その54 心の歪んだ人魚(後編)
リーネが手にしている小さな草。
一見、そこらへんに生えているただの雑草っぽい。
しかし、そいつは――
「あなたコレが何だか、知っているんでしょ? おしない草。これを口にすれば私は正真正銘、人間になれる。もう、こんなくだらない海の世界なんかとはおさらばよ」
彼女は得意げな笑みを浮かべて
「……魚住興業の人間達、どこで拾ってきたのか知らないケド、こいつをこの建物の中に隠していたのよ。私がこれを欲しがっていると知って、いろんな要求をしてきた。何だか金に困っているとかで、海の世界で金になりそうなものを持って来いってね。だから、手っ取り早く殻の組織を襲わせたんだけど――ポイズンの連中、クズ。何にもできやしない。シャーク達もそう。だから私、魚住興業の人間とシャーク達を上手く言いくるめて、ここで互いに潰し合うように仕向けたのよ。ま、あなた達がやってきたのは想定外だったけど」
くすくすと笑い出した。
「……よォ、タツ。あのヘンな草、そんなに高ェのか? 俺ん家にも生えてそうだぜ?」
不思議そうな顔をしているマサ。
俺はナーちゃんから聞いたおしない草の話を一言で説明してやり
「俺達には何のありがたみもないけど、人魚族にとっては一大革命が起きるような海草なんだと」ついでに「――副作用も一大革命らしいけどな」付け加えてやった。
『達郎さまっ!』
いきなり俺にすがり付いてきたナーちゃん。
ほとんど涙目で
『リーネに、あれを口にさせてはなりません! すでにこわね草を口にしてしまったというのに、おしない草まで口にしてしまったらどういうことになるか――!』
『……人間と同じくなる、っていう単純なハナシじゃないんだな?』
うすうすそんな予想はしていた。
『はいっ! こわね草におしない草、二つを合わせて口にする時人魚の身体には死よりも恐ろしいことが起こるのだと、大姉さまに聞いたことがあります! 彼女はまだこわね草しか口にしていないから人魚の姿を留めていますが……』
おっとり屋さんのナーちゃんが早口になっている。
彼女は彼女なりに――リーネを案じる優しい気持ちがあるのだろう。
死よりも恐ろしいこととは何なのか、それは想像もつかないが、ともかくもあのヘンな草をリーネに食わせてはならない。
俺はこっくりとうなずき
「葵さん、ドルファちゃん! リーネを止めるんだ! あれを食われちまったら、大変なコトになるそうだ!」
「はいっ!」
言うが早いか、葵さんはリーネの手にあるおしない草に狙いを定めた。
タタンッタンタンッ……
すかさず轟いた銃声。
リーネはというと――
「……」
跡形もなく吹き飛ばされたおしない草の根っこのところだけを持って呆然としている。
葵さん、グッジョブ!
これでリーネはおしない草を失った……かと思いきや、
「……ハハハハッ! あなた達、おばかさんねぇ。私がわざわざ、これ見よがしにおしない草を見せびらかしたりすると思って? 葵が撃ったのはそのへんに生えていた雑草よ」
マサ、正解です。ただの雑草でした!
――じゃなくって。
「じゃあ、お前……」
「食べたわよ。あなた達がここへ来る前に」
「食ったのか!」
俺とマサの声が見事にハモッた。
ドラマとかアニメによくある「ぎりぎりで滑り込みセーフ」はあり得なかったのだ。
葵さんやドルファちゃん、固まっている。
よくわかっていないトビタローだけが羽を「ぱたぱた」。
『そ、それじゃあ……リーネは……』
ナーちゃんががくがくと震えている。
フンッ、とリーネは俺達を見下すようにして
「残念でした。思いつきの優しさや気遣いなんかで誰かを救えるなんて思わな――」
そこで彼女はピタリと動きを停めた。
数秒間ののち、
「……っきゃあああああぁっ! あああああああぁっ!」
もんどりうって苦しみ出した!
おしない草が効いてきたようだ。
「いやああああああぁっ! くぁあああああああっ!」
相当な苦しさらしく、両手でのどを押さえ、振り絞るような声で悲鳴を上げているリーネ。
そのまま彼女はバランスを崩し、テラスの内側へ転げ落ちた。
「あっ、あっ、あっ、ああっ……ぐぅっ……がああああああああっ!」
姿は見えなくなったが、上から断末魔の絶叫だけは降ってくる。
突然のことに俺達はみんな呆然としていたが
「ドルファさんっ!」
葵さんの呼びかけに
「はいっ! アタシ、いっきまーす!」
返事をするなり葵さんの肩に手をかけたドルファちゃん。
すると、彼女は葵さんの背中を駆け上り、肩に乗ったとも思えない素早さで葵さんを踏み台にしてテラス目掛けて跳躍!
