覚醒
とある朝。
――兄弟を、狩れ。
目を覚ました時には既に、そんな言葉が頭にインプットされていた。
「化け……族……」
次から次へと、昨日までは知らなかったはずの情報が頭の中を支配する。
化け族。
俺はそれの子孫であるのだと、頭の中の何かがそう言っている。
台所に向かうと母が朝食の準備をしていた。今は一通りの準備が終わって調理用具を片づけているところのようだ。焼き魚の匂いが部屋中に漂っていた。
「母さん、おはよう」
声をかけると、振り向きもせず挨拶を返してきた。その日母と顔を合わせたのは、母が食卓に着こうとした時だった。
「隆盛……あんた」
既に食べ始めていた俺の顔を見た途端、母はそう言って目を見開いたのだ。俺は思わず顔をしかめる。
「なんだよ。そんなに目を丸くするほどか? ……寝癖なんていつものことだろ」
言いながら自分の頭に手をやる。そこまで酷い気はしないのだが。
それとも食べ方が汚いとか。少し考えたが、それは無いだろうと思った。そんな風に注意されたことは今までなかったからだ。それに、そういったことなら注意されずとも自分でわかる。
「ううん。寝癖じゃなくて。今日はそんなに酷くないよ。まとまってる方じゃない?」
俺の台詞に、母は慌てたように首を横に振った。「今日はそんなに酷くない」と言う言葉を聞いて少し安心したが、それなら何だというのだろう。他に思い当たる節もないので訊いてみる。
「それなら、何?」
「いや……うーん」
どうも煮え切らない様子だ。母は暫く悩み、最終的にこう言った。
「何か、今日のあんたはあの人に随分似てるなって思って」
「雰囲気がね……。何て言えばいいんだろう、顔つきかな。パッと見た時に、ああって思ったの。あんたはやっぱりあの人の子供なんだなって」
あの人。
俺の父のことである。
俺の父は、俺がまだ母の腹の中に居た頃に倒れたらしい。原因は不明。夜に逝ったそうなのだが、倒れたその日も、倒れる直前まではぴんぴんしていたと聞いた。
写真を見ることはあるが、まるで赤の他人の写真を見ているような気になる。一緒に過ごした事がないからというのが大きいのだろうが、俺はそれを父親として見たことはないし、似ているとも思わない。
それに今まで「父親に似ている」と言われたことは一度もなかった。母にはよく、「あの人とは大違いだねえ」と言われるくらいだ。それは外見だけでなく内面的にも、という意味も含まれているのだろう。
それなのに今朝は、打って変わって正反対のことを言っている。普通なら不思議に感じる所だろう。
しかし。
今日の俺は昨日までの俺とは根本的に違う。そのことを、またその理由を自覚しているから、先ほどの母の言葉を聞いて腑に落ちたような感覚がした。
今日の俺は以前よりも父に近しい存在となったのだ。父そのものと言っても過言ではないという気さえしてくる。
何故なら俺は、父の血を引いているだけでなく、父の魂を引いているのだから。
化け族としての、父の魂を。
俺は生まれて初めて、あの人のことを自分の父親だと認識した。今なら、まるで赤の他人とも思えたあの人の顔が懐かしく感じられるのではないか、とちらりと思った。
「本当に、よく似てる」
母は暫く俺を眺めていたが、最後にそう言った。一語一語を噛みしめるように、はっきりと。
その時の母の顔は、少し寂しげだったような気がした。
それから。
俺は暫く食器を洗っている母の背をぼんやりと眺めていた。母はどこまで知っているのだろうか。俺の父のことを。自分の夫である、その人のことを。
ふと時計が目に入り、俺は思い出した。朝から何かとあって忘れかけていたが今日は平日である。それなのに、こんなに悠長に構えていてはならない。
(遅刻する……!)
