#8話:ここは知らない世界
(肩に乗ってる不思議なネズミを見た時点で、覚悟はしてたけど……)
話を始めた直後にクイシェへ飛び乗ってきたネズミは、どう見ても地球には存在しないだろう生き物だった。茶色でも灰色でもなく、クイシェの髪と同じ水晶色の毛が体を覆っている。そんなファンタジーな生き物が普通に実在していたとして、現代ネット社会で暮らしていた自分がその動画も静止画も見たことがないというのは、きっとありえない。
それをいえばクイシェの髪がすでにありえないものなのだが、そこはもしかするとウィッグかもしれない、と思っていた。
(あ、じゃあこのネズミも品種改良で作れたのかも? ……ってまあ、それは現実逃避だよねー)
2人の話はいまのところ、深鷺からの質問にクイシェが答える形となっている。
この世界の名は“地球”ではなく“プルセアリス”というらしい。それも星の名前ではなく大陸の名前だという。
いま自分がいるこの場所が、どこか地球ではないところ、異世界なのではないかという発想は、寝起きの時点でも頭をよぎってはいた。
昨晩の夢かと思うような出来事のことを考えれば、そんな可能性にだって思い至る。
アニメやゲーム、小説やマンガなどに触れているのなら、誰しも1度くらいは見かけるであろうシチュエーションだ。そういった場合、案内人がいてくれても良さそうなものなのだが。
異世界からきた勇者。まさか自分がそういったものになれると本気で考える人はいないだろうが、本気で願う人ならいるのかもしれない、空想。
小さな子供がヒーローに憧れたりお姫様になりたいと願うようなものも含めれば、殆どの人が経験者だろう。
とりあえず実際に異世界らしき所へ飛ばされてみて深鷺が思ったのは、叶えて欲しい願いは“異世界に来ること”ではなく“勇者になれること”の方なんだろう、という些細な答え合わせだった。
(それも人それぞれなんだろうけど……それとも、わたしにもなにか特別な力が芽生えてたりするのかなー?)
もうそろそろ確定で良いだろうと、深鷺は諦めの心を溜息に乗せて、認めた。現実を見よう。
(ここは異世界で、わたしはなぜか……ハダカで飛ばされてきたというわけかー……)
となると、あの真っ暗な部屋が『召喚』の儀式場だったのだろうか。そして衣類は一緒に召喚できなかったものなのだろうか。
召喚だったのだとしても、山奥に放置されるあたり自分は勇者役でもお姫様役でもなさそうだなー……
――――と、それらの思考も含めて現実逃避気味の深鷺。クイシェは深い溜息を吐いた深鷺を、心配そうに見ている。
「あの……ミサギちゃん、大丈夫?」
「あ……うん、ごめん、ちょっと考え込んでた」
クイシェは結界が壊れてしまったことと、自分の変態師匠のことはとりあえず伏せていた。結界の方は自分のせいかもしれないと感じてまた落ち込んでしまうのでは、という配慮からだが、ギュランダムの事は単純にどう説明していいのか思いつかなかったため――――否、昨晩の件をどう取り繕えばいいのかがわからないためだ。
深鷺のほうも憶えていないのか気にしていないのか、あるいは無意識に避けたのか、絶叫した老人のことには触れずにいてくれている。
深鷺はなぜ自分が山奥にいたのかをだめもとで聞いてみたが、むしろクイシェが知りたいことであろうというのは深鷺にもなんとなくわかっていた。予想どおりお互いにわからないと、結論が出た。
(それにしても……)
自身にはわからない質問であっても、わからないなりに必死に答えようとしてくれているクイシェ。深鷺は、この子はどうして見ず知らずの自分にこんなに親身になってくれるのだろうか、と思っていた。
クイシェは、この村が大陸東方寄りの山脈の麓にあること。自分が持つ不思議な感覚が捉えた、よくわからない違和感を探していたら深鷺を発見したことなどを説明する。
それを聞いた深鷺はまたしても若干テンションを上げて感謝の言葉を投げかけた。恥じらいながら困り顔で深鷺の目が見れないクイシェは自分の功績を謙遜、というか否定するような勢いで受け答えしている。
(やっぱり、天使?)
