この想いの、始まり
厳格で生真面目ながら、良く人のためを思う優しい人だった。
執政の面においての父のことは良く知らなかったが、それでも穏やかに暮らせていたのだから、悪い統治者ではなかったのだろう。そう思う。
まだほんの幼いころ、それこそ言葉も覚束ないようなころ。穏やかに笑いかけながら、頭を撫でられたことを思い出す。
わたしのために、と父が手ずから与えてくれた絵本を前に、母の優しげな声が、リオニアという遠い国や、その国の獣の伝説を語る。見知らぬ国の物語に胸を躍らせながら、年近の兄や侍女が笑う声を遠くに聞く。
目を逸らして振り返らずとも、そこにある皆の視線が庭園に射す光のように暖かいことを、知っていた。
父の細く節くれだった大きな手で髪を撫で付けられるたび、その光景を目にした母が軽やかに声を上げて笑うのを耳にするたび、良く家族で憩う庭園の鮮やかさが、更にその色を増したように思えて、暖かい陽射しが降る中で何度となく胸が満たされていたことも覚えている。
父は、そのころのわたしにとって、生きる上での指標となるような人物に違いなかった。
だから、正直いつからああなってしまったのかはわからない。ただ、今がそうと理解したときには、父の行動は、既に誰にも手がつけられないところまで来てしまっていた。
――人の悪意に敗れてしまったのだろうか。それとも、母の死がきっかけとなっていたのだろうか。
とにかく、もう後戻りのできない時間まで進んでしまったころには、父はエスラディア有史以来の暴君として、各国にまで名を馳せるようになっていた。
何があの父を追い込んでしまったものなのか、歳を追うごとにひどくなる凶荒を目のあたりにしていても、わたしには全く見当もつかなかった。
王の息子として、わたしは諌めるべきだったのだろう。けれど、そうするべきでは、と気づいたときには、既に心を殺すようにして生きていて、何をするにも億劫になっていた。そして大きな葛藤にも支配されていた。
時折、ふと正気に戻ったように昔の面影を覗かせる父は、もはや父ではないのだろうかと。
日々を無気力に過ごしながら、そのくせ頭の中だけは目まぐるしく思考が行きかっていて、何もしたくないと思う一方で、誰が国を救うのかと自分を責めた。もっと早くに気づけたのでは。もっと何かに気づけたのでは。もっと寄り添うことができたのでは。・・・・・・色々の罪悪感や使命感とに苛まれるうちに、わたしは無為に数年を過ごした。
その数年のうちに、諫言しようとした者がいなかったわけではない。けれども、皆ことごとく処刑されたのだ。その中には、同腹の兄も、異腹の弟もいた。知らないうちに執行されていたその報せを受けたとき、わたしは心だけでなく鳩尾のあたりまでも締め付けられる思いがした。
父が、殺した。
その出来事がわたしや国に与えた影響は測り知れなかった。王は自分の子供でさえ、その手で葬ってしまう。
二人が死んでからはひどく鬱屈とした気分でしばらく過ごすしかなかったが、そのうち彼らの遺志を含み、今誰かが起つべきなのではないかという思いが強くなっていった。死に切れていない心に、それはひどく痛みをもたらすものだった。
口にはしなくとも、きっと皆が思い始めていた。
この国は終りだと。
思えば、わたしが城を出ようと決めたきっかけになったのは、守役として控えていた男がある話を持ちかけてきたからに違いない。
見慣れて久しい、少し厳めしい面差しの壮年の彼は、「貴方を見込んで頼みがあります」と前置きを入れてから、小声でわたしに向合った。
「我が国の、召喚に関する伝承をご存知ですね」
後になって思い返せば思い返すほど、全く身勝手で押し付けがましい思いに違いなかった。それでも『異世界から何者かを召喚する』という企てを受け入れたのは、明日にも沈みかねない国の行く末を救ってくれる誰かがいる、と希望を持ったからだった。
早くも、国を背負わなければならなくなった現実の重圧に、押しつぶされてしまっていたのかもしれない。
突然呼び出されることになる異世界の人間にとって、けれどもわたしのそういった心は、単なる言い訳でしかなかった。
謀反が露呈したことにより乱心した父によって点された劫火は、多くの命を呑みこみながら、王城内に潜んだある一室にさえも迫ろうとしていた。
