兄弟
俺が化け族となったあの日から、早いものでもう一年が経とうとしていた。あの変な感覚にも頭の中の何かの言葉にも大分慣れて来て、今では普通に利人と話せるようになった。そうは言っても化け族としての食事は摂らないと生きていけないので、二週間に一回くらいのペースで近くの森の獣を喰っている。化け族はそこまで喰わなくても生きていけるらしい。化け族としての食事をしなければいけない頃になると苛つきやすくなるので、そろそろ限界だと思ったら獣を喰いに行くようにしている。それにしても、此処が田舎であって本当に良かったと心から思う。
しかし獣を喰う日はどうしたって生臭くなってしまうので、毎回ばれやしないかとひやひやする。朝早くからシャワーを浴びていても、何とも言われないのが救いだ。それでも母を起こさないようにと変に気を使ってしまう。
獣を狩るのはもう慣れたものだが、その後の始末は未だになれていなかった。
――兄弟が、目覚めたぞ。
ある朝頭の中の何かが言った。しかし俺はそれを無視する。頭の中の何かは、何度言っても無駄だと思ったのか、いつもより五月蝿くは言わなかった。
だからだろうか、学校に向かう頃にはそう言われていたことなどすっかり忘れていた。
その日、学校に行くと珍しく利人が休んだ。体調不良だそうだ。
丁度利人が日直当番だったのだが次の人に回された。「なんであいつ、今日に限って休んだんだよ」と、当番になった奴がぼやいているのが聞こえた。
放課後、配布物を二人分渡された。自分の分と利人の分だ。
「宜しく」
(そんなこと、先生に言われなくても届けに行くのは俺しかいないのに)
そう思いながらも俺はそれを受け取る。
「はい」
利人の家は俺の家を少し過ぎたところにある。距離的にはそこまで離れていないのに、利人の家を見るのは随分久しぶりに思えた。
ピンポーン。
利人の家のインターホンを鳴らす。暫くして足音が聞こえた。出てきたのは小母さんだった。
「あら、隆盛君。こんにちは」
「こんにちは。これ、お便りです。届けに来ました」
利人の家にこうして来るのはいつ振りだろうか。中学に入って少しの間はたまに遊んだりもしたのだが、部活に入ってからはそういうことがなくなった。それに俺が化け族として目覚めたことにより、学校を離れたところでは少し距離を置いているというのもある。
なんにせよ、こうして届け物をするのも、思えば中学に上がってから初めてのことだ。
「わざわざ有難う。なんだか久しぶりに見る気がするねえ。見ないうちに、随分大きくなったんじゃない?」
「いえ、そんなことないですよ。……それより利人、大丈夫ですか?」
配布物を渡したらさっさと帰ろうと思っていたのだが、話の切りどころが分からず適当な話を振る。長い付き合いだとはいえ、正直、他人の親と話すのは苦手だ。
「うーん、それがね。今朝からずっと、私に顔を合わせようとしないのよ。私も、学校で何かあったのかとかいろいろ考えちゃって」
「さあ……どうでしょう」
小母さんは恐らく、虐めの可能性について言っているのだと思った。俺は昨日までの利人の様子を振り返った。
学校では、昨日も普通に周りの男子とふざけ合っていたように思う。まあ、本人の気持ちなど周りの奴にはわからないから断言してはいけないのだろうが。それにしたって、俺から見た分には学校が嫌だったり、母親とも顔を合わせたくなくなったりというほどのことは学校ではなかったはずだ。だからと言って、小さな社会とも言われる学校という施設の中では、いつ何が起きているかわからない。それに、初め俺は安直にも小母さんの言った「学校での何か」を「虐め」だと解釈した。しかし虐めでなくとも、人間関係や勉強のことなどの可能性も十分にある。恋煩いの可能性だって無いとは言えないのだ。
俺には計り知れないことだった。
だから「きっと、具合が悪いだけですよ」と適当に気休め程度の言葉をかけた。
――兄弟を、狩れ。
己の命が、狩られる前に。
突然、家の中からバタバタという慌ただしい足音が聞こえて来た。
「ん、利人かしら」
小母さんが「ちょっと様子見てくるね」と言って家の中に戻っていった。それと共に、例のあの変な感覚がする。久しぶりに強い胃の痛みを感じた。
(殺される)
早く逃げなければ、という危機感に襲われる。しかし、体は動かない。
――早く。さあ、早く兄弟を……!
