書庫を守っていたら、監査官に求婚されました
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公爵家隠居屋敷管理者
エレノア・ローレンス殿
先代公爵の逝去以降、祖父の遺志を汲み、当屋敷の使用についてはこれまで特例として黙認してきた。
しかし今後は、公爵家の財産管理を正式な制度の下に置く。
ついては、隠居屋敷の管理者は世帯単位――すなわち夫婦であることを条件とする。
居住の継続を望む場合は、同条件を満たすこと。相応の猶予期間は設ける。
公爵家当主
フレデリック・アルヴェイン
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私はしばらく、その手紙を見つめていた。
結婚しろ、ということだ。
書き方は丁寧だった。
文字は整い、紙も上等だ。だが、その内容は静かに、しかし確実に私の胸に重みを落としていた。
*
窓の外では、初夏の庭が静かに揺れている。
背の高い樫の木の葉が、風に擦れ、さらさらと乾いた音を立てていた。
この音を聞くたび、私はいつも同じ日のことを思い出す。
ここに来た日のことを。
あの頃、私はまだ十代だった。王都郊外の小さな図書館で、臨時の手伝いをしていた。規模こそ大きくはなかったが、蔵書は風変わりなほど豊かで、誰もが気軽に読める童話や小説の隣に、歴史的価値を持つ古文書が静かに並んでいた。
貸し出しカードを整理し、棚を拭き、返却された本を元の場所へ戻す。仕事といえばそれだけだったが、本に囲まれて過ごす時間は、私にとって十分に満ち足りたものだった。
そこには、静かな匂いがあった。
紙と埃と、わずかに混じる日向の匂い。
その日、ひとりの老人がやって来た。
どこにでもいるような質素な身なりでありながら、背筋はすっと伸び、清潔な気配が滲んでいる。平凡な装いの奥に、隠しきれない品のようなものがあった。かなりの年齢に見えたが、目の奥にはどこか愉しげな光が宿っていた。
「この図書館ならではの本と、きみの一番おすすめの本を選んでほしい」
不意の問いに、私はわずかに戸惑いながらも、素直に頷いた。
それから、その老人は週に一度、図書館を訪れるようになった。来るたびに本を所望し、前に勧めた本について二、三の言葉で感想を残していく。
やがて、逆に老人から本を薦められるようになり、貸し出しカウンター越しに、本を勧め合い、短い言葉で感想を交わす関係が続いた。
老人の言葉は、簡潔でありながら的確だった。たった一言で、その本の核と面白さが浮かび上がる。言葉の選び方が、あまりにも見事だった。
私はいつしか、その一言を聞くことを楽しみにするようになっていた。そして、自分の言葉がうまく届いたとき、老人が目を細め、満足そうに微笑む――その表情を見ることも。
その人が、アルヴェイン前公爵だった。——テオドール・アルヴェイン。
季節がひとつ巡るほどの間、互いに名も明かさぬまま、その奇妙な交流は続いた。
どのようなきっかけだったか。あるとき、ふとした流れで私が家名を口にした。
「ローレンス?」
老人は指先で顎を撫でながら、しばし思案する。
「その姓は……どこかで聞いた気がするな」
*
翌週、テオドールは図書館に現れるなり、開口一番、得意げに言った。
「やはりそうだった。遠いが、うちの家系に連なっている」
公爵家の系図の端に、ローレンスの名が記されていたのだという。土地に残る伝承や日記、人々の営みの中にのみ残る、書物として編まれることのない言葉――そうしたものを辿るのが、テオドールは好きだった。
血縁と呼ぶには遠い。だが、まったくの他人でもない。
テオドールは私を見て、穏やかに笑った。
「君が勧める本はどれも面白い。言葉の感覚も好ましい。血が、どこかで似ているのかもしれんな」
冗談めいた口調だったが、その笑みはどこまでも柔らかかった。
少しの間を置いてから、テオドールは続けた。
「実はな、屋敷に大きな書庫があってね」