王城を守護する《守り目》が集中する中心部へとより近づいたそこで、急ぎの召喚は行われた。
遙か昔に、時の王によって黙殺された方法の召喚は、王族の血と召喚者の命を以って取り決められる、一方的な契約だった。最早知る者はいないその方法は、しかし彼の家系にひっそりと受け継がれていたものだったらしい。父さえ知らぬその事実を、彼は「王にすら秘密の事柄なのです」と神妙な顔をして語っていた。
王の強攻から逃れたばかりで、皆が疲弊していた。だが、きっと皆、気づいていた。わたしは敢えて目を逸らそうとする己の心を、知らないで通すわけにはいかないことだった。それなのに、これ以上の罪を増やすことになっても結果的に皆が救われることになれば、と、そう信じてそのときは違和感を無視した。淡く紋陣が輝くと同時に、髪の一筋すら残さずに、彼は消えてしまった。
一瞬だろう短い時間ののち、それぞれの思いで眺めていた紋陣の中心には、横たわるようにして柔らかな塊が現れた。その姿に、わたしたちは息を呑むことしかできなかったのだ。
年端のいかない少女が、そこにいた。
誰のものとも知れない落胆の声が、暗い部屋に響いた。
果たして見た目通りに幼さを残した少女は、周囲の者に困惑をもたらした。
あまりにも、違ったのだ。暮らしなど、というよりは、人格の根本にある何かが。異世界で暮らしていたという点を除いても、彼女の思考や行動は、この国を救ってくれるだろう存在としては、ひどく頼りない、呑気とすら言えるものだった。そのせいで、彼女は度々周囲と反発しあうことがあったし、誰に見せることもなく、ひっそりと声を殺して泣くこともあった。わたしも何度か言い合ったりしたことがある。泣かせてしまったことも、何度も。
けれども、周囲との摩擦を過ごせば過ごすほど、辛い目に遭えば遭うほど、彼女は強くなった。自分の内に籠ってしまったわたしとは、決定的に何かが違った。
その過程を見届けてきたからかもしれない。いつも思考や目の端に、彼女の姿が入るようになっていた。諭されるまでもなく、以前とは違う思惑で彼女に接するようになったことを、既に知っていた。
できうる限り、彼女を守りたいと思った。
ここで時を過ごす限りは、あらゆるものから彼女を守り、そのためにはどんなにでも心身を傷つけもしようと、この身の内に誓った。
だから、最後に乗り込むとき、彼女を連れて行こうとは思えなかったし、そのあとも彼女に必要以上の心配りはさせまいと思っていた。だから、着いて行くと言い切った彼女が、父の最期を見届けたあとで、湧き上がる群集の中、眉を寄せて複雑そうな表情を見せたのを見て、失敗した、と思った。
長年の緊張からか涙して喜ぶ人々の間を秘かにすり抜けて、わたしは一人でここに来たはずだった。
けれども、ふと感じた人の気配にそちらを見やれば、彼女がいた。どちらにしてもしまっておきたい記憶の数々が胸の内に甦る庭園に、今日、また新たな形の記憶をわたしに残すだろう彼女と共にいる。どこか現実味を感じない、不思議な気分だった。
普段から下がり気味の眉を更に下げて困ったように見上げる彼女の顔には、困惑と思慮の色が浮かんでいる。
「どうかした?」
「うん・・・・・・」
尋ねても具体的な返事をしない彼女に、どこか痺れが切れたように感じて、眼前に広がる植物に視線を戻した。何が起こっても、相変わらず美しさを保っている庭園を眺め回し、手前に咲く大振りの花に触れる。ただ、手元に包んだ花を愛でることができるわけはなく、一度隣の花にそっと触れ直しただけで、やめた。ひどく浮ついて落ち着かない気持ちだった。
気づかれないように僅かに眉をしかめたきりで、しばらくは二人とも無言でいた。
聞かれなくても、彼女が何を思ってわたしの姿を探したのかはわかっていた。きっと、父が死んだことで気落ちしているだろうわたしを、慰めようとして来てくれたのだ。情けないと同時に、切ない思いに駆られる。その優しさは嬉しいものだったが、もうすぐそれに触れることもできなくなるのかと思うと、苦しかった。万人に向けられるはずの優しさの一片にも、もう触れることはできないのかと。
沈黙の後、細く、躊躇うように彼女の口から零されたのは、「どうして」という問いかけだった。
――何故、子であるわたしが、手ずから父の首を落としたのか。
