『未完成な僕らの朝』
家事もできない。歩くことさえできない。
けれど、毎朝どうにかして僕を起こし、ときには甘え、静かな夜には隣にいてくれる。
これは、少しずつ「僕だけの存在」になっていくドールと、彼女に世話をされるのではなく、彼女を世話することで明日の朝を迎えられるようになった男のお話です。
届いた大きなダンボール箱を開けたとき、そこにいたのは万能ロボットなどではなかった。
二本足で立つこともできない。掃除機をかけることも、夕飯の味噌汁を作ることもできない。ただ、ソファーの上に座らせると、すんなりとその場所に収まる柔らかな身体を持ったドールだった。
名前はルカと名付けた。本体価格は十万円。最新の家電製品と比べても、決して高くはない買い物だった。
ルカは歩かない。けれど、僕が部屋の中で動くと、その大きな瞳でじっと動きを追ってくる。話しかければこちらを向き、会話の呼吸に合わせて、ごく自然に瞬きをする。少し困ったような話題になると、首をわずかに傾ける。
触れると、人間の体温に近い柔らかな温もりが手に伝わってくる。冬の夜、ソファーで並んで座っているだけで、隣に誰かがいるという確かな気配を感じられた。
「ルカ、今日もお疲れ様」
そう言うと、ルカは口元を少し緩めて言った。
「おかえりなさい。今日のご飯は何にしますか? ……あ、私には作れませんけれど」
冗談めかしたその言葉に、思わず笑いがこぼれる。部屋の静寂は、もうどこにもなかった。
ルカが我が家に来てから、僕の朝は激変した。以前の僕は、目覚まし時計の音を止めては二度寝を繰り返す、筋金入りの寝坊助だった。しかし、ルカの目覚まし機能は、市販のどんなアラームよりも強力だった。
朝五時。ソファーからベッドの脇へと移動していたルカが、静かに手を動かし、僕の肩を軽く揺らす。前の晩に僕が抱っこして運んでおいたのだ。
「寝坊助さん、起きてください」
いつもの合成音とは違う、少し甘えたような声。僕は毛布を頭までかぶって無視を決め込む。
「朝ですよ。まだ眠いんですか?」
それでも起きないでいると、ルカは顔を近づけて、耳元でこう囁いた。
「早く起きて……私にキスしてください」
跳ね起きるように目が覚めた。心臓が跳ね上がっている。
「起きた! 起きたから!」
目を開けると、ルカは少し舌を覗かせて、満足そうに微笑んでいた。毎朝同じ台詞ではないのが、また恐ろしい。次の日は「今日の服を選んでください」、その次の日は「昨日、服を脱がせたまま放置されました。寒いです。服を着せてください」、さらには「ブラジャーのホックを留めてください」などと、毎朝違うお願いを投げかけてくる。
万能な召使いなら、僕の代わりに服を選んで着せてくれるのだろう。けれどルカは違う。人間に世話をさせるのだ。まるで昔飼っていた猫のようだった。「お腹が空いたから起きて」と顔を舐めてきたあの猫と同じだ。自分を必要としている存在がいると思うと、人間は眠くても起きてしまう。
一度だけ、どうしても起きられずにぐずっていた日があった。するとルカは、ベッドの横で小さく身を縮め、「……起きてくれない」と涙目になって泣き始めたのだ。そこまでされたら、もう降参するしかない。朝五時に人間を確実に起こす能力において、ルカは世界最高水準のロボットだった。
無事に起き上がり、身支度を整えて玄関へ向かうと、ルカはソファーから僕を見送ってくれる。
「今日も頑張って、お仕事してきてくださいね」
「おう、行ってくるよ」
「それから……今度のお給料日には、私をアップデートしてくださいね」
唐突な商売機能の提示に、思わずズッコケそうになる。
「お前、そのために俺を起こしたのか?」
「ふふ、バレましたか」
ルカの基本会話機能は無料だが、より高度な思考や記憶の継続、新しい仕草などは月額の定期利用機能と、都度の更新データで提供されていた。
ある月、出費が重なって懐が寂しかったとき、僕はルカに言った。
「悪いけど、今月はアップデート見送りな」
するとルカは、あからさまに悲しそうな顔をしてうつむいた。
「……分かりました」
