毛根シネマティック・ユニバース(MCU)~秘密結社事件記録~
毛根を破壊する者達~とある戦士の日常~ (Mr.Morita incident)
朝、剃田の一日は、着替えから始まる。
白衣を脱いで、ロッカーに掛ける。
代わりに、黒い服に袖を通す。
研究室にいるときは白。
外に出るときは黒。
それが、結社の決まりだった。
黒い服は、路地裏の暗がりによく溶ける。
鏡の前で、襟を整える。
自分の髪は、短く刈り込んである。
長すぎず、短すぎず。
目立たないことが、何よりも大事だった。
ここでは、剃田という名前は使わない。
仕事上の名前は、別にある。
イレイザー。
消す者。
◇
次に、装備の確認をする。
腰の袋を開ける。
中には、直径二センチほどの黒い球が並んでいる。
毛根破壊玉。
接触した瞬間、周囲十五センチ以内の毛包を、完全に不活性化させる。
再生剤は、効かない。
再構築治療も、効かない。
ただし、本物は、まだ貴重だった。
一つ作るのに、時間も、金も、かかる。
だから、袋の中の大半は、ダミーだった。
見た目は、本物と同じ。
当たれば、ちゃんと砕ける。
ただ、毛根には、何もしない。
剃田は、本物とダミーを、指で分けて数えた。
数は、合っていた。
最後に、ヘッドセットを耳に掛ける。
耳の後ろに沿う、細い一本の弧。
骨に直接、声を伝える型だった。
喉元には、米粒ほどのマイクが貼りついている。
囁くような声でも、本部には届く。
軽く指で触れると、視界の端に、小さな文字が浮かんだ。
『通信良好』
『コード:イレイザー』
『本日の担当:張り紙地区・第七セクター』
張り紙地区は、街のあちこちにある。
どの地区にも、番号が振られている。
剃田は、小さくうなずいた。
◇
壁には、規則が貼られている。
毎朝、目を通すことになっていた。
一、投擲前には、必ず「目標確認」と発声すること。
一、使用する本物の玉は、一人につき一発とすること。
一、標的が希望する部位以外に、着弾させないこと。
一、こちらから標的に、みだりに声をかけないこと。
剃田は、三つ目の項目を、しばらく見つめた。
当たり前のことだった。
当たり前のことほど、守るのが難しい。
剃田は、それをまだ、本当には知らなかった。
◇
昼間の仕事は、地味だった。
殻の厚みを測る。
投擲の練習をする。
もちろん、ダミーで。
十二メートル先の的に、何度も投げる。
ぺち。
ぺち。
ぺち。
的の真ん中に、黒い殻が散らばっていく。
悪くない。
腕は、鈍っていなかった。
◇
夕方。
剃田は、第七セクターの巡回に出ていた。
どこかの換気扇が、低く回っている。
夏の夕方は長い。
暑さが、黒い服の中に、じっとりとこもる。
そのとき、耳の後ろで、骨が震えた。
『バリカン・ゼロより、各員へ』
本部の声だった。
『路地裏、張り紙地区・第七セクター、Bポイントで、現在フサフサの元禿チャンピオンが被験者に名乗りを上げている!』
剃田は、足を止めた。
『近くの者は急行せよ!』
視界の端に、地図が浮かんだ。
Bポイント。
シャッターの下りた酒屋の脇。
掲示板のある場所だった。
ここから、走れば数分。
現在フサフサの元禿チャンピオン。
剃田は、その言葉を頭の中で繰り返した。
ニュースで見た顔が浮かんだ。
未明の路地で、何者かに再生剤を噴霧された男。
スキンヘッド大会の、元チャンピオン。
希望の部位は、聞くまでもない。
頭だ。本当は毛根破壊玉より剃りを入れたかった。しかし、今回は仕事だ。
剃田は、決意し走り出した。
◇
酒屋の裏手には、細い路地が伸びている。
剃田は、表通りを避け、路地の奥から回り込んだ。
息を整える。
暗がりの中から、そっと覗く。
掲示板の前に、男が一人、立っていた。
五十代の後半くらいだろうか。
頭は、きれいに剃り上げられていた。悔しかった。私以上の技術力である。
磨き上げられた頭が、夕日を受けて、橙色に光っている。
フサフサでは、なかった。
だが、耳の上に、うっすらと影があった。
剃っても、剃っても、生えてくる影だ。
男は、辺りを見回していた。
顔が、何度も、こちらを向いた。
剃田は、指先の球を、握り直した。
今、投げれば、頭に当たるかもしれない。
だが、顔に当たるかもしれない。
十五センチ。
頭を狙って、額に当たれば、眉が消える。
鼻に当たれば、鼻毛が消える。
この男が欲しいのは、頭だけだ。
剃田は、投げなかった。
背中を向けてもらえれば、話は早い。
「すみません、後ろを向いていただけますか」
そう言えれば、どれだけ楽だろう。
