音は眉を寄せ、少女から顔を背けた。その間も、不快感は続く。少女は胸の前に両手を使って輪を作ると、すぅと意識を集中させる。
この手の円は終わり無き廻り
この手には力が宿り
その力は果てることを知らずに廻り続ける
神よ 力を貸し給え
この手に力を分け与えよ
力はこの手を廻り続け
やがて、我と一体となるだろう
助けを請う 力を請う
<<<我、リンネ=フィネラルの名の下に―――>>>
りんね?
凛音は目を見開く。
だが少女のほうを向く前に、凛音は浮遊感に襲われた。彼方から、この場とは違う空気が流れてくる。ここの冴えた空気ではなく、不快ではない熱を持った空気。
この空気を知っている。熱い、熱い空気。
あの夢の――――
一気に突き落とされる。普段の何倍もの重力が身体にかかる。思考が混濁する。
視界が黒く塗りつぶされる直前、少女の顔を見た。
自分と瓜二つの顔は、先ほどまでの「少女」の顔ではなく。
感情を極限まで削ぎ落とした、冷徹とまで思わせるほどの神々しさを宿していた。
あの子は、誰?
意識の片隅でそう思ったのを最後に、凛音の思考は閉じた。