その49 パンが流行りなんです
九月に入った。
今日から新学期。
夏休みの間に色々なことがあって、俺の環境は一学期の頃と大きく変わったようだ。
それっていうのは――
「いってきます――」
玄関ドアを開けると、そこには一列にずらりと並んでいるミノカサゴやゴンズイ達が。
「達郎さんっ! いってらっしゃい!」
「いってらっしゃい!」
びしっ。
ラインダンスのようにきれいにそろってお辞儀。
ヤクザの親分じゃないんだから、そーいうマネはヤメていただきたい。
家の前を通りかかった近所の小学生が不思議そうな顔で見ているし。
こっぱずかしいんだけど、と思っていると、真っ青なハッピを着たドツボがささっと寄ってきて
「……達郎さん、留守中のことはお任せください。姫様は我々が命に代えてもお守りしますから。安心して、ご学業に励んでおくんなさい」
物騒なことをいいやがる。
っていうか、今の状況だと却って狙われているのはポイズンの連中の方じゃなかっただろうか。
それにそのハッピ。
背中にでっかく「We are Blue−Fishes」とド派手にプリントしてある。こんなものを、いったいどこから仕入れてきたのだろう。
「あのさぁ」俺はばりばりと頭をかきながら「別に命に代えなくていいから。誰だって命を落としたらそれまでなんだからさ。なんかあったら、ナーちゃんを担いでみんなで逃げてくれ」
ホントに何気なく言ったつもりだったが、ドツボは演歌歌手的に眉間にぐっとシワを寄せてうつむき、しみじみとした口調で
「我々のような下っ端の者どもにむかって、なんとお優しい……。おい、お前ら! 達郎さんからありがたいお言葉を頂戴したぞ!」
「達郎さんっ!」
「達郎さんっ!」
どうやら奴ら、勝手に士気が高まったようだ。
……もういい。
好きにしてくれ。
ふと、二階の窓に目をやると――葵さんに抱っこされたナーちゃんがにこにこして手を振っていた。
高校生活ももう半分を過ぎようとしている。
まだ半分あるなんて、鼻をほじって(みっともないからほじりはしないが)安心していてはいけない。
そろそろ、真剣に今後の進路について考えなくてはならない時期になるからだ。
進路、か。
どうしたものだろう?
入学した頃の俺は「まあ、学年何番とかでなくていいから落ちこぼれない程度に勉強して、浪人しないようにどこかの大学に進学しつつ、会社に就職か公務員へ」なんていう、よくもまあ夢も希望もない、ついでにあたりさわりもない将来像を描いて満足していた。一年ちょっと前のあの日、もし釣りに行っていなければ、かなりの確率で俺はそういう道を歩いていたに違いない。想像しただけで吐きそうになるつまらなさだ。
しかし、今の俺にはナーちゃんがいる。
俺の一日の半分以上はナーちゃんと過ごしていて、彼女とは結婚の約束までできているんだな。初めの頃こそ人魚のオキテ云々事情はあったが、アップダウン強めな紆余曲折を経て俺達の絆は切っても切れない、とかいうよりも俺の両親含め周りの連中全員が「いいんじゃねぇ? それで」状態。ブルーフィッシュだけでなく、ポイズンやレッドバック、バランサーの連中にいたるまで、すでに俺とナーちゃんの婚姻の儀式はいついつどこで、のレベルで噂になっているらしい。
現実に、アジやニシンのおばちゃん(姿格好はイワシャール的)達がやってきて
「姫様。そろそろ、婚姻の儀式でお召しになる衣装の下準備を……」
なんて言いながら、ナーちゃんの身体測定をして帰っていった。
おばちゃん達の手際のよさに呆然としていると
『ブルーフィッシュのみなさんの気持ちですから、ありがたくお受けしますの。……よろしいでしょうか? 達郎さまっ!』
嬉しそうにはしゃいでいるナーちゃん。
ま、いいんでないすか。
気取っても力んでもしゃーない。
楽にいきましょう、楽に。
……俺、日増しにアバウトさに拍車がかかっているようだ。
パワーが一パーセントも出力されない状態でとりあえず午前中を終えた。
「夏休み中は毎日予備校でした!」的ガリ勉野郎ならびに優等生どもを除き、その他中途半端軍団はぐったりしている。力いっぱい夏を満喫し終えた直後からかったーい授業に放り込まれちゃあね。
我が家では幸子の夏休みボケが継続されており、朝になって今日から俺が学校だという事実に気がついた彼女は
「あら? 学校、今日からだっけ? ……月日が経つのは早いのねぇ」
んな感心、要らねェよ。
要は、俺の弁当なんざ頭の片隅にすらなかったんでしょ?
