その38 召しませ山の幸(一日目)
『わぁ! 山というのは、とても清らかなところなのですね、達郎さまっ!』
純白なノースリーブのワンピースをまとい、つばが薄くて大きい帽子をかぶっているナーちゃんは、清楚な少女そのもの。まあ、こんな格好をしなくとも彼女はフツーに清楚なお姫様である。
『……ああ、そうだな』
俺の住む近海の街から電車に乗ること二時間半。
車窓から海が消えて久しい。
ビルの群れはやがて住宅街へ、住宅街は畑へ、そして畑の景色は森や山へと変化していく。
山というところが物珍しい(当たり前のことだが)ナーちゃんは、ずっと飽きることなく窓の外を眺め続けている。そもそも、電車という乗り物自体が初めてなのだから、街を出る時から活き活きとしていたのだけれども。
いかにも楽しそうな彼女を抱っこしていると、俺もまたどこか心の奥底がわくわくとなってくるようだ。
『えー、ご乗車お疲れ様でした。間もなく、終点山北、山北です。お忘れ物のございませんよう、身の回りをお確かめください――』
終点への到着を告げる車内放送が流れた。
電車はゆるゆると速度を落とし、がたごとと揺れながらポイントを通過して行く。
俺は足元に置いたでかいスポーツバッグのバンドを握ると
『さ、降りるよ、ナーちゃん。バスに乗り換えるからね』
『はいっ、達郎さまっ!』
にこにこして俺の首に抱きついたナーちゃん。
きっと、着いたらびっくりされるかも知れない。
こんなに美しくてカワイくて、そして人魚な女の子を連れていったりしたら。しかも彼女は俺の――奥さんになる女性。
婚前旅行かね。
それも悪くない。
夏休みに入って一週間。
俺はナーちゃんを連れ、山奥にあるじいちゃんの家へと向かっている。
「お、お、お、お、おじいさん! た、たっ、たっ、達郎ちゃんが!」
「……あァ」
案の定、出迎えてくれたばあちゃんは玄関先で腰を抜かしかけた。
基本的に表情の変化が少ないじいちゃんは、同じ面つきのままでいる。
――山北の駅からバスに乗り換え、さらに一時間。
ようやくたどり着いたその村は、四方を山に囲まれていて、ジジイとババアしか住んでいない農家オンリーな地区である。こういう土地を買い占めて開発しようとか考えるアホタレな業者はさすがにいないらしく、俺が生まれて初めてやってきた頃と景色はほとんど変わっていない。住民の数は多少減ったらしいが、主な年寄りは現存しているというから、まったくもって長生きな土地であるといえるだろう。
「たっ、た、た、た、達郎ちゃん! そ、そ、その、その女性の方は……?」
『初めまして、達郎さまのお爺さま、お婆さま! 私はブルーフィッシュ共和国から参りましたナタルシアと申します。達郎さまの妻でございます! ……あ! 今はまだ婚約者でしょうか? 婚姻の儀式の日程はまだ決まっておりませんけれども、その節はぜひ、太平洋で――』
ゆったりとお辞儀をしてにっこり。挙措振舞、さすがは姫様だ。
俺は「ブルーフィッシュ云々」を省略しつつ、通訳してやった。
ついでに「婚姻の――」以下も省略。ハナシがデカすぎだよ。
が、ばあちゃんがビビる理由はそういうコトではないらしい。
ぴちっ
ワンピースのひらひらなスカートの下で跳ねている、青く輝く鱗と尾ひれ。
こったら山奥に長年住んでりゃ、サカナなんてなかなか……じゃなくって、人魚なんて見るワケないもんな、フツー。
「あー……ばあちゃんさぁ、このコも一緒に来たから、その……よろしく」
がくがく、がくがく。
壊れたロボットみたいに首を縦に振りまくっているばあちゃんとは真逆に、じいちゃんは小さく笑みを見せて「……あァ。よく、きたさな」
ミーン、ミーン、ミーン――
開け放たれた窓や庭の方からセミの超合唱が届いてきて止むことがない。山という山がセミの声で振動しているようだ。
三分後。
床の間があるタタミの部屋で、俺達とじいちゃんは卓をはさんで向かい合っていた。
ばあちゃんはというと、ひっきりなしに台所とこっちを往復しては
「た、たっ、達郎ちゃん。こっ、これ、これ、ね! お、奥さんに、たっ、食べてもらいなさい! ねっ!」
「ああ、ありがとう、ばあちゃん」
つってもねぇ。
折角だけど、ナーちゃんは人魚だから食えねェんだわ。
とかいう以前にさぁ……なんだよ、オイ。
テーブル中ところ狭しと並べられまくっている食い物の数々。
一体全体、誰が食うのだろう?
