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ある小説家志望の十二カ月

ある小説家志望とかぐや姫の彼氏

作者: コーチャー

「森久保。お前の愛おしい先輩の帰還だ。喜ぶといい!」


 僕に愛を強要してきたのは、矢矧宗伍やはぎ・そうごという。声も大きいが態度も大きい。意志の強さを感じる大きな瞳に、一切の迷いを感じさせない言葉の強さ。さらには身長も高い、この男は僕の所属する文芸サークル「あすなろ」における『生けるの禁忌きんき』である。この男が相変わらずの人を食った笑顔で部室に現れたのは、新入生歓迎会を終え、桜も散りきった四月末のことであった。


「いつの間に帰ったのですか? 矢矧先輩。気持ち悪いので、一度死んでくれませんか?」


 僕は出来るだけ冷たい目つきで彼を突き放した。彼は押してくる人間である。突き放すか、引くかしなければ簡単に懐に入ってくる。それは暴風雨にも似たもので、簡単に人の心をかき乱す。何気ない一言が平穏を奪っていくのである。そのくせ、本人に自覚がないのだからぎょし難いとしか言い様がない。


「なんだ、照れているのか。森久保、先輩の愛を受け止めろよ。先輩は後輩に無上むじょうの愛。そう慈愛じあいを注ぐものだ」

「先輩の愛は自愛じあいであり、かつ無情むじょうなのでいりません。そもそも今日はどうして「あすなろ」にお越しなのです。先輩が失踪してもう半年、とっくに除籍ですよ」

「除籍? そんなこと谷崎や石川に出来るわけがないだろ」


 谷崎と石川は矢矧先輩と同じ学年であり、この四月から四回生になっている。この三人は「あすなろ三傑」と呼ばれ、谷崎先輩はマゾヒストな純文学主義者、石川先輩は借金まみれの幻想小説マニア、矢矧先輩は不完全な完璧主義者として名を馳せた。しかし、昨年の夏に矢矧先輩が失踪したためいまは谷崎と石川が部長と副部長となっている。


「矢矧先輩が不在の間に坂口部長は卒業。部長職は谷崎先輩が引継ぎました。無役むやくなのは矢矧先輩だけです。しかも、誰にも何も告げずに失踪ときたものです。除籍にならない方が不思議だとはお思いませんか」

「いない間にえらく言うようになったじゃないか。俺がいなくて寂しかったのか?」

「まさか、矢矧先輩がいないおかげで随分と執筆が進みましたよ」


 そう言って僕は矢矧先輩と過ごした半年間を思い出した。密室蛸壺事件に駆け回る安楽椅子探偵事件、とどめに斑の犬ダルメチアン事件とロクでもない思い出が走馬灯のように蘇り、僕はあの嵐のような日々にため息をついた。どの事件も徒労感がひどかったが、僕以上にそれを感じていたのは当時部長であった坂口先輩に違いない。事件への関係は全くないのに最後になって矢矧先輩と僕の後始末をつけるのはさぞ、腹立たしかったに違いない。


「あなたたちの馬鹿さには愛想がつきました。反省なさい!」


 そう言って僕と矢矧先輩を叱りつけた坂口先輩は、長い濡れ羽色の髪をしたいにしえの如き才女で小説の巧さも然ることながらその知識の豊かさは群を抜いた存在であった。矢矧先輩はそれを評して「坂口先輩の知識は六甲山の如き豊かさであるが、その胸は天保山より貧しい。知豊乳貧ちほうちちひんとはこのことである」と言って拳骨げんこつたまわったものである。


「よかろう。ならば、お前の新作を見せるがいい。俺がいない間に筆が進んだということはさぞ力作なのだろうな」


 矢矧先輩はそう言うとからりと笑い。部室の奥にある一番立派な椅子に腰をかけた。そこは部長である谷崎の席である。しかし、神経質そうな細い目に輪をかけて細い身体を持つ彼が座るよりも圧倒的な存在感を誇る矢矧先輩の方がしっくりくる。


 悔しいことであるが、矢矧先輩は「あすなろ」のなかで頭一つ分飛びぬけた作品を書くのである。あのデリカシーのない頭をどうひっくり返せばあのような文章が出てくるのかわからない。それだけは皆が共通して認めるところであり、失踪した当時は次期部長候補の一角が崩れたと先輩陣の方で話題となった。