「仕方がないわぁ……はい、お昼代」
ありがとうございます。
でた! 必殺五百円玉。幸子は何かというとすぐに五百円玉を渡してくる。一度、ワザとなのか本気なのか、お年玉が五百円玉一個という事態もあったっけ。
コンビニは学校から歩いて十分かかるんで、行くのは誠に面倒くさい。
大して美味いパンなど一個たりともおいてないのだが、購買でガマンしておこう。
今日はほどよい気温で暑くない。
俺はパンとコーヒーを持ってでれでれと中庭へ行き、適当な石段に腰掛けてそれを食っていた。
青空をまったりと流れていく雲を眺めながらパンにかじりついていると
「――隣、いいかな?」
横から声をかけてきたヤツがいる。
峰山の野郎。
もれなくフィルーシャ付き。
俺はちらと一瞥をくれてから「お好きなように」コーヒーをぐびっ。
夏休み前にごたごたとあった時点では、こいつも油断ならないヤツだと思って警戒する気持ちがあった。
だけど、今は……ぶっちゃけ、どーでもいい。
目の前にいるヤツにいちいち敵だ味方だとマーキングしていたら、おてんとう様の下で大手を振って歩けないよ。
そんなことよりも、このメロンパン――意外と美味いな。
葵さんのために買って帰ろう。彼女は特に好き嫌いしない人だが、ここのところパンにハマっている。とりわけ、美味しいメロンパンに出会うと、子供のように満面の笑みを浮かべていかにも美味しそうに頬張るのだ。この前東京に出たときも、由美さんの店の近くで店を広げていた移動販売のパン屋を見つけるなり葵さんはダッシュで駆け寄り、十個も買ってマサやナーちゃんをビビらせた。帰りの新幹線の中で、それを幸せそうに食べていたっけ。ちなみにドルファちゃんの大好物はカレーパンである。
峰山は静かに石段に腰掛けると、俺の方に首をむけ
「お昼はパンとコーヒーか。食べないよりはいいけど、栄養が不十分じゃないか?」
苦笑している。
十分に理解してますよ。
だけどいかんせん、うちの幸子が弁当つくってくれないんですわ。お金持ちのおぼっちゃんに詳しく説明を要する事柄でもないから俺は
「……やむを得ない」
短く答えると、峰山は手にしていた弁当箱を開けて見せて
「口に合うかどうかわからないが、良かったらこれもどうだい? 僕には多すぎるんだ。うちの家政婦さん、フィルの分も要ると思っているらしくて、いつも多く作って寄越すんだ」
そこには、形状、彩り、どれをとっても申し分のない、見るからに食欲をそそるようなサンドイッチが!
「じゃあ、遠慮なく」
手を伸ばしてひとかけ頂戴し、ためらうことなくがぶっ。
うむ。
これは美味い。
タマゴのやわらかさとパンのしっとり感が絶妙、それにレタスも新鮮で歯ごたえがよろしい。
俺が美味そうに食っているのを見ていた峰山、自分も食べ始めた。フィルはナーちゃんと同じく、水を飲んでいる。
「どうやら、問題ないみたいだね。まだあるから、食べてくれ。美味しそうに食べてもらったと知ったら、家政婦さんも喜ぶだろう」
本当は、お前が食って美味かったって、そう感想を言ってやるべきだろうけどね。
まあ、いいや。
残して帰る方がよろしくない。
俺はとりわけ好きなネタに分類されるツナサンドをもらってしまった。
――ああ、美味い!
ホテルメイドの調理パンみたいで、かじった瞬間から「ふわっ」と幸せが脳天を直撃してくるこの感じ! しかもこのボリュームときたら! この野郎、いっつもこんな美味いものを食っているのか!