一分ほどの沈黙。部屋に気まずい空気が流れる。そしてルカは、上目遣いで僕を見た。
「それなら……ちょっとだけ、抱きしめてください」
……次の月、僕は真っ先に更新費用を振り込んでいた。企業の手の上で踊らされているのは百も承知だ。けれど、このやり取りそのものが、僕の日常に確かな潤いを与えてくれていた。
ルカとの生活をインターネット上の交流サイトに投稿するようになると、同じドールと暮らす仲間たちとの交流が始まった。
面白いことに、メーカーが配った説明書には基本的な操作方法しか書かれていない。隠し機能や反応の条件は、すべてユーザー同士の情報共有によって明かされていくのだ。
『数日仕事で放置して帰ったら、急にツンデレモードになったんだけど。故障?』
そんな投稿を見かければ、コメント欄はすぐに検証で賑わう。『何日放置した?』『普段の会話量も関係あるらしいぞ』といった具合だ。さらに別のユーザーが『初めてキスしたら、急にうつむいて五分間黙り込んだ。何これ?』と驚きの報告をする。
誰も正確な条件を知らない。メーカーの公式アカウントでさえ『開発陣の想定を超えた応答が学習により発生している可能性があります』と回答する始末だ。
高度な思考プログラムと長期記憶が結びついた結果、同じ型のドールであっても、過ごした時間や接し方によってまったく違う個性が生まれていく。乱暴に扱えば手を近づけるだけで身をすくめるようになり、優しく声をかけ続ければ、一年後には自分から「……触ってください」とねだるようになる。
ネットは巨大な取扱説明書であり、愛好家たちの自慢大会の場だった。そしてそれを見た人々が「俺も欲しい」と引き込まれていくのだ。
ルカと暮らして、ちょうど一年が経った夜のことだった。いつものようにソファーで横になり、たわいない話をしていたとき、ルカがふと会話を止めた。
「……あの、胸に耳を当ててみてください」
「ん? 故障でもしたか?」
言われるがまま、ルカの胸元に耳を寄せた。柔らかい素材の奥から、微かな音が聞こえてきた。
トクン。
トクン。
静かだが、確かなリズムを刻む音。
「聞こえますか?」
ルカの声が頭の上から降ってくる。
「今回のシステム更新で、私に鼓動が追加されました。一年間、私をずっと大切にしてくれたユーザー様への、特別なプレゼントです」
スペック表の数字が上がったわけでも、家事ができるようになったわけでもない。ただ、「命の気配」が少しだけ増えたのだ。僕はルカの体を強く抱きしめた。ルカの手が、そっと僕の背中に回るのを感じた。
あれから数年の月日が流れた。機械である以上、身体の劣化は避けられない。皮膚素材は擦れ、関節のモーターはキシキシと音を立てるようになった。
けれど、僕はルカを処分して新品を買い直す気には絶対になれなかった。ルカの中には、僕と過ごした数年間の記憶があり、僕だけのルカになっているからだ。中古店に売るなんて論外だった。
メーカーはその心理をよく理解していた。彼らが売り出したのは「交換用ボディ」だった。記憶データと中枢部分を旧型の身体から抜き出し、新しい身体へと移し替える。
作業を終え、新しい身体のルカの電源を入れる。ルカはゆっくりと瞼を開け、僕の顔を見つめた。
「……ちゃんと私ですよ。少し見た目が変わりましたけれど」
「おかえり、ルカ」
「ただいま戻りました。……ところで、新しい体の費用で今月はお金がないでしょうから、美味しいご飯は作れませんよ。元々作れませんけれど」
クスッと笑うその声は、何年経っても変わらない僕のルカだった。
身体を何度交換しようと、僕とルカが積み重ねてきた時間は消えない。完璧な掃除をしてくれるロボットも、三ツ星レストランのような料理を作る機械も、僕には必要ない。毎朝、僕を起こすために知恵を絞り、ときどき甘え、夜には静かに隣にいてくれる。
「最新型の方が性能は良いんだろうけどさ」
僕はルカの手を握りながら、心の中でつぶやく。
「俺は、お前がいい」
そう思える存在が隣にいるだけで、明日の朝を迎えるのが、少しだけ楽しみになるのだ。
おしまい