「それは構いませんが、矢矧先輩の失踪した顛末を聞くほうが先なんじゃないかと思うのです」


 僕は話題をよそに降っているあいだに卓上にあった書きかけの原稿を矢矧先輩の目に触れないうちに鞄にしまい込んだ。いくら書くのがうまくても論表は最低な矢矧先輩に読まれるのは心の衛生的によろしくないのである。


「してもいいが気が進まないな」


 矢矧先輩が歯切れの悪い声を出した。これは珍しいことである。僕は少し考え込むと、部室の扉を指差した。


「では、先輩がどうして失踪したか推理してみせます。当たっていたら拍手と飯の一つでも奢ってください」


 部室の扉に彫り込まれた文章を指さすと僕はそこに書いてある文章を読み上げた。


『余は偉大なる落伍者となつてかぐやなきあとにはよみがへるであらう』


 矢矧先輩が失踪する直前に扉に掘り込んだ文章がこれである。この文章を読んだとき、谷崎先輩と石川先輩は「そうだろうな」と呟いていた。一方、坂口先輩は「馬鹿ね」と、眉をひそめた。僕や大蔵谷先輩、漆山先輩といった二回生以下の部員は「矢矧先輩らしい。どうせなんかロクでもないことをしでかしたのだろう」と苦笑いしたのだった。


「ほう。面白い。お前がどういう答えを導き出したのか、回答編でもしてもらおうか」

「小っ恥ずかしくなって逃げ出すことになるかもしれませんよ。なんせ、今から話すのは矢矧先輩自身の物語なのですから」


 僕が笑うと矢矧はすこしむっとした顔をしたが、すぐに人を馬鹿にした傲慢ごうまんな表情を作って「させてみな」と言った。


「では、最初に先輩がいなくなった八月に何があったか思い出してみましょう。この八月にサークル内で一番話題になったのは谷崎先輩の作品が文芸現代新人賞の最終選考に選ばれたことが挙げられます」

「ああ、あの薬にもならない恋と性を題材にすれば純文学になるとでも思った倒錯とうさく作品だな。あんなのを書いているから、告白した女に気持ち悪がられるのだ」


 気持ち悪がられるかどうかは別として、谷崎先輩の作品は最終選考の論表ではもっとソフトな言い方になっていたが、矢矧先輩が言ったのとほぼ同じ内容で酷評されている。とはいえ、サークルから最終選考へ駒を進めた人間が出たのである。これに部員が沸かぬはずがない。


「谷崎先輩がリーチまで進んだぞ」

「やるとは聞いていたがここまでやるとは、次の部長は谷崎さんかな」

「あれにできたのだ。俺にもできるはずだ」


 十人十色の反応であったが、身近な人物の躍進に部員たちにも良い影響を与えた。この年の夏季中に部員が書いた作品数は例年の倍に近く、玉石混交とはいえサークルの季刊誌は例年を超える部数が発行出来た。


「そんなかで、サークルの話題を奪ったのが、石川先輩がひらいたプロ作家を呼んだ小説講座です。これには誰もが驚きました。あまり有名ではないとは言え、プロが実際に来ての講座でしたから部員全員が参加しました」

「あれはなかなかよかった。プロの指導も然ることながら、プロを呼んだ金は全部石川がどこぞで借りてきた二十万だっていうのだからうまいオチをつけたものだ」


 矢矧先輩はひどく可笑しそうに笑った。実際、講座が行われると石川先輩によって告知されたとき、


「どうやってプロを呼んだのだろうな?」

「実は石川先輩も言わないだけで谷崎先輩みたいに最終選考に残るなりして出版社にコネがあるのかもしれんぞ」

「そうだとすると一番作家に近いのは石川先輩か!」


 なんていう話が部室のあちこちで聞こえた。後日、石川先輩が二十万という金を方々から借り上げてイベント会社を通して呼んだものであることが判明するのだが、その時は誰もが石川先輩を敬ったのだった。


「借りた金で自分の格をあげようとするんだ。借りた格はいずれ返さなければならない、という点に頭が回らなかったのが石川の馬鹿なところだ。そんなのだから好いた女から無理難題をふっかけられるのだ」


 無理難題なんてまるで竹取物語ではないか。もし、そのような条件を求婚者にするような女性がいるとすれば、それは相当な悪女であろう。それが達成不可能とわかる燕の子安貝、蓬莱の玉の枝と言ったものであるのなら特にである。


