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双つの月  作者: 氷月優莉
5/7

IV 日常―ニチジョウ―

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 でももう、時間がないの―――。




「凜音!? どうしたの!?」

 母親の甲高い声に、凜音はハッと我に返った。

 床に座り込んでしまっていた。母親が慌てて駆け寄ってくる。

「大丈夫!? 立ちくらみでもした…!?」

「大丈夫」

 精一杯足に力を込めて、立ち上がる。まだ呼吸が震えていた。

「でも…」

「ちょっと、休んでくる」

 心配そうな母親を制して、凜音はふらふらと部屋に戻った。

 ぱた…と、部屋の戸を閉める。

 途端に、ぶわりと涙が押し寄せてきた。

 止まらない。止まらない。

 自分に起こっていることがわからない恐怖。自分が自分でなくなる恐怖。日常から切り離される恐怖。自分が、この世界の異質なものになっていく恐怖。

 止まらない。止まらない。

 凜音は我が身を抱き締めた。泣くのなんて何年ぶりだろうと思いながら、それでも心は安まらない。

 叫びだしてしまいたい。逃げ出してしまいたい。大声を上げて、泣き出してしまいたい。

 それでも凜音は声を殺して泣いた。静かに静かに嗚咽する。

 一体、どうなってしまうのだろう。

 どうしたら、自分は自分でいられるのだろうか。

 けれど、この事を他人に知られてはいけない。知られたら、みんなはどんな目で、自分を見るだろうか。

 驚愕だろうか。

 恐怖だろうか。

 嫌悪だろうか。

 わからない。もうなにもわからない。

 どうしたらいい。どうしたらいい。

 混乱する精神こころを抱えて、凜音はずっと泣き続けた。



 翌日、凜音はぼんやりと、河原に散歩に出た。

 父親は少年スポーツクラブの指導者だから家を空け、母親はパートの仕事に出かけた。カバンも財布も持たずに身ひとつで家を出て、鍵をかける。

 空を見上げた。眩しい。太陽は白く輝き、青空全体が光を放っているかのように、見上げると目が眩む。からすが青空を黒く切り取って飛んでいく。遠くで車のエンジン音がいくつも聞こえる。川を流れる水の音。

 すべての日常を、今ひしひしと感じる。すべての日常が貴重に感じる。

 この日常は、いつか壊れるのだろうか。自分の訳のわからないズレの原因によって。

 ああ嫌だ。思考がすべて、非日常な方へ流れていく。

 凜音は溜め息をついた。いつから自分は、こんな人間になったのだろう。

 河原をぼんやり進んでいくと、大通りに出るコンクリートの階段があった。のろのろとそれを上り、大通りに出る。空気に排気ガスの匂いが混じり、凜音を僅かにむせさせた。

 どうしようか。

 訳もなく、その問いが頭に浮かんだ。とりあえず歩こうと自答し、凜音はゆっくりと歩み出す。

 途中で友達とすれ違う。笑いあって、「どこに行くの」と尋ねあって教えあって、手を振ってわかれる。それらすべて自分のことでありながら、遠くに感じていた。

 ふいにもっと熱いところに行きたいと思い、そのことに苦笑を禁じ得なかった。

 最近ますます頻繁に起こるようになった、ズレ。ズレは日に日に大きくなる。やがてそのズレはひとつの意志となり、凜音の意志と孤立した別のものになるのではないか、と思う。

 いっそのこと、この違和感を消し去ってしまおうか。

 自分が消えることで。

 そんなことを考えてしまうほど、凜音の神経は追い詰められていた。

 音を立てて呼吸する。

 スー、

 ハー、

 スー、

 ハー。

 この音が、自分の証のように思えた。

 ばかげている。

 でも、何か証がないと落ち着かなかった。

 いつの間に自分は、そんな弱い人間になったのだろう。

 そう思い、ついさっき同じようなことを考えたなと思い当たり、凜音は苦笑した。

 今は、日常を大事にしようと思う。

 その時がくるまで。

 

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