慌てて立ち上がろうとした、その時だった。
――うまそうな肉だ。
不意に全身の毛が逆立ったかのような何とも言えない感覚がした。胃のあたりがくっと締め付けられているような気分になる。全身が震え、早く動かないとどうにかなってしまうそうだ。俺は咄嗟に近くにあった椅子の背凭れにしがみついた。
――うまそうな肉だ。さあ、あの肉を喰え。
頭の中の何かの声が頭に響く。目が覚めた時に聞いた声と同じだ。普通なら結びつくはずのないもの同士が、俺の頭の中では自然にくっついていた。「あの肉」と、俺の目の前で食器を洗っている「母」の姿。母は母なのだが、俺の目には今それが「うまそうな肉」として映っている。
(立ち上がっては駄目だ)
頭は妙に冴えていて、直感的にそれだけはわかった。今動いたら、恐らくこのまま母に喰いついてしまう。この感覚が治まるまでこの場から動いては駄目だ。身体は明らかに母のことを喰いたがっている。俺は、椅子の背凭れに回した腕に更に力を込めた。決して立ち上がらないように、下へ下へと体を押し付けるようにしながら。
と。
「……隆盛? さっきから何してるの?」
いつの間にか洗い物を終えた母がこちらを怪訝そうに見ていた。声をかけられたことにより、すっと先程の感覚が消えた。気づくと、少しの間の出来事だったのに体中に変な汗をかいている。寒気がするのは汗のせいで体が冷えたからなのだろうと思った。
変な感覚が消えたことにより、先程までは冴えていた頭が混乱し始める。
「み、見ればわかるだろう? 筋トレをしていたんだよ」
だからこんな意味不明な受け答えをしてしまっても、仕方がないと言えよう。
「そんなんでどこの筋肉が鍛えられるっていうの」
案の定鼻で笑われた。
それにしても、笑われて済むのだったらとても助かる。深く追及されたらどうしようかと思っていた。
「それより時間いいの?」
朝の忙しい時間に問い詰めるほどの余裕がなかった、というだけだったのかもしれないが。
「……よくねえっ! 母さん、ありがと」
とにかく俺は慌てて学校へ行く支度を始めた。
シャワーを浴びていきたがったが、時間がなかったので諦めた。汗は引いていたが、油っぽい気持ち悪さが残っていた。
外へ出ると澄んだ空が広がっていた。周りには高い建物がないので遠くまで見渡せるが、雲一つ見当たらない。
吹き抜けていく風が心地よく感じた。
違和感を抱き始めたのは、中学の敷地内に足を踏み入れた辺りだった。何かが違う。具体的に何が、とは言えないが、ただ漠然と何かが違うということを感じた。昨日までは無かった居心地の悪さがそこにはあった。この校舎にも慣れてきた頃だというのに。
その違和感は教室に近づくほど強まっていき、教室の前に来た時には最悪な気分だった。
「ふう……」
気持ちを落ち着かせるために深く息を吸うと、少しは楽になった気がした。
教室に入ってみると、既に向田利人が来ていた。
利人とは、小学一年生からの付き合いだ。……と言ってもこんな田舎の方では、もっと小さい頃から一緒だった奴らの方が多い。中には、小学校卒業までの間だけで、十一年間もの付き合いの奴らだっている。また、村内には二つの小学校がある。しかし少子化の影響で、両校合わせて一学年につき四十人前後くらいずつしかいない。なので、もともと子供同士の仲はいい方なのだ……と思う。
小学校に上がる際、利人は隣町から越してきた。家が近所だということもあったが、俺たちは気が合ってすぐに仲良くなった。中学生にあがり両小学校の児童たちが集まるので、そこでようやくクラスが二つに別れる。しかし運よく俺たちは一緒の組になった。
先月の下旬に入った部活では、お互い別のところに入った。入学当初に比べて一緒に居られる時間は随分と減ったが、教室では一緒に居ることが多い。利人が俺の親友であることに変わりはなかった。
「おはよう、隆」
「おはよ」
利人の席は俺の席の斜め左前だ。俺の席は出入り口に割と近いところにある。
「俺、宿題まだ全然終わってねえや」
利人は、苦笑いしながらシャーペンをくるくると回した。ペン回しは、利人のくせだ。暇があれば、いつもそうやって、長い綺麗な指先で器用に回している。