だが、規則がある。
こちらから、みだりに声をかけてはならない。
剃田は、待った。
日が沈んでいく。
空の色が、橙から紫へ、紫から紺へ変わった。
街灯が、ぽつりと一つ灯る。
蚊が、剃田の首のまわりを飛んだ。
叩けない。
音が出る。
剃田は、首筋を刺されながら、動かなかった。
男のほうも、首を叩いていた。
男の頭には、蚊は寄りつかなかった。
十分が過ぎた。
二十分が過ぎた。
三十分が過ぎた。
やがて、男が、動いた。
路地の入口に立つ。
そして、こちらへ、背を向けた。
背筋を伸ばす。
顎を引く。
頭を、少しだけ前へ傾ける。
磨き上げた頭頂部が、街灯の光を受けて、まっすぐに光った。
剃田は、思わず、息をのんだ。
見事な姿勢だった。
差し出された、頭だった。
男は、息を吸った。
そして、叫んだ。
「頭に当てろやー!」
声が、路地の奥の剃田の胸まで、まっすぐに届いた。
やはり、頭だった。
剃田は、腰の袋から、本物を一つ、取り出した。
喉元のマイクに、小さく告げる。
「イレイザーより、本部・バリカン・ゼロへ。標的発見しました。これより、サンプル採取活動に入ります」
『了解』
骨が、短く震えた。
距離、十二メートル。
剃田は、腕を振りかぶった。
そして、規則どおりに、口を開いた。
規則で許された、ただ一つの声だった。
「目標確認」
男が、振り返った。
「え、もう?」
剃田の腕は、もう、止まらなかった。
球は、小さく弧を描いた。
ぺち。
男の顔の、真ん中だった。
鼻の頭だった。
◇
静寂が、路地を満たした。
剃田は、投げた姿勢のまま、固まっていた。
十五センチ。
鼻の頭から、十五センチ。
頭の中で、勝手に円が描かれていく。
鼻の中。
鼻の下。
眉。
まぶた。
円の中に、頭頂部は、入っていなかった。
やがて、剃田は、ゆっくり腕を下ろした。
「あの」
小声で言った。
「振り向かれると、困るのですが」
「頭に当てろ、と言いました」
「はい。ですので、背を向けていただいていた、のですが」
「声が聞こえたので、振り返りました」
「目標確認の声は、規則でして」
男は、目をしばたいた。
それから、携帯端末の画面を鏡にして、自分の顔を見た。
額の下に、眉毛がなかった。
男は、数秒間、動かなかった。
「私は、頭と言った。顔とは、言っていない」
「はい。申し訳ありません」
「眉毛は、頼んでいない」
「はい」
「鼻毛も、頼んでいない」
「はい」
「四十年、守ってきたのは、頭だ。眉毛は、守っていない」
「それは、そうなのですが、眉毛も、結果的には」
「結果的に、とは、何だ」
男の声が、路地に響いた。
剃田は、何も言えなかった。
男は、怒っていた。
怒って、怒って、それから、膝から崩れた。
「私は」
声が、震えていた。
「ただ、頭を、取り戻したかっただけなのに」
剃田は、何も言わなかった。
言える言葉が、一つもなかった。
男の肩が、小刻みに震えている。
眉のない顔で、男は、地面を見つめていた。
◇
長い、沈黙があった。
剃田は、喉元のマイクに、指を当てた。
ほとんど、息だけの声で告げる。
「イレイザーより、本部・バリカン・ゼロへ。被害報告」
『どうぞ』
「頭皮への着弾希望でしたが、思わぬ事故にあい、顔面喪失……」
『……顔面?』
「破壊箇所、鼻毛、眉毛、まつ毛等、顔面全体に及びましたが、その他は被害軽微」
耳の後ろが、しばらく、震えなかった。
『……了解』
剃田は、腰の袋に、手を入れた。
本物は、一人につき、一発。
だが、規則には、続きがあった。
上級研究員の判断がある場合は、この限りではない。
剃田は、上級研究員だった。
「上級研究員権限により、毛根破壊玉の追加使用を申請する」
『……了解。任せる』
剃田は、本物を、もう一つ取り出した。
それから、ダミーを、三つ。
頭頂部に本物を一発当てれば、十五センチの円が、頭のほとんどを覆う。
残りの三発は、毛根には何もしない。
それでも、この男には、一発ずつ、確かめてほしかった。
一歩、男に近づく。
「あの」
男は、顔を上げなかった。
「少し、お待ちください」
剃田は、球をつまんだ。
「本来は、一人につき、一発の予定なのですが」
言いながら、自分の声が、少しだけ揺れているのがわかった。
「この状態でお帰りいただくのは、さすがに、私としても」
その先は、言葉にならなかった。
「頭のほうは、確実に仕上げます。お立ちいただけますか」
男は、ゆっくり、立ち上がった。
涙を拭いた。
そして、背を向けた。
背筋を伸ばした。
顎を引いた。
