V 境界―キョウカイ―
早く来て、わたしの半身。
あなたが本来あるべき場所は、そこではないのだから――。
散歩の帰り。空を見上げながら、のんびりと歩いていたとき。
突然、甲高いブレーキ音が、凜音の耳をつんざいた。
何が起きたのかわからなかった。人々がざわめき出す。女の人の悲鳴が聞こえる。足下に、真っ赤な水が。
漸く思考回路が動き出し、凜音が目の前の状況を理解したとき―――
凜音は、目の前が真っ暗になったのを感じた。
何でこんなことになったのだろうと、凜音はぼんやりと考えた。
部屋は、灰色の紗を通したように暗い。四隅には蜘蛛の巣がかかり、埃のにおいが鼻をつく。さっきまで小さいながらもしっかりと瞳に宿っていた光は拡散し、凛音の瞳は黒く塗りつぶされていた。
必死で走って、走って、精神は動揺しながら、それでも心は冷めていた。
なんで、こんなことに。
目の前で、人が死んだ。いや、死んだかどうかはわからない。目の前で人の肉がタイヤにつぶされ、真っ赤な血があふれ出た。
交通事故。
けれどそれは、鬱になりかけている凜音の精神に拍車をかけるくらいには、衝撃的なことだった。
逃げて、逃げて、逃げて。何かから必死で逃げて、この空き家に逃げ込んだ。足ががくがくと震えているから、ずいぶん走ったのかもしれない。
すべてが自分を拒絶しているように感じる。
なぜ、なぜ、なぜ。
凜音はふいに頭を抱え、身体を丸めた。ひゅーひゅーと、呼吸をするたびに喉が鳴る。
どうすればいい。どこにいけばいい。なにをすればいい。
わからない。わからない。わからない。
わたしは、どう――
部屋の向こう側にある、等身大の鏡が光った。
ゆっくりと、視線を動かす。
鏡に映っているのは、――鏡の向こうにいるのは、昨日出逢った異国の少女。
凜音はのろのろと身体を起こすと立ち上がり、鏡に向かって歩き出した。
どくん、と大きく心臓が脈打つ。それと同時に、またあの妙なズレが生じた。
逃げ出したい
ズット待ッテタ
行きたくない
早ク行キタイ
助けて
ヨウヤク還レル
怖い
連レテ行ッテ
凜音の意志は、逃げ出したいと、行きたくないと、助けてと、怖いと叫んでいる。けれど、凜音の意志が届かない最奥のところで、感情は歓喜していた。
待ッテタ
待ッテタ
待ッテタ
待ッテタ
ずっと焦がれて。今、叶ったことに打ち震える。
瞳に光が僅かにともる。それは、最奥の感情が、凛音の意思にも現れだしたことを示していた。凜音は微かに震えながらも、――鏡に触れた。
途端に、鏡は発光しだす。
鏡の向こうの少女は、ふわりと笑った。手をさしのべてくる。
(((行こう―――)))
凜音も、少女の方に手を出した。何か言おうと思ったが、発した言葉は。
「――ずっと、待ってた」
最奥で、凜音の意志が届かないところで、歓喜している感情。
いつの間にか、硬い鏡は失せていた。鏡があるはずのところをすり抜け、少女は凜音の手をつかむ。
引き寄せられたとき、水の中に飛び込んだように、耳がピンとした。
そして。
そのとき凛音は、完全に、この世界の<異質なもの>になっていた。
この世界から、足を踏み外していた。
この世界と別の世界の、「境界」の中にいた。