茹で上げたとうもろこしに始まり、トマトにきゅうりに枝豆にぶどうにその他フルーツ。のみならず、お菓子にまんじゅうに煮物に天ぷらやら諸々、枚挙に暇なし。それでもまだ何か出そうというのか、ばあちゃんはまた台所へと行きかけた。
「あ、あのさ、ばあちゃん」
「うぇ? なんだね、達郎ちゃん?」
「水、もらえるかな? 水」
「あ、ああ、水ね。わかったよ。水ね、水、水……」
自分の脳みそにインプットするかのようにぶつぶつと繰り返しながら、ばあちゃんはいなくなった。
その背中を眺めていたナーちゃん、ニコニコしながら
『とてもいい方達ですね、達郎さまのお爺さまとお婆さま。きっと、ドルファさんがいたらとっても喜ぶでしょうね』
確かに、喜び勇んで全部食ってしまうだろうな。
まあ、こういうものなんだよ、人間の年寄りというのは。
孫をみれば、目先が見えなくなってしまうものらしい。その表現のひとつが、この膨大な量の食い物ということになるんだろうけど。
じいちゃんは落ち着いてたばこをぷかーっとしながら外を見ている。
今時珍しく、縁側的なスペースがあって、風鈴が下がっている。
吹き込んでくる微風が時々「ちりりん」と心地よい音を奏でた。
――さて、そろそろこの老夫婦が何者かに触れねばなるまい。
ぶっちゃけ、幸子の両親である。じいちゃんは川上流蔵、ばあちゃんはヌマという。
そう、幸子はセミがうるさい山奥のこの村で生まれ育った。
俺は毎年一年に何回は連れられて来ていたが、中学生くらいからは一人でくるようになっていた。じいちゃんもばあちゃんも可愛がってくれるし、一方で親父・舟一の仕事が忙しく、夏休みになったからといってなかなか来るタイミングがとれなくなったからだ。
ここに来たからといって、特に何かすることがあるワケではない。
ただ、この溢れかえっている爽やかな天然の緑を目にしていれば、どんなにやべぇ気持ちになっていても自然と落ち着くってもので。
あと、小学校の頃なんかは、自由研究とか図画工作の宿題をやるのに困らなかったな。
昔はそういう目的もあってやってきていたものだが、いつの間にやら自由研究という課題は俺と無縁になっていき、それと同時にただゴロゴロするためだけにくるようになったような気がせぬでもない。
穏やかな面つきで思い出したようにタバコの煙を吐き出しているじいちゃん。
「……」
俺は黙っている。
今まではのんびりするためだけに遊びに来ていたが、今回ばかりはノープランじゃない。
とある目的をもって、この山奥まで出向いてきた。
ぐりぐりっ
タバコを吸い終えた流蔵、灰皿でもみ消している。
ちりり、と風鈴が小さくもクリアな音色を部屋に響かせた。
「……じいちゃん」
頃を見計らったように、俺は口を開いた。
「ん? どーした?」
まったりした口調で反応したじいちゃん。
俺はちらとナーちゃんの顔に視線を送りつつ、すぐじいちゃんの方を見て
「頼みがある。――どうか、アレを俺に教えて欲しいんだ」
「アレか……」
じいちゃんはふわっと笑って
「……四、五日、泊まっていけ。思い出すのに、少し時間がかかる」