IV 日常―ニチジョウ―
ごめんなさい。ごめんなさい。
でももう、時間がないの―――。
「凜音!? どうしたの!?」
母親の甲高い声に、凜音はハッと我に返った。
床に座り込んでしまっていた。母親が慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫!? 立ちくらみでもした…!?」
「大丈夫」
精一杯足に力を込めて、立ち上がる。まだ呼吸が震えていた。
「でも…」
「ちょっと、休んでくる」
心配そうな母親を制して、凜音はふらふらと部屋に戻った。
ぱた…と、部屋の戸を閉める。
途端に、ぶわりと涙が押し寄せてきた。
止まらない。止まらない。
自分に起こっていることがわからない恐怖。自分が自分でなくなる恐怖。日常から切り離される恐怖。自分が、この世界の異質なものになっていく恐怖。
止まらない。止まらない。
凜音は我が身を抱き締めた。泣くのなんて何年ぶりだろうと思いながら、それでも心は安まらない。
叫びだしてしまいたい。逃げ出してしまいたい。大声を上げて、泣き出してしまいたい。
それでも凜音は声を殺して泣いた。静かに静かに嗚咽する。
一体、どうなってしまうのだろう。
どうしたら、自分は自分でいられるのだろうか。
けれど、この事を他人に知られてはいけない。知られたら、みんなはどんな目で、自分を見るだろうか。
驚愕だろうか。
恐怖だろうか。
嫌悪だろうか。
わからない。もうなにもわからない。
どうしたらいい。どうしたらいい。
混乱する精神を抱えて、凜音はずっと泣き続けた。
翌日、凜音はぼんやりと、河原に散歩に出た。
父親は少年スポーツクラブの指導者だから家を空け、母親はパートの仕事に出かけた。カバンも財布も持たずに身ひとつで家を出て、鍵をかける。
空を見上げた。眩しい。太陽は白く輝き、青空全体が光を放っているかのように、見上げると目が眩む。烏が青空を黒く切り取って飛んでいく。遠くで車のエンジン音がいくつも聞こえる。川を流れる水の音。
すべての日常を、今ひしひしと感じる。すべての日常が貴重に感じる。
この日常は、いつか壊れるのだろうか。自分の訳のわからないズレの原因によって。
ああ嫌だ。思考がすべて、非日常な方へ流れていく。
凜音は溜め息をついた。いつから自分は、こんな人間になったのだろう。
河原をぼんやり進んでいくと、大通りに出るコンクリートの階段があった。のろのろとそれを上り、大通りに出る。空気に排気ガスの匂いが混じり、凜音を僅かにむせさせた。
どうしようか。
訳もなく、その問いが頭に浮かんだ。とりあえず歩こうと自答し、凜音はゆっくりと歩み出す。
途中で友達とすれ違う。笑いあって、「どこに行くの」と尋ねあって教えあって、手を振ってわかれる。それらすべて自分のことでありながら、遠くに感じていた。
ふいにもっと熱いところに行きたいと思い、そのことに苦笑を禁じ得なかった。
最近ますます頻繁に起こるようになった、ズレ。ズレは日に日に大きくなる。やがてそのズレはひとつの意志となり、凜音の意志と孤立した別のものになるのではないか、と思う。
いっそのこと、この違和感を消し去ってしまおうか。
自分が消えることで。
そんなことを考えてしまうほど、凜音の神経は追い詰められていた。
音を立てて呼吸する。
スー、
ハー、
スー、
ハー。
この音が、自分の証のように思えた。
ばかげている。
でも、何か証がないと落ち着かなかった。
いつの間に自分は、そんな弱い人間になったのだろう。
そう思い、ついさっき同じようなことを考えたなと思い当たり、凜音は苦笑した。
今は、日常を大事にしようと思う。
その時がくるまで。