あの子の頭が激突
家のお風呂を想像していたぼくはあまりの大きさに度肝を抜かれた。木目がくっきり確認できるいかにも高価そうな木の浴槽が大小二つ並んでいる。磨き抜かれ光沢を放つ床は油断していると滑って転びやすそうだ。それと十はあるシャワー。大パノラマで眺められる庭の湖。しかも入口には『使用人用』の札が置いてあった。ここの家族専用のものは見たこともないような珍しい功績とかでできているんではないだろうか。
「さー、早くしないと毛が傷んじゃうからねー」
虎子望さんは俺を下ろし『猫の道具』と書かれた棚から一通りの用具を出してきて、ゴトゴトとぼくの周りに置いていく。
――おいおい、猫の毛洗うのにそんなにいっぱいシャンプー的なものを使うのか。しかも使用人用と猫は風呂一緒なのかよ。ぼくの想像のグラフを1次関数曲線で上に行く屋敷である。
「あーあー。こんなにカチカチになっちゃった。落とすの大変かも」
適度な温度でぼくの身体に湯がかけられ全身が濡れていく。薄いオレンジ色のお湯が輝く床に染みを作って流れていく。
今度はシャンプーを身体の隅々までぬりこまれた。それから軽くこするだけでふわっと泡がたつ。ちょっと女の子チックな香りと絶妙な愛撫にぼくの思考と体は麻痺したのか、憧れの子に身体を洗ってもらっているというのに最初ほど体が硬直しなかった。むしろ情けないことに全身の力が入らなくなってきて、後ろ脚が誰かにそっと前に押し出された錯覚を受け、お尻を床につけてしまっていた。
「あ、もう! 座っちゃダメだよ。せっかくお尻も洗ったのに汚れちゃう!」
ぼくは虎子望さんに叱られたからではなく、気が付かない内にお尻を洗われていたことに驚いて覚醒した。
「よーし。シャンプー終わりー」
いつの間にか終っていたようだ。恐るべし猫が癒される猫癒しパワー。湯をかけられオレンジ色の泡とお湯がぼくの身体を滑り落ちては消えていく。
「次はリンスね。あ、このリンスじゃなかった。ちょっと待っててね」
終わりかと思ったら、まだあるのね。だいぶすっきりしたからもういいんだけど。
「あ!」
ツルン。ゴチン……
安っぽい効果音が聞こえてきた。軽い振動と鈍く痛そうな音のした方向に目を向けると、案の定虎子望さんが足を滑らせていた。のだがぼくの視線は薄い水色のワンピースの中から覗いている水色の三角の布に集中してしまった。
いや! これは不可抗力だ! 見たくて見たんじゃない! 今更遅いことはわかっていたが前足で目を隠すそぶりをした。
「いったーすべっちゃった。スズなにしてるの? 目にシャンプー入っちゃたかな。おっとリンスリンス。どれどれ見せてみなさい……」
ぼくがアワアワと目の周りをかいていたのを勘違いして虎子望さんが心配そうな顔を向けている。。心配なのはあなたの後頭部なんですけど。というか学校ではあんなにしっかりしてて隙が一ミリもないと思っていたのに私生活ではこんな一面も持っていたのか……。可愛いなあ。
さらに近づいてきて気がついたのだがワンピースもびしょ濡れで上の下着の方もくっきり浮き出ている。ちょっと自己主張の乏しい胸を包む、可愛い花がいっぱいあしらわれた……ってなに冷静に分析してんだ。猫になったことをいいことに最低だぼく……
「ん? どうしたの? 見つめちゃって、可愛いなもう!」
いえいえ可愛いのはあなたの方です! 猫に照れて頬を赤くしないでください。
「それじゃリンスとトリートメントもちゃちゃっと終らせちゃおー」
トリートメントもあるんですか……。まだまだ先の長そうなシャンプーにげんなりした気分になってきた。
その後も上機嫌な虎子望さんに身体を洗ってもらっている間ぼくは興奮していた気持ちがだんだん冷めていくのを感じていた。