それは、秘密を打ち明けるような声音だった。
「だが年を取ると、整理が億劫でな。誰か、番をしてくれる者がいれば助かるのだが」
私は半ば冗談のつもりで答えた。
「私でよろしければ」
そして気がつけば、私はこの屋敷にいた。
*
隠居屋敷は、想像していたよりもずっと広かった。
庭は奥深く、廊下は静かで、そして書庫は――思わず息を呑むほどだった。
高い天井まで続く本棚。そこに並ぶのは、テオドールの嗜好をそのまま映したような、多種多様な書物だった。
公爵家の財力を感じさせる一方で、それだけでは測れない、長い年月を経て積み重ねられてきた歴史の重みがあった。
本は決して整然としているわけではなかったが、無造作に放置されているわけでもない。どれも、いまかいまかと読まれるのを待っているように見えた。
この膨大な蔵書に、テオドールはどれほど目を通してきたのだろうか――そんなことを、ふと考える。
高い棚にかけられた梯子。
窓から差し込む、やわらかな光。
それらすべてが、ひとつの静かな世界を形作っていた。
テオドールは、ほとんど人を置かずに暮らしていた。
歴代の公爵家の人々は皆、読書を好んだらしい。代々受け継がれてきた膨大な蔵書に加え、現役時代には読む暇もなく集めていた本を、隠居してからゆっくりと読み進める。ときには自ら街へ出て、新しい本を探すこともあるという。
その暮らしは、静かで、しかしどこか満ち足りているように見えた。
私の主な役目は、書庫の整理と目録作り。
そしてもうひとつ――図書館にいた頃と変わらず、本の感想を言い合うことだった。
「遠縁とはいえ、身内のようなものだ」
テオドールは、よくそう言った。
「きみがいると、屋敷が図書館のようになる。本を愛する者の手で整えられた書架は、生きているように見えるものだよ」
そう言って笑う顔は、どこか祖父に似ていた。
雇い主と使用人という枠を越えて、私たちは本を楽しむ同士だった。
互いに本を勧め、感想を交わし、相手の思いがけない言葉に驚き、そして少しだけ悔しがる――そんな、ささやかな競い合いのような関係でもあった。
だからだろうか。
私はいつのまにか、この屋敷を「家」だと思うようになっていた。
*
ユリウスと名乗る監査官と初めて言葉を交わしたのは、今から七年前の秋のことだった。
その頃には、私はすでにこの屋敷に住み始めて三年が経っていた。
午前中は書庫の目録作りをし、午後はテオドールと書庫の奥のソファに腰を下ろす。コーヒーを飲みながら、その日に見つけた五代前の公爵夫人の手記を見せていた。
高い窓から差し込む午後の光が、古い本の背をやわらかく照らしている。
ページをめくるたび、乾いた紙の香りが静かに立ちのぼった。
この三年ですっかり習慣になったこの時間を、私は気に入っていた。
本の匂いと、少し冷たい石の空気。
香ばしく、わずかに苦味を含んだコーヒーの香り。
テオドールとの、途切れがちな会話。
ここにいると、不思議と心が落ち着く。
カップをソーサーに戻し、一息つく。
本と香りの余韻が、静かに沈んでいく。
――そのときだった。
ふと顔を上げると、書架の入り口に一人の男が立っていた。老執事に案内されてきたらしい。
黒い外套に身を包み、背筋をまっすぐに伸ばしている。
客人にしては、どこか硬質な気配があった。視線は静かだが、周囲を正確に測るような鋭さがある。
「……失礼いたします。」
先に口を開いたのは、その男だった。
「王宮監査室より参りました。ユリウス・グラントと申します。本日は当家の書庫管理および関連記録の確認のため、訪問いたしました」
落ち着いた声だった。
よく通るが、大きくはない。書庫の静けさを乱さぬよう、言葉を抑えているのが分かる。
「ふむ。孫のフレデリックから聞いておる」
テオドールは特に驚く様子もなく頷いた。
「書庫の管理は、このエレノア嬢に任せている。必要なことがあれば彼女に聞きなさい。わしの判断が要るなら、そのときに呼べばよい」