「そうこう言ってる暇があれば、ペンなんか回してねえで、宿題やれよ」
鞄から取り出していたノートでパコンと軽く利人の頭を叩いた。「うへえぇ……」と変な声を上げつつ、机に向かい直る利人。
いつものようなやり取り。別段変わっているようなところは無さそうだ。しかし確かに居心地の悪さがある。
この違和感は何なのだろう。
――こいつは俺の仲間だ。
こいつは、俺の兄弟だ。
ゾクリ。
身に覚えのある嫌な感覚がした。胃のあたりがくっと締め付けられているかのような感覚。今朝のものと同じだ。……いや、今朝の方がまだましだったか。刻一刻と胃の痛みは強くなる。キリキリと胃が締め付けられ、全身が震え、俺はノートを取り落した。
「ん、落ちたぞー、隆」
こちらをまだ見ていない利人は、俺の異変に気づいていないようだ。何気ない様子で落ちているノートを拾い、俺に渡そうとする。
――兄弟を、狩れ。
こいつの魂を、喰い尽くせ。
頭の中に、何度も何度も同じ言葉が響く。こいつの魂を喰い尽くせ。利人がもうじき顔を上げてしまう。
(利人と目があえば、俺は俺を制御できなくなってしまうのではないか)
(とにかく教室から出なければ)
早く動かなければ。
思うほど、足から力が抜けていった。
「はいよ」
利人がノートを落したことに気づき、それを俺に渡そうとするまでの時間がやけに長く感じた。もうじき利人が顔を上げてしまう。
自然と握っていた拳を、更に強く握りしめる。手のひらに爪が喰いこんで痛みが走る。それによって少しは気を確かに保てていられるような気がした。しかし、頭の中の何かはそんな俺に容赦なく呼びかける。その声は既に叫び声のようになっていた。
――さあ! 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺セ殺セ殺セころせころせコロセ殺セころセ殺……
「だああぁあもう! 悪い利人! 俺、保健室行ってくるわ!」
頭の中で狂ったように鳴り響く言葉を掻き消さんばかりの大きな声に、教室に居た全員が驚いたことだろう。露骨に利人から目を逸らしながらそう告げると俺は教室を飛び出した。未だに足に力が入らずふらふらの状態だったため、何度か机に足を救われそうになったが、出入り口から近い場所に居たおかげで無事に外へ出ることができた。
階段を踏み外しそうになりながらも保健室を目指す。教室を出た頃には先ほどの殺人衝動は治まっていたが、俺は足を止めなかった。途中、何人かの生徒や教師にすれ違いぶつかりそうになったが、俺はとにかく走った。すれ違った教師に何か声をかけられた気がしたが、それも無視した。衝動が治まっても、気持ちが落ち着くわけではない。動いていなければどうにかなってしまいそうだった。気が狂ってしまいそうで、仕方がなかった。
「失礼します!」
ノックもなしに保健室のドアを勢いよく開ける。息を切らしながら保健室に駆け込んだところで、俺は膝から崩れ落ちた。養護教諭の羽鳥先生は、そんな俺を見て目を丸くした。
「ど、どうしたの、真田君!?」
「すみません、先生。ちょっと気分が悪くなっちゃったんで、暫く休ませてもらってもいいですか?」
その後、すぐに休養室で横にならせてもらうことができた。先生は俺に事情を聞こうとしたが、俺は休ませてくれということしか言わなかった。話せることなどないし、一刻も早く一人になりたかった。そんな俺の様子を見て先生の方が折れたのだ。
その時、俺は心底ほっとした。これ以上羽鳥先生のことを見ていたくなかったからだ。
先生のことをうまそうだと思っている自分が、信じられなかった。
結局その日は早退することになった。
暫くして母が迎えに来た。車の中で病院へ連れていくと言われたが、休めば治ると言ってそれを聞かなかった。
(俺は、新鮮な肉を、血を、喰わなければ生きていけない)
(何故なら、俺が人間ではないから――化け族だから)
人間として生きていた昨日までの俺はもういない。俺は『化け族』という別の種の子孫として目覚めたのだから。