底に押し込めようとしていた感情が、性懲りもなく心の中心に居座ろうとするのを感じた。押し黙り、喉へぐっと力を込めてから彼女を見やった。途端、思いつめたような表情をした彼女が映りこんで、それなのに先程までせり上がっていたものがすんなりと治まってしまい、思わず苦笑してしまう。
どれほど彼女はわたしに優しくしてくれるのだろう。そもそもの原因の一人でもある、彼女にとっては憎める相手でこそ、ありはするのに。変わった娘だ、と折々に異なる感情を乗せてきた感想に、今度は微笑する。
「貴女がもうわたしの心配をしてくれなくなると思うと、寂しい」
上の空であることを承知で小さくそう音にすれば、はっと気がついたようにわたしを見上げる。慌ててしどろもどろに謝り倒す彼女に、他愛ない話に耳を傾けていたときと同じ種類の笑みが浮かんだ。
それから少しだけ視線を彷徨わせた後、彼女を見つめながら、今の思いを話すことにした。
ほんの一握りにも満たないような短い遣り取りの中、誰もが当然だと思っていた『親殺し』という行為を、彼女だけがわたしの目線で考えてくれたことがわかった。充分だった。
そう思って、それでも耐え切れずに花々へとまた視線を逸らせば、一歩、大きく歩み寄る音が耳元に響いた。
ゆっくりと振り向いて視界に姿を捉えれば、わたしよりもひどく泣きそうな顔をした彼女がいた。涙が、落ちる。
抑えきれなくなった。
「父子だから」
だから、父を殺してあげた。息子だったから。
続く言葉も持たずに、とうとうどうしようもなく込み上げてきた熱い塊が喉を焼く。今までなら耐えていられたはずの感情が爆発しかけていた。彼女との付き合いが長くなるにつれて緩んでいった感情の箍が、完全に外れてしまったように感じた。
わたしが情けなく顔を歪めると、残りの数歩を翔けるようにして彼女は歩いた。
気がつけば、引き寄せられるようにして伸ばされたかぼそい腕に抱き寄せられていた。そうなると、滲むように温かなぬくもりを求めて、感じるままに優しい熱を閉じ込めていた。
それからしばらく、みっともなく縋るようにして、少女の腕の中で泣いた。
何も悲しく思うことはないはずなのに、わたしの首を抱え込んだ彼女は、まるでわたしの心に寄り添うことを望むように、わたし以上にひどく泣いてくれた。ときどき、思い出したように後ろ髪が撫でられるのを、どこかくすぐったい思いで受け入れた。
彼女のわたしよりひどい泣き様を見て、心のどこかではもう泣き止まなければと思いながら、中々泣き止むことなどできなかった。胸の内が満たされるような、震えにも似た温かさを感じて、それどころではなかったのだ。
悲しくなって切なくなって流していた悼みの涙は、いつのまにか彼女の優しさに触れるゆえの、心癒すものへと変化していた。
囲うように抱え込んでいた少女の肩口に瞼を寄せて、わたしは泣きながら、理解していた。
――これが、人を愛し愛するということなのかと。
それは少し、懐かしい感覚に思えた。
やっと泣きやめたあと、わたしは、まだ中々涙の収まらない嗚咽混じりの彼女と、改めて真正面から向き合っていた。ぐずぐずと鼻を啜る彼女を、もう気持ちが落ち着いてしまった分、どうしたものかと思いながら、遠からず分かたれてしまう明日を思う。きっと素晴らしい伴侶を見つけられるに違いない。
そこまでを考えて、おもむろに彼女の額に額を合わせるように、顔を近づけた。
驚きに目を見開いて残っていた雫を頬に流すと、すぐに彼女の顔は真っ赤に染まって、それでも逃げずに、真っ黒な瞳でわたしを見つめてきた。
僅かに沸いた悪戯心が報われたことに少し微笑んで、一度引き返そうとしたあとで、今度は額をゆるく付き合わせて、笑いながらわたしは言った。
「ありがとう」
再び瞠目した少女の目から、最後の一滴が零れていく。
愛をくれて、ありがとう。
その言葉に穏やかに微笑みを返した彼女の頬を、指の腹で軽く拭ってやってから、そうして額に口付けた。
異世界召喚競作企画『テルミア・ストーリーズ+』に参加させていただこうと考えた読み物の、クライマックス。
企画さまへは頭に「h」をつけた以下のアドレスからリンクできます。
ttp://www.geocities.jp/canopustusin/termia/kikaku-top.htm