そう言うと、カップを手にしたまま、気負いなく立ち上がる。
「では、あとは任せよう」
軽く手を振るようにして、テオドールは書庫を後にした。
扉が静かに閉まる。
その音が消えるのを待つことなく、ユリウスは一歩前に出た。
「では、早速始めさせていただきます」
間を置かない口調だった。
「まず、現時点での蔵書数の概数と、分類基準についてお伺いしたい。併せて、過去三年間の受入記録および廃棄・修復履歴の有無も確認いたします。目録があるとのことでしたが、閲覧は可能でしょうか」
あらかじめ順序立てられたものを、そのまま取り出しているような話し方だった。
私は一瞬、言葉を失った。
「……あ、はい。目録はまだ完全ではありませんが、現時点のものをお見せできます。分類は大まかにですが――」
慌てて立ち上がりながら答える。
「結構です。完全である必要はありません。現状を把握することが目的ですので」
言葉を遮るでもなく、しかしきっぱりとそう言い切る。
「まずは目録を拝見し、その後、実際の書架と突き合わせます。動線はこちらで確認しますので、通常どおりご案内ください」
淡々としているのに、どこか急かされているような感覚があった。
王宮の監査官――なるほど、と私は内心で頷く。
そして、穏やかだった日常に不意に持ち込まれたその速さに、私はほんの少しだけ驚いていた。
*
ユリウスが屋敷を訪れるのは、週に数日だった。
王宮の都合に合わせて、不定期に現れる。だが一度来れば、その日のうちに次の確認事項が簡潔にまとめられ、私に手渡される。私はそれに従って関連する文書や書籍を用意し、次の訪問に備える。
当日になると、まずその日の進行が告げられる。
必要があれば手伝いの指示が出され、私はそれに従って動く。
無駄のないやり取りだった。
いつのまにか私は、先生と助手のような、どこか張り詰めた関係の中に身を置いていた。
最初のうちは、その的確さに戸惑っていた。
余分な言葉がなく、迷う余地もない指示は、少しだけ息苦しくもあった。
だが――それは、正確だった。
間違えようがない。
見落としようもない。
そして何より、その指示は決して一方的ではなかった。
私が理解しやすく、動きやすいように、あらかじめ整えられている。
そのことに気づいたとき、ユリウスに対する印象は、静かに変わった。
監査対象としての目録整理は、驚くほどの速さで進んだ。
ひと月も経つ頃には、おおよその終わりが見え始めていた。
とはいえ、書庫すべての目録を整えるには、まだ時間がかかる。
どこまでが監査の範囲なのか、私は折を見て尋ねた。
五代前の公爵夫人の手記――日記に近い書棚について相談したときだった。
それまでほとんど表情を変えなかったユリウスの目が、わずかに光を帯びた。
ほんの一瞬の変化だったが、それは見間違えようがなかった。
「……その類の記録は、系譜の補助資料としても価値があります」
そう言って、少しだけ言葉を選ぶように続ける。
「私は学院で、系譜学を専攻しておりました」
それがきっかけだった。
テオドールの関心とも重なり、その分野の整理も、監査と並行して進めることになった。
やがて、それは仕事の範囲を少しずつ越えていった。
ユリウスにとっても、それは単なる監査ではなくなっていったらしい。
テオドールもまた好む分野であるため、ユリウスが来る日には、書庫に顔を出すことが増えた。
古い記録を前に、ああでもない、こうでもないと意見を交わす。
二人の会話は、いつしか議論と呼べるほどに熱を帯びていった。
私は書架を整え、その中から見つけた手記や記録を差し出す。
ユリウスとテオドールがそれを読み解き、考え、語る。
そして――
気がつけば、それらは午後の時間へと流れ込んでいった。
コーヒーの香りの中で、その日の発見を三人で共有する。
言葉を交わし、ときに驚き、ときに笑う。
かつて私が愛していた、あの静かな午後の時間は、形を変えて戻ってきていた。
そしてそれは、以前よりも少しだけ、賑やかで、楽しいものになっていた。