深鷺がイメージとして天使を選んだのはそのときのインスピレーションから来たノリ、半分悪ふざけに近い感覚ではあるが、評価としてはまさにその通りの好感度を持っている。
異世界に飛ばされ、怪しい集団に囲まれ、山奥に放り出された深鷺を、不思議な感覚で見つけ出し、保護してくれて、しかも言葉を通じるようにしてくれたのは、自分とさほど年齢も変わらないであろう女の子だった。
クイシェは、深鷺が見つめているせいで少し困ったような笑顔になっている。
「あ、そうだ! 今、どうして言葉が通じてるのかが知りたい!」
おそらくこれならハッキリと理由がわかるだろうと、深鷺は身を乗り出してクイシェに質問する。
深鷺の中のファンタジーを愛する心が、自分の置かれている状況を忘れるほどに期待を膨らませていた。眼をキラキラと輝かせているその姿に怯みながらも、クイシェはなんでもない事のように答えた。
「あ、それは、その、わたしがそういう魔導術を使ったから……」
「魔導術!? ほんとうに魔法がつかえるんだ!? うわー、すごい!! まほうつかいだっ!」
テーブルに身を乗り出している深鷺を見上げるように見ながら、なんだか喜んでくれている事を純粋に嬉しいと感じるクイシェ。
「うん、わたしは魔導師だから。見たことない? 魔導術」
「わたしの住んでたところじゃ魔術って言ったら手品か、多分インチキだったし、まほうつかいなんて1人もいなかったんだよ」
わたしの住んでた世界、ではなく、わたしの住んでたところ、という深鷺。とりあえず、自分が異世界の存在であるということはまだ説明していない。
「それは……随分遠いところから来たみたいだね……」
術者がまったくいない地域、なんてものはクイシェが知る限りかなり限られている。大陸西方に術者の少ない国があるという話は聞いているが、そういった国の、たとえばこの村のような辺鄙な山奥で育ったのだとしたら、もしかするとそういうこともあるのかもしれない、などと考えながら、クイシェは術の説明を始めた。
「ミサギちゃんに使ったのは【言語移植】っていうんだけど、この魔導術はわたしの言語能力を相手に貸すことができるの」
「ふんふん」
「魔導式は7冊489頁で、消費魔力が……あ、こんな事言われてもわからないよね、ごめんなさいっ」
「ぜんぜんいいよ? なんかかっこよさげ!」
専門的なことを省いた説明が続けられる。
術を掛ける相手が術を受け入れていなければ失敗してしまうこと。
頭部に指を触れる必要があるのだが、術中に離してしまうと危険なので抱きしめるなどして固定しなければならないこと。
「だから、その、昨日もさっきも、抱きしめたのは、そういうことなの」
「そうなんだー」
もじもじとしながら下を向いているクイシェ。
(あー……なんか、凄く照れ屋さんなのかなー)
深鷺はすこしニヤニヤとしている。
「あと、術の効果時間は2時間くらいしかないの」
「(にやにや)…………え?」
深鷺はその効果時間の短さに笑顔のまま凍り付く。
(お、思ったよりすごく短い……)
昨日、最初に【言語移植】を使ってくれたときが夜中の何時頃だったかはわからないが、昼に起きたときに効果が切れていた、その時間目一杯、半日くらいは効果があるものだと、深鷺は期待していたのだ。
昨日、言葉が通じなかった不安。そして言葉が通じたと共に、大丈夫だと言われた時の安心感の差は深鷺の心に擦り込まれ、トラウマのようになっている。
今朝、再び言葉が通じなかったときの不安感が蘇ってきた。
深鷺がショックを受けている事に慌てるクイシェ。
「ご、ごめんね! 消費魔力は固定式だから、これ以上にも以下にもできないの。すぐに効果が切れちゃうけど、ちゃんとかけ直すから……」
「あ、ううん! ごめんね、すっごくありがたいのにっ……」
「うん……まだ、改良の余地はあるんだけど……」
気を使わせてしまった。顔に出すぎかな、と反省する深鷺。
同時に、ちょっと思いついたことがあるので聞いてみる。
「あ、あのさ……それって、わたしにも使えないかな?」
これを自分で使うことができれば、とりあえず話をしたい相手に自分の言語能力を与えることで、その人ととだけは会話が成り立つことになる。
最初に術の行使を受け入れて貰えるかどうかが問題だが、それさえ乗り越えればあとはその人に通訳を頼み、他の人ともコミュニケーションが取れると考えたのだ。
それに、そうでなくとも魔導術というものを扱ってみたい、と思う深鷺だった。
しかしその考えは突如聞こえた別の声に否定されてしまう。
「あー……それは恐らく無理じゃろうなあ」
台詞と共に扉が開く。そこには白髭の老人、ギュランダムがいた。