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素直な音色



 その夜はとても静かな夜で、小さな星達と家々の外灯だけが空の暗い闇を照らしていた。二階の部屋では夏樹が千春さんにたっぷり絞られながら泣く泣く数学のテスト勉強をしているのを思うとそう静かではいられないような気もするが。

 夕食の終わったダイニングは、すでに先ほどの騒ぎなど無かったようにキレイに片付けられて、キッチンで後片付けをする愁兄の鼻歌と時折片付けられていく食器や器具のカチャカチャという音が耳に届く。リビングにいた私と冬路は二人して、何をするでも無くただその音を聞いていた。 


 「ねぇ冬路、フルート聞かせてよ」

 「待ってて。今取ってくる」


 ふと冬路にいきなりの要求をしても冬路は嫌がる様子も無く、部屋にフルートを取りに行った。なんとなく、あの音色が聞きたくなった。切なくて苦しいのに、微かに混じる甘い音色。アップテンポでつい聞き逃してしまいそうなあの甘さが欲しくなった。冬路が吹き始めるまで急かすように先を促したのに、音が鳴り出すと私はすぐに違和感を感じていた。


 「…明日香?」


 その音色を私が聞くことは出来るはずがなかった。気付くと演奏を止めたらしい冬路がおろおろしながら私の顔を覗き込んでいた。いつの間にかフルートの音は止んでいて、それでも私の頭には先ほど冬路が吹いてくれた音がハッキリと残っている。



 それは私が聞いたことのある切ない、はやる衝動をおさえられない苦しい音色とはまったくの別物だった。いつもと同じメロディーなのにそこには苦しさもせつなさも無く、ただ優しかった。穏やかな愁兄の優しさと少し似ていて、でも愁兄みたいに大人でさりげない気付かない器用な優しさじゃなく、目が合うと思わず照れ笑いをするような、そっといつも微笑んで私を待っててくれる冬路の優しさだった。いつだって冬路はしかることも追い立てることもしないで私をじっと待っていてくれていた。



 「…ごめん。何でもない。ねぇ、また聞かせてよ。私その曲好きだな♪」

 「俺も好きになった♪」



 腕で涙を拭うという女の子らしからぬ仕草で目から出た水を止めて笑って見せた。その音色は彼の思い人を思ったものじゃなく私の知っている、幼い頃から知りすぎている冬路の優しさを思わせる音色だった。その音色を聞いて、鈍い私はようやく気付いてしまったんだ。私が女の子であることに。そうしたらいつの間にか勝手に、目から水が出ていた。それだけの話だ。

   




 「昨日は大変だったんだぜ?ちー姉は容赦ねぇし愁兄は助けてくれる気配もないし。おまけに唯兄もいないの。マジで絶体絶命だったね」

 「おかげで数学、出来るようになったんだろ?」

 「それはまぁ…ほら、俺って元々出来がいいからな!」

 「バッカ!元々できが良いんなら千春さんにみてもらう必要ねぇだろうが!」



 夏樹の泣き言を聞きながら校門を出た。昨日は本当に大変だったらしく、よく見るとなんだか顔がやつれているような気がする。しかしそれならギリギリまで眠って自転車を飛ばせばいいものを夏樹は律儀に今日も時間通り、最近習慣になりつつある相乗り相手の私を呼び出していた。大慌ての母に追い立てられ慌てて家を出た。



 「…ギリギリまで寝てれば良かったのに」



 テストも一週間前にもなると妙に緊張が走る。いつもは部活に明け暮れる放課後もテスト勉強に当てられるため、まだ日が昇る校舎を後にするのは夏樹にとっては妙な気分だろう。心なしか騒がしい生徒たちの声のしない校舎も寂しそうだった。



 「はぁ?」

 「寝てないんじゃない?私なら平気だからこれから置いていっていいよ」

 「…これくらい、なんでもねぇよ」



 ふいに足を止めてこちらを見た夏樹に言ってやるとそんな言葉が返ってきた。その強がりに、私は小さく笑った。そうは言っても夏樹は兄弟の中で一番睡眠不足がこたえることを知っている。家に着いた途端健康的なお昼寝の時間に入ってしまうだろう。