*
監査の仕事は、すでにひと通り終わっていた。
それでもユリウスは、週に一度、この屋敷を訪れる。
系譜の補助資料の整理――そういう名目だった。
秋になり、良い林檎が手に入った。
その日がちょうどユリウスの来る日だったので、午後のコーヒーの時間に合わせてパイを焼いた。
焼き上がったばかりのパイを書庫へ運び、切り分けていると、
テオドールとユリウスが連れ立って入ってきた。どうやら別室で議論をしていたらしい。
顔を上げたユリウスを見て、私は思わず手を止めた。
いつもの、隙のない無表情ではなかった。
どこか力の抜けた、幼い子どものような――見慣れない表情をしていた。
「……失礼」
すぐにいつもの顔に戻りかけたが、その前に、わずかに言葉がこぼれる。
「実家で、母がよく焼いていたのを思い出しました」
そう言って見せたのは、かすかに緩んだ笑みだった。
泣き出す直前のようにも見える、不思議な表情だった。
私は、どう返してよいのか分からず、一瞬だけ言葉に詰まる。
理由は気になったが、問いかけることはしなかった。
それから、ときどきコーヒーに合わせて、果物のパイを焼くようになった。
系譜の話だけではなく、本の話もするようになった。
おすすめを紹介し合い、静かに感想を交わす。
テオドールを交えて三人で。
あるいは、ユリウスと二人で。
穏やかな時間だった。
ユリウスは、私の感想を興味深そうに聞き、わずかに微笑むことがあった。
自分の考えを語るときも、以前より言葉がやわらいでいる。ときには、ほんの軽い冗談さえ口にするようになっていた。
その変化に気づいたとき、私はふと、自分の内側にも小さな変化があることに気づいた。
静かに、やわらかな風が通り抜けるような感覚。
それは、これまで知らなかった種類の心の動きだった。
*
そんな時間が、五年ほど続いていた。
もともとテオドールと私は、家族のように気安い関係だったが、最初はどこか堅さの残っていたユリウスも、いつしかその中に自然に溶け込んでいた。
役人の鑑のようだった彼が、同じテーブルにつき、同じ時間を楽しむようになっていた。
ユリウスは相変わらず、週に一度、屋敷を訪れる。
だがそれはもう仕事ではなく、休暇の日の習慣のようなものだった。
書架の整理はとうに終わり、私たちはただ、そこに集うようになっていた。
三人で本を読み、言葉を交わし、午後になるとユリウスがコーヒーを淹れる。
私が用意したパイを囲んで、ゆるやかに語り合う。
そんな時間が、当たり前のように続いていた。
――これからも、きっと。
疑うことなど、なかった。
けれど。
テオドールは、少しずつ変わっていた。
以前は当たり前のようにおかわりしていたパイを、いつの頃からか一切れで満足するようになり、やがてそれすら手をつけなくなった。
まっすぐに伸びていた背筋も、気づけばわずかに丸みを帯びている。
その変化に、私は気づいていた。
気づいていながら、見ないふりをしていた。
それが何を意味するのか、考えないようにしていた。
*
テオドールが亡くなったのは、冬の終わりだった。
雪はもうほとんど溶けていたが、庭の隅にはまだ薄く白いものが残っていた。冷たい風が枝を揺らし、窓の外で乾いた音を立てていた。
葬儀のあと、屋敷は急に広くなった。
同じ廊下。
同じ階段。
同じ書庫。
何も変わっていないはずなのに、すべてが少しずつ違って見えた。
朝、誰も書庫のソファに座っていない。
昼、ページをめくる音が聞こえない。
夕方、窓辺で本を閉じる気配もない。
それだけのことなのに、屋敷は驚くほど静かになった。
私はそれまでと同じように過ごした。
書庫を整え、帳簿を確認し、庭の様子を見る。
同じ順番で、本を棚に戻す。
同じ場所の埃を払う。
同じ時間に窓を開ける。
変えなければ、何も変わらないような気がした。
午後になると、いつものように湯を沸かした。
ユリウスは、公爵家本家の手続きに追われているらしく、葬儀の日以来、顔を合わせていない。