軽々と二階テラスの手すりを飛び越えていった。
すげェ……!
さすがはイルカの血を引く女の子。ジャンプ力はハンパない。
だが、見とれている場合じゃない。
「……おい、行くぞ! 中に入れるハズだ!」
「おォ!」
「はいっ!」
俺達も後を追って近海MM内部へ突入。
通用口をぶち抜いて真っ暗な館内をやみくもに突き進んでいき、どうやらエントランスと思しきだだっ広いホールに抜け出た途端。
「うおっとぉ!」
「ぬおっ!?」
「きゃっ!」
いきなり停まった俺の背中にマサ、葵さんが玉突き。
目の前には――床面水槽(横からじゃなくって、上からのぞき見せるタイプの展示用水槽だ)があり、その中にはなにやら「ねとっ」とした液体が溜まっている。気付くのが遅かったら、マジダイブするところだった。
すると、その液だまりの表面が「てろっ」と盛り上がってとんがった何かが飛び出してきた。
「たっ、助けてくれェ! 息が、息ができねェよォ! 頼むよォ! 死んじまうよォ!」
シャーク達。
いかにも哀れな声で助けを求めてきたそいつもすでに力が失せているのか、這い上がる力もないままにまたずるずると油だまりへ沈んでいきそうになっている。
リーネの悪事に加担した許せない連中だが、目の前で苦しみながら死んでいくのを黙って見ているワケにはいかない。
「タツぅ、行け! オレがこいつら、引き上げといてやるよ!」
「すまん! 頼む!」
バカ力のマサに後を託して行こうとすると
「達郎様、姫様! マサ様お一人では大変ですわ! 私も、お力添えします!」
「ほい! よろしく頼みます!」
俺とナーちゃんはグランドオーシャンビューテラス目指して先を急いだ。
が、何せ中は暗くて何がなんだか……。
しかし、俺達と一緒にトビタローがいる。
「たつろーにーちゃん、あっちだよ! あっちに階段があるよ!」
「おォ!」
彼の誘導で何とか二階へたどり着いた。
夜風が心持ち冷たいテラスへと出てみれば――
「達郎様、ナタルシア……」
ドルファちゃんが呆然とした面持ちで佇んでいる。
「どうした!? まさか、リーネは……!?」
「あれ……あんなになっちゃったよォ……」
彼女が指した方向を見た俺達。
悪の限りを尽くした挙げ句、禁じられた海草を口にした哀れなリーネの末路とは――
「……ふあ?」
これは決して、ナーちゃんの声でもトビタローのクシャミでも、まして俺のあくびでもない。
ちょっと高めに設けられている手すりの足許、あのリーネの姿はない。
ただ、たよりなくふやふやとうごめいているちっちゃな気配が一つ。
そいつが俺達を一目見るなり発した声である。
急に現れた俺達をしげしげと眺めて小首を傾げていたが、やがて
「きゃっ!」
嬉しそうに笑った!
『達郎さまっ! あれ、あのコ……!』
事態を呑み込むや、たちまち破顔一笑したナーちゃん。
『おォ! そーいうことかよ!』
なんとまあ、おかしな出来事もあったものだ。
リーネの代わりにそこにいたのは、よちよちとした小さな人魚の赤ちゃん。
それでも生まれたての人間の赤ちゃんよりは物がわかるようで、笑ったり首を傾げたり、しっかり自己表現する術を具えているようだ。
禁じられたこわね草、そしておしない草を口にしてしまったリーネを襲った副作用、それっていうのは――誕生したての頃に戻ってしまうというオチだった!