 「明日香、何笑ってんだ!」

 「何でも♪」

 「そういえばさ、昨日冬路が妙に機嫌良かったんだ」



 諦めた表情をしながら夏樹が話題を変えたので、私もそれに乗っかった。どうやら珍しいことだったのか夏樹は自転車を押す手を止めて考えるような仕草をした。よく見ると眉間にしわがよっている。



 「そんな珍しい?」

 「そうじゃないけど、最近色々あったらしいから」

 「双子でも分からないことってあるんだ」

 「双子いえども個人の人間だしな。だいたい俺等エスパーじゃないからやっぱ言葉にして話し合わないと分かり合えないの」



 おどけて言って見せた夏樹の言葉に思わず噴出した。そのときに何故か、昨日、唐突な申し出にも関わらず吹いてくれた冬路のフルートの音色を思い出した。何も求めずに微笑んでくれる、ただただ優しい音色。私に向かって微笑んだあの笑顔。



 「冬路さ、昨日フルート吹いてくれたんだ」 

 「へーぇ。あいつ上手いの?」

 「すごくね、優しい音…」



 思い出したらなんだか止まらなくなって、色々な気持ちが溢れて、もうどうしようもなかった。私は本当は、あの胸が締め付けられるような切なく甘い音色を聞きたかった。だけどそれは到底無理な話で、それはいくら優しい冬路に頼んだからといって叶うものじゃなく、むしろ優しい冬路だからこそ、叶えてはくれないかもしれない。



 「…明日香?…おい、どうした?」



 振り返った夏樹が私を見てギョッとした。私はその場に立ち止まってしまっていた。

 本当はあの音色を聞いたときから気付いていた。私には冬路にあの音色を奏でさせることが出来ないこと。他の誰よりも、本当にあの音色を聞きたかったのは、冬路よりも私であったこと。本当はずっと前から気付いていた。だけど、認めたくなんか無かった。私は、冬路を好きなんだ。



 「…ごめん、何でもない」



 溢れ出した気持ちを止める術を知らない私は、そういいながら目から水を流していて、それは昨日のようにいくら腕で拭ってみても、手でこすってみても、目が赤くなるばかりで止まらなかった。



 「…もういいから、泣け!」



 水を止めようとやけになって目をこすった腕の自由が利かなくなって顔を上げると先を歩いていたはずの夏樹が私の腕を掴んでいた。



 唖然として一瞬水が止まった。そのまま止められると思ったのにどういう訳か昨日とは違って、ネジが外れてしまったみたいに水は溢れ出した。少し強引に私を自分の胸に引き寄せた夏樹は子供をあやすみたいに頭をポンポン叩いた。その仕種が妙に昔の愁兄に似ていた。



 「…黙っててやるから、別に誰にも言も言ったりしないし。次のテストの数学の範囲でいいや」

 「…やっぱ、千春さんのスパルタは絶えられないんだ?」



 薄い胸板に頭を押し付けたままで笑うと、ポカリと殴られた。



 「うるせぇ。ちー姉に教えを請うのは究極の手段なんだ」



 私の目から出た水で制服が濡れていったけど、夏樹は何も言わないでいた。トクン、トクン、と落ち着いた一定のリズムを刻む心臓の音に耳を澄ますと妙に落ち着いた。不思議と胸に温かさを感じて、ふっと水を拭き取らないまま笑った。



 愁兄みたいに優しい気の利いた言葉をくれるわけじゃない。こっちの気持ちを全部分かっていてくれるはずがない。冬路みたいに、優しく笑って待っててくれるわけじゃない。私が立ち止まったことに気付かなかったし、訳を聞いて慰めてくれるわけでもないし。第一私を女の子として扱ったことが無い。だけど今、隣にいてくれたのが夏樹で良かったと思った。











 私が好きな苺は最近はビニールハウスで育つことが多くて、その中でそれぞれ色々な苺になる。自然に育つイチゴよりも「甘くという合言葉で品種改良されてしまうものがほとんどだと思う。すべては消費者のために。

 だけど私は苺の気持ちを知らない。消費者のためにと、姿を変えていく苺は一体どんな気持ちだったの?受け入れられなければ、きっと捨てられてしまう。・苺はどんな気持ちで、甘くなっていったの?どんな気持ちで変わっていったの?