コーヒーを一人分だけ淹れ、いつものソファに座る。
――耳を澄ます。
テオドールの、穏やかで、どこか世の中を面白がるような声が聞こえる気がした。
それに重なるように、口数の少ないユリウスの、珍しい低い笑い声が、かすかに響く。
目を閉じる。
ほんの一瞬だけ、それが確かにそこにあったように思えた。
けれど。
目を開けると、書庫は静まり返っている。
窓の外には、春の気配を含んだやわらかな光。
揺れる木漏れ日が、優しく床へと落ちていた。
私は、そのまま動かなかった。
手にしたカップの温もりが、少しずつ失われていく。
香りが薄れ、やがて、何も残らなくなる。
コーヒーが完全に冷めるまで、私はただそこに座っていた。
*
ユリウスが屋敷を訪れたのは、それから三週間ほど経った頃だった。
滞在は、長くなかった。
必要な書類の確認をいくつか済ませると、「本日はこれで」とだけ言って立ち上がる。
そのあと、ふと足を止めた。
そして、何かを確かめるように、私の顔をまっすぐに見た。
「……本当は、あなたの顔を見に来ました。なるべく早く手続きを終わらせて、また来ます」
それだけ言って、ユリウスは書庫を後にした。
*
ユリウスが再び屋敷を訪れたのは、それから二週間ほど経った頃だった。
今度は書類を持ち込み、「公爵家の監査書類です。こちらで少し作業を進めてもよろしいでしょうか」と言って、書庫のソファに腰を下ろした。
そのまま、朝から黙々と仕事を始める。
容赦はなかった。
「その資料をお願いします」
「こちらも確認を」
「この部分、まとめていただけますか」
次々と指示が飛ぶ。
かつてと同じ調子に、私は久しぶりに助手に戻ったような気分で、慌ただしく動き回っていた。
気がつけば、時間は午後に差しかかっている。
ふと、ユリウスが手を止めた。
「コーヒーを淹れましょう」
「……あなたの焼くものには敵いませんが」
差し出された包みの中には、王都で評判の店のキッシュと、木の実のパイが入っていた。
私はそれを受け取り、小さく礼を言う。
コーヒーを淹れ、二人で向かい合って座る。
食べながら、会話はほとんどなかった。
言葉にすれば、きっとあの方の話になる。
そして、それを口にするだけの余裕は、まだどちらにもなかった。
それでも。
同じ場所で、同じものを分け合っているというだけで、
書庫の静けさは、以前よりもわずかにやわらいでいた。
*
本家での仕事は落ち着いたようで、またユリウスは週に一度、パイとおすすめの本を一冊手土産に、屋敷を訪れるようになった。
窓の外には、夏の力強い日差し。
蝉の大合唱に、ふとページをめくる手を止めて顔を上げると、ユリウスと目が合った。
あの、芯から冷えるような冬の終わりの日から。
やわらかな春の光、芽吹く緑、咲き満ちる花々――季節は巡り、書庫を満たす空気にも、少しずつ温度が戻っていた。
自然と口元が緩む。
ユリウスが、静かに目を細めて応えた。
しばらくそのまま見つめ合い、私はふと、言葉を探す。
「……私の話を、してもよろしいでしょうか」
ユリウスは何も言わず、ただ小さく頷いた。
「私は、両親の記憶がありません。生まれてすぐに事故で亡くなったと聞いています。私を引き取ってくれたのは祖父でした」
一度、言葉を区切る。
「顔はもう思い出せませんが、本が大好きな人で、この屋敷ほどではありませんが家には大きな本棚がいくつもあり、よく絵本を読んでくれました。その声だけは今でも覚えています。」
「でも、その祖父も私が七つのときに亡くなり、そのあとは親戚の家をいくつか移りながら育てていただきました。どの家でも皆さんとても親切で、よくしていただきましたから、不満があったわけではありません。
ただ、一緒に暮らしていても、どこか自分がそこに“いる”という実感が持てず、落ち着かないままでした。家族というものが、よく分からなかったのだと思います。