「これらに次ぐのはやはり坂口先輩の引退です。うちは文芸サークルという特質から運動部のような明確な引退時期はありません。人によっては卒業のギリギリまで顔を出す人もいるくらいです。そんな中、坂口先輩は、長々といるのは後進の為にならないとして八月いっぱいでの引退を宣言したのです。ただ、先輩は次の部長を指名しませんでした。次世代のことは次世代で考えよ、とね」


 ここまで一気に言うと僕は矢矧先輩を見た。彼は、ガラス玉のような大きな瞳でこちらを見つめている。その表情がどうやら笑顔らしいということに気づいて僕は寒気を感じた。


「……さて、これが昨年の八月に『あすなろ』であった出来事です。このことから僕は先輩が失踪した理由をこう推理します。矢矧先輩は、谷崎先輩、石川先輩と坂口先輩の後継を争って敗れた。そのために失踪したのです。僕の知る限り、矢矧先輩は気位の高い人です。自分よりも格下だと思っている二人に負けたことがよほど悔しかった。そうじゃありませんか?」


「なるほど、確かに八月の時点でサークルへの貢献度や人望という点では俺はほかの二人より劣るな。谷崎は文芸現代新人賞の最終選考に残り、石川は部員のスキルアップのために私財をはたいてプロ作家による講座をひらいた。俺には何もない。だが、俺の失踪を『あすなろ』のなかの出来事と決め付けるのは良くないんじゃないか? ひょっととすれば俺にも借金があってマグロ漁船に乗って返済に当てていたのかもしれない」


 口笛でも吹き出しそうなくらいご機嫌な顔で矢矧先輩が問いかけてくる。


「それはありません」僕は確固とした口調でそれを否定する。決して、彼の失踪の原因はサークルの外にはないのである。「なぜなら、失踪の原因がサークルにないなら先輩は扉に『余は偉大なる落伍者となつてかぐやなきあとにはよみがへるであらう』なんていうメッセージを残さないからです。メッセージを残すということは誰かに伝えることがあるということです。では、誰に伝えるのか? それは「かぐや」です」


「かぐや? そんな名前のやつはこのサークルにいないだろ。俺は竹取物語に出てくるかぐや姫にメッセージを残したというのか?」


 今にも吹き出しそうな顔で矢矧先輩が、両の手をあげる。確かに「あすなろ」にかぐやという名の人間はいない。


「かぐや姫はいません。でもかぐやは居たのです。古語で、かぐは下愚かぐ、やは。つまり、下愚奴となり、愚か者という意味になります。それが亡きあとに甦る、と言うことを考えればかぐやは、坂口先輩です。だから、自分を部長に指名しなかった愚か者である坂口先輩が卒業しいなくなったあとに帰ってきた」


 坂口先輩は、一回生だった僕から見ても良く出来た人だった。そんなよく出来た人であっても読み間違うことがあるのである。次世代の人間が坂口先輩ほど聡明であれば内部対立などしなかったに違いない。だけど、矢矧先輩にしても谷崎先輩、石川先輩にしても一家言を持つ人間なのである。誰かの風下に立つことはプライドが許さなかったのだ。


 僕は、矢矧先輩に止めを刺すように

「余は偉大なる落伍者となつて、と言うのは次期部長から外された。落とされたからという自嘲の意味が込められていた。そうじゃありませんか?」と、言った。


 矢矧先輩はじっと僕を見つめたあと、肩を震わせて大きな声で笑った。それがあまりにも激しいものだったので僕は、矢矧先輩が壊れてしまったのではないかと恐ろしくなった。彼の自尊心は虎のごとくである。だがそれは臆病で、羞恥心は尊大であったのだ。


 ひとしきり、笑ったあと彼は僕に言った。


「面白かった。でも、不正解だ。惜しいところまでいったけど、人が見えてないな。まずは、俺が扉に彫った文章から解説してやる。まず、『余は偉大なる落伍者となつて』だが、俺は何回生でしょう?」


「そりゃ四回生でしょう。谷崎先輩と石川先輩と同期なのですから」


「お前は馬鹿か? 俺は半年間も休学届けも出さずに失踪していたんだぞ。単位は皆無だ。ゼロだ。そんな奴は進級できるわけがないだろ。つまり、落伍者は落第生ってことだ。偉大ではあるがな」