   



 「高村君、何か良いことあったの?」



 部室の扉を開けると高村君がとても楽しそうにお喋りをしている姿があった。



 「何もないと思うけど?」



 そういって首をかしげてみせた高村君はとても嬉しそうだった。最近の彼は悩ましく、難しい表情をすることがあった。最もその原因の一つに私があることは一応自覚している。



 「今日も、一人で自主練習?」

 「ソロパート任されたし、頑張らないと!」



 彼はあれから、私の前でいっさいフルートを吹かない。サボりではないにしろ、部室にも以前ほど積極的に顔を出してくれない。私は彼の優しさにつけ込んで何度もリクエストを繰り返した。その度に彼はサラリとそれを交わしてしまう。




 「じゃあ、フルート聴けないね」




 私は彼の演奏が好きだった。彼の繊細な感性で奏でられるフルートはその場の状況によってさまざまな色を見せる。一つの譜面に無限の音色を作り出す彼のフルートがたまらなく好きだった。



 「そんなに聞きたい?」



 こちらを振り返った高村君の表情は読めなかったけど、構わずに頷いた。禁断症状みたいに、私は彼の音色を覚えていた。



 「屋上に行こう」という彼について、部活の始まる音楽室を私は悪びれも無く後にした。

 久々に来た屋上は気持ちの良い風が吹いていて、陰った空が寂しかった。

 高村君は私の少し前に立って、黙って目の前に広がる景色を見つめていた。軽く手に持ったフルートが光の角度で光っていて、彼等を見分けるための最大の特徴であるサラサラの黒髪が静かに風に揺れていた。



 「高村君?」




 不安に思って彼の背中に声をかけると、彼は大きく深呼吸してフルートを構えた。

 ゆっくりと、初めの音がなる。次の発表会の曲は明るくて爽やかなもの。屋上で聞く高村君のフルートはその上にサラリと大きな優しさを乗せていた。ソロ部分では若い無邪気な明るさをなくさないで、くどく主張しないようにそっと包み込んでいく。小さな酸味の強い苺たちをミルクにつけたみたいな、フレッシュな甘さ。彼の優しい音色が好きだった。



 だけど、この音は違う!今、私の目の前でフルートを奏でる高村君は相変わらず私に背を向けているため彼が何を考えているのか分からない。だけど、これは違う!アップテンポの明るい、可愛らしい曲は何故か落ちつかない。それは楽しさ故のことじゃなく、どういうわけかひどく切なくて苦しい。心がギュ~ッと捕まれて動けない。辛くて、明るい音色にそっと寂しさを漏らす。可愛いアップテンポに切なさを隠した。本当は、少し怒ってる。呆れてる。だけどいつものように微笑んで「仕方ないな」って許してくれる。優しい高村君だから。




 私は本当は知っていた。だから、ずっと気付きたくなかったんだ。分かってた。高村君が私を好きだってこと。あの言葉が真剣だったことも、彼は優しい人だからこそ、私とあの場所を切り離さないでいてくれたことも。私はずっとそれを知っていた。知っていたのに。彼の優しさに甘えて、ふたをしていた。



 「だから、森下さんの前では吹きたくないって言ったんだよ」



 音が止んだことに気付かなかった。高村君が少し呆れ顔で私を見ていた。いつもと何も変わらない高村君が微笑む。だけど、私はやっと気付いた。ずっと、気付きたくなんかなかったことに。気付かなければ、いけなかったことに。


 

 「私…ごめんね。ずっと気付かないでいて」

 「俺、入学した頃から森下さんのこと好きだったよ」




 世間話をするかのように軽い調子で高村君は私に言葉をくれた。その優しさに目がかすんで、涙が頬を伝った。



 「…ありがとう。ごめんなさい」



 私は彼が私を想ってくれているのとは違う気持ちで彼を好きだった。それは尊敬という言葉に当てはまるかもしれない。彼はこんなズルイ私を好きだと言ってくれた。



 「うん。それが聞きたかった」



 高村君はそういって私に今まで見た中で一番の笑顔をくれた。


 最後まで読んで頂いてありがとうございました。

ご指摘など頂けたら幸いです。

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