ってか、多少深刻な言い方をすれば「それまでの成長、記憶、経験を全て失う」ということになるのだろうか。そりゃあ、確かに失いたくないものだよな。何にもわからない赤ちゃんに戻ってしまえば、足も声もへったくれもない。
気を張り詰めさせていたナーちゃん、ホッとしたのか
『達郎さまぁ……私、私……』
ぐすんと涙ぐんでいる。
『よしよし。良かったな、ナーちゃん!』
目の前ではドルファちゃんが
「おー、よしよし! あんた、こんなにちっこくなっちゃったねぇ。……ほれ、なんか言いたいコトでもある?」
ミニリーネを抱っこしてあやしている。
「ふあ?」きょとんとしてドルファちゃんの顔を見つめていたリーネ(ちゃんをつけることにしよう)ちゃん、小さな腕で抱きついて「きゃっ!」嬉しそうに笑っている。
あの残虐非道に成り下がったリーネも、誕生したての頃はきっと――こんな風に無邪気だったのだろう。抗うことのできない海の掟に縛られることを嫌った彼女は、とうとう禁忌を犯してあんなヤツになってしまったが、それも全部リセットだ。
「……うォい! サメ野郎どもの救助、完了だぜェ!」
追っかけで、マサと葵さん登場。
二人とも、ずぶ濡れ。
「お? どーした? なんでそんなにびしょ濡れなんだ?」
「いえ、その、私が――」
葵さんいわく、油の池からシャーク達を引き摺り上げてやったのは良かったが、彼等はエラに油がついて苦しんでいる。
「とにかく水! 水!」
マサが水を探しそうとしているとき、葵さんはふと天井を見上げた。
天井には、あの海底からの眺めをイメージした巨大な水槽が。
「水ならありますわ!」
彼女にしては珍しいことに、何も考えていなかったらしい。
天井目掛けてオーシャンイーグルをぶっ放し――現在に至る。
「ったくよォ、葵さん、いきなり撃っちまうんだもんよォ! 溺れ死ぬかと思ったぜェ!」
「ご、ごめんなさい……私ったら、何を考えていたのでしょう?」
恥かしそうに小さくなっている葵さん。
「ま、助かったよ。ありがとう。リーネなんだけど――」
「ほら、こいつ。ちっこいでしょお?」
ドルファちゃんがリーネちゃんを二人に見せた。
「まあっ! かっわいー! このコになっちゃったんですかぁ!?」
反省はどこへやら、葵さん大喜び。
彼女に抱っこされてにこにこしていたリーネちゃん。
ふと、傍にいるマサに気が付いたらしい。
「……」
つぶらな瞳でじーっと見つめていたが
「きゃっ!」
嬉しそうに微笑んだ!
おやおや、マサのことが気に入りましたか!?
が、もともと子供が得意ではないマサはちょっと後退りして
「お、オレはいいって! あんまりガキンチョは――」
言った途端。
「くすん……ふえ、ふえ、ふええぇん!」
泣き出した!
「おお、よちよち、泣かないの。よちよち……」
あやしている葵さん。ドルファちゃんはコワい顔で
「ひどーい! マサさまったらぁ、リーネちゃんを泣かせたぁ! かわいそー!」
「ふえええぇん!」
困った顔でたじろいでいるマサ。
泣く子も黙る近海の番長だった男が、今や泣く子に黙っている!
「えぇーっ! しゃーねェなァ……ったくよォ」
ぶつぶつ言いながら近寄って行き、恐る恐る頭をなでてやると
「……ふえ?」速攻で泣き止んだかと思うと「きゃっ! きゃっ!」えらく喜びだした!
葵さんの胸から身を乗り出すようにして、マサの方へ行きたがっている。
「えー……オレ、抱っこすんのォ?」
マサがしぶしぶ抱っこしてやると、リーネちゃんはヤツにぴったりとくっついてにこにこしている。
その様子を見ていたドルファちゃん、葵さん、
「こりゃ、キマっちゃった? かなぁ」
「……ですわね。マサ様を選んだようですわ、あのコ」
二人の発言を耳にしたマサ、固まっている。
「え……オレ、このコに……好かれてんのォ? まさか……」
元不良と幼い人魚の女の子。
実にほほえましい二人の触れ合いを見ているナーちゃんは
『ふふ。リーネったらやっと、愛する人に出会えたようですよ? 達郎さまっ!』
そうなのか?
『ええ。どんなに幼くても、人魚族に生まれつき具わっている深い愛情に変わりはありませんもの。ですから、リーネは早くもマサ様に一目惚れしちゃったのですね!』
しゃーないよな。
人魚族は心が強くて優しい人間の男性と結ばれたいと願っている。
リーネちゃんはマサのことを、そういう男性として見たってこった。
「ま、行く末はナーちゃんみたいな優しくてセクシーな女の子になるんだから、悪くないんじゃねぇ? それにマサ……言ってたよな? 海のコでもいいって」
「……」
こうしてマサは、思いがけずカノジョをゲットした(付け加えよう。ゲットしたのと一緒な状況になった)。
ともかくも、ひっぺがそうとすると泣き出すので、リーネちゃんはマサに託すしかなくなったのだ。よほど気に入ったのか、頬擦りしたりチューしたりくっついたり……大変な甘えよう。マサも突き放すのは忍びないらしく、彼女の好きなようにさせている。なんだかんだで楽しそうだぞ?
ま、ホントにマサのところへ預けるかどうか、細かいハナシは後からみんなで考えよう。
一つだけ言えることは――もう、リーネは自由に誰でも愛することができる。人魚族の掟に縛られることは二度と、ない。
なぜって?
おしない草の効果か副作用か、彼女の鱗は黄金から色が抜けて「白銀色」になっていたから。
俺達を散々に悩ませた悪の人魚・リーネはこの夜、無邪気でキュートな「リーネたん」として生まれ変わったのだった。
めでたしめでたし。