III 出逢―デアイ―
ごめんなさい。
けれど、私たちに残された道はこれしかない――
結局あの後は気乗りせずに、どの店にも行かないまま、帰ってきてしまった。両親は買い物に行ったらしく、家には誰もいない。凛音は二階の自室に飛び込み、ベッドに倒れこんだ。
「そなたは道から外れる―――」
その言葉が、頭の中をぐるぐる回る。凛音は重い息を吐き出した。
これから、自分がどうなるのかわからない。自分に何が起こっているのか、知る術も無い。
言いようも無い巨大な不安に襲われて、凛音は唇を噛み締める。
そうしなければ、叫びだしてしまいそうだった。
とにかく、顔を洗って落ち着こう。
そう思い、凛音は体を緩慢な動作で起こす。のろのろと階段を下りて洗面台に行き、栓を思い切り開けた。水が勢いよく飛び出す。水が跳ねて、凛音の服に細かな染みを幾つも作っていく。凛音はそんなことにかまわず、かがみこんでバシャバシャと顔を洗い始めた。
やがて、ふうと息をついて顔を上げる。服の、腹の部分が冷たい。水に濡れてしまったのだろう。凛音は苦笑し、洗面台の脇に置いてある姿見に向き直った。服の状態をもっとよく見ようと思ったのだ。案の定、腹部がぐっしょりと濡れていた。
凛音はふと、鏡面に右の手のひらを押し付けてみた。特に意味は無い。なんとなくだ。ひやりとした感覚。
ドクン…
凛音は目を見開いた。
身体の、心の、奥。「本能」とも呼ぶべき部分が、脈動した。
凛音はふいに、凄まじい恐怖に襲われた。自分と世界が、切り離される。自分が、この世界にとって異質なものになっていく。
凛音は手を離そうとした。だが手は、鏡面に吸い付いたように動かない。
凛音は硬直して、鏡に映る自分自身を見つめていた。
気づけば、窓から差し込んでくる太陽の光が、鮮やかな朱色に変わっていた。―夕陽。
凛音は、いつか読んだ小説の一節を思い出した。
『夕陽の差し込む頃は、逢魔ヶ時。すれ違うものは、誰ぞ。
この世界にあらざる者ぞ。魔とは、この世界にあらざる者。
逢魔ヶ時は、異界の者と交わる時……』
凛音は凍りついた。
そのことに思い当たった瞬間、――鏡の中の凛音の姿が、変わったのだ。
凛音は悲鳴を上げることもできない。ただ黙って、自分の身に起こっていることを見ていることしかできない。
鏡の中の凛音の服装が変化していく。普段着が、見たことも無い、――異国のものへ。
その衣はまるで、砂漠で纏うような。
鏡の中の凛音が、口を開く。凛音は動いていないのに。動けないのに。
(((やっと、逢えた―――)))
もはや凛音と鏡に映っている凛音の姿をしたものは、それぞれ孤立した別々のものだった。 二人の「凛音」は鏡越しに見つめあう。
再び、鏡の向こうの凛音――凛音と瓜二つの少女は、<言葉>を発する。
(((助けて)))
(((呪羅が)))
(((目覚める――)))
その<声>は空気を震わすのではなく、凛音の頭に直接響く。
(((気づかれる)))
(((前に)))
(((早く)))
そこまで<声>が届いた瞬間、少女はびくりと震えた。
凛音は、自由が利くことがわかった。だが、動く気にはなれなかった。
凛音のどこかが、叫んでいる。
待ってた
待ってた
待ってた――
少女の<声>が、急速に離れていく。
(((気づかれた――)))
声は途切れた。