キャットフリースペース
未だにバクバクと鳴りやまない心臓を抑えようと一度壁にもたれかかり足を止める。激しい運動のせいだけではなく、後から押し寄せる羞恥、興奮、歓喜も心拍数をあげているのだろう。
猫の体とはいえ、あの虎子望さんとキ、キスをしたんだ。顔の筋肉がだらしなく緩むのを止められない。
猫の体とはいえ、あの虎子望さんにあそこを見られた。恥ずかしくて顔が赤くなるのを止められない。
怪人二十面相のごとくころころと顔の色、形を変えながらじたばたしてみた。
猫になってから虎子望さんとお近づきになれるなんて夢にも思わなかった。一気に距離を埋められすぎて完全にパニックになったけどなんて幸運! これが運命ってものなのだろうか。
そんな風に一人でテンションが上がってしまったが、冷静に考えてみると所詮猫と人間の関係。なにか起こるわけでもなし、遠い世界から伝えられずにいる、それでは昔と変わらないだろう。
気分が沈み心が落ち着きを取り戻したからか心臓もかなり落ち着いてきた。
「やぁやぁ、ご主人親子との初顔合わせどうだったニャ?」
俺に併走するように猫神様がぴょこっと姿を現した。
「お前のうちの主人って虎子望さんだったんだな」
「ほぉ、ご主人知ってたんだニャ?」
「娘さんが元同じクラスだったってだけだよ」
恋心を抱いていたなんてひげを引っ張られたって言わないでおこう。
「へー、ただのクラスメイトにしては挙動が不審な点ででいっぱいだったようだけどニャ」
「いやいや、そりゃ人だったら急に年頃の女の子にキ、キスとかされたり、大事な部分見られたらあせるって!」
「ふーん。ま、おぬしはもう人間じゃないけどニャ」
「まだ猫になってから一日もたってないじゃん! 人間の頃の感じがまだ抜けないんだって!」
「そんなもんかニャ。人間になんてなったことないから知らないニャ。まぁ顔見知りならまったく知らない所よりは馴染みやすいんじゃないかニャ。よかったニャ~」
ぼくの心を見透かしていたのかと思いきや、たいして興味は無かったようだ。
「それじゃご主人からオッケーもらったし、晴れて虎子望家の猫になったおぬしを他の猫に紹介しないといかんニャ。いきなり飛び出して行ってしかも反対方向に行くとか勘弁してほしいニャ。遠回りは嫌いなんだニャ、わしは」
「す、すいません」
おまえ朝方庭ですげー遠回りしてたのをもう忘れたのか?
結局、お昼に入ってきた玄関まできたところで最初は気がつかなかった階段を発見。中庭を囲むようにぐるりと一周できるような家の構造のようだ。
確かにあの部屋を反対に飛び出さずに元の道に戻ったならこちらからくるより早く戻ってこれただろう。ぼくにとってはこれから住む屋敷の観察ができてよかったのだけど。
「この階段を登って……」
――うんしょ、こらしょ。
「行くと……」
――よっこらしょ、どっこらしょ。
「猫専用の二階スペースがあるのニャ……」
「なーんでこんなに一段一段おっさんみたいな掛け声あげなきゃいけない程高くなってるんだよ! しかも頭上の高さがないから跳べないし全然キャットフリーじゃないじゃんか」
「こ、こればかりはわしも……ゼェゼェ……知らないのニャ」
全十三段を登り終わったときにはぼくらはフルマラソン完走後のランナーのようにへばっていた。
汗がにじんで霞む目で二階の様子に目を凝らすと、猫専用だとは思えない程突き抜けた空間が目に飛び込んできた。
高いところを好むといわれてる猫のためだろう縦の空間を大いにとり、さらにその空間を有効に活用するためにキャットタワーがいくつも屹立している。
天井はガラス張りになっていて、磨かれたガラスは外の星空の煌めきを屈折させず、直接ぼくの目に飛び込んでくるようだ。
本日何度目意識を違う世界にとばされただろう?