 ということは、このはた迷惑な先輩はあと二年、在学することになる。半年でも随分とうんざりする厄介事を持ち込んできたというのに、あと二年もあると思うと気が遠くなる。

「次にかぐやのくだりだが、惜しかった。メッセージの相手は正しいが推理が間違っている。かぐやは、坂口先輩だ。だが、愚か者という意味ではない。かぐや姫としての意味だ。つまり、坂口先輩かぐやなきあと復学する、と言いたかったんだ。あいつが卒業しないと気まずくてこられたものではない」


「そうだと意味が分かりません。矢矧先輩が坂口先輩を避ける理由が後継争いでなければどこにあるというのです?」


 僕の問いかけに、矢矧先輩は恥ずかしそうに目線を外して天井を見た。


「かぐや姫といえば?」

「光る竹」

「違う。もっと題材的な奴だ」

「課題婚ですか?」

「そうだ」


 矢矧先輩は頷くと、我が意を得たりとばかりにニカリと、微笑んだ。どうにも先が見えずに僕が頭をひねっていると彼はもどかしそうに口早に言った。


「かぐや姫は言い寄る男達にある課題を出した。それは仏の御石の鉢、蓬莱の玉の枝なんていう現実には存在しないものだ。坂口先輩も同じように男達に課題を出したんだよ」


 課題婚。女から無理難題をふっかけられる。どこかで聞いたフレーズである。そういえば、石川先輩が……。


「もしかして、石川先輩が好いた女性ってまさか」

「坂口先輩さ。しかも、彼女に言い寄ったのはあいつだけじゃない。谷崎も俺もだ」


 これは想定もしていない事態である。まさか、あすなろ三傑が同じ女性に懸想けそうしているなんて考えたこともなかった。同じサークルにいながらそんなことが起こっているなんて知らなかった。これでは、矢矧先輩に人が見えてない、と言われても否定できない。


「俺たち三人は坂口先輩に揃って交際を求めた。そこで彼女は俺たちに課題を出した。谷崎には『私への想いを文章にして提出。私の心を打つ作品なら付き合います』と言い。石川には『人は宝と言います。あなたが部員から尊敬を受ける人間であれば付き合います』、といった。その結果は、簡単だ。谷崎には変態じみた妄想小説を書き上げ、彼女から気持ち悪いと罵倒された。石川は後輩からの人望を得るために金を使ったが、元から後輩にまで借金する奴だ。それが借り物の人気とばれてフラれた」


「一人だけ抜けていますね。矢矧先輩はどんな難題だったのですか?」


 僕は皮肉めいた微笑を顔に貼り付けて訊ねる。


「それがな。『矢矧君はいつもありえないことばかりして私を困らせてるから、ありえないものを持ってきてくれる。そうね、青い薔薇ばらにしましょう』、と言われた。この時ばかりは俺も無理だと思ったよ。青い月と同じで決してあり得ないことの慣用句だ」


「つまり、完全に取り付く島もないくらいにフラれたわけですね。あすなろ三傑全滅。不甲斐ないことです」


「勝手に終わらせるな。青い薔薇はあるんだ。アプローズと言って日本の企業とオーストラリアの企業が合同して研究開発した。世界で唯一青い色素を持つ薔薇だ」


 矢矧先輩は懐から携帯電話を取り出すと、一枚の写真を見せてくれた。青というには紫がかった一輪の薔薇だ。「ありえないもの」の象徴がそこにはあった。ありえないものがあった。それは転じた意味になるのだろうか。そうならこの薔薇の花言葉は「かなうもの」になるのかもしれない。


「しかし、そうだと先輩が失踪する意味は何です。坂口先輩とラブラブしている姿を二人に見せつけてやればいいじゃないですか?」

「馬鹿か。あんな二人でも俺の同期だ。友情もあれば情けもある。あいつらには俺もフラれた。傷心のため坂口先輩が卒業していなくなるまで帰らない、という意味であの言葉を残したんだ。それなのにそんなことできるわけがないだろ」


 僕は開いた口が塞がらなくなった。


 このデリカシーの欠片もない先輩が同期の心配をしているのだ。同じ女性を愛した恋敵として、同じサークルに属する仲間として。やはり、僕は人を見ていないのかもしれない。矢矧先輩にこんな側面があるなんて考えたこともなかった。


「矢矧先輩。ご馳走様です。いろんな意味でお腹いっぱいです」


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