無我夢中で食っていると
「……ブルーフィッシュはだいぶ、持ち直したようだね?」
ん? とも言わず、顔だけで返事した俺。
俺の反応を確認した峰山は視線を青空へむけて
「このひと月ちょっとの間、いろいろあってね。フィルの元に海獣組からトドとアザラシのグループがやってきた。――彼等から聞いたよ。ブルーフィッシュの姫君と婚約した人間が海の世界では相当な人気があって、リーネ配下にあったポイズンやレッドバックが彼女から離れてブルーフィッシュと手を結んだだけでなく、バランサーや南氷洋のPA(プリティなアニマルという意味らしい)なんかもすでにその動きがあるようだ。そして、その人間とは」
再び俺を見て「――君でなければならないハズだ」
彼の言葉がわかるのか、いつの間にやらフィルがじっと俺に視線を注ぎ続けている。
俺はコーヒーを流し込みつつ
「……で?」
「いや、潰滅の危機にあったブルーフィッシュをそこまで立て直したのは、瞠目に値すると思ったんだよ。他意はないさ」
「ほい」
声にこそ出していないが、俺があんまりにも淡々とし過ぎているせいか峰山が明らかに面食らったような表情をしたのがわかった。
が、腹芸は十八番の男だから、そこはすぐに冷静を装いつつ
「ま、僕もこうしてフィルを愛しているし、彼女のために海の世界でも然るべき立場を確保してやりたいという気持ちは、正直ある。……だから、何か必要な情報があるならぜひともお教え願いたいと思ってね」
それ、ホントかね?
フィルのためというよりも、その実MCG(峰山のおやっさんの会社と、そのグループ会社だ)のためじゃないのかね?
……まあ、いいや。どっちでも。
こいつが人魚のフィルを愛していようといまいと、将来自分が支配するであろう会社に有益なように仕向けようとか思っていようといまいと、ぶっちゃけ――俺の知ったコトではない。
サンドイッチを三口ほどで食ってしまってから
「お前、この夏休み……どこ行ったの?」
つと、訊いてみた。
えっ? という顔をした峰山。
いきなり話題を変えてしまったが、これにはちょっとした意図がある。
「夏休み中はまあ、別荘があるから、そこへ行ってたよ。今年は特に暑かったからね、奥山北にある別荘で二週間、それからフィルのために十日ばかりタヒチへ連れて行ったんだ。山ばかりでは寂しいっていうからね」
タヒチね。
なんとまぁ、豪勢なお出かけだこと。
ってか、そんな海外くんだりの話はどうでもいいとして、奥山北に行ったというのが興味深い。
そこは俺が行ったじいちゃんの家があるところよりもまだずっと北の方で、とんでもなく自然が豊富な地域。リゾート開発が認められていない国立だか国定公園のエリアにほぼ隣接しているから、そういう状態になっている。
「……で、山の世界はどうだった?」
俺が尋ねると
「ああ、いい所さ。手付かずの自然が残っていてね。毎朝早起きして散歩していたんだけど、彼女が」峰山はフィルの顔を見た。
「なぁに?」という表情で視線を返した彼女。
「あんまり早起きが得意じゃないんだ。だから、二、三日もしたらベッドから出るのを嫌がってね」苦笑して「だから、あんまり散策できなかったよ。二年ぶりの奥山北だったのに」
彼が言うと、ぷっと怒ったような顔をしたフィル。
うちのナーちゃんも朝は苦手だが。
「じゃあ、何も変わったことはなく……か?」
「そうだね。空気がきれいで食材もよかったから、十分な休養にはなったよ」
ふっ。
思わず、笑いそうになった。
奥山北の空気とか食材とかフィルの低血圧(?)とか、そういうことを知りたかったんじゃない。
俺はわざと「山の世界はどうだった?」って訊いた。
やっぱり、こいつらには顔を見せてくれなかったらしい。――誰がって、山の世界の民が、だ。
それが聞ければ十分。
俺はコーヒーのパックを握りつぶしながらよっこらしょ、と立ち上がり
「……お前んちの家政婦さんによろしく伝えてくれ。サンドイッチ、金払ってでもつくって欲しいって、絶賛していたヤツがいたって、さ」
「あ、ああ……」
ぽかんとしている峰山。
フィルもまた、ヘンな顔をして俺を見ている。
二人を残したまま、その場を去った俺。
海の世界の勢力がどーしたとかこーしたとか……知ったコトじゃない。そんなに気になるなら、自分で調べればいいだろう。知らんぷりこそしているけど、どうせ色々情報握っているクセにさ。
そう。
今の俺がしなければいけないのは――葵さんのためにメロンパンを買うこと。
売り切れたら大変だ。