猫神様が復活してきて自慢げに言う。
「どうだニャ? すごいだろう? わしが作った部屋ではないがわしに対する主人の愛情の結晶ともいえる空間だニャ。ここには人間は入れない、むろんご主人でもニャ。猫のプライバシースペースが屋敷にあるのニャ。これぞキャットフリーだニャ」
猫神様は決め顔を作っていたが、ただただ気持ち悪いだけだった。
まったくお金持ちってのは我ら庶民には思いもしない事にお金を費やしているんだな。こんなことにお金を使うなんてもったいないという人は多い。けれどぼくは素敵なことだと思った。
自分のためだけど他者のため。
自分の家だけれど自分のためじゃなく愛する者のため。
特にそれが人間でないところがぼくは気に入った。ただの猫バカと言われれば違いないけど。
「オイオイオイオイ、華麗にスルー決めてくれてんじゃねーよ!」
「設定設定……」
「ん、んぅん……無視しないでほしいニャ~」
「へー、だからあの階段的なものがあんなに狭かったわけね」
「そそ、これぞキャトフリーだニャ」
「何度も言わなくてもうまいと思ってないから」
「ウニャー、ひどいニャ。大事なことだから二回言ったのに」
「ワカッタ、ワカッタ」
「酷いニャ。扱いがぞんざいだニャ」
するとそこへぼくと猫神様のつまらない漫才に興味をもってきたってわけではないだろうが、部屋にいたと思われる猫が集まってきた。
「お、みんな良いところに来たニャ、今日は新入りを連れてきたから仲良くしてやってほしいニャ。えーと名前はスズ君だニャ」
集まってきたのは四匹。種類は違うようだけれどみな毛艶が良く毎日欠かさず手入れされているのがうかがえる。血統も良いのだろう。
よくよく観察してみるとぼくに興味があるようなのは二匹だけのようだ。
一匹は結構有名な猫でぼくでも知っているアメリカンショートヘアー。瞳をキラキラと輝かせてぼくを隅から隅まで観察しようと意気込んでいるように見える。
あとその二つ隣の子。猫のくせしてやたら足が短い。ぼくの知らない種類だ。
こちらはなんだか包み込むようなお母さんオーラを放っているのを感じるのだが、いかんせん足が短いのと座り方がテディベア座りなことによりむしろ癒し系と判断した。
そして興味がないというかなんというか。とりあえずボーっとしているようにしか見えない子がさっきの二匹の間に。
そして端に先程あの部屋で見かけたロシアンブルーの子いた。
なぜか分からないが強烈な憎悪をぼくに向けてくる気がする。
「ではおぬしのほうにも紹介しておこうか。まずこいつがアメショーのロイ。面倒見がいいから基本はこのロイにお世話になるといいニャ」
「オッス、よろしくなスズ! わかんないことがあったら俺に聞くがいい」
「んでもってその隣がノルウェージャンフォレストのシャルトー。基本ボーっとしてるから和みたいときにはこいつと一緒にボーっとするのがおすすめニャ」
「んー? なんか言った?」
「いいや何も言ってニャ。こいつと会話し始めると地球の自転が半周程してしまうから注意ニャ。それでその隣がマンチカンのセンプス。なんでも知ってるからわからないことがあったら、彼女に聞くニャ」
「ミケさまったら何でも知ってるのはあなたでしょう? 比べられたら私なんて大したことはありませんよ」
「んでもって最後に……」
猫神様の顔が向けられた途端その子は猫神様のセリフをを斬って捨てるかのように言う。
「ミケ様別にあたしは紹介とかしてもらわなくたっていいわ。ただそいつの間抜けな面を見に来ただけ。ミケ様ったらなんで下劣な雑種なんて連れてきたんだか、高貴な屋敷が穢れるわ」
そう言ってその子は背を向け歩み去ってしまった。
「ぼくなんかした?」
やはり嫌われているのは間違いないようだった。
「いいや、おぬしは悪くないと思うニャ。純血種こそが優れていると思っているちょっと困った子でニャ。根はとってもいい子なんだけどニャ~。しかもおぬしのありさお嬢様からの気に入られようが少々癪にさわったようだニャ」
「そ、そうなのか……」
「あの子はロシアンブルー。誇り高く優雅なのだけれど嫉妬深いところもあるから……でもミケさまがおっしゃった通り根はいい子だから仲良くしてあげてね」
「は、はい」
「お、めんどくさい自己紹介は終わりかい? んじゃさっそくあそぼーぜ! ほらボケっとしてんなって!」
「あ、おい尻尾噛むな! ぼくの綺麗な白い毛が!」
「きーにすんなってほら早く!」
「あ、だから引っ張るなって!」
顔をあわせて三分もたっていないのに、ここの先住猫にもう慣れてしまっているぼくは複雑な思いを抱いた。
人間だった頃の僕は他人に馴染むのに長い歳月を費やした。
あの時の僕は将来に不安を抱き、未来に希望を見出せず、外界との繋がりをできる限り抑え、漫然と毎日を歩んでいただけだった。変わり映えのない毎日。何らかの変化を欲してはいたが足は地に張り付いたまま。一歩踏み出すことなんて考えもしなかった。
結局頭では変化を求めてはいても実際に変わることが怖かったのだ。平穏が崩れてしまうことは恐ろしいことだと錯覚していたのだ。周りの目、社会の目に怯えていたのだった。
けれど神様を名乗る頭のネジが五本は外れているような猫の常識外れの誘いを受け、こうして新しい世界に飛び込んできたことによってぼくにも変化が生まれたのだと思う。
もちろんこの先どうなるのか不安でいっぱいだ。でもそれ以上に期待が胸の中で渦巻いて溢れ出そうだ。
だからこの先の未来、なにが起きても怖くないんだと思えた。
あの時の僕は自分が嫌いだったから人間が嫌いだったのかもしれない。
ちょっとだけでもいい。猫という新鮮な世界で自分をもっと変えることができたのなら、もっと自分を好きになれるんじゃないかななんて思った。