結局虎子望さんがこんなに笑顔をむけてくれているのはぼくが猫だからであって人間の僕であれば絶対にそれをむけてはくれないだろう。だがそれでもあの笑顔が見られるのは猫になったからでそこは忘れてはいけない所だ。他の男どもには見ることのできない猫になったぼくだけの特権なのだ。そう自分に言い聞かせ大きな期待をしないように自分を諌め、とりあえずもっと猫生活を満喫しようと冷めていた気持ちをもう一度沸騰させた。
ドライヤーで乾かしたりブラシで毛を整えてもらい美しい被毛が戻ってきたところで長かった夢の時間も終った。しかしあまりに丁寧なトリミングにより虎子望さんに解放されたのは太陽が地平線のという布団をかぶり始めたころだった。
気持ちいいのはよかったのだが流石にシャンプーだのリンスだのトリートメントだのいっぱいやりすぎてかなり体力を持っていかれた。面倒な時は頭だけ洗って身体はシャワーで流すだけなんてこともあるぼくにはかなり重労働だった。
心地良いけだるさを抱えぼんやり今日は何かしよーとしてた気がしたなと考えながら歩く。脳がこんにゃくになったかのようにふにゃふにゃとしか働かず全然思い出せないのだ。
ふらふらと足の赴くままに歩いていたのがたどり着いたのは結局猫部屋だった。キャットフリースペースなんて長ったらしい名前は面倒だ。猫部屋で十分だと勝手に命名した。
ドタバタした日中を過ごしたため、昼飯を食べていないことに今気がついた。認識したとたん急にお腹がよじれるような空腹感が襲ってきた。
急いで食事にありつこうと食べ物のあるところへ速足で向かう。しかし向かった先では優雅に食事をしている先客がいた。
そこにいる先客で今日の目的をやっと思い出した。謝罪をするために目の前にいるミルーを探していたんだった。
「あのー、お食事中失礼します」
なぜか気弱な営業マンみたいな口調になってしまう。
「……あんたの言う通りこっちは食事中。忙しいんだから話しかけないで」
「それじゃあ、聞いてくれるだけでもいいので」
「うるさい、近寄らないでうっとおしいから」
「いや、でも、その……」
「邪魔だって、いってるで、しょ!」
まさかここで蹴りが飛んでくるとは想像できるはずもなくぼくは不意打ちの蹴りを空腹で弱った横腹にくらい、変なうめき声をあげてうずくまってしまった。
「ふん!」
ぼくがうめいてる間に皿ごとミルーはどこかへと去ってしまった。謝ろうとしてるのにこの仕打ちはなんなのだろう。少し涙目になっているぼくのそばにちょこちょこ歩いてくる短い足が見えた。
「あら? スズ君なにをしてるの」
「ミルーさんのキックをくらってうめいているところです」
「なにをしているのだか……。今日のミルーはいつも以上に不機嫌ですからね」
「なにかあったんですか?」
ぼくのこの質問にセンプスさんは怪しげな笑みを浮かべて言った。
「あらあら、ご自身がミルーの大好きお嬢様を日中ずっと一人占めなされてたんじゃなくて? あの子がプンプンするのは仕方のないことじゃないかしらね」
あっちゃー、またもやぼくは気が付かない内に彼女の機嫌を損ねていたようだった。成り行きだから仕方ないことだと思うけどそんなのミルーにとっては関係ないことだしなあ。
「あ、はは」
「フフフ」
ごまかすような苦笑いを浮かべてみたが、豆腐に箸を通すような手ごたえのない笑顔が返ってきただけだった。
「まあ、私はどちらが勝ってもいいんですけど。フフフ」
謎な言葉を残しセンプスさんはちょこちょこ去って行った。本当に見かけはあんなに愛嬌たっぷりなのに思惑が全く表面に現れなくって考えが読めない猫である。
とりあえず、痛みによる腹痛ではなく空腹による腹痛がぼくのお腹を締め付けるのでお腹を満足させようと食事にすることにした。
謝るのはまた明日にしようと決めた。
サブタイトルが思いつきません……