#22話:てのひらの盲点と捜索隊
掴んだモノは軽い。柔らかい毛が生えているらしく、皮と肉の感触があり、わずかな温かさも感じられる。大きさから言って、丁度ハムスターを手に乗せたような感じだ。
「う、わぁ……………………」
深鷺が驚いているのは、感触は伝わってくるのにまったくその姿が見えないこと、ではなく、なぜかそれを掴んでいる自分の手も見えなくなっているからだった。
なにかを掴んだ右手は、手首から先が“ほぼ”無くなっているように見える。
手に掴んだなにかを、手のひらを自分に向けるようにして見ているのだが、手のひら部分は完全に見えていない。手のひらにモノをのせているのだから当たり前なのだが、透明なモノをのせているなら手の平が見えるはずだろう。
しかし、のせているモノも、手の平も、どちらも見えない。
(どういうこと……?)
どちらも見えず、その結果、掴んでいる五指の爪先から第二関節くらいまで、つまり掴んでいるモノよりも手前にある部分だけが見えている。
指と指の隙間は見えていないので、それぞれの指は密着しているように見えた。
手の平部分が存在してしないかのように見えなくなっている。
よって、まるで手首から直接爪先が生えていて、その先に第2関節があるかのようだ。
(……き、きもちわるい)
手をゆっくりと近づけていく過程ですでに周囲が歪んで見えていたため、光の屈折や曲げた鏡で姿が歪む、などの現象を連想し、そういった不思議現象なのだろうとある程度直感していた深鷺は、すぐに“それ”を投げ捨てるようなことはしなかったが、正直に気持ち悪がっていた。
ただ、触れた感触は妙に気持ちいい。柔らかくて上等な毛、という感じがするのだ。
掴んだまま手の甲側から見てみると、まったく普通に右手の甲と指が見えている。この向きなら掴んでいるものはほとんど視界に入っていないからだろうか。
(……ステルス迷彩、的な……ぜんぜん違う?)
興味が湧いた深鷺はいろいろな角度からそれを見てみるが、どうやっても掴んでいるもの、そのものを見ることができない。どうも、掴んでいるモノだけが盲点になっているような感じだった。
盲点とは人間の目にある死角。ごく僅かだが、目の前にあるのに見えないポイント。眼球の中で視神経が通る場所に網膜がないことが原因らしいと、深鷺は思い出す。
片目を閉じて目の前に近づけた指を少しずつ動かしていくと、指の一部分がが見えなくなるのが不思議で面白かった、と深鷺は思い出す。
ただ、人の盲点は10数センチ手前の親指の先が見えなくなる程度の範囲で、しかも片目で見た場合の話だったように思う。
目の前にある手のひら大のモノが見えなくなる、なんて事は盲点では有り得ない。
(……ってこんなことしてる場合じゃないんだった)
好奇心が応じるままに手のひらをいろいろな角度から見ていた深鷺だったが、風の冷たさに体が震え、今がどういう状況かを思い出す。
立ち上がり、安全そうな場所を求めて歩き出そうとした深鷺は、この手に掴んでいる謎の小動物らしきものをどうしようかと一瞬迷う。
「あれ? 見えてる」
改めて手の内を見てみると、そこには黒い毛玉があった。さきほど涙目で一瞬見えた姿だ。
小動物らしいちんまりとした足が見えているが、顔がどこにあるかわからないくらいのもこもこ具合だ。
ぐったりとしていて、動かない。
(…………死んじゃったの?)
指先で手足を開いてよく見てみると、もこもこの尻尾らしき部位がたらん、と手のひらから落ちてぶら下がる。
尻尾の位置的にこのあたりが顔だろう、というところをつついてみる。
(あ、動いた)
毛の中から鼻を出し、スンスンと匂いを嗅ぐように動く毛玉。いかにも小動物といった動きをみて、瞬間的にかわいい、と思う深鷺。
愛らしい小動物が開いた口の中に、小さい牙が生えているのが見えた。
「げ……痛っ」
毛玉は深鷺の人差し指を噛んだ。深鷺は丁度思い出していた、前々から一度はやってみたいと思っていた昔のアニメのワンシーンに倣い、我慢している。
抵抗せず害意が無いことを示し、安心させようと試みているのだが、地味に痛い。
(いたくないいたくないいたくない…………ほんとうに効果あるのかな、あれ………って、おや?)
毛玉は噛みついたあと、さほど間を置かずに口を離してしまった。そしてすぐに指を舐め始める。
(いやいや、早すぎるでしょ……)
黒い毛玉は夢中といった感じで深鷺の指をチロチロと舐めている。
もう懐いたのか、と深鷺はしばらく見ていたが、いつまでも舐めるのを止めない。
ぷくっと滲んできた血の滴が口のあたりに落ちると、前足を使って血をこすり、今度はその前足を舐め始めた。
傷口を、というより血を舐めているようにも見える。
(えー…………まさかとは思うけど……)
試してみたくなった深鷺は血を小指に付けて、下の前に差し出してみる。すると毛玉はしばらくそこを舐めていたのだが、綺麗に舐め取り終わった小指には興味が無くなったのか、人差し指のほうを向いて鼻を動かしている。
吸血動物なのだろうか?