死んでしまう。死んでしまう。
嫌だ、死にたくない。
頭の中に響く言葉たち。それが頭の中の何かの声なのか、自分自身の声なのか、区別がつかなかった。恐怖に震え、脚がすくむ。
「死にたくは、無い……」
そう、頭の中で響く言葉たちは俺の言葉でもあった。しかし思えば思うほど、脚に力が入らなかった。
(……利人が、目覚めたんだ)
その時、俺は今朝の出来事を思い出した。「兄弟が目覚めた」。それは利人のことを言っていたのだ。今度は、顔がさっと青ざめていくのが分かった。まさかこんなところで殺し合いになんてならないよな? なあ、利人……。
「ひっ」
中から小母さんの短い悲鳴が聞こえた。と同時に、大きな物音が聞こえて来た。
「小母さん!」
どうしたんですか、と声を掛けようとした次の瞬間。
「うわっ」
俺の首元を狙って、玄関から二つの手がぬっと出て来た。間抜けな声を上げつつも俺はそれをかろうじて避けたが、身体に力が入っていなかったのでバランスを崩して尻もちをついた。
「り、利人」
――喰われる。喰われる。
こいつの魂を俺が喰わなければ。
俺が生き残らなければ。
頭の中の何かがしきりにそう訴えてくる。もうおしまいだ、そう思った。このまま我を失っている利人に喰われるのだ。
そう言えば、昨日喰った鹿はうまかったな、とちらりと思った。
「一年前、お前が学校を早退したあの日。あの時のお前の気持ちが、今なら痛いほどわかるぜ」
俺はこのまま喰われるものだとばかり思っていたが、利人はそう言った。どうやら少し気持ちが落ち着いたらしい。
「隆……、お前は一年もの間、こんな殺気に堪えて過ごしていたというのか」
利人は続けた。大分落ち着いたようで、殺気はそこまで感じない。先程まで取り乱して固くなっていた表情が、少し和らいだように見えた。
「今にもお前のことを殺したくて、体がうずうずしてる。どうすれば治まるんだ、これ?」
微かに顔を歪めた。苦笑を浮かべたかったようだ。表情が和らいでも笑えるほどの余裕はまだないということか。
「俺の場合は、対象物と向き合っているときは滅多にそういう衝動に駆られないからな……でもまあ、直に治まると思うぜ。少なくとも、食欲が満たされれば暫くは平気だ」
利人の小母さんにこの話を聞かれたらまずいと心配していたのだが、それも必要なかったようだ。利人が家を飛び出てきた際に、気を失ってしまったらしい。先程の物音は小母さんが倒れた音だったようだ。
「そっか。お前は凄いんだな」
またも顔を歪める利人。今度は先ほどよりも口角が上がっており、笑っているのだということがわかった。
「……俺、いつかは他人を喰うことになるのかな」
ぼそりと、独り言のように言っているのが聞こえた。とても悲しそうな顔をしている。今にも声が消え入りそうだった。聞かなかったふりをした方がいいかとも思ったが、俺は結局声をかけることにした。
「……獣を喰うだけでも十分生きてはいける。いずれ兄弟たちを喰わなければいけない時が来たとしても、それはまたその時だ」
言い終わって、後悔した。これでは何の気休めにもなっていないではないか。今のはつまり、獣は喰わなければいけないということだ。人間ではないが、それでも生きているものであることには変わりない。俺だって、初めて命を喰った時にはかなり心苦しかったというのに。
事実は事実でも、もっと他の言葉があったのではないか。
「ああ、……そうだな」
俺が項垂れていると、それまで俯き気味だった利人の顔が俺に向き直った。顔がいつもの利人に戻っている。
ニカッと笑いながら、利人はこう言った。
「そうだな。悩むなんて俺の柄じゃない」
化け族としての義務を果たすためには、兄弟たちを喰い、魂を一体化させる必要がある。そうしなければ自分の魂を後世に残せる確率が減ってしまうからだ。元の魂の半分以下である魂を例えそのまま人間の子に吹き込んだとしても、人間の子の体を乗っ取れない可能性の方が高い。最低でも二人の魂を合わせなければ、うまくいく確率は限りなく低いのだ。だからこそ兄弟を喰うことは、化け族として生まれたものの義務なのである。
だからそれに従い、化け族として目覚めてからというもの、頭の中の何かは頑なに利人を殺させようとしてきた。俺はそれを頑なに無視した。
しかし今思えば、「頭の中の何か」など本当は存在していなかったのだろう。
俺は既に人間ではなく化け族の子孫だ。しかし俺はそれを認めようとしなかった。化け族の本能を、欲望を、全て「頭の中の何か」のせいにし、人間のふりをしようとし続けていた。人間としての俺を捨てるのが嫌で、化け族としての俺をあたかも俺ではない別の生物として扱っていただけだった。それが「頭の中の何か」という形になっていただけだった。
利人を見るたびに殺したいと思っていたのは、他でもない俺だったのだ。その事実から目を逸らしていたかった。
しかし。
一年経ってやっと気づいたのである。こう、結論付けることができたのである。向田利人はまだ殺すべきではない、と。
まだ他の兄弟の目星もついていないのに、自分を殺す気のない奴を喰うのは無駄だ。少なくともあと二人くらいは兄弟がどこかにいる筈だから、その二人を喰った後でも遅くは無い。一人で喰うよりも、利人と協力して喰った方が利口だ。利人が別の兄弟の魂をその体に蓄えてからでも、遅くはない。いや、むしろそうなってからの方が喰う人数が減っていいではないか。
俺がその結論にたどり着き、確信を得た時、遂に頭の中の何かが静かになった。
頭の中の何かの声を全く聞かなくなったのは、利人が化け族として目覚めてから半年ほど経った時だった。