自分の魂を幾つかの人間の胎児に吹き込み、自分の魂を後世へと繋いでいく化け族。一つの魂から生まれた子等は人間として数年生き、ある時化け族として覚醒する。目覚めた子等は魂を再び一つにするべく、兄弟を探さなければならない。そして兄弟を喰うことで、魂は再び一つになるのだ。生き残った者は、自分の魂を人間の胎児に吹き込んでいく。その繰り返しで、化け族は今まで細々と生き残ってきた。
これからの人生は自分の魂を後世へ残すことのために捧げなければいけない。そのためにも兄弟たちの魂を自分のものと一体化させるべく、兄弟たちを喰い尽くす義務が俺にはあるのだ。そしてその『兄弟たち』の一人が、向田利人だった。つまり、利人も俺と同様化け族だったのである。
昨日まで存在すら知らなかった化け族として生きていくための方法。誰に教わったわけでもないのに、俺の頭の中にはそれだけの情報がインプットされていた。今朝目が覚めてそのことを認識してからまだ数時間と経っていないのに、俺の頭の中でそれらの情報が大分整理されてきている。
家に着くまでの車内でもあの感覚がしていた。うまそうな肉だと頭の中に響くたびに胃が痛かったが、教室の時ほどではなかった。
それから。
俺は自分の部屋で一日中ゴロゴロしていた。中学に上がってから初めての欠席だ。特にすることもなくてとても暇だったが、利人のいるあの教室で一日中過ごすよりはまだましだと思った。
気が付くと、あたりが暗くなっていた。どうやらいつの間にか寝てしまったらしい。寝てしまう前に一応夕食は摂ったのだが、物足りない感じがする。やはり新鮮な血肉を喰わなければ化け族としての俺の食欲は満たされなかいのだろう。
俺はこっそり家の外に出た。暫く夜風に吹かれようと思ったのだ。
冷たい風が頬を撫でる。
いずれ人間を喰う時が来るのだろうか。
そんな恐ろしいことを考えても、不思議と何も感じなかった。俺はとても冷静だった。
「ニャアァ」
家の周辺をぶらついていると猫の鳴き声が聞こえた。隣の家で飼っているミコだ。首輪の金具と大きな瞳が街灯の光を反射して、暗闇の中で光っている。俺に気が付くとミコはこちらに寄って来た。俺の足元まで来ると、グレーのふさふさとした毛が街灯に照らし出された。
「やあ、ミコ。久しぶりだな」
軽く撫でてやると、気持ちよさそうに喉を鳴らした。小さな命の温かさを手に感じる。
「……ごめん、ミコ」
「ミャ?」
何の抵抗もせず俺の手元に入ってきたその小さな命を、俺の体が見逃すわけがなかった。俺は、新鮮な血肉に飢えたこの身体を制御することなどできなかった。手に軽く力を入れると、ミコは暫く苦しそうにしていたがやがて動かなくなった。ミコの体がぐんと重くなるのを感じた。
「俺は化け族として生きていかなければいけないんだ」
誰かに目撃されるかもしれないという危険性を考えもせず、俺は暫くその場に蹲っていた。冷たくなっていくミコを胸に抱き、声を殺して泣いていた。
化け族として目覚めてからこの先俺は幾度となく命を喰うことになるが、その事のために涙を流したのはこれが最初で最後だった。
翌日、夕食時にふと思い出したように母が言った。
「お隣のミコちゃん、昨日の夜から帰ってないんだって」
「放し飼いにしてあるんだろ? ミコだって散歩くらいする」
俺は素知らぬ顔でそう返す。
「そうだけど。日をまたいでも帰ってこないのは初めてだって、奥さん心配してたから。私もたまに可愛がらせてもらってたからねえ。あんたもそうでしょう。……ちょっと心配じゃない?」
「……まあ、確かに。早く帰ってくるといいな」
俺は、そう素っ気ない態度で返した。
(ごめんなさい)
昨夜から、何度となく心の中で言い続けた。何度となくミコに謝った。隣の家の人にも。自分が殺ったのだと言いに行けない自分は卑怯だと思った。だからせめて、と、意味のないことを何度も何度も繰り返す。
(隣のおばさんや母さん、ごめん。ミコはもう帰ってこないんだ)
「ご馳走様でした」
夕食を食べ終わった。今日も調理済みの食材ばかりだが、それでもこの前のような物足りなさは無かった。
「そういえば今日は体調どうもなかったの?」
母は、食器を片づけ始めた俺に訊いてきた。
「ああ、うん。本当に、昨日のは何だったんだろうな」
ミコのおかげで、俺は暫くあの教室でも普通に過ごせそうだ。
俺は昨夜、初めて化け族としての食事をした。