磨き上げた頭を、静かに差し出した。
さっきと、同じ姿勢だった。
ただ、眉毛は、なかった。
「お願いします」
「かしこまりました」
剃田は、三歩下がった。
今度は、外さない。
ぺち。
頭頂部。本物。
「次、いきます」
ぺち。
後頭部。ダミー。
ぺち。
左の耳の上。ダミー。
ぺち。
右の耳の上。ダミー。
耳の上の影も、もう、二度と生えてこない。
「以上です」
剃田は、深く頭を下げた。
「ご協力、感謝いたします」
男は、振り返らなかった。
歩きかけて、足を止めた。
「一つ、聞いてもよろしいか」
「お答えできる範囲であれば」
「これは、永久か」
剃田は、少し考えた。
嘘は、つきたくなかった。
「現状では、再生できません」
「再生剤でも」
「効きません」
「再構築治療でも」
「効きません」
男は、うなずいた。
「それなら、いい」
「ありがとうございました」
それだけ言って、男は、路地を出ていった。
足元には、黒い殻が、いくつも散らばっていた。
本物の殻も、ダミーの殻も、見分けはつかない。
剃田は、それを、一つずつ拾った。
◇
「イレイザーより、本部・バリカン・ゼロへ」
『どうぞ』
「上級研究員権限で、複数玉、使用しました」
『本物は、何発だ』
「顔面の一発と、頭頂の一発。計二発です。残りの三発は、ダミーです」
『……そうか』
「無事、目的の頭髪を破壊完了」
『了解』
「残念ながら、今回は、予定外の場所に着弾被害を起こしました」
骨の奥で、研究員Aが、長く息を吐く音がした。
『……報告書は、明日でいい』
剃田は、路地の出口を見た。
男の背中は、まだ、通りの先に小さく見えていた。
眉のない顔で、あの男は、家に帰る。
明日の朝も、鏡の前に立つ。
剃田は、喉元のマイクに、もう一度、指を当てた。
「これより、作戦σに移ります」
『……σ?』
「はい」
『わかった。好きにしろ』
通信が、切れた。
◇
剃田は、男の後を、距離を取って歩いた。
十二メートル。
いつもの距離だった。
男は、ゆっくりと歩いていた。
歩きながら、手帳を一枚、破った。
ペンを走らせる。
やがて、男は、一軒の家に入っていった。
玄関の明かりが灯る。
しばらくして、奥の窓にも、明かりが灯った。
洗面所の窓だろうか。
剃田は、門の前に立った。
門柱に、郵便受けがあった。
「イレイザーより、本部・バリカン・ゼロへ」
『どうぞ』
「目標宅の郵便受けに到着。これより、作戦遂行します」
『……了解』
剃田は、手帳の紙を、もう一度だけ見た。
『鼻毛・眉毛カツラ 開発被験者募集』
それだけだった。
剃田は、紙を二つに折った。
郵便受けの口を、指で押し上げる。
かたん。
小さな音がした。
窓の向こうで、誰かが、くしゃみをした。
大きなくしゃみだった。
剃田は、門の前で、深く頭を下げた。
誰にも、見られていなかった。
◇
帰り道。
夜の住宅街は、静かだった。
剃田は、喉元のマイクに、指を当てた。
「イレイザーより、本部・バリカン・ゼロへ」
『どうぞ』
「無事、任務完了。カツラチラシ、投函済み」
『……そうか』
「本日の業務、完了します」
『ご苦労だった』
「以後、直帰します」
ヘッドセットを、耳から外した。
視界の端の文字が、すっと消えた。
イレイザーの一日は、ここで終わる。
ここから先は、剃田の時間だった。
◇
「ただいま」
玄関を開けると、台所から、味噌汁の匂いがした。
「おかえりなさい。遅かったわね」
妻が、鍋の前から振り返った。
「ちょっと、残業でね」
「ごはん、できてるわよ」
居間から、小さな足音が駆けてきた。
「おかえり、パパ!」
娘だった。
剃田は、しゃがんで、娘の頭を撫でた。
柔らかい髪が、指の間をすべった。
食卓には、三人分の茶碗が並んでいた。
「いただきます」
三人の声が、そろった。
娘が、今日あったことを、次から次へと話した。
剃田は、うなずきながら、聞いていた。
娘が笑うと、眉が、くっと上がった。
困った顔をすると、眉が、八の字に下がった。
剃田は、箸を止めて、娘の顔を見た。
「パパ、どうしたの?」
「いや」
「眉毛、ちゃんとあるなと思って」
「え、なにそれ」
娘は、けらけらと笑った。
妻も、つられて笑った。
「変なパパ」
「そうだな」
剃田も、笑った。
笑いながら、首筋をかいた。
蚊に刺されたところが、今になって、かゆくなってきた。
窓の外では、夏の夜が、静かに更けていった。
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