それでもご縁があってテオドール様にお仕えすることになり、この屋敷で暮らすようになって、最初はただの仕事のつもりでしたのに、あの方と過ごす時間はとても穏やかで、どこか懐かしくて、気がつけばここでの暮らしが私にとって当たり前のものになっていました。書庫で本を整え、午後にはコーヒーを飲みながら言葉を交わして、その繰り返しが、こんなにも満ち足りたものだとは、それまで知りませんでした。
そこにあなたがいらして、三人で過ごす時間が重なっていって、恐れ多いことですが、私はここで暮らした十年ほどを、まるで家族の中にいるような気持ちで過ごしていました。誰かと同じものを読み、同じことに驚き、同じ時間を分かち合うことが、こんなにも心を安らがせるものなのだと、初めて知りました。
テオドール様には、どれだけ感謝してもしきれません。そして、あなたがそこにいてくださったことも、私にとってはとても大きなことでした。三人で過ごした時間は、私にとって、かけがえのないものでした。今も、その気持ちは変わっておりません。」
「……でも」
一拍、間を置く。
「ここは、あの方の屋敷です。その、あの方がいない場所に、私がそのまま居続けてよいのか――そう思うことがあります」
机の上の手紙に、そっと手を伸ばす。
「公爵家当主、フレデリック・アルヴェイン様から、今後のことについてのお手紙もいただいています」
目を閉じる。
届いてから何度も読み返し、そのたびに言葉の重さに耐えきれず、閉じては、また開き、どうすれば良いのかを自問自答していた。
「それでも……もし、この場所まで失ってしまったら、私は――」
指先が、わずかに震える。
「私は、一体、何者になってしまうのでしょうか」
声が、かすかに揺れる。
沈黙が落ちる。
窓の外では、蝉の声が絶え間なく続いている。
夏の匂いが、ゆっくりと書庫の奥まで満ちてくる。
何も変わらないはずの世界の中で、
ただここだけが、取り残されたように静かだった。
言葉はない。互いに何かを探るような時間が流れていた。
やがて――
ユリウスが、口を開いた。
「……確かに、ここはテオドール閣下の屋敷です」
一度、言葉を置く。
「私は、あなたやあの方のように、言葉でうまく表すことはできません。ですが――」
視線は、まっすぐだった。
「あなたは、そこに与えられていただけではありません。
この書庫はもともとテオドール様のものです。
ですが、今この姿を形作っているのはあなたです。どの本をどこに置くか、どの順で手に取るか、どの時間にどの光の中で読むか――そうしたすべてを、あなたが選び、整え、積み重ねてきた」
「テオドール様は、それを見て、あなたに任せたのです。あなたは守られていただけではない。あなた自身の手で、この場所を、自分の居場所に変えてきたのです」
「少なくとも、私の目には、この書庫の中心はあなたでした。あなたのように、本を心から愛する人の手で整えられた書架は、ただの本の集まりではありません。……まるで、命を吹き込まれ、呼吸をしているように見える」
*
堪えきれず、一雫の涙が落ちた。
ユリウスが、静かにソファの隣へ移動する。
そして、ためらいがちに手を伸ばし、その涙を指先でそっと拭った。
思いがけない距離に、私は目を見開く。
「……すみません。思わず」
わずかに視線を落とし、言い直す。
「こういうときは、ハンカチを差し出すべきでしたね」
思わず、ふ、と笑みがこぼれる。
けれど、その拍子に、また涙があふれた。
止めようとしても、止まらない。
これまで流れなかった分が、堰を切ったようにこぼれてくる。
息が乱れ、言葉にならないまま、ただ涙が続いた。
差し出されたハンカチを受け取る間もなく、
ユリウスはそっと腕を回し、私を抱き寄せた。
驚く間もなく、その腕に包まれる。
強くはない。けれど、逃げ場のない、確かな温もりだった。
私はそのまま、声を押し殺して泣いた。
どれくらいの時間が過ぎたのか、分からない。
やがて、少しずつ呼吸が落ち着いてくる。
涙も、ようやく止まり始めた。