そう考えると、もこもこしてかわいいかもと思っていた毛玉が急に邪悪なモノのようにも見えてきた深鷺だった。そもそも野生の動物に噛まれると、いろいろと病気とか危ないのではなかっただろうかと、今更に怖くなる。
「うう……」
かといって放り投げるのも可哀相と思い、地面にゆっくりと降ろすことにした。しかし毛玉は指にしがみついて離れたく無さそうにしている。
(えー……)
深鷺はしばらくの間、黒い毛玉と見つめ合っていた。
◇
クイシェを含む10名の村人たちは山の中を強行軍で進んでいた。
すでに2時間以上が過ぎていたが、深鷺のいる位置にまではまだ少し距離がある。
「クーちゃん!」
「だ、大丈夫です」
急ぐあまり、とび出ていた根につまずき、転んでしまったクイシェ。フリネラは助け起こそうとするが、クイシェはすぐさま立ち上がり走りを再開する。
「ああもう……ミーちゃんが心配なのはわかるけど、クーちゃんも心配よー……?」
その台詞の通りの理由で強行軍についてきたフリネラは、冷や冷やしながらクイシェの背中を追う。
今回捜索に出てきているのは術者が2名、狩人が7名、医者1名だ。
クイシェとフリネラが魔導師、1名の女性が医者で、残りのメンバーは男2名、女5名の狩人である。
狩人のメンバーは深鷺が裸でいるだろうという配慮から村の女性狩人全員が選ばれ、残りは戦力補強だ。
クイシェは男を連れて行く気はなかったのだが、安全のためということから却下されていた。
狩人たちが魔術を使えないわけでもなく、また魔導師たちが戦えないというわけでもないのだが、2つの職にはハッキリと役目に違いがある。
クアラ村における術者とは「魔術の研究者」とほぼ同義であり、狩人とは狩猟による食糧、魔術素材の調達係、そして村の守護者である。
狩人たちは日常的に山へ入り、必要な魔獣を必要なだけ狩ってくる対魔獣戦のスペシャリストだ。【獣払い】の結界が本格的に試用されるようになってから村への獣や魔獣による襲撃は激減しているが、万が一村が襲われた場合、それらを対処するのも狩人の仕事である。
その狩人たちの情報では、クイシェが示すあたりには凶暴な魔獣が生息しているという話だった。そこそこ大型の魔獣で、六足狼猿という、名前の通り足が6本ある狼のような猿だという。
それは猿のように木を登り、狼のように食らいついてくる3次元的な動きがやっかいなバケモノだ。体も熊ほどに大きく、爪や牙以前に殴られるだけでもかなり危険だ。
複数匹に襲撃された場合、一般的な村であれば滅ぼされかねないレベルの脅威ではあるが、特殊な住人が暮らし、狩人人員も豊富なクアラ村としてはそこまで恐れるほどのものではない。
ただ、積極的に狩る理由がないので、縄張りの情報だけがある状態だ。
魔術研究に必要な狩りであれば別だが、手を出してこない魔獣まであえて狩ろうとするのは、生まれついてのチャレンジャーであるカウスくらいのものだった。そのカウスも、すでに単独で1度勝利している相手であるため、すでに興味を失っている。
なお、今回同行している狩人たちの中にカウスの姿はない。興味がないからではなく、フリネラの術で気絶したまま、今もまだ浴場の風呂釜に頭から突っ込んだままだからだ。
術者組2人のうち、フリネラはもともと世界各国を旅して回っていた冒険者であるため、魔獣との戦いは慣れたものだった。
狩人たちの何名かも似たような経歴を持っている。医者の女性も戦闘経験は豊富であるらしいと、クイシェは聞いていた。
クイシェはあまり実戦経験がないのだが、クイシェがいなければ深鷺を見つけるのは難しく、かつ時間がかかってしまう。
村から離れ、山の奥へ進めば進むほど危険な区域であり、村の大人たちとしてはクイシェを残して行きたかったのだが、そんな危険区域に1秒たりとも深鷺を残しておけないと、クイシェは絶対に自分が迎えに行くと言って聞かなかった。
年齢的に一応は成人しており、魔導師としての実力もある。魔獣を確実に感知する事ができる才能も持ち、確実に深鷺の元へたどり着けるクイシェは、確かに同行した方が良い。
だが、一定以上の力を持つ魔獣を相手にする場合、戦い慣れていない少女は足手まといにもなる。クイシェが扱える魔導術は強力だが、立ち回りは狩人達から見れば素人に毛が生えた程度なのだ。
フリネラはもし強力な魔獣との戦いになった場合、数名をクイシェのサポートに徹させるつもりでいた。これだけ狩人がいれば、クイシェが戦いに関わる必要はない。
「あ、あと……すこしです、けど……!」
深鷺までの距離はかなり近くなってきているらしい。クイシェにはその場で動かずにいる深鷺の位置がハッキリと感じ取れている。
少し前から、クイシェはほとんど全力疾走に近い速度で走り始めていた。
クイシェが術で強化した程度の速度であれば、狩人達もフリネラも、女性医師も問題なく付いていくことが出来ているが、当のクイシェはかなり疲労困憊している。
「……クーちゃん? わかってると思うけど、大声で呼んだりしたら駄目だからねー?」
一心不乱に足を進めるクイシェを見たフリネラは、心配になって釘を刺した。
先日深鷺を救助した場所とは、山の深さが違う。
村の近くにいる魔獣は並みの獣と変わらない程度だったり、そもそも凶暴性の低いものが多い。というより、そのような場所だから人里になりうるのだ。
奥地に進めば進むほど魔獣は獰猛なものが多くなっていく。この深度でもこれだけの人数がいれば、そうそう後れを取ることはないが、あえて魔獣を呼び込むようなことをすれば、近くにいる深鷺にも危険が及ぶ可能性もある。
「ま、魔獣の位置ならわかってます……あ、だめ、もう、間に合わない……っ」
「え?」
「ごめんなさい、“こっちに引き付けます”。耳を塞いでください……っ!」
すぐに全員が耳を塞いだ。
間を置かずに、クイシェの喉に魔光の輝きが生まれた。
魔導術が発動する。
「【咆吼】!!」