私ははっとして身を引き、慌てて顔を伏せた。
「……すみません」
頬が熱い。視線を上げることができない。
そのとき。
ユリウスが、静かに顔を近づける。
触れるだけの、短い口づけだった。
*
エレノアは息を呑んだまま動けなかった。
頬は一気に熱を帯び、ただ目を見開いてユリウスを見つめる。
ユリウスは、そのままの距離でしばらく彼女を見ていた。
やがて、ゆっくりと身を離すと、机の上の手紙に手を伸ばす。
封を開き、中の書面を取り出した。
「そのフレデリック様からの手紙、内容は知っています。本家の手続きを手伝う中で、項目のひとつでしたから。おそらく――私への発破も、含まれているのでしょう」
視線を落としたまま、続ける。
「テオドール様も、フレデリック閣下も、あなたがこの書庫にどれほど貢献し、どれほど重要な存在であったかを理解しています。感謝されています。もともとテオドール様は、この屋敷をあなたに任せたいと考えておられたようです」
顔を上げる。
「あなたがここにいることに、罪悪感を抱く必要はありません。あの方は、あなたを心から孫娘のように思っていた。この書庫――あの方そのものと言ってもいい場所を、あなたにこそ託したいと願っていたのです」
「そして――」
「私にとっても、ここはただの休日の安らぎではありません。
あなたが家族のように思っていたとおっしゃった。……私も同じです。
ここであなたと過ごす時間が、どれほど私にとってかけがえのないものだったか――うまく言葉にできないのが、もどかしいほどです」
わずかに息を吸う。
「あなたの、この屋敷とテオドール様への想いに、乗じるようで……正直に申し上げて、恥ずかしさもあります。
ですが――私は、あなたに会いたいと思ってここへ来ていました。
テオドール様と、この書庫と、公爵家の記録を紐解く時間は確かに楽しい。ですが、それ以上に――
あなたがそこにいて、話を聞いてくださること。あの穏やかな微笑みと、相槌が、どれほど私の心を満たしていたか。
気づけば、ここ数年は、ほとんどあなたに会うために通っていたようなものです」
はっきりと言い切る。
「お慕いしています」
視線が絡まる。
「あなたの隣に立ち、あなたの言葉を聞き、あなたの涙に触れるのは――私でありたい。
たとえ、あなたがこの屋敷を守るために、その手段として私を選ぶのだとしても、構いません。
ですが、もし――
この屋敷を手放さずにいたいと願うのなら、そのために結婚という形を選ぶのであれば」
まっすぐに見つめる。
「どうか、その相手に私を選んでいただきたい」
*
ユリウスの言葉が終わったあと――
エレノアはしばらく、何も言えずにいた。
まだ頬は熱く、涙の跡も乾ききっていない。
それでも、ふっと小さく息をつく。
「……ずるい方ですね」
かすかに笑う。
「そんなことを、今おっしゃるなんて」
ほんの少しだけ間を置いて、顔を上げる。
「そんなの……誰かと結婚しなければならないのなら、ユリウス様が良いに決まっているではありませんか。
フレデリック様に先に形を決められてしまったようで……少し悔しいですね」
そして、静かに言い直す。
「ずっと前から――私も、あなたをお慕いしております」
それ以上は、言葉にならなかった。
代わりに、そっと頭を肩に寄せ、目を閉じる。
ユリウスのぬくもりを確かめるように。
そして、その言葉の余韻を、静かにかみしめるように。
*
二人でコーヒーを淹れ、パイを切り分ける。
いつものように準備をして、書庫のソファに並んで腰を下ろした。
触れたままの手は、そのまま離さない。
窓の外では、変わらず蝉が鳴いている。
強い夏の光が、書架の背を静かに照らしていた。
その声の合間に――
ふと、テオドールの笑い声がしたような気がした。
思わず、顔を上げる。
けれど、そこには何もない。
ただ、いつもと変わらない書庫の静けさがあるだけだった。
それでも。
この場所に流れる時間は、もう